「慰安婦」について考えることの意味

http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20090805/p1#c

こちらに出張してコメントをした。書いていて痛感するのは「慰安婦問題」を否定する人たちと問題視する人たちの最大の違いは「より多くの事実を知っているか」どうかではなく、事実に対する態度・スタンスなのだということだ。


慰安婦問題の本質は当時弱い立場であった女性(まだ年端も行かぬ人たちであったり家が非常に貧しかったり)が、彼女達の意に反した売春=強制売春をさせられたということであり、しかもそれを本来なら取り締まらなければならない「国」が、取り締まるどころか逆にそれを放置し・助長したということなのである。


「強制連行」か否かというのは必ずしも事の本質ではない。仮に強制連行されなかったとして、その後廃業の自由がなく移動の自由がなく、彼女達を保護する規則も何もなく本人の意思に反して売春させられたのならそれは紛れもなく立派な不法行為である。強制連行はなかった=「連れてこられた時『だけ』は強制ではなかった」という弁解はその意味で全くのナンセンスであり、それを主張している人間がそもそも事の本質を理解していないこと(理解しようとしていないこと)を暴露しているというだけの話だ。


「彼女達は売春婦だ」という批判も同様である。「売春があったこと」など誰も否定などしていない。問題はそれが「自由売春」ではなく「強制売春」だったということなのだから(もちろん軍票で代金が支払われたなどの実態を鑑みれば単なる性的虐待であった面も否定できないわけだが)。


さて冒頭のリンク先に登場したid:redfivestars氏は「売春」=「商行為」=「労働契約」であるということで何かに反論した気になっている人間の一人である。

ではまず労働基準法を見てみよう。
http://roudou-kijyun.com/chap02/article17.html

使用者は、前借金その他労働することを条件とする前貸の債権と賃金を相殺してはならない。(労働基準法 第17条)

借金による身分的拘束(債務奴隷)が発生するのを防ぐ為、金銭消費貸借契約と労働契約の分離を規定した基本的な条文である。一般にさえそうなのだから、前借金による拘束によって為される売春が非人道的であることは言をまたないはずなのだが、彼はこう述べる。

商行為として契約を交わした以上、契約に基づいた責務や債務を履行する義務を負います。
こんなことは100年も前の日本や欧米でも常識でしょ。そうでなければ経済システムが成立するわけがないんだから。

彼は労働契約に関わる規制など一切為されていない世界こそが当たり前と考えているのだろうか?(私にしてみればそのような世界こそ見当たらないのだが。)また100年前の日本でもそんなことは常識でもない。人身売買の禁止・前借金無効の通達(芸娼妓解放令)は政府からとっくに(1872年)出されていた。いうまでもなく「前借金による拘束が非人道的だ」という認識自体が存在したからこそ為された(もちろん国際社会からの非難も存在したのだが)わけであって、「契約だから売春でも何でもやるのが当然」が常識ではないことは間違いない。

だがもっと事は深刻なのかもしれない。彼はこう続ける。

売春婦として働く契約したんだから、契約に基づいて働く義務を負うわけで、「完全に本人の意思で為される売春」なんてありえるわけないでしょ。

或いはid:ni0615さんへのコメントでもこのように発言している。

今も昔も、貧しい国では家族を支えるために自発的に売春を行う女性はいっぱいいます。戦時中の朝鮮にだけそんな女性がいなかったなんてことは考えられません。
まして、簡単に年頃の娘を売り飛ばす親がいくらでもいた社会です。家族を支えるために自発的に慰安婦へ応募する女性がいっぱいいたことは何もおかしいことはないでしょう。

もちろんid:ni0615さんがおっしゃるように事実の面からいってもこれは間違っている。ちなみに甘言・就業詐欺などにより騙されて連れてこられた事例がかなりあったことは、否定派の拠り所である秦郁彦さえも認めている。そもそもその多くが最初から「自発的」ですらないわけだ。
(参考)http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/1/4

だがしかしそれよりも私が問題だと思うのは彼の「女性が望まない売春を強いられること」、「女性が借金のカタに売り飛ばされること」に対する問題意識の低さである。彼のコメントにはそれが非人道的で許されるべきことではない(何らかの是正が為されるべき)という意識がひどく希薄なのである。

象徴的なのが彼のこのコメントである。

じゃあ、軍はなにをしたかって?
あんたの妄想の中だと、売春宿経営者とつるんで無理矢理売春を続けさせたとか、手足縛り付けてまで売春させたとかなってるんだろ?
残念でした。正反対のことしてます。
> 「1943年に、第15師団司令部が借金がなくなった女性は帰郷させようと措置した」

「軍が借金がなくなるまで帰さずに売春させたこと」を見事に証し立てているこの事実が、彼の中では反対にさも人道的な行いであるかのように解釈される。そしてこれが反論になると思っているのである。「借金がなくれば帰したんだから人道的だ」というわけだ。要するに慰安婦問題で先鋭化する対立とは、人権に対する基本的な意識の差なのである。


当時も今も前借金による拘束で強制売春が為されることはもちろんある。但しそれは許されるべきことではないし、しかもそれを積極的に是正する立場にあるべき国家が、逆にそれに大掛かりに加担さえしていたというのは見過ごすことの出来ないスキャンダルである。それが慰安婦問題を批判的に考える人たちに多かれ少なかれ通底する感覚である。が、「(お金が介在したから)商行為である」とさえ言えば反論した気になるような人たち、「慰安婦はいなかった」と主張する人たちの多くは(典型的にid:redfivestars氏がそうであるように)その感覚を持っていない、もしくは非常に希薄なのではないかと思う。

東浩紀氏へ伝えたいこと

南京事件論争も従軍慰安婦論争もインターネット上での否定派と肯定派の力関係は逆転してきてます。

少し例を挙げましょうか。何気なくネットサーフィンしてたらこんなブログが見つかりました。

http://blog.livedoor.jp/f_117/archives/13703943.html

「カレーとご飯と神隠し」というサイトの2005年の記事です。どうやら「しがない記者日記」という実在の記者ブログが炎上したようで、その件に関してのコメントのようです。元の記事の一切が削除されているので実際にどういう論争が起きていたかは定かではありません。が、その一端は垣間見えます。

南京大虐殺がなかったのは捏造とか、従軍慰安婦なんて造語を持ち出してきて、日本軍が全て悪い、みたいなニュアンスの、それこそ印象論や根拠のない妄想までいろいろ書かれていて、最初はうんざりして、ネタにするのやめようと思ったけど、結局ネタにしてしまった。というか、読むのが(記事が消されててて大変だったけど)おもろくなってきた。
なぜ「反論できない」のに嘘だと断定するの?「素人」で「再勉強」しなきゃ論じられないレベルなのに一方的で自虐的な歴史観を持ちたがるの?こんな記者が記事書いていていいの?国連やらどこぞの教授やらを持ち出さないと何も言えないの?と好奇心がわいてきた。

どうやらその記者が「なぜ南京事件従軍慰安婦問題といった事実を否定したがるのか」と書いたことがお気に召さない御様子。興味が湧いて「しがない記者日記」で検索してみるとまとめ記事が見つかりました。

http://blackshadow.seesaa.net/article/1839535.html

「幻影随想」というブログ。ちなみにここでも興味深い記述が見つかります。

…挑発してますか?
ろくに知識も持たずにその話題に触れるなんて墓穴を掘るようなものだというのに。
当然ながらコメント欄は更なるフィーバー。
徹底的に論破されます。

なんとまあ記者さんは「論破」されちゃったそうです。

さて最初のブログの人は「高校生なのにかなりの論客」と評判だった方のようですし、まとめ記事を書いた方に至っては「ニセ科学批判」を熱心にされている方のようです。

その彼らをして否定論のインチキさが全く分からなかったわけです。その時に例えば「南京事件FAQ」とか「従軍慰安婦問題を論じる」があれば笑われるのはどちらだったんでしょうねえ。いずれにしてもその記者さんにとってみれば本当にお気の毒でした。全くもって時期が悪かったとしか言いようがありません。2005年当時は南京事件従軍慰安婦を取り上げると炎上しかねない、まだそういう時期だったんですね。


ところがいまや状況は全然違います。反歴史修正主義を掲げる人たちの地道な努力により、そういったタイプの炎上は明らかになくなっている。というか寧ろ真正面から「南京事件はなかったんだ」という人の方が生温かい目で見られるという状況とすら言えるかも知れない。今回「反歴史修正主義者たちは気に食わない」と主張している人でも、じゃあ「修正主義者の議論が正しいといえるのか」については「正面から」擁護の論陣を張ることは全く出来ないわけです。

なぜでしょうね?肯定論など2005年には堂々と「論破」できたはずなのに?というかそういう方向での議論が少しはあっても良さそうなのに?あの時記者さんを「論破」したはずの大勢の人たちはどこに消えちゃったんでしょうか?

定量的に調査したわけじゃありませんが修正主義はネット上ではかなりのスピードで勢いを失っていると思います。だって「しがない記者ブログ」さんのようなタイプの炎上って最近聞いたことあります?もちろんこのままゼロになるとは言いません。修正主義にしがみつかないと精神の均衡を保てない人もいる可能性もありますので。ですが、地道で実証的な議論の蓄積はネット上では効果があると思われます。

実証的な議論は効果がないだとか、どうせ分かり合えないというシニシズムに東氏がコミットしたがるというのは残念なことです。

チベット問題と人権問題

それにしても3年半前にあれだけ「スポーツと政治を切り離して観戦せよ」と中国の人たちに説教をかましていた人たちが、今度はチベットの問題で「オリンピックのボイコット」を匂わせるとはね。まあ2004年の時も「中国へのODAを停止せよ」とか言っている人たちもいたわけだから、もともと「スポーツと政治の分離」についてなんて真剣に考えたことがなくて、中国批判で噴き上がりたいがための尤もらしい口実にすぎなかったんでしょうけれども。


それにしてもチベットに関する中国の主張を見ていると、日本の保守派が日本の植民地政策・日中戦争に関して主張していたことと大枠でくくればそっくりに見える。ダライ・ラマ蒋介石を入れ替えても成り立つような感じだし、あるいは(中国はチベットにそれなりの投資をして近代化を図っているわけだけれども)「日本は植民地に良いことをしてあげた論」とかもそう。


もしチベット問題に憤りを感じるならそういった自論がいかに機会主義的なものか自覚しても良さそうなものだけど。そういうところに忸怩たるものを感じることなく、さらには「オリンピックボイコット」でしょう。


それどころか「サヨク人権派(特に日本軍の戦争犯罪に批判的な人たち)がこういう時に声をあげなければ自分たちは信用しない」と言う人たちまでいるようです。ちなみにサヨク人権派チベット問題に関して中国の側に立っているという事実はないと思うのですけれど。


それよりなによりこのセリフは何でしょうか?「ウヨク」の人たちは「サヨク人権派」の人たちなど元々信用していませんからこのようなセリフを口にする必要は特にありません(別にしてもいいですけど)。ですのでこの「自分たち」は誰かといえば、主に「サヨクでもウヨクでもない」と「自己規定」する人たち、いわゆる「自称中道」の人たちなわけです。つまり「自分はウヨクでもサヨクでもない中立的な立場だけれども、チベット問題が起きた時に声を上げないサヨクは信用できない→だからサヨクは口先で人権を唱えながら単なる親中派の偽善者だ」と批判しているわけです。


ところが人権問題はかつても今も至る所で起きています。でも日本の人権派が主として「批判の対象としているもの」とチベットの問題がなぜ「同時に」リンクしていなければならないのかという「必然性」に関しては全く明らかにされません。「人権派を名乗るなら〜をリンクさせなければ信用しない」の「〜」にはそれこそ無数の人権侵害事例が代入されうるわけです。そこで「あえて」チベット問題、もっと言えば「中国による人権侵害事例」をリンクさせなければ「信用しない」とする主張は特定の事例にコミットしている以上、「中立」の態度とは程遠いものです(まあ「自称中立・中道」なので仕方がないかもしれませんが)。


要するに中国にも抗議する姿勢を見せなければ=親中でないという「証」を立てなければ自分は信用しない、というこの手の主張は逆に言えば「自分が反中である」という政治性を立派に表明していることにほかなりません。何のことはない「反中である自分を信用させろ」という話なわけです。「反中・中国=敵というのが中立なスタンスだ」ということなら何も申し上げることはございませんが、私はなんでそんな人を信用させる為にチベット問題を取り上げなければ「ならない」のか全く理解に苦しみますね。


まあ「取り上げなければ信用しない」といきり立つ人の数がそれほど多いとも思いませんし、放置して生温く見守って差し上げれば良いのではないでしょうか。

だからなんだというのか?

沖縄住民の集団自決の問題に関して「とにかく命令はしていない」と主張して勝ち誇っている人をたまに見かける。


ごく普通の一般人が第三者に「死ね」と口にした(=命令)だけでその人が命令に従うということはありえない。「命令」が問題なのは背後にその「強制力」が存在するケースなのだ。「死ね(死になさい)とは言わなかった」から「命令はしていない」。仮にそうだとしよう。なるほど。だからなんだというのか?


歴史家が明らかにしてきたのは「死ねと口にしたか否か・実際に言ったか言わないか」という「いわばどうでもいい部分」ではなく、なぜ沖縄の住民が自決をしなければならなかったのか、その背後にはどのような力が存在して彼らを「自決やむなし」の心境に追い込んだのか、というまさにその「強制力」の解明だった。そして「その強制力はまさに日本軍が生み出したものに他ならない」というのが彼ら歴史家の、そして動かしがたい結論であり、言わば「核心」なのである。


「死ねとは言っていない」論は、ヤクザの親玉が法廷で「(実行犯に)やれとは言っていない」という言い訳をしている様によく似ている。それを形式上のみで認めてしまうとオウムの麻原の「サリンを撒けとは言っていない」とか金正日の「拉致しろとは言っていない(さらに実行犯は処罰済み!)」とかまで肯定しなければならず、色々と不都合であるような気もするのだが。

レベルの高い修正主義者?

id:rnaさんの「歴史修正主義の手口について」
http://d.hatena.ne.jp/rna/20080104/p1
はとてもいい記事。


id:fromdusktildawnさんの場合は多分これだろう。で、こういう人をきちんと批判しておくというのは「政治的」にはとても大事。その意味で今回参加されているid:Apemanさんとかには本当に頭が下がる。こういうことにきちんと対処することでネット上で、安易に修正主義的見解を表明すると冷ややかな目で見られるという流れが出来る。


ちなみに僕も最初、南京事件否定論については過大評価していた。これほど激しく通説を批判する(部分的な間違いどころかフィクションだ!)ということはそれなりに根拠があるのではないかと。だから「論争が過熱している」という印象を観客に持ってもらいさえすれば、真実は分からない→あやふやなことで反省する必要は無いという流れに持っていけるという意味で修正主義者の思惑通りなのだ。


しかし実際南京事件の概説書を読んでみて、その上で否定論と肯定論の論争を眺めてみた時に否定論がお話にならないことが分かり正直びっくりした。否定論者は彼ら自身こんな筋立てでまともに議論できると本当に思っているのか信じられなかった。しかも否定論者の大半はどのようにして南京事件の立証が行われてきたか、そういった経緯も全く知らないのだ(代表的論者である笠原氏や秦氏の著作を読んだと思しき人すらほとんどいない)。


「相手(通説)がどのような議論をしているか知らずに相手(通説)に反論できるわけがない」・「反論があるということは根本的な部分で曖昧な論点があるはずだ」…普通はそう考えるだろう(だって論争する上では常識だもの)。だが否定論はそのようなものではない。id:fromdusktildawnさんも信じられなかったみたいだが

http://fromdusktildawn.g.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080104/1199446715

思い込みと無茶苦茶な史料解釈によって都合のいいストーリー・「とうていあり得ないファンタジーを主張」しているだけなのだ。しかも「自信満々に」。まったくどういう神経をしているのかそんなことは知らない。でもなぜか彼らは「自信満々」なのだ。その自信満々の姿勢に全くの門外漢は「まともに論争が行われている」と勘違いしてしまう。それが修正主義がなかなか消えない原因の一つだ。


それからapeman氏やid:bluefox014氏の論述に否定論者から何の応答もないことも今回の論争においては興味深かった。彼らのEntryにリンクするブログで否定論者によるものはほとんど無い。議論の発端となったはしげた氏の議論にきちんと反論を加えられる否定論者もいなかった。新たに反否定論者にとって致命的な議論を展開させる者もいなかった。南京事件FAQに決定的な批判がないのと同様に。


繰り返すが衆人環視のもとで議論してしまえば否定論は馬脚を現すだろう。fromdusktildawnさんがびっくりしたように、観客はそのレベルの低さに驚くしか無いだろう。「いや、もっとほかにまともな否定論者はいるだろう」とそれでも好意的に解釈する観客も中にはいるかもしれないが、それはひいきの引き倒しというものだ。彼らは限られた空間の中で、予備知識の無い門外漢にデタラメをささやいて勧誘するくらいしか出来ず、現にそのようにして生き延びているだけなのだ。

反歴史修正主義の流れがブレイクした2007年

今年はインターネット上における反歴史修正主義の流れが、はっきり言ってブレイクした一年といって良いように思う。


まず南京事件
南京事件に関しては、否定論者たちの主張に新味がまるでなく、ワンパターン化していることもあって、早くから否定論に対する厳しい反論が行われており、またその蓄積もあった。それが去年の夏「南京事件FAQ」という形で結実し、そのプロジェクトは現在も続いている。いまやネット上の南京事件論争で、否定論者が肯定論者のサイトを荒らすということはほぼ不可能になったといっても過言ではない。

また否定論の最後の砦東中野氏が裁判で「通常の研究者であれば矛盾を認識するはずで、原資料の解釈はおよそ妥当ではなく学問研究の成果に値しない」と断ぜられたのは、否定論衰退の象徴的な出来事であった。


次に従軍慰安婦論争。
この問題はアメリカでの決議に伴って再燃した、今年最大の盛り上がりを見せたものの一つである。しかしこれについても否定論はやはり底が割れてしまったと見るべきだろう。専門家や史料をきちんと読み込む力のある人たちが集まり、ネット上でも「南京事件FAQ」の洗練さはまだないものの、やはり否定論に対する反論の蓄積は、例えば「従軍慰安婦問題を論じる」を中心になされてきた。

逆に否定論は基礎知識の不足、何が論点になっているかすら正確に捉えられていない独りよがりなものがそのほとんどを占めている為、来年以降も彼らが勢いを取り戻すことはほぼ不可能であるだろう。


最後に沖縄戦での日本軍の強制による集団自決死論争。
否定派は沖縄での県民集会に11万人集まったか否かというどうでもいい点に力を注ぎ迷走した為、議論が少し錯綜した感は否めないが、文科省が主張した「強制はなかった」という新たな学説はついぞアカデミズムの世界から提示されることはなく、またそれに反論する為に結局沖縄戦の悲惨な状況が、より詳細に明らかにされるという結果をもたらした。教科書検定の結果については、個人的には肯定派の意見が全面的に取り入れられたとまでは言えないが、否定派の議論はほとんど受け入れられなかったということをもって、それなりの成果が齎されたと見るべきだろうと思う。


歴史修正主義のブレイクの原因の一つは言うまでもなく、安倍政権の存在であった。彼らが稚拙な議論を振りかざし、余計な騒動を巻き起こすことで、逆に一つ一つの議論が精緻化されるという効果を齎した。もちろん外交上は一時的に日本のイメージを相当悪化させてしまったわけだけれども、長い目で見れば、それはプラスに働くかもしれない。

今年がそのエポックメイキングであり、数年後にはネット上で安易に修正主義的言動をすること自体に冷ややかな目線が注がれるまでになれば今年被った損失も、必要なコストだったということになるだろう。

日本政府の二枚舌

個人補償についての日本政府の態度を見てみよう。

(1)日本政府が原爆被害についての補償請求権をサンフランシスコ講和条約で勝手に放棄した、と考えた原爆被害者は実は日本政府に対して求償請求の訴訟を起こしていてそれに対する判決がこれである。

対日平和条約第19条にいう『日本国民の権利』は、国民自身の請求権を基礎とする日本国の賠償請求権、すなわちいわゆる外交的保護権のみを指すものと解すべきである。

・・・イタリアほか5ヵ国との平和条約に規定されているような請求権の消滅条項およびこれに対する補償条項は、対日平和条約には規定されていないから、このような個人の請求権まで放棄したものとはいえない。仮にこれを含む趣旨であると解されるとしても、それは放棄できないものを放棄したと記載しているにとどまり、国民の請求権はこれによって消滅しない。したがって、仮に原告等に請求権があるものとすれば、対日平和条約により放棄されたものでないから、何ら原告等が権利を侵害されたことにはならない
(1963年12月7日、東京地裁原爆訴訟判決の摘示。判例時報355号P17)

判決は日本政府の主張を全面的に認め訴えを退けた。その主張は何かというと、「サンフランシスコ講和条約で日本政府が放棄したのは国家による賠償請求権で、個人による請求権は放棄していない(そもそもそれは国家が放棄できるものではない)ので、文句があるならアメリカに言ってね」というものだった。


(2)シベリア抑留についての個人補償についての日本政府の答弁がこれである。

日ソ共同宣言第六項におきます請求権の放棄という点は、国家自身の請求権及び国家が自動的に持っておると考えられております外交保護権の放棄ということでございます。したがいまして、御指摘のように我が国国民個人からソ連またはその国民に対する請求権までも放棄したものではないというふうに考えております。
(平成3年3月26日、参議院内閣委員会での外務省答弁)

これも全く同じ。「個人請求権は放棄していないから文句があるならソ連に言ってね」と日本政府は主張している。


(3)対韓国については日本政府が個人補償請求権まで放棄はしていないと仄めかしていることは以前に述べたのでここでは繰り返さない。しかし日本はサンフランシスコ講和条約で韓国に対してではなく、アメリカ(連合国)に対して所有権を放棄したのだから「文句があるなら韓国に」とは言えないのだが。


戦争被害者に「個人補償請求権は国家間条約では放棄していない(出来ない)ので、文句があるなら加害国に」と一貫して主張してきた日本政府の目論見はまだ戦争の記憶が癒えない頃に国内で起きた(あるいは頻発すると予想される)「自国民からの」補償請求から逃げるためであった。


従ってこれまでの日本の「他国民からの」戦後補償裁判での戦略は基本的には「民法上の除斥期間」や「国家無答責」の法理を用いて退けようとするものだった。


しかしそれだけでは敗訴するケースが出てきた為と、戦後60年以上が経ち日本国内での補償請求訴訟が今後あまりありそうにないことを踏まえて、最近では「そもそも国家間条約で全て解決済み論」を主張し始めたのである。

平和条約14条(b)にいう『請求権の放棄』とは、日本国及び日本国民が連合国国民による国内法上の権利に基づく請求に応ずる法律上の義務が消滅したものとして、これを拒絶することができる旨が定められたものと解すべきである。
(オランダ人元捕虜・民間抑留者損害賠償請求事件の控訴審における2001年2月27日付準備書面

ちなみに元々日本政府の主張していた「外交保護権のみ放棄論(=文句があるなら加害国に言ってね論)」については基本的には国際法の原則とはそぐわないものであり、当時もマイナーな説である(しかし近年は「国家の権利と個人の権利は別」という議論が戦争被害にあった人たちの「人権擁護」の観点から提起されている)。しかし日本政府は少数説であることを知りつつ逆手にとって強弁=「自国民」を騙し(ここにねじれがある)、そして後に都合が悪くなったら「通説」の見解を採って「他国民」を欺こうとしているのである。


日本政府の戦争責任に対するこれらの「二枚舌」を自称愛国者たちはどのように受け止めるのか、興味深いところではある(日本政府はひたすら誠意を尽くしてきたという「物語」が彼らの中では人気が高いようですがw)。