足蹴な映画 『ダーク・シャドウ』(監督ティム・バートン)

盟友であるジョニー・デップ、ミッシェル・ファイファー、エヴァ・グリーンにヘレナ・ボナム=カーター。さらに最近話題のクロエ・グレース・モレッツガリー・マクグラス。ざっとクレジットを並べるだけで、この映画に出ている面々がどれだけ華やかかということが分かってもらえると思う。それも、すべては「監督ティム・バートン」という名のもとに集まっている。わたしは渋谷駅構内で、キャストがひとりずつ映ったポスターがずらりと並んでいるのを見て、このメンバーで何がくりひろげられるのだろうかと胸を高鳴らせていたのだ。

そしてこちらの期待以上にティム・バートンはその俳優陣をなんの惜しげもなく使っている。いや、むしろ「足蹴に」使っている。ミッシェル・ファイファーも古くから続く一族の土地と家族を女ひとりで守ってきた女領主を熱演しているのだが、だんだん彼女はスクリーンの中心からはずれてきて、最後にはショットガンを構えて魔女と戦う姿も脇役の悪あがきにしか見えない。また、クロエ・グレース・モレッツも自分の隠していた正体を暴いて応戦するのだが、その隠れた正体についてのエピソードは一行のセリフで片付けられてしまう上に、せっかくの見せ場も3分も経たないうちにはあっけなく終了。ジョニー・デップをのぞいて、どの俳優も平等に見せ場のはずがあっさりと流されているのだ。

ということは、もちろんストーリー展開上でも同じことがいえ、布石をちゃんと回収しろだの、あれは何だったんだという感想があとを絶たないようだ。実際『ダーク・シャドウ』の原作は1966年から71年にかけてアメリカで放映された人気ドラマで、1225話もある超大作。それを2時間にまとめようとするのは無理な話である。その結果がこの「足蹴な」感じなのだが、それもかねてから言われてきたティム・バートンのストーリーテーリングへの興味のなさが顕著に露呈したにすぎない。そこにいちいち目くじらを立てても何の意味もない。

では、何がティム・バートンの興味をそそるかというと、18世紀の肖像画の人物たちが、1972年という現代に入り込んできたということ、つまりは貴族気取りの吸血鬼が馬ではなくシボレーに乗り、魔女がバリバリのビジネス・ウーマンで人気を勝ち誇っている、そのことではないだろうか。現にティム・バートンは『シザー・ハンズ』(90)や『チャーリーとチョコレート工場』(05)など、くりかえし現実の世界に非現実世界の住人が迷い込んできた映画をつくってきた。今回の『ダーク・シャドウ』もそのひとつである。

それにしても、今回は先に述べたように俳優にしろ物語にしろ「足蹴に」している感があまりにも強い。そのため、私にはティム・バートンがこう言っているような気がしてならない。そんな「細かい」ことなんて気にしないで、その時その時目の前で起こっていることを楽しもうぜ、と。(増田景子)

あのカポーが帰ってきた!――『シャーロック・ホームズ シャドウゲーム』

ガイ・リッチー版ホームズの第二弾「シャドウゲーム」では、前作で予告されファンが待ちに待っていた「宿敵との対決」を描いている。

宿敵って、あのモリアーティ教授のことでしょって、は?え、だれそれ?
ホームズの宿敵、もちろんそれはメアリー・モースタン、その人に決まっているではないか。
誰って、前作「シャーロック・ホームズ」に登場したホームズからワトソンを奪った婚約者じゃないか。
ポカーンとしてるけどもしかしてあなた、この映画の「裏の戦い」=シャドウゲームを見過ごしてしまったのだろうか?
前作においてワトソンを宿敵メアリーに奪われたホームズは、今作にてワトソンの結婚式の付添人という屈辱的な役回りを押し付けられる(ワトソンとメアリーが祝福をうける片隅で寂しくたたずむ彼の哀愁!)。しかし、ワトソンがハネムーンに旅立つそのとき、彼に命の危険が迫っていることに気づき、旅の途上に乱入。どさくさに紛れて、ついにメアリーから彼の奪還に成功するのだ!「別れても好きな人」を歌わんばかりの彼の執念。かくして、本作はそんな二人の危険な「ハネムーン」へと移行する。

前作の興行的な成功(と“その方面の人々”の熱烈な支持が届いたかどうかはわからないが)を受け、今作「シャドウゲーム」ではホームズ&ワトソンのカップルが、さらなる際どいシーンを、これでもかと見せつけてくる。
特に、別にそんな格好しなくてもあれはできるのにあれをしてあれするあのシーンだとか、絶対にそんなことしなくてもいいのにあれをしながらあれをするあのシーンだとか、観てない人には意味がさっぱりわからないだろうが、観たらわかる。そんなファン垂涎のサービスカットが半ば強引に、これでもかとばかりに詰め込まれている。募る想いを押さえきれなくなったホームズの思わせぶりな熱い口説き文句も見逃せない。
はたして、ホームズとワトソンの仲に進展はあるのか?こうご期待!


あ、どうもその途中で天才数学者なる犯罪者と対決するそうです。そっちもこうご期待!

(今田祐介)

そのルールの外へ脱出してほしかった  映画「TIME/タイム」 30点

筆者はいまFaceBookのあるソーシャルゲームにはまっている。こうしたゲームが興味深いのは、「時間」を実際のお金を使って買うことができるところだ。無料でプレイするユーザーが他のユーザーに手伝ってもらったり時間をかけたりしてようやくたどり着くミッションクリアまでのプロセスを、お金を払ったユーザーはスキップできるわけだ――もっとも、援助してくれる「他のプレーヤー」も流行りの言葉で言えばソーシャル“キャピタル”ということになるのだが。

お金と時間の関係は今に始まったことではない。下手をすればそれは、資本主義社会の年齢とほぼ同じかもしれない。「時は金なり」という格言は、アメリカの独立に多大なる貢献をした政治家ベンジャミン・フランクリンのものであるが、そんなアメリカ発のこの映画『TIME/タイム』(原題『In TIME』)は、そんなお金と時間の“腐れ縁”をさらに強調したSFだ。

近未来、遺伝子操作によって25歳になると歳をとらなくなってしまった人類は、右腕にて刻々と刻まれていく自分の寿命を売り買いすることで生きていくことになる。「時は金なり」ならぬ「金は時(寿命)なり」のこの世界には歴然とした格差があり、何世紀もの「寿命」を残す大富豪がいれば、あくせく働きながら今日の命をも危うい貧者が文字通り「時間稼ぎ」をしているのである。

貧民エリアに生まれたウィル(ジャスティン・ティンバーレイク)もその一人で、「貧乏暇なし」という諺よろしく、毎日工場であくせく働いて寿命を延ばしている。そんなある日、街に流れ着いた富豪からひょんなきっかけでもらった100年の寿命をもとでに、彼はニューリッチのエリアにもぐり込むが、タイムキーパーに犯罪者と誤解されてしまい逃避行が始まる。

映画は全編、この奇抜な「金は時(寿命)なり」というルールに沿って展開するが、その奇抜さのベールをはぎ取ってしまえば結末も含めどうも陳腐な映画だ。その根本的な原因は、この映画がこのルールの上での戯れでしかないことにある。なぜこのような世界になったのか?誰がどうしてこのようなことをしでかしたのか?その考察は一切ない。話は、そしてキャラクターは、そのルールの外部へは一切出ようとしない。というか、初めからこの映画のつくり手にとってそこは「空無」でしかない。その上自分たちが作ったこのルールを遊び切れていないような気がする。

また生と死についても考察不足に思える。というのも多くの人間はそもそも、何百年や何千年と生きたいと単純に思うのだろうか。早死にの苦悩もあるが、「死ねない」苦悩もあるのではないか。そうした不老不死の苦悩は、例えば手塚治虫が『火の鳥』の一部で描いているが、その点で冒頭に登場する彼のような決断をとる人が少しはいるだろう。それがないから、結果的にものすごく平板で軽薄な価値観と世界に見えてしまう。

筆者は、この映画の雰囲気に「世にも奇妙な物語」(フジテレビ系)の、特に不条理な世界を描いた近未来ものの作品群を思い起こした。あれは一作あたり20分ほどのショートドラマであり、ルールの上での遊びにとどまっていても観賞に耐えられるが、それを2時間近くかけてやられるとさすがに苦痛になってくる。

もっとも映画の見方、感じ方は人それぞれだ。こちらのブログのように面白かったという人もいる。この映画に2時間費やすことが有意義なことか、単なる浪費に終わるか。どちらにせよあなたの寿命は今も刻々と目減りしているわけであり、慎重に判断し行動されたい。(今田祐介)


監督:アンドリュー・ニコル/2012年2月17日より全国公開

ヒミズ

[][[[]]]園子温監督ははやくも震災を映画にとりこんだ。それが『ヒミズ』だ。結果、この映画は今後の被災地のひとつの可能性を描きだしたといえる。

この映画は古谷実による同名の漫画(2001−2003年連載)を原作とした映画で、9月に行われたヴェネチア映画祭ではコンペティション部門で主演の染谷将太二階堂ふみマルチェロ・マストロヤニン賞(新人賞)を受賞、1月から全国でロードショーが始まった。「普通」を夢見る中学生・住田(染谷将太)は、色々なことが積み重って父親を殺してしまい――という話なのだが、震災を受けて園監督はこの脚本を大きく書き直した。まず、舞台は3・11後の被災地のどこかに変更。彼の家の前の池の中央には津波で流されたままになっていると思われるプレハブ倉庫が浮かぶ。また、住田の腰巾着である同級生・夜野は被災して社長からホームレスに転じた老人・夜野にし、他にも被災者ホームレスという設定になっている。そして、最大の変更はラストである。

ヒミズ』のラストでは、ふたりで川原を走りながら茶沢が住田に向って「ガンバレ」を絶叫にちかいかたちで連呼する。この結末は原作ではありえない。住田はその時点で自殺をしてしまっているからだ。だが、繰り返し述べられているとおり園監督による脚本の書き直しで、住田は生きのびる道を選ぶ。その書き直しと、その一連の流れからの茶沢の声援に希望を抱いたといった感想が多いが、そこに対して首をかしがずにはいられない。あまりにも過剰すぎやしませんか。別に絶叫することもなければ、「ガンバレ」と連呼する必要もない。ふたりの表情・動作と、それまでの住田にむけられた異様な愛情表現と半強制的に自首に導いたそれまでの経緯をふまえれば、走る住田に茶沢が並走すること自体に充分「ガンバレ、住田」のメッセージが含まれている。
 
 そもそも園子温監督は映画においてかなり饒舌家なところがある。それは彼が詩人であったことに起因していると思われるが、とにかくセリフ、セリフの嵐。どの登場人物も監督の手にかかればしゃべり出す。
 饒舌家ぶりが見えるのはそこだけではない。前作『恋の罪』では田村隆一「帰途」、そして今作はフランソワ・ヴィヨンの「軽口のバラード」のワンフレーズをことあるごとに反芻しているのも印象的だ。「俺にはわかる 何だってわかる 自分のこと以外なら」。映画を見終わった後には暗唱できてしまうほど繰り返される。
 
はじめにこの一節を聞くのは映画の冒頭。カメラはゆっくりと左から右へと横移動しながらあの風景を映し出す。木から建物から電信柱から街の起伏をつくっていたものたちがなぎ倒されて瓦礫となり、開けてしまった風景を。場所の特定はできないものの、そこが東日本大震災津波を受けた被災地だということだけはわかってしまう。ニュースなどで似たような風景は何度も目にしているが、やはり言葉を失うほどの壮絶さがその映像にはある。そこに流れるのが、茶沢(二階堂ふみ)によって朗読されたヴィヨンの詩だ。見るだけで多くを語ってしまう雄弁な映像にさらに何かを加えてしまうのを、饒舌といわずになんといおう。下手したら胸焼けをおこしかねない。

「ガンバレ、住田」の連呼もやはり饒舌家ゆえの演出なのであろう。それにしてもすでにがんばっていると思われる住田にそこまで声援を浴びせなくともよいのではないだろうか。それはまるで3・11以降日本中で繰り返されている「ガンバレ、東北」「ガンバレ、日本」のスローガンのようだ。
きっとここで登場する被災したホームレスの人たちも数年前にはその「ガンバレ、東北」「ガンバレ、日本」の言葉を何度もかけられてきたことだろう。しかし、震災から5年程度経ったと思われる『ヒミズ』の世界ではそのような声援はなくなっている。きっとかけられたとしても、それは地域的なものではなく「ガンバレ、○○さん」と個人的なものではないだろうか。ニュースを見ていると、まもなく失業保険や仮設住宅といった支援が切れてくる被災した人たちに、そのような移行に直面する恐れがありえてしまう。
住田は「未来」なんだと夜野は言う。だとしたら、これは希望を持てる未来なのだろうか。(増田景子)

監督:園子温/2012年1月14日より全国公開

J・エドガー

事件現場のおぞましい惨状を地元州警察が険しい顔をして眺めていると、コーションテープを躊躇なく超えてやってきた“やつら”は、きまってこう言って事件を奪っていく―――「我々はFBIだ。今をもって捜査権は我々が引き継ぐことになる」。映画の中でしかFBIを知らない僕たちにとって、彼らはそんな傲慢な輩だ。
近年、立て続けにヒット―――とりわけ後年にまで長く語りつづけられるであろうヒット―――を飛ばしているクリント・イーストウッドが今回メガホンをとったのは、そんなFBIの初代長官であるジョン・エドガー・フーバー(以下エドガー)の生涯を語る映画。エドガーをレオナルド・ディカプリオが演じている。
 
物語は、晩年のエドガーが部下に自伝を執筆させるために、自己の半生を語って聞かせるというスタイルで進行する。
 
映画の見所の一つはなんといっても、司法省職員であった主人公が初代長官に就任した20代から、晩年までを演じたレオ様(すでにこの呼び方は死語?)と、彼と晩年まで連れ添った部下のクレイドアーミー・ハマー)の特殊メイクだ。正直、今回のメイクにはド胆を抜かれた。老け顔の特殊メイクというのは今までもあったが、どこか作り物の域を出ていないというか、観客のこちらが「目をつぶってやった」というところがなきにしもあらずだった。しかしこの映画の特殊メイクは本当にリアルで、同行者は子役も含めエドガーを三人で演じていたと思っていたらしいが、そんな勘違いをしても無理はない。声が妙に若々しいが、そんなことが気にならなくなるほど見た目のインパクトが勝ってしまう。もちろんここでは特殊メイクだけでなく、役者の老人演技の方も評価するべきだが、これについては後述する。

今に引き継がれるFBIと彼の功績(例えば指紋捜査をはじめとする科学捜査の導入)と、共産主義をはじめとする国家の脅威に対する彼のワンマンな正義感が行き過ぎた暴走をしていく危うさがバランスよく描かれ、映画は単に彼を称えているだけでないことがわかる。前半の図書館のシーンや全国民を指紋などのIDで管理しようと彼が提案するところなど、プライバシーとセキュイリティの関係という今日的な問題ももりこまれていて、実はそれらが古くて新しい問題だったのだと気づかされる。
題材(FBIの初代長官の生涯!)のわりに全体的に地味な映画だが、地味でも惹きつけられるのはイーストウッドならではの重厚な語り口があってこそか。

 
ところで先にも書いた通り、この映画の見所の一つはエドガーとクレイドの「老け具合」だ。まぁこの二人はいろんな意味で「お友だち」であることがほのめかされるが(ウィキペディアによると、エドガーは同性愛者だったという噂もあるが、確証はないという)、どこに捜査に行くときも二個一で、一種のバディムービーを思わせる頼もしい二人の若人が、年をとるにつれ弱弱しくなってくると、今度は一転して「二個一」ならではのせつなさと愛くるしさを放つようになってくる。
 
この老エドガーと老クレイドの老人コンビのたたずまいを観ていて思い起こされるのは、ダウンタウンのごっつええ感じのコント「2014」だ。

老人になり、すっかり「あの人は今」的な存在になってしまったダウンタウンが、吉本本社に訪れかつてのマネージャーに仕事を無心しにいくという筋立てのコントだ。元マネージャーに「お前らはもう終わった芸人なんじゃい!」と怒鳴りつけられる彼らの悲哀と同時に、ともに歩んできた二個一の老人(特に同性)ならではの愛苦しさに満ち溢れている。この映画での「老人の二個一」ならではの感覚は、この「ダウンタウン」を観たときの感覚に酷似している。

コントといえば、往年の志村けん演ずるばあ様を彷彿とさせる晩年の老クレイドの震え具合もすばらしい。もう、常にプルプルしているのだが、もう少し激しいと本当にコントになってしまいそうだった。それをぎりぎり映画の域に押しとどめているあの絶妙な震え具合がいい。

またディカプリオの演技も素晴らしかったが、観ていてこの老エドガーが誰かに似ている気がした。その誰かが最初は出てこなくてうずうずしていたのだが、終盤になってその誰かがこの人だったことが気づいた。

断言しよう、今から約30年後のディカプリオは竜雷太になる!!!(今田祐介)


監督:クリント・イーストウッド/米/2012年1月28日より全国公開

裸心 ─なぜ彼女たちはAV女優という生き方を選んだのか?─

裸心 なぜ彼女たちはAV女優という生き方を選んだのか?

裸心 なぜ彼女たちはAV女優という生き方を選んだのか?

 男性誌でのAV女優のインタビューといえば、「オナニーは週何回しまーす♪」や「エッチ大好きでーす♪」など、鼻の下を伸ばしたバカな男性読者の「こうあってほしいAV女優像」を上塗りするようなやりとりに終始する記事がお約束だ。

 だが本書はそうした幻想の延長線上にはない。本書は、『週刊プレイボーイ』などでおなじみのAV女優インタビューを手掛ける著者が、人気女優8人へインタビューした400ページもの厚さの渾身の一冊だ。

 この本の目的は、カメラの前で裸体を晒してきた彼女たちも今まで明かすことなかった「裸心」を、インタビューを通してあらわにしていくこと。彼女たちにだって家族はいるし、本気でつきあっていた彼氏だっている。本書はそうした彼女たちのこれまでの人生を解き明かしていく。おもしろいのは、AV上ではあられもなく激しいプレイを見せつけてくる彼女たちが、中学や高校時代の初恋やなにかを聞かれ、顔を赤らめて恥ずかしがるところだ。こうした話を引き出せたのも、バーや居酒屋などのロケーションでお酒を酌み交わしながらのラフな雰囲気の対談形式をとった著者が巧かったのかもしれない。

 AV女優のインタビュー本では『名前のない女たち』シリーズがあるが、あのシリーズに登場する女の子の多くは、家が極貧だったり親からの虐待を受けたりで、ほぼ全ページにて不幸が大爆発する「ネクラ」な本だ。それは本書である女の子が述べる「ものすっごい不幸な環境に生まれ育って、家庭の事情とかでAVに出るとか、売り飛ばされるとかってイメージ」にそのまんま当てはまる。

 だが、本書はそれとは明らかにちがい、「ネアカ」だ。本書のインタビューは、どちらかといえばアイドルへのそれに近い。内容の八割はとりとめもない会話だ。彼女たちの熱烈なファン以外、はっきりいえばどーでもよい内容が続く。しかし、それが逆によかったりする。この本を読めば、彼女がいかにふつーの家庭で、ふつーに育ったのかが、よくわかる。『名前のない〜』シリーズが事実でないとは言わないが、あの本だけを読んで明らかに偏っていたイメージが、この本で若干修正される。

 評者が興味を持ったのは、AV女優という職業の是非についての多くの女の子の告白に含まれる矛盾だ。みな人気女優としてのプライドをのぞかせる一方で、母親に「私がAVに出たのはお前のせいだよ」と吐き捨てる子や、もし娘が生まれても同じ道は歩ませないという子もいる。

 こうした矛盾が悪いわけじゃない。むしろ、AV業界の当事者の彼女らのこうした矛盾のある告白が、社会全体の抱える欺瞞(ex.女子高生の娘の行動に目を光らせるオヤジの書斎にある援交物のアダルトヴィデオetc)に気づかせてくれるのだ。

 本書のもう一つの魅力は、会話のやりとり自体が所々「エロい」ということだ。ある有名な映画監督いわく、男女の会話はそれ自体「前戯」なのだそうだが、中にはシティホテルで下着一枚という際どいシチュエーションで行われたインタビューも含まれている。もちろん文章上で「本番」はないが、読んでいて別の意味でも「興味深い」。個人的には、各女優に一枚くらいグラビアがあってもよかったのではないかと思うが、文章に徹したことは筆者のインタビューへの意気込みの表れかもしれない。

 この本がAV女優の「裸心」を晒すことができたかというと、それはよくわからない。だいたい、酔っぱらった上でのインタビューだ。その場のノリで言ってしまった言葉も多いだろう。しかし、酔いながらもインタビュアー、インタビュイー双方が誠実に語り合った、誠実な仕事だと感じる。(今田祐介)