夏の子どもはみなわらう


 夏を返り討ちにする。最高気温が35度を超えて真夏日になると気象予報士によって宣言された今日、僕は決意した。「アチー」だの「ダリー」だの「ヒトナツノセツナイオモイデウィズマイダーリン」だの、夏ごときに振り回される人間が多すぎる。なぜこうなってしまったのか。夏がそんなに特別か。ただ気温があがって世の女性が薄着になってブラ・ジャーの紐が淡く透けて見えて僕の珍宝がしばしば肥大硬化するだけの季節ではないか。恥ずかしくないのか。夏のあの顔を見よ。さあ夏様が貴様ら愚民のために来てやったぞ、さあ騒げ、遊べ、嬉しいんだろ、さあ、さあ。そんなふうに我々人間をあざけっている。笑っている。日本列島を覆う晴れマークがにやにやしている。腹が立たないか。僕は心の底から腹が立つ。珍宝も立つ。我慢ならない。だから僕は決めたのだ。夏を倒す、と。


 さて、あやつを完膚なきまで叩きのめすにはどうすればいいか。腕を組み、うーむと考えようとしてはたと気づいた。軟弱者は「夏」と聞けばすぐさま計画を立てようとする。あれやこれやと夏に関連するイベントを紙に書き出したりして、ああんもぉう、なつやすみみじかすぎてなぁんもできなぁいshitぉ、などと楽しそうに顔面の筋肉を緩ませる。シットなのはこっちのほうだ。夏休みのドリルを破り捨てモノホンのドリルを手にし海の家という家をがれきの山にするくらいの気概をもつ人間はいないのか。夏の象徴であるラジオ体操を根本から作曲し直してラジオ体操ソサエティを震撼させるくらいの野心を抱くものはいないのか。背すじを伸ばして屁こきの運動くらいしてみやがれ。我々はママンという名のパナマ運河を経て人生という名の大海原へ飛び出した、生まれながらの一級航海士なのだ。夏の化身とも言える海を知りつくしている。海なにするものぞ! 僕らは――――


 何の話だったか。そうだ、計画だ。そんなもの僕は立てない。立つのは腹と珍宝だけでじゅうぶんだ。ノー・プラン。夏が何を仕掛けてこようと、そのつど臨機応変に美しく返り討ちにしてくれる。


 しかしこうして家の中で待っていては夏もやりにくかろう。正々堂々相手をしてやろうじゃないか。僕はサンダルをつっかけ外に出た。4.5歩ほどすすんだところで「SANDARU!」と叫んだ。日本語に訳すと「サンダル!」と叫んだ。実際の発音は「サンドゥー」に近いものであったがそれはそうとして叫んだ。サンダル。夏の権化。即座に玄関へ戻り革のブーツに履き替える。危ない。夏の攻撃はもう始まっている。一瞬の油断も許されない。頬をつたう冷や汗を僕はTシャツの袖でぬぐった。そして「TEESYATU!」とうめいた。Tシャツ。夏の下僕。ブーツのまま部屋へあがりクローゼットからPコートを取り出す。聞きしに勝る連続攻撃だ。人類が使役されるのもうなずける。


 Pコートをはおり、ボタンをとめ、カシミヤのマフラーを巻き、念のため毛糸の手袋をはめる。生身のままで夏に挑むのは危険だ。奴は強い。認めざるをえない。この格好でもまだ不安だ。ふわふわしたうさぎの毛があたたかな耳あてはどこだったか。そもそもそんなもの買った覚えがない。ええい、どうした僕、さっきまでの威勢はどこへいった。夏なんて分解してみれば「一」に「自」に「もにょっとしたなにか」だ。恐れるな。飛び出せ!


「おはよう、ってなにそのかっこ」


 僕は固まった。このやわらかな声の主はアパートのお隣さんである。ちょうど家を出るところだったらしい。二回言うが僕は固まった。それもそのはずだ、彼女はうすい水色のキャミソールに身を包んでいたからだ。三回目になっても仕方がないが僕は固まった。ただでさえ魅力的な白く細い腕が夏の光につつまれて、女性の体温を身近に感じさせた。とにかく僕は固まった。正確に言えば僕の珍宝が固まった。


「ガマン大会? こんな暑い日によくやるね。おっかしい」


 そうさこれから熱々の鍋焼きうどんを買ってサウナん中でそれを手づかみで食らったり頭からかぶってやったりするのさ寒くて凍えそうなんでね、と言おうとしたが舌は回らずにマ、マアネなどと不安定な日本語を発してしまう。僕はこの人が苦手だ。顔を見ると必ず珍宝を始めとして身体が固まってしまうし、うまくしゃべることもできなくなってしまう。ナ、ナナナツクォさんは。彼女の名前をまともに呼ぶことすらままならない。


「あたし? 友達に誘われてこれから海に行くの。いっぱい焼いてくるつもり。ある意味ガマン大会だね。負けないぞ」


 彼女は笑った。一流の写真家でも、名のある画家でも、世界的な映画監督でさえも捉えられない瞬間だった。僕は浴びた。彼女の笑顔を全身に浴びた。草原が見えた。ピンク色の花とか、黄色の花とか、すみれ色の花とか、すみれ色の花ってそりゃすみれだ、とにかく数え切れないほどの、小さく、あたたかな色を宿した花が咲き乱れる草原に僕はいた。彼女は手を振っていた。僕に向かってかどうかはわからない。しかし僕は手を振り返した。おうい、すみれ色のすみれが咲いてるぞ、こっちにおいでよ、と声をかけた。草花が風に揺れる中で僕はサンダルをはき、Tシャツを着ていた。かまわないと思った。夏よ、君は強い。「一」と「自」と「もにょっとしたなにか」などとあなどっていた僕の完敗だ。曖昧じゃ駄目なのだ。はっきりさせる必要がある。「もにょっとしたなにか」が何なのか、僕にはまだわからない。でも掴みかけているような予感はある。それをこの手にしっかりと握りしめることができたとき、お前に今度こそ勝てる気がするんだ。だからもうちょっとだけ待ってほしい。夏よ、もう少しだけ。

焼け野原でピボット


 はこびるじゃないはびこるだ、と今日だけで三回も指摘された。そのうち一人は不快な顔をし、もう一人は非常に不快な顔をし、最後の一人は深いため息をついた。つまり全員がはこびるを認めていないのだ。はびこるがはこびっている。歩きつかれた僕は公園のベンチに座り、腕につけた茶色い革ベルトの時計を見た。時針は五時半を指している。でも実際は何分か何秒か、正確な時刻とは微妙なズレがあるのだろう。人はみな「ほぼ五時半」を生きている。それで実害はない。であるのに、はこびるははびこるでなければいけない。はこびるははこびることができない。不思議だ。いつも思う。ミステアリスだ。



 少年がバスケット・ボールの練習をしている。薄い緑色の半ズボンをはいているということは、彼は小学四年生にちがいない。三年生は黄色であるべきだし、五年生は長ズボンに目覚める年頃だ。高校生のときバスケット・ボールの全国大会で優勝した同級生と名前が似ている僕は、このスポーツには少しうるさい。片方の足を軸にグルグル回るテクニックなどはお手のものだ。何と呼ぶテクニックだったか。米料理的な雰囲気の語感だけは覚えている。少年は夢中でボールを突く。ああ、ボールを持って走っちゃいけない。米料理するんだ。しないといけない。反則をとられてしまう。彼の放ったシュートは惜しくもリングにはじかれた。表情は見えない。彼は転々とするボールを全速力で追う。



 日が傾きはじめている。雲がうすくカーテンを張る。オードソックスな夕暮れだ。いや、オーソドックスだったろうか? そういえばさっきのも、ミステリアスと言うべきだったかもしれない。僕は苦笑して耳の裏を掻く。だんだんと空がにじんでいく。美しくも儚い山吹色に包まれ、景色は優しい焼け野原になる。ソックスだろうがドックスだろうがアリスだろうがリアスだろうが、自然の前ではどちらでも大差はない。じつに些末だ。人間はすぐ小さいことにこだわって、真実を見失う。ソックスは靴下だろう、と糾弾されたのを思い出した。馬鹿げてる。リアスだって海岸だろうが。不思議なのはアリスだ。相手は反論できない。結局彼らは、誰が決めたのかもわからない常識などという法で勝手に僕を裁こうとしていたのだ。くらだない。



 僕はシャツの胸ポケットから煙草を取り出した。マルボロ。店で「マルロボをひとつ」と言ったら笑われたことがあったっけ。ボロよりロボのほうが二十一世紀的だろうが――やめよう、僕が細かいことにこだわってどうする。ゆとりを持つべきなのだ。大きくあれ。僕よ大きくあれ。ズボンの尻ポケットから出したジッポ・ライターを点火する。オイルの残量が少なかったのか、炎はすぐ空気に握りつぶされる。まあよくあることだ。大きい自分は動じない。再び点火する。消える。点火消える。点、点点点点、点火消、



「トウモコロシ!」



 叫んでライターを地面に叩きつけた。心臓の鼓動が早く、不規則だ。これはもう認めるほかあるまい。僕はいらついているのだ。誰かが、何かが、リアス式海岸的な形状の檻に僕を押し込めようとしている。窮屈だ。ライターは何度か地面に跳ねてからぐったりした。立ち上がって取りに行く気分にはなれなかった。僕はしばらくうつむいて、まつ毛を右手の小指の爪でかまっていた。まつ毛。漢字で書けない数少ない毛だ。



「これ、おにいちゃんのだよね?」



 は、と顔をあげる。見ると、先ほどの少年がライターを拾い上げて僕に差し出している。あの緑色の半ズボン。間違いない。ボールが僕のつま先を軽くこづいた。今度はこっちに転がってきたのか。僕はボールを手にとり、立ちあがった。少年と視線が交差する。床屋に行ったばかりのように見える短い髪が薄く汗に濡れている。ぼん、ぼんと球を地面に叩きつけながら近づく。若干猿が木から落ちて僕は突き指する。「カープ!」と目を見開いて言った。



「あはは、へたくそ」と少年は言った。

「糞餓鬼」と僕は漢字で言った。



 彼はライターを半ズボンのポケットへねじ込み、ひょいと僕からボールを奪うと、てんてんと突き始めた。取ってみろと言わんばかりだ。こんにゃろめ、と手を伸ばす。彼はひょいとボールを持ち上げて避ける。そしてまた、てんてん。「いっけないんだあ」と僕は言った。「いったん止まったら、ボール突いちゃいけないんだぞ。動いちゃいけない。米料理するんだ」



 少年は首をかしげた。ある日突然「人前で排便するのはごめんだ」と駄々をこね始めたチワワを見るような表情だ。そんな彼の困惑に構わず続ける。



「リゾット。そう、リゾットするんだ。片足を軸にぐるぐる回って敵をかわす」

「ああ、それのことか。ピ――なんだっけ」

「ピラフじゃない。リゾットだ」

「ピボットでしょ」

「そうとも言う」



 彼は僕にボールをパスしてきた。突き指をしないように気をつけすぎていたら捕球を失敗する。球状の物体は僕の胸を直撃した。ゴッホ、と僕は言った。少年は笑った。彼の緑色のズボンは橙色の世界に浮き上がって見えた。映えていた。胸のうずきはボールによるものだけではないような気がした。立ちすくんでしまった僕を心配したのか、少年が顔を覗き込んでくる。僕は彼の頭を、ボールを突くよりも幾分優しく、ぽんぽんと叩いた。



「俺は君がうらまやしいよ」

「うらやましい、でしょ」と少年は言った。

「そうともいう」と僕はひらがなで言った。


トリップ・ダンサー


 僕が一番好きなパンティーの色に春を彩っていた花が散り、季節はようやく衣替えを終えた。半袖で外を出歩いたとしても、昼間ならちっとも寒くない。夜は少しだけ冷えるけれど、誰かと肩を寄せ合えばむしろ暖かい。生まれてこのかた十数年、こんなにも春の到来がきらびやかに思えるのは初めてのことだ。僕は今まさに、春の矢面に立っているのだ。「それは違うな」とおじいさんなら言うだろう。「矢面に立つ、というのは批判を受けるときなんかに使う言葉じゃ。今の君は、そうじゃのう、春にモテモテになっているとでも言えるか」とも言うだろう。おじいさんには? と僕が問えば、「もちろんモテモテよっ」と片目をつぶり不二家的舌の出し方でもっておどけるはずだ。矢でも鉄砲でも元寇でも持ってこい、と僕は思った。

 とにかくパークだ。僕は立ち上がった。どうしようもなく桜の花びらを撒き散らす春の風に乗って、あの人に会いに行くのだ。外に出る。いい匂いのする晴れの日だ。久しぶりにボートに乗るのもいいかもしれない。ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワンとかなんとか言いながらオールを独占し、好き勝手漕ぎまわした挙句池の中腹部で転覆、「もう、ヘタクソなんだからあ」とおじいさんにコツンと頭を叩かれるのだ。想像するだけで顔の筋肉がゆるむ。足の筋肉もゆるむ。転ぶ。電柱に額をゴッツする。それでも僕は笑って走り続ける。

「パーク。」

 そして僕はあの「D・スポット」、公園にやってきた。全力で走ってきたため呼吸が激しくなっているが気にしない。いつもより多く春の空気を吸えるぶん、むしろ心地よいくらいだ。デートを楽しんでいるカップルがちらほら見える。数ヶ月前の僕なら「彼らは何をやしてるのぞや」と訝しんだろう。しかし現在の僕はもうデートを知っている。ボートに乗り、お茶をする。それがデートだ。大きくなったものだ、と自分でも思う。僕が一番好きなパンティーの色の花びらをこころもち残した木々を見上げながら、僕はおじいさんのいるボート乗り場へ急いだ。

「いらっしゃい」

 池のほとりで僕を迎えたのは茶色い縁のめがねをかけた、髪の長いお姉さんだった。もちろん知らない人だ。受付におじいさん以外の人が座っているなどと思いもしなかったので、僕は固まった。足の筋肉も固まった。転んだ。どこに額をゴッツしたのかはよくわからない。とても痛い。

「だいじょうぶ? きみ、見たところ中学生くらいみたいだけど、一人で来たの?」

 お姉さんは受付小屋から出てきて僕を立ち上がらせてくれた。僕はアワーワウワイワというような音声を発した。口の中にできたてのふかしいもが丸々一個詰められているみたいに舌がうまく動かない。日光によって撫でられた彼女の肌がやたら白く、まぶしかった。

「迷子――になる歳でもないよね。ぶつけたところは大丈夫?」

 ダイワハウス、と僕は口走った。大丈夫です、と言ったつもりだった。お姉さんは少しだけ困った顔をした。お手と言ってるのにチンチンをする犬を見たときの目だ。自分は怪しい人間ではない、と彼女に伝えなければいけなかった。とりあえずチンチンを出さないように股間を手で覆った。そしてオヨメサンバと言った。もちろん「おじいさんは?」と訊くつもりだった。彼女はふふ、と笑った。おじいさんが見せる笑顔とよく似ている。胃の横の上の奥が急に縮んだような気がした。ざあと風が吹きつける。お姉さんは髪をおさえた。スカートがひらめく。

 僕が一番好きなパンティーの色のパンティー。それは一瞬のことだった。春の色。青春って、なんで青い春と書くんだろう。僕にとって青は夏だ。春じゃない。春は桜だ。桃色だ。桃春というべきじゃないのか。間違っている。世の中は間違っている。正しいのは僕と、僕の目に焼きついた僕が一番好きなパンティーの色のパンティーと、彼女と、それらを優しく抱くこの世界と、つまるところ、何が間違っているかなんて青二才の僕にはわからないのだ。ああ、と思う。おじいさん、僕は何かわかったような気がする。デートとかナンパとか、そんなことよりも大事な何かに少しだけ触れられたような気がするんだ。

「やだ! 見たでしょ、もう!」

 お姉さんに肩を叩かれ僕はなすすべもなく池に落ちる。水は冷たい。でも苦しくはない。ゆらゆらと揺れる、向こう側の太陽をぼうっと眺める。もう少しすればあの人が手を差し伸べてくれるのを僕はわかっている。鯉が僕を見ている。僕は恋をしている。



Please Mr.Lostman
「TRIP DANCER」
 from 『Please Mr.Lostman』, the pillows' 7th album.

真冬に咲く花


 気がつけば雨はやんでいて、カーテンの隙間から角度の低い日光が部屋の奥のほうまで差し込んできている。トラックのものらしきエンジン音と、その車輪が水たまりの水をはね散らかす音が同時に耳へ入ってくる。僕は太ももにその柔らかく暖かなエネルギーを感じながら、あ、と呟いた。そしてため息をつき、今さら遅いよ、と言の葉を漏らす。僕は裸だった。



 いくつか問題はある。裸であることはもちろんトップ・オブ・トップ問題であるけれど、服を着れば解決するだけの簡単な話だ。それなのに僕がため息で乳毛を揺らしているのは、着る服がないことに原因がある。洗濯していないのだ。パンティーや靴下といった最も優先されるべきベーシック・布地はもちろんのこと、シャツも手持ちのものは全てここ一週間で着てしまった。ズボンはまあ、洗っていないものでも履けないことはない。しかし一度身に着けたベーシック・ファブリックとシャツ的ファブリックを再度装着することは僕のポリシーに反する。一期一会。僕の座右の銘だ。これまで徹底して貫き通してきた。苺だって二つ以上食べたことはない。その僕がどうして一度愛したパンティーやその他布類に二度巡り合えようか?



 洗わなければいけない。そう思っていた。しかし昨日の朝から降り始めた雨のせいでそれが叶わなかった。ちょうど連休だし、冬だし、風呂にも入らずのんべんだらりと家で過ごすか。そう思っていた。しかし今日の朝にかました寝小便のせいでそれが叶わなかった。僕は衣類を全て脱ぎ、シャワーを浴びざるを得なかったのだ。そしてついさっき、雨がやんだ。



「アメガヤンダ!」



 僕は叫んだ。「ツイサッキ!」と続けた。しかしパンティーはなかった。



 さて、と腕を組んで考える。三月とはいえまだまだ冬、室温は低い。このまま裸体で朝の寒気に晒されていては、ほぼ間違いなく風邪が僕を慈しむだろう。とりあえず上半身だけでも、とクローゼットに残った最後の一枚を着た。「緑茶」という字が茶色でプリントされた、白地のティーシャツだ。緑茶なのに茶色とは、ガッツがある。そのガッツが僕を風邪から守ってくれクション。くしゃみと同時に鼻水を豪快に放った僕は我が目を疑った。鼻の穴から伸びた粘っこいジェルがティーシャツに付着して橋を形成していたからだ。日光がそのアーチを演出して、きらきらと輝かせていた。ゴッシュ、と二回目のくしゃみをしたときには、緑茶ティーシャツはその名のとおり緑色に染まっていた。僕は彼を脱いだ。こうして僕を覆う衣類はなくなった。



 僕は洗濯籠を見た。一週間以上にわたって僕が着た、代々のパンティーや靴下やシャツなどが山盛りになっている。なぜ小まめに洗わないのか、と叱責する人がいるかもしれない。しかし僕は、洗うときは全ていっぺんにと決めている。この素敵な布たち全てを愛しているからだ。仲間外れになる布があってはいけない。決してずぼらなわけじゃない。なあ、お前ら。山のてっぺんにある黄色く染まったパンティーが、僕の股間をすり抜けた日光に反射して光った。美しかった。彼は僕に何かを伝えようとしている。いや、伝えようとしているのではない。僕が忘れてしまっている大切なことを、ほのかなアンモニア臭によって思い出させようとしているのだ。



「あ」と思った。僕が漏らした幾ばくかの小便は、今こうしているときも気化し続けている。



 出窓へ駆け寄り、手を伸ばしてガラララ、と勢いよく開ける。ブッシュ、と三回目のくしゃみが出る。そんなものはもう気にしない。風邪でもなんでもひけばいい。CDプレイヤーのスイッチを押し、音楽を流す。外国の古いロックンロールだ。刻まれるビートにのせて、僕は踊りだした。性器と性毛とその他もろもろの毛をリズミカルに揺らし、音楽に身を任せた。「アメガヤンダ! ツイサッキ!」と歌った。依然パンティーはなかった。しかし不安もなかった。パンティーたちは洗って乾かせばすぐ僕のもとへ戻ってきてくれる。僕はそれを待っていればいいだけの話なのだ。カーテンが風にあおられた。通行人と目が合った。「ションベンモラシタ!」と僕は叫んだ。「ツイサッキ!」と叫んだ。通行人も叫んだ。たとえようのない一体感が裸の僕を包み込んだ。

アップルパイのなる木


 アップルパイのなる木を植えたら彼女は喜ぶにちがいない。



 二十五歳になった僕はそろそろ女の子にもててもよい頃合である。人生には三度の「もてる時期」があるというが、僕の寿命を八十歳と仮定して、三分の一近く経過しているのだから間違いない。明日にももてるかもしれないのだ。そう考えると、何者かが乳首と乳首の中間あたりをきゅっと締めつける。それは川のようにうねり、僕を急かす。しかしそこは僕、我ながら賢明である。焦ったりはせず、冷静にもてる準備を始める。女の子はアップルパイが好きだと聞く。アップルパイさえあれば機嫌がすこぶる良好であるらしい。ならばもてる前に、アップルパイを絶え間なく供給できる環境を整えておかねばなるまい。千里の道も一歩からである。僕はさっそくアップルパイのなる木の苗を探すことにした。



 部屋を出ると、外はダイナミックに寒い。僕の着ている服それ自体が冬型の気圧配置に感化されてしまって身体を容赦なく冷やしてくる。「サミー」と僕は呟いた。いったん戻ってコートをクローゼットから引っ張り出すべきか。否、否否、不口、僕はこれからもてるのだ。もてる男は熱いのだ。だから厚着などしない。「アチー」と僕は言った。「アーチーチーアチー」と唄った。「モエテルンダロウカ〜〜」とコブシをきかせた。そしてコタツにもぐった。



 かじかんだ指先があたたまり、さらにあたたまろうとして宅配のピザを頼むため携帯電話を手にしたあたりで、あれ、これはもしかして俺駄目なんじゃねえのかという思いが浮上した。アップルパイのなる木を得ようとして家を出たのではなかったか。なぜ僕は孫の手の先端部のように背を丸めながらテリヤキチキンピザを頼もうとしているのか。「毎度お電話ありがとうございます、ピザ屋でございます」そしてなぜ僕は考え事をしつつも流暢に注文しているのか。「テリヤキチキンピザのMサイズが一枚とコーラとポテトでよろしいですか?」そしてなぜ僕はよろしいですなどという怪しいジャパネスク語を駆使しているのか。



「ただいま新製品のアップルパイがお安くなっておりますが、ご一緒にいかがですか」



 不意に乳首と乳首の中間あたりで得体の知れない電流がアムール川のような軌跡を描きはじめた。僕は息を吐いた。テーブルの上にたたずんでいた、ヴォルガ川によく似た形の陰毛がふわりと浮かんで床に落ちた。川? どうして川なんか連想するんだ?



「アップルパイは好きですか」と僕は受付の女性にたずねた。



「えっ?」と彼女は言った。



「アップルパイは好きですか」

「あは、好きですよ。よく食べます」



 見えないはずの笑顔が見える。両乳首のミドルに生まれた何かはくねくねと身をよじらせながら信濃川になったりエルベ川になったりリンポポ川になったりしながらはっきりした形を得ようとしている。確かにそこには熱いエネルギーが流れている。そして海に注ごうとしている。僕はそれを感じ取ることができる。同時に彼女の声が耳に触れる音を聞く。



「アップルパイのなる木なんかがあったら素敵なんですけどね」



 恋が注ぎ込まれる。僕の中の海へと恋が注ぎ込まれ、広がっていき、いつしか愛が生まれる。僕はもてたのだ。アップルパイのなる木に目をつけた僕は間違いじゃなかった。甘い甘いアップルパイの実が僕と君を結びつけた。焼きたてのパイの香りに頬をゆるませよう。アップルパイはいくらだってある。君への愛も尽きることはない。いつだって焼きたての愛を君に注ぎ続ける。だから僕は君のためにアップルパイのなる木を植えるんだ。


パトリシア


 この世に生を受けてから十数年、トラックをはねたこともトラックにはねられたこともなかったのだけれど、今僕は空中を舞っていて、なぜ空中を舞っているのかというと、それは別に背中から羽が生えたからではなく、もちろん尻から羽が生えたわけでもなく、トラックと呼ばれるでっかい自動車にはねられたからであって、冬だというのに奇妙なほど空気が暖かいのは、物凄いスピードで僕と大気とが擦れあっているからなのだろうな、と思ったりする余裕があることに少しだけ驚きながら、そういえば死ぬ間際の人間ってまばたきの一瞬を何分もの時間に感じ取ったりするらしいね、他人事のように考え、そうか僕はこれから死ぬのか。悟った瞬間糸が切れたように時間の速度が元に戻って視界は暗くなる。


 初めて二人で観た映画は、無口でシャイだけどチェインソーが普通の人よりちょっと好きってくらいの殺人鬼が夜な夜な殺人の練習のためにチェインソーを稼動させ、アパートの住人に怒られる様子を描いたホラーコメディだった。「何時だと思ってるのよ!」と太ったおばさんに罵倒される殺人鬼は無口でシャイだから何も言い返せない。おじいさんはそっと僕の手を握って「まるであなたみたいね」と言った。「そうかな?」と僕は言った。「そうよ」とおじいさんは笑った。僕はなんだか頭にきて、売店で買ったポップコーンをおじいさんの両鼻に詰めた。彼はぷるぷると震えて赤くなり、すぐにポポン、と勢いよくコーンがポップした。面白くなって僕は何度もポップコーンをおじいさんの両鼻に詰めた。繰り返すうちにおじいさんは痙攣した。スクリーンでは内容証明をチェインソーで切り刻もうとした殺人鬼が手を滑らせて脇毛を刈っていた。


 初めて飲んだブラックコーヒーは大人の味というよりも劇物だった。劇物というよりも激物か。あまりの苦さに僕は「苦い」と感想を漏らす前にスプシャーと噴き出した。厳密に言えばスブワッシャオーと噴き出した。コーヒーはちょうど目の前に座っていたおじいさんの顔面に直撃した。厳密に言えば眼球に直撃した。おじいさんは「キャア!」と叫んでのけぞった。「何するのよ! バカァ!」と怒るおじいさんの顔は、コーヒーの熱さのせいか桃色に染まっていた。


 初めて二人で乗ったボートはとても小さくて、少しバランスを崩すだけでひっくり返してしまいそうだった。おじいさんは「小さいほうがいいって思える日がいつか来るわよ」って言っているけれど、僕にはとてもそうは思えない。漕ぎ方のコツがなかなかつかめなくて、ボートは何回も転覆しかけた。転覆しかけるたびにおじいさんは「キャハハハハ、あぶなあい」と笑った。笑いながら落下した。池に落下した。彼は泳げなかった。「わたしカナヅチなのよう!」と慌てふためくおじいさんを見て僕も慌てふためき、助けようと身を乗り出したら僕も落下した。僕も泳げなかった。犬かきでもがきながら二人して笑った。


 僕は思い出す。思い出したそばからその情景は消えていく。映画館。チェインソー。握った手。コーン。ポップ。内容証明。コーヒー。スブワッシャオー。眼球。桃色。池。ボート。水しぶき。おじいさん。僕。笑顔。几帳面なペンキ職人がさっさっと、ひとつひとつ、大きなハケで黒く塗りつぶしていく。そして何が消えていったのかもわからなくなっていく。あれは、何だったんだろう。あの人は、誰だったんだろう。誰と一緒にいたのだろう。僕は、誰と一緒に笑っていたのだろう。最後にひとつ、残ったのは、声。


 誰かが僕を呼んでいるような気がする。さすがのペンキ職人も声を上塗りすることはできないらしく困っているようだ。どうしたらいいのかわからずにうろうろしている。「まるであなたみたいね」と声が言った。そうかな、と僕は思う。「そうよ」と声の主が笑う。ちがわい、と僕は思う。声の主は「そうかしら」と言った。僕が何もわかってない子供なのだと決めつけている調子だ。頭にくる。確かに僕はついこのあいだまでデートもナンパもしたことのない世間知らずだったけれど、今は違う。あの人に出逢ってから僕は変わったのだ。あの人? 誰のことだ? 思い出せない。僕にとって一番大切な、忘れてはいけない人のはずだ。君は知ってるのか? 僕は声の主に向かって訊いた。答えの代わりにすっとポップコーンが差し出され、僕の鼻の両穴に押し込められた。すぐに息が苦しくなる。なにをするんだ、と言おうとしたそのとき、コーンが鼻の穴からポップして飛び出した。ぱぱぱぱ、と暗闇に色が戻る。春を迎えて一斉に花開いた桜のように、僕の世界が彩られていく。白く透き通った手のひらが見えた。僕は手を伸ばし、力強く握ろうとした。



「気がついたか!」


 僕はおじいさんに抱きかかえられていた。彼はしっかりと僕の手を握っていてくれた。


「びっくりしたぞ。映画館を出たらいきなりステップしながら『僕を捕まえてごらんなさい』などと言って車道に飛び出してトラックにはねられて吹っ飛んで。止める暇もなかったわい。吹っ飛んだ先でたまたま歩いていた太ったおばさんが受け止めてくれなかったら命も危なかったぞい。どこか痛むか? わしが誰だかわかるか?」


 腕をあげ、おじいさんのあご髭に触れる。正直に言えば全身がかなり痛かったけれど、そんなことはどうでもいいのだ。僕は彼の瞳を見つめながら、さらさらとしたあご髭や頬を撫でた。綺麗だ、と思った。「綺麗だ」と実際に口に出して言ってみた。おじいさんは耳まで真っ赤にさせて、「もう。心配したんだから、バカ」と言って笑った。 


LITTLE BUSTERS
「Patricia」from 『LITTLE BUSTERS』
the pillows' 8th album.