マスクプロトコルVer0.1

youtubeでアイドルがエロい服でナンパ待ちをしたらどうなるか、という動画を見た。

確かにエロい服ではあるが、マスクをしているので、ナンパやスカウトの人たちは判断が難しいのではないかと心配になる。顔が見えないからだ。

テレビでも職場でもスーパーでも、マスクから足が生えたような人々が立ち回る。

人々に顔があったことさえ忘れそうになるコロナの季節。

こんなときにナンパ師やスカウトはどうすればいいのだろうか。顔を基準に目標を定めていたのにその顔がもう現れない。駅前で品定めをすることは難しいだろう。

マスクを外す時間を狙うしかない。そうなると必然的に飲食店の内部のみがナンパ場となる。一人フロアの隅の方に座り、マスクを外して咀嚼する女性たちの顔を見定めるようになる。飲食店の中では周囲の目もあり声をかけづらい。

女性が外に出たあとを会計して追いかける。こんなやり方では一人に対して一食分の出費になる。

二人組でやればいい。一人は店内でマーキングしながら居座り、外のもうひとりが出てきた女性に声をかける。しかしこの二人の好みが一致しているとは限らない。このもうひとりが女性のマスクの下を覗く事ができるのはいつになるのだろうか。

たったマスク一枚。布切れ一枚で隔たれたものは大きい。パンツ一枚がもたらした人間社会の複雑性と吐き気を催すような歴史を思うべきだ。コロナが加えた一ページならぬ一枚。

どうやってこれをはぎ取る?私はもう職場の同僚の顔を思い出せない。数年前に撮られた社内写真を見るとまるで幽霊が写っているかのようだ。顔が消えるとたちまち人の記号化が促進される。これまではただの他人だったものがただの紙切れになる。

すべてはピラミッドになっている。膨大な裾野があればこそ上層の平穏がある。ナンパ師からナンパの機会が奪われたいま、男女の出会い総数はどこまで減少するだろうか。

不純にまぐわる男女の数が減っていくと、その上の純愛も減っていく。男女は出会わなくなる。マスクによって穿たれ切断された空間の隙間を見上げながら。マスクの上からはみ出したような小さな目と目だけが空間をさまよう。今まではよかった。目と目があえば口が開く。その先は快楽へつながっていたかもしれない。しかしこのプロトコルはこれからは、目と目だけで止まってしまう。

意思と表象としてのマスク

緊急事態宣言が解除され再開されたキャバクラで女性従業員全員がマスク着用して接客するという記事を読んだ。それはもはやキャバクラではないのではないかと思う。

キャバクラでは客だけでなく女性従業員もアルコール入り水分を摂取する。飲むときはマスクをずらすしかあるまい。飲むときだけマスクをずらし、飲み終わるとマスクを元の位置に戻すのだろうか。客も同じように飲むときだけマスクをずらすのか。それともストローでも挿して、マスクの隙間からすするのだろうか。客はマイボトルのキープだけでなくマイストローまでキープするのだろうか。

キャバクラはおそらく会話を楽しむ場であるが、マスク中の会話ほど不適切なものはない。NHKラジオのアナウンサー達も、マスクしたままで長時間しゃべり続けることでマスクにつばが張り付いてべちゃべちゃになり、息苦しささえ感じるようになったそうだ。このような状況ではそれまで嬢だけが居心地の悪さを我慢すればよかった場は、客にも居心地の悪さを共有せざるを得ず、居心地の悪さというものはキャバクラの性質上あってはならないものなので、事業継続性に疑問を感じる。

 

ではマスクをとればよいのだろうか。嬢と客両方がマスクオフしてしまえば感染するだけなので、嬢だけはせめてマスクをとるとしよう。それだけだと嬢のつばがマスクをした客の目から侵入してしまうので、客にはやはりマイフェイスシールドがキープされるだろう。入店時に客にはマスクとフェイスシールドの着用が義務付けられよう。これによって嬢の顔は露出され、キャバクラの性質の一定以上は担保されるだろう。

しかし、これだけではまずい。嬢同士の感染を防げないのだ。嬢もせめてフェイスシールドはしないといけない。今マスクが流行したことにより、アイライン周りだけしっかりメイクすれば誰でも美人になれるともてはやされているが、むしろこれからはフェイスシールド状態でも映える化粧というものが必要になろう。しかしいくら化粧を凝らしたところで、フェイスシールドを装着した見た目はやはり異様であり、女性としての生身の魅力を相当に減殺する。暗い店内のなにかの照明の光やらで、フェイスシールドの表面のプラスティックの反射し、もはや客の前にあるのは女性ではなくただの光であるという哲学的な境地になってしまいかねない。

 

マスクは生活の全てを覆い尽くすことが間違いない。なにしろ新しい生活様式では家族内でさえ会話時はマスクが奨励されるのだ。つまり、この世界から「顔」が消えるのだ。街を出歩いても、店に行っても、もうどこにも顔は無いのである。顔とはもともと異性交渉のインタフェースでしかないが、顔がなくなるとは出会いがなくなるということだ。ちょっとしたことで一目惚れとか、そういうことはこれからは起きない。それどころか、その人の素顔なんてもう一生拝むことはない。これからのコロナ世紀においてマスクをせずに外出することはすなはち死を意味する。自分だけでなく自分の身内親族、生活圏内の全てを死のリスクにさらすことになる。この状況でマスクをしないのはマスクを買う金がないような貧困層だけであろう。マスク格差社会というわけだ。

だから外を出歩く人間は、オフィスにいる人間は、絶対にマスクをしている。寿命が来るその日までマスクを外すことは絶対にできないのだ。キリスト教徒の贖罪にマスク装着義務が付与されたようなものだ。

女性が初めてあなたの前でマスクをとってくれるのは、服を脱いでくれるのと同じタイミングになるだろう。マスクはもはや衣服の一部であり、自分の身内の前だけでしかそれをとることは許されない。そのときに相手の顔を初めて知ることになり、もしそれが好みでなかったら、どうなるのかということに意味がなくなるだろう。

これからは顔はもう関係なくなる。本当の意味で、異性交渉のための顔というパーツの存在理由は消滅してしまったのだ。

それとも、男女はZoomを使ってお互いの顔を認知するのだろうか。しかしZoomは背景だけでなく顔さけもディープフェイクすることが可能だ。こんな破廉恥な虚構はあるまい。一度は廃れてしまったテレビ電話の需要が渇望される。

集合住宅におけるコロナ孤独死によるウイルス感染の影響

「朝異変なく 夜死亡で発見 自宅療養の57歳男性 新型コロナ」

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200502/k10012415441000.html

という記事が流れた。数日以上前から発熱が続きコロナ検査してもらえず自宅療養中の50代の夫を朝に嫁が確認したところ問題なしだったのが夜帰宅すると亡くなっており、死後にコロナ感染が確認されたとのこと。

これなんかは妻がいたことにより死体の発見が迅速に行われたが、日本では夫婦のみ世帯と夫婦子供あり世帯と並び、単独世帯がとても多い。PCR検査の水際作戦が奏功している状況下では行政とホットライン接続されないまま謎の発熱に苦しみ、どこともつながれず、沈黙したまま亡くなる単独世帯は相当に多くなるだろう。最終的には変死として警察で扱われ、ほとんどのケースではPCR検査されずに、検査したところで3割は偽陰性なのだから多くが見逃されることになるだろう。コロナについて退院患者に二度検査を行うのも大事だが、初回検査も陰性時は二度以上行うことが必須なのだが、そして死体に対する検査は生きている人間に対する検査よりも重要度が高いのだが、こんな素人でもわかることをやっているケースは聞かない。

問題は、死体が発見されるために要する時間である。死体が発見されずに放置されると腐乱し、液状化し、ウイルス兵器と化す恐れがあるためだ。今回のケースで妻がいなかった場合どういう経路をたどるだろうか。

死体の発見は数日から数週間遅れることになる。これまでは気温が低かったことにより腐乱速度が遅く、まだ周辺に匂いが流出せずに発見されていないケースがありそうだ。これから夏にかけて液状化したコロナ死体発見報告が相次ぐだろう。コロナ死体が事後発見されたケースでは、その周辺ではすでにクラスター化している可能性があるのではないか。

 問題は、死体もコロナの感染源になるということだ。

「死体血液中に存在するウイルスの感染性に関する研究」

https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-16790367/

以上のことから、ウイルス感染血液は複数の温度条件で保存された場合でも、感染能力を維持されることを示唆している。
血液検体に存在するウイルス量により、本研究で行った保存期間より長期間感染能力を維持していることが考えられるので、司法解剖などの死後日数の経過した死体を解剖する際にもウイルス感染の危険性を十分注意する必要があると考えられる。

 これはHIVについての資料だがコロナも同様とみなせる。海外でもコロナ遺体とは遺族も対面できず火葬するしかないという状況がある。

これまで孤独死した死体が腐乱し、液状化し、清掃業者泣かせであることが報告されているが、コロナ孤独死した死体の場合、影響はどうなるのだろうか。

 

死体は放置されると腐乱して、液状化していく。身体中の体液が流れ出す。血液も当然流出する。流出したウイルス混入血液は一部は床下に滲出し、アパートの階下の住人を脅かさないのだろうか。一部は蒸発しエアロゾル化し、室外に流れ出し、アパートの隣人まで到達しないのだろうか。エアダクトや部屋の隙間を介して、アパートやマンション中にエアロゾル化したウイルスが蔓延しないのだろうか。

まさか液状化した腐乱死体をコロナ検査にかけることはしないだろう。死因不明社会の不明死因が一例増えるだけである。孤独死清掃業者は徹底した防備が必要になる。

これはつまり、ステイホームが仇となる可能性を示唆する。ステイホームが有効なのは一軒家に住む土地に恵まれた人々のみであり、アパートやマンションなどの集合住宅で暮らす人々にとって、ステイホームしたところで三密を防げないのである。オフィスであれば死体はすぐに発見されるが、集合住宅では発見されるのは液状化の全てが終わった後である。部屋は呼吸している。在宅勤務増加で自室喫煙者が増えクレームとなっているが、タバコの煙が届くのだからウイルスも届く。集合住宅は人が蝟集するオフィスそのものである。分煙すらされてないオフィスだ。そう、集合住宅なんてそもそもホームですらないということだ。集合住宅はオフィスなのだ。資本主義が人間を効率的に搾取するための装置でしかない。

もし同じ集合住宅の中に孤独死リスクを抱えた人がおり、実際にコロナで孤独死し、液状化して異臭が周囲に漏れ出してからでないと死体を発見できないということになれば、そのときはエアロゾル化したウイルスは全放出が完了したあとになる。多くの労働者は失職するため職場からの安否確認も途絶え、一人暮らしの人の安否を確認する人は誰もいなくなる。夏にかけてウイルスの驚異が減るという根拠の無い人々の願いも虚しく、夏にはコロナ孤独死が相次ぎ、液状化感染が相次ぎ、集合住宅がクラスター化する恐れはないのか。

死体から放出されるウイルスの危険度が普通のウイルスと比べて毒性が強いかといえば強いに決まっているだろう。何しろ人を殺せる能力を証明した直後の株だからだ。

コロナ孤独死が怖いのは、何も直接の死因はコロナに限らないということだ。失業で電気を止められて熱中症で死んだ人がコロナに感染していたら?失業で首を吊った人がコロナに感染していたら?コロナによる呼吸器不全や心筋梗塞脳梗塞で直接死ななくても、その人が孤独に死んでしまったらたちまちウイルス兵器になることだ。

コロナがつくづく恐ろしいのは人間を生きたままウイルス兵器にすることだが、コロナ孤独死した個体はもっと恐ろしいウイルス兵器と化す。

人々はやっと気づく。この世界は間違っていた。こんな生き方は間違っていた。この社会の仕組みは、持続不能だったのだ。

そんなことを、今さら言ったって無駄であって手遅れであるが、今僕たちに求められているのは、もう未来なんかではない。断じてない。残されたのは終末の過ごし方である。

コロナによって世界も文明も全部終わる。ここから先はウォーキングデッドの世界と何ら変わりない。西暦何年かに意味はなくなり、アフターコロナを何日生き延びたかを数えることの方が重要になる。これからは西暦ではなくコロナ歴で数えるべきだ。

だから何よりも個人の能力が大事になる。生き残れるかどうかは、自分の頭を使って情報収集し、判断し、決断にかかっている。組織や国は共同幻想だったことがバレてしまう。幻想の霧がはれた向こうにあるのは、個人の生存本能と知能のみによってお互いが奪い合うサバイバルである。

かつてニーチェは「神は死んだ」といった。今回死んだのは人類というヒトである。

暗夜行路の主人公。近代の知識人の苦悩の象徴。現代人にはこの種の苦悩は無いように見えてもっと深まっている。そしてこの後謙作が辿る運命は、知識人としての宿命として良いパターンになっている。

謙作は二階に火を入れさして、久しぶりで机に向かった。彼は長い間怠っていた日記をつけ始めた。
ー何か知れない重い物を背負わされている感じだ。気持ちの悪い黒い物が頭から被かぶさっている。頭の上に直ぐ蒼穹はない。重なりあった重苦しいものがその間に拡がっている。全体この感じは何から来るのだろう。

    • 日暮れ前に点ぼされた軒燈の灯という心持だ。青い擦硝子の中に橙色にぼんやりと光っている灯が幾ら焦心った所でどうする事も出来ない。擦硝子の中からキイキイ爪を立てた所で。日が暮れて、灯は明るくなるだろう。が、それだけだ。自分には何者をも焼き尽くそうと云う欲望がある。これはどうすればよいか。狭い擦硝子の函の中にぼんやりと点ぼされている日暮れ前の灯りにはその欲望がどうすればよいか。嵐来い。そして擦硝子を打破って呉れ。そして油壷を乾いた板庇に吹き上げて呉れ。自分は初めて、火になって燃え立つ。そんな事でもなければ、自分は生涯、擦硝子の中の灯りでいるより仕方ない。
    • 兎に角、もっともっと本気で勉強しなければ駄目だ。自分は非常に窮屈だ。仕事の上でも生活の上でも妙にぎこちない。手も足も出ない。何しろ、もっともっと自由に伸びりと、仕たい事をずんずんやって行けるようにならねば駄目だ。しどろもどろの歩き方でなく、大地を一歩々々踏みつけて、手を振って、いい気分で、進まねばならぬ。急がずに、休まずに。--そうだ、嵐を望む軒燈の油壷では仕方がない。
    • 或る処で諦める事で平安を得たくない。諦めず、捨てず、何時までも追求し、その上で本統の平安と満足を得たい。

夜中に部屋で恋愛小説を読みながら、妻のことを思う。妻のことを想って、何度も失恋したみたいな気分になる。
ラスコーリニコフみたいに地面に頭も手も投げ出して、すべてを彼女に委ねて、自分の存在を消し去ってしまいたい一歩手前くらいまで来ている気がする。
何がきっかけだったかよくわからない。妻の美しさに突然気づいた。表現力の鍛錬を怠っているのが祟る。愛の行き先に文字を選べないならそれはもう行き先がなくなってしまう。

東京プリズンと英語

少し前に日本マイクロソフトのde:code 2015というイベントに参加した。キーノートの一部は白人の英語で、会場には同時通訳機が配布されていて、皆が日本語翻訳の音漏れで迷惑だった。
キーノートの英語というのは、言う人もうまいし、シンプルにしてるのでとても聞き取りやすい。これさえも日本語にしないと理解できない日本人というのが悲しくなった。
その後英語オンリーの少人数セッションに出た。参加者が定員の30名にはるかに満たず、スピーカーの白人がさみしそうだった。おまけに日本人は質問タイムにもダンマリを決め込む。
こちらの英語もだいたい聞き取れた。英語学習の効果が実感出来て来て大変うれしい。
その後研修者的なポジションの人のセッションに出た。オブジェクト指向は死んだこれからは関数型言語だという話はありきたりだけれどオブジェクト指向の死因がスキル伝達性の低さにあるという指摘は面白かった。
オブジェクトレベルは人ごとに大きく異なり、オブジェクト指向言語はオブジェクトと関係は規定するけどその外側が無いから人によって全く違う書き方になりうる。その結果、誰にも教えることができない職人技化しやすいと。
そんなのは関数型言語のモジュールを使いましょうという話だった。誰かが証明を書いてくれているということがどれだけすごいか考えてみろと。

赤坂真理の東京プリズンから引用

『ピープルの、ピープルによる、ピープルのための、政府』、民主主義は、そのために人が戦って死んだんじゃない。あまりにたくさんの人が死んだから、創られる必要があった。そしてピープルはまとまった。そしてそういう神話はピープルの中から出てこなければ、ピープルが腹の底から望んだ神話でなければ、生き延びないし、人びとも生きられないのよ……死んでしまう、死んでしまう、私たちは死んでしまう。日本人は。神話がない。アメリカのくれた神話はいいものではあったけど、それでは長くは生き延びられない、私たちはそのとき、どうするの?私たちは死者に何をしたんだろう、私たちは死者の上に住んでいるのに、死んだ人にどんな栄誉を与えられた?もう戦争は繰り返しませんと呪文みたいに言うこと?あれが過ちだったと言うこと?では過ちのために死んだ人はどうなるの?死んだ人が徹底的に無意味だ。あんなにたくさんの、死んだ人たちはどうなるの?

ここでいうアメリカがくれた神話とは日本国憲法のこと。日本の憲法ソースコードは何で書かれているか?英語ですと言われて小学生達は何て思うだろうか。
日本語の憲法が英語の文書の翻訳だと日本国民全員が小学生で習っていたなら、私たちは何になれただろうか。
赤坂真理サンの指摘はものすごい。そうか、私たちってもう長くは生きられないのか。

去年のgoogle ioの1セッション
ここでは韓国人と日本人がスピーカーをしている。この二者の英語レベルを見ると日本人の本質がよくわかる。
ruby confのMatzサンのkeynote
彼もずいぶん長いこと英語を勉強している様子。

これまでに英語でまともなスピーキングが出来る日本人を見たことが無い。私たちはもっと理解しないといけないと思う。私たちの国の憲法は英語で書かれている。私たちは長くは生きられない。
私たちはもう日本人の皮をかぶるのをやめないといけないんじゃないだろうか。