ただのつぶやき

押尾学事件を日陰にする為なのかひたすら酒井法子がお茶の間でフューチャーされる、日本の夏。薬事情の夏。夏休みの自由研究課題でこの周辺のトピックを拾い上げた小学生が、親御さん達の間で白眼視される日も近いですね。私としては性教育とあわせてドラッグ教育もきちんと話せる親になりたいと思いますが、そんなこと子供の前で口にするのも・・という方もいたりして大変なんだろうなと。まだ腹から出て来てもないのに、勝手に想像しています。

先日、フランスのコミック(バンド・デシネ)界大御所メビウス氏が来日していたので、明治大学までシンポジウムを聞きに行ってきました。京都では展覧会が開催され、氏のシンポジウム出席のほか、関連書籍の日本版発行など、ちょっとした「知ってた?メビウス」的なイベントが続きました。

シンポジウムやユリイカメビウス特集で分かったのは、日本人作家の多くが時空間表現や、ストーリーテリングの巧みさなどに、情報量の少ないながらも大いに感心し、それこそ出島から手に入れた最新の西洋画を崇めるがごとく魅せられていたということ。言語感覚や言葉遊びの面でも現代的で実験的な試みは多そうなんだけれども、そこはおしなべてフランス語にはばまれてしまったので、一部の研究者を除くと作品理解は片手落ちっぽかったこと。ただ、作画に関しては、同じ作家だけにそのへんの美術史家のテッケトーな漫画理解よりずっと掘り下げて理解してそう・・といった印象でしょうか。あと、フランス側の文献では大麻LSDについて触れられているけれど、画面から興味を持ち、その理解も画面に留まった日本人作家は決してそういう影響を示唆しないこと。(あれだけ見入ったら、きっと何か妙だとは感じただろうけれどね。)

ちなみに、私が唯一持っている作品は「B砂漠の40日間」。1999年か2000年ごろにロサンゼルス郊外のタワーレコードでたまたま見つけて買ったもので、今回発売された日本版と違って表紙は手抜きだし、1ページに1場面の実にシンプルな字のない絵本です。砂漠で瞑想する主人公に立ち現れる、幻覚とも現実ともつかない場面のめくるめく展開、としか言い様のないものですが、誰でもその世界を堪能しやすい、何かユニバーサルな価値を持つ作品です。後に何度も砂漠へ出かけるようになり、砂上のお祭りでは幻覚なんかよりよっぽどクレイジーに違いない人々や光景を目撃するようになると、よけいに愛着の湧く一冊となりました。

自分のスタジオで机に向かっているはずの人のほうが、私が実際に見てきたけれど説明さえできない世界を描写できるという謎をただ「才能」なんだと片付けていたのは、他の日本の作家さん同様、これまた片手落ちでした。ユリイカの特集を読んでわかったのは、「B砂漠」にかけた言葉が「草断ち」つまり、大麻を断っての40日ということ。なるほど「無類の草好き」だったのか、と納得したものの。

これが絶った後なのか・・・・・!


B砂漠の40日間

B砂漠の40日間

独裁者の本

ありあまるチョイスの中からどの本を読むかは、多少なりとも時勢に左右されるのが人の情。自衛隊ソマリア派遣のころに「ブラックラグーン」を見たくなるのと同じような動機で、北朝鮮が不穏になると「毛沢東の私生活」を読みたくなった。

経済学だのマルクス主義だのを習った時に、どこにもお隣の国中国の社会主義の匂いに共通するものが無い気がするなーと思っものの、母に「江青がビッチでどうしようもなかったのよ」と言われ、妙に納得してしまったのは昔。その時は深追いしなかった謎が、毛沢東を私生活側から丸ごと振り返ることで氷解した。確かに、江青の政治活動は「お前の母ちゃんデベソ」と「バカって言ったお前がバカ」という小学生の喧嘩ロジック2種に還元されるイジメでしかなかった。建国後の毛沢東といえば、政争においては冴えた勘の持ち主だけれども、どうしても科学的なものの理解ができない・したくないという頑固さから、良くも悪くも中国史書世界レベルの人にとどまった。むしろ史書の英雄を目指し、勝者となる事だけに固執した下克上ゲームのプレイヤーでしかなかった。社会主義に夢見た世代には悪いけれど、マルクス主義その他そっち系の思想って、目的とは相反して理解に際して高い教養レベルを必要とするのが致命的な欠陥なんだねと。この病んだ夫婦に中国の億単位の民が振り回される約20年の歴史については、どれだけスジが通らなくとも、信じ難くとも、すでにおこってしまった話として読んでおかなければすまないとさえ思うノンフィクションでした。

もちろん、著者である主治医の李博士の立場から描かれているので、毛沢東ニュートラルな評価であるわけはない。でも、ニュートラルな評価なんてそもそもないのだから、空気のような視点や、当人の脳内に住む小さな宇宙人のような視点で語られる自伝よりは、利害ある他人からの真剣な観察を読むほうがよっぽど実がある。3P好きな毛沢東、ママンのおっぱいに顔をうずめて泣く林彪、驚いてお漏らししちゃった周恩来、それぞれセンセーショナルかもしれないけれど、そんな人たちとの付き合いに自分と家族の生死を天秤にかける毎日から絶対に逃れられない一生を過ごすなんて笑えもしない。ずっとつけていた日記を保身の為に一度燃やし、毛沢東の死後にまだ覚えているうちに再構成したメモから書き起こされたにしても詳細に渡るこの本、自分には絶対書けない事をちょっと感謝した。

北朝鮮でも今似たような事が起こっていて、こんな本が数年後に出たりするのかしら。ねー。

毛沢東の私生活 上 (文春文庫)

毛沢東の私生活 上 (文春文庫)

ただの期待過剰

ハッカーとガカ。おかしな語呂あわせのようなタイトルだが一理あるよね?と興味を持って読んだものの、いまいち刺さらず。

ハッカーとオタクとナードの差をうまく説明してるなと笑ったけど、立ち上げたベンチャービジネスを売り抜けたIT勝ち組の普通の成功体験談。そのスジでは有名な人らしいけれど、私はLispがどうのこうのとか分かるほどのオタクじゃないので、「日本語に訳すとなんでこんなまどろっこしいの?」とびっくりした。この手の話は直接相手を見ながら聞く分にはおもしろくていつまでも聞いてられるものの、活字向きじゃないんだろうね。ギョーカイ人が原書を読んでニヤニヤする程度なのかなと。

その一方で。昨日見たZed ShawのCUSEC 2008でのレクチャー動画は長丁場にも関わらず、エンターテイメントといっていいレベル。RubyRailsも分からないけれど、Zedはおもしろい。毒舌なのは知っていたけれど、動くZedがITオタク特有の早口で、会社組織やダメな開発案件に切捨て御免な皮肉をぶつける様は気分爽快だ。活字にしても読めるクオリティーだと思う。

なぜなら、彼のブログにあったEuroDjangoConf2009のKeynoteなるものは読むだけでもおもしろかったから。世界でもトップにいたプログラマーが銀行の破綻を区切りに開発仕事をやめて、ギターを本気で勉強しはじめると・・という。この人、「上達マニア」なんだね。何であれ上達する秘訣とは?という、もっと誰にでも響く話しをしている。はからずも、アーティストとハッカーをパラレルに語っているものを見つけて、満足。

ハッカーと画家 コンピュータ時代の創造者たち

ハッカーと画家 コンピュータ時代の創造者たち

辞書オタクの本

オックスフォード英語辞典に多大な貢献をした言語オタクを訪ねてみると、キ●ガイ病院に監禁された米国陸軍医だったというセンセーショナルなお涙頂戴裏話以外の魅力が大きい本。どういった背景からこの英語辞典という一大事業が始まり、どのように運営されていったのかの詳細が語られ、丁寧なリサーチを積み重ねる執筆姿勢には、編纂チームの生真面目さとそれへの憧憬を垣間見る。

コンピューターのない時代に、70年かけて教養人のネットワークがオープンソース開発のようにして行った単語帳整理術とでもいおうか。辞書が「誰でも分かるイケてるキーワード集」から「現代把握されている英単語のデータベース」に生まれ変わっていく背景には、大きなコンセプト変更があったのだと教えられる。そこには、コンピューターを介さないInformation Technologyの萌芽とでも言うべき方向転換があり、膨大な作業量の担い手として、自発的かつ貢献度もまちまちな素人ボランティアを情報収集ネットワークとして当然のように機能させたというおもしろい事実がある。オープンソース開発が現在の形になっていく必然を、19世紀後半の辞書編纂にすでに見る思いがする。

ナンバーワンGeekが社会的落伍者だったというのがオフ会で露見したようなものだと思えば、この二人の博士の数奇の邂逅もさもありなんと思える。冒頭のニュースがセンセーショナルなのは20世紀までの話し。人の出会いって、ひとつひとつの偶然が必然となって絡み合った結果なんだなと、間を一世紀とばして妙に納得する。

博士と狂人―世界最高の辞書OEDの誕生秘話 (ハヤカワ文庫NF)

博士と狂人―世界最高の辞書OEDの誕生秘話 (ハヤカワ文庫NF)

ただの繰り返し

最初に豊穣の海を読んだのは、たまたま手元に現金がなくて大学に行くのに困ったので図書券をくすねてきたからだった。500円券二枚で580円の文庫本を買えば、お釣りが500円券一枚で買えるどんな本よりもたくさんもらえる。

たまたま目にとまった500円台の文庫本が三島由紀夫の「春の雪」だったわけで、特に前知識があったわけではない。ちょうどそのころ大事な友人を春に雪崩れで亡くしたばかりで、自分の生活のほぼすべてが色あせてかさかさしているところに、三島のひつこいくらい流麗で細密な文章が染み渡っていったのを覚えている。空虚な時間をうめる華麗な装飾として、三島由紀夫の文章は超一級だった。飢えた子供が粥をすするようにして4巻まで一気に読み進んで、あっけないラストに「そりゃそうか、一本とられた」と思ったにも関わらず、長らく気に入った本のひとつに数えていたのは、やはり友人を亡くした直後に読んだ輪廻転生の物語だったという側面は無視できないだろう。

それから約10年。久しぶりにまた初めから豊穣の海を読み始めて、今度はその華麗すぎる文面には、描写力というより文筆フェチと評価せざるをえない生臭さを感じるようになった。特に2巻の奔馬では、恥らいもなくオネエサマ的な観察眼を披露する様に苦笑を禁じえないでいた。そのさなかに、今度は友人が陽のそそぐ雪山の断崖絶壁から滑落死した。時代の先駆けとなる事に見も心も捧げていた奇人という意味では、その友人には飯沼勲に通じるエキセントリックさがあり、また勲のように一般人からしてみれば一見くだらない行為に命を捧げたのだった。

そうなるとこの十数年で自分も、シリーズの著者の眼であり物語の語り部でもある本多同様のポジションに、傍観者として自動的にはめこまれてしまう。先に亡くなった友人の後釜にアルバイトに入る事で出会った次の友人。どちらの人物もその当時の自分のみならず、周辺と時代の空気を決定していたように思えるから、自然と次の10年が誰によってどのように彩られ、そしてその張本人が亡くなるのだろうかと不遜な想像を働かせることになる。

もし、豊穣の海を読み返す事が何かのきっかけとして作用しているのなら、私はこの本を封印してしまうだろうかと問えば、そこまで振り回されることもないと白けるくらいの涼しい心地を自分の中に蓄えているとは思う。とはいえ、ふと読み返してしまった時に大事な人を亡くせば「嗚呼!」と、何かたとえようもない重しを腹に感じるのではないかとも思う。

そんな関係を一辺の物語と結んでしまうのは、たとえようもなくロマンチストだとは思うが、ここに書いてしまう事で「他人に話した夢は正夢にならない」という迷信のような効果をどこかで望んでもいる。


豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

血と糞尿にまみれる本

非常に下品な本だなーと思いながらも、ニヤニヤしながら一気に読みきってしまいました。

戦記モノにしては妙なリアリティーを提供しようと、意固地になっているような作品です。ライトノベルなんだし、と普通は甘くなるような部分をやけに詰めてきて、大枠のタガは外してしまおうというのはこの作家モットーなんでしょうか。妙に手馴れています。

ちょっと歴史モノの匂いを漂わせながらもサーベルタイガーのみならず、龍やら金髪美人やら両性具有者まで引っ張り出してくるのに主人公はブサ男だなんて、あざとすぎる。9巻までで未完だそうだけれど、別に最初に始めた戦が終わっていなくてもここで終いにしてもいいんじゃないかという区切りにあります。宮尾登美子が育ての母が死んだ先の綾子シリーズを書かないように、状況よりも心象で区切りがついてしまうと物語は終了してしまうこともあるのだと。

テレビで毎週見れたらかじりつくだろうとは思うけれど、放送コードにひっかかりすぎてアニメにもならない予感。ただ、アメリカのテレビシリーズなら可能性はあるかもしれない。そのくらい惚れ惚れするような残虐シーンも、実は活字ならではの楽しみなのかもしれませんな。


皇国の守護者〈9〉皇旗はためくもとで (C・NOVELSファンタジア)

皇国の守護者〈9〉皇旗はためくもとで (C・NOVELSファンタジア)

ダークサイドの本

いろいろな事柄がぴったりのタイミングで重なって不細工道を突っ走り始めたこの夏に旋律を覚えながらも非常に納得した一冊「晩鐘」。乃南アサの「風紋」の続編である、不倫のハテに殺された母の娘として、事件当時高校生だった主人公が大学を卒業して就職したあたりのお話。

本当はかなり美少女だったはずの彼女の中身がドロドロにブサイクになってしまった過程と、それが再生産されていく様が克明に。そして加害者側の家族でも繰り返される、ほぼ理不尽ともいえる運命。「なんだよオマエみたいな奴の頭の構造なんか一生わかんねえよ」ってな相手の思考回路の袋小路をともにめぐるうちに、ふと人間なんて境遇次第で紙一重だと思えるようになります。自分を他人と比較してちょっとでも立派だとか、まともだとか勘違いした時には、それがどれだけ境遇の妙の上に成り立っているのか再認識すべきと奈落に突き落としてくれる本です。

ちょうど、暗い穴倉みたいなところで人にも会わないで仕事をしながらブクブク太っていた頃にコレを読んでいました。太るとかわいい服が入らない、自然どうでもいいカッコになる、余計に人目を避ける、太ったからもっと食べる、桁外れに太ると顔も変わる、化粧どころか人目を気にするガラでもないと思うようになる、楽しみが食べる事くらいになる、もっと太る、服はオッサンみたいになる、そろそろ性別が関係なくなる、挙動も女じゃなくなる・・・デブスパイラルに見事にはまりました。ある日、可愛い女の子を電車で眺めながら「女の子はエエのう、可愛い子は何しててもエエのう」と人事のように眺めている自分が、すでに(土俵を下りた)デブ思考を身に着けている事に気づいたのです。

あなおそろしや。女としての張り合いを全て失っている、枯れた自分にビビりました。「何か面白い事はないかねー」と呟く自分が、かつて「そういう事を人に聞く人の生き様が分からない」と思っていた不思議。そこから何をバネに生きる活力を取り戻したのかはワカリマセンが、何かしら他力本願だったのは確かです。覚えていないので。ただ、これから「自分がこうまでして生きていかなきゃいけない価値が分からない」などと口走る人間を「無気力」「無能」とバカにできるほど、偉くないのだという事だけは分かりました。


晩鐘〈上〉 (双葉文庫)

晩鐘〈上〉 (双葉文庫)