飛沫節

はじめまして。略してNMということでひとつ。

手段の目的化の手段化の目的

 

 なぜ過去のSF作家は、現在のような携帯電話が想像できなかったのか、というようなまとめ記事を見かけた。そこにひっかかる何かはあったものの、結局その記事にはほとんど目を通さなかった。

その後しばらく経って、最近読んだいくつかのSF小説から感じていたことを思いだした。 たぶん今、この世界は過去のどんな小説よりも面白く、そして奇妙なんじゃないかということだ。

 

 SF、つまりサイエンス・フィクションとは名の通り、科学的な虚構だ。すべてのSFが、厳密にこの定義にあてはまるのかどうかは、専門家でないので分からない。ただ、俺が読んだものの多くは確かに、高度に発達した科学(技術)的なサムシングが、物語を構成する要素として機能していた。

そうした科学的に高度に発達した世界、あるいはそれが行き過ぎて極限状態にある世界においても、そこに生きるヒト*1が抱く葛藤や愛情といった情緒的な部分というのは、我々が生きる現実のそれとあまり変わらない。だからこそ読者は、想像的快楽を得られるし、共感して涙することも出来る。

 ここで、少し思いきって言ってしまうと、おそらく小説を書くことの「目的」というのは、ヒトの持つ普遍的な感情のうねりを読者へ伝えて、何かを共感させたり、想起させることにあるのではないだろうか。つまり、SFとそれ以外の小説とは、科学的サムシングが強調されるという点を除けば、それが書かれる「目的」と読者にもたらす効用に大して違いはないのだ。と、こう定義してしまうと、SFにおける科学的サムシングというのは、その「目的」を達するための「手段」であるいえる。

 

 さて、ここで冒頭のまとめ記事の話題に戻る。現在のような機能・形態の携帯電話、いやシャレじゃなく、それをなぜSF界のお歴々が思いつかなかったのか*2

この問いの前提には、携帯電話というものが、SFにおける科学的サムシングに該当するという認識がある。まあ一般的に考えても、携帯電話というのは、科学の発達がもたらしたものだと言われて違和感はないだろう。で、上述の定義に拠れば、すなわち携帯電話とは、SF小説の「目的」を達する『手段』なのだ。

 その『手段』が、過去のSFでは用いられなかった。これが意味することは、過去のある時点までは、上述したようなSFを書く「目的*3」の達成にあたっては、携帯電話という『手段』は不要だったということだ。にも関わらず、世界には携帯電話が産み落とされ、かくも世界に浸透した。いやもう浸食したと言って良いレベルで。

 これはシンプルに、現実世界の『手段』が、SF小説の「手段」を超越してしまったことの表れだろう。のみでなく、たぶん飛躍してると自分でも思うが、現実世界の『目的』も、旧来の小説の「目的」に沿った物語では、捉えきれなくなってしまったことを意味するのではないか。一昔前風に、ありていに言えばパラダイムシフトが起こった、美しいほど完全に。

今小説を書こうとすれば、過去の特定時点とでも定めをおかない限り、携帯電話が出てこなければもはや不自然だ。現実的な読み物として成り立たないといっていい。それこそ、異世界ファンタジーを描く場合ですら、携帯に類する便利な通信機能がないと、どこかテンポが悪く感じられてしまうほどだ。

 つまり、作家は「手段」を更新しなければならなくなった。それとともに、おそらくは「目的」も更新しなければならなくなってしまっている。現実世界が、これまでのフレームワークから逸脱してしまったからだ。従来の小説を書く「目的」は、ある時期から徐々に陳腐化してしまっている。それほどまでに現実世界が面白く、想像だにしなかったほどに奇妙なのだ。

 なぜこれほどまでに、携帯電話やインターネットといった『手段』は発達したのか。そして、今の世界の目指すところ、すなわち『目的』とは何なのか。哲学・経済思想・主義主張ほかなんでも良いが、そういったものがそれを解き明かさない限り、小説あるいは他の創作物でも、これまでのような今後百年読み継がれるような傑作は生まれてこないのではないだろうか。

 

 あるいは、物語が大好きな一作家の空想夢想が、先に世界の「目的」を探り当ててしまうのか。

  面白い。

 

 

なんて、分かった風なことを言うのがおじさんの楽しみです。

以上です。

*1:あるいはそれに相当する生物。

*2:実際には、現代の携帯電話そのまんまのものが描かれたSF作品もあるのでしょうきっとええそうでしょう俺が知らないだけで。

*3:ヒトの持つ普遍的な感情のうねりを読者へ伝えて、何かを共感させたり、想起させること。