ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

探している

ツタバウンラン


 トレッキング用の靴、つまり、それ程でもない登山靴というか、がっちり固めていない、裏が結構ごっつい靴ってのがないかなぁと靴屋を巡ってみるんだけれど、それ相応の靴屋で見ると、概ね2-3万円くらいして、しかも、上側はゴアテックスなんかで、裏はvibramなんかで本格的。ソールはガッチガチで、多分履いたら膝に来そう。もう筋力がないから、とてもは着こなせない。名前なんて聞いたこともない、そんな靴でも、結構ソールが硬い。
 ソールが柔らかめで、それでも裏はガッチリしている靴ってのはありえないんだろうかと思いながら探してみる。どっかにないものかと。候補になるような靴も有り得そうなんだけれど、通販ばっかりで、実在の店では殆ど見ない。それまで履いたことがない靴を通販で買うのは勇気がいる。


 近所の靴屋を巡ってみたら、もう何年もあったことがないラーメン屋のオヤジに遭遇した。外国人観光客で儲かってるだろうに、浮かぬ顔だった。なんか悩みでもあるのか、嫌われているんだろう。昔スマートボール屋だったところに新しく建ったビルの一階が近頃流行りの高いハンバーガー屋になっていた。高いといっても私達にとって高いだけで、外国人観光客にとっては10ドルもしないという。


 「東電 本当に資格はあるか」さすがの東京新聞である。ここまでいっているマスコミが他にあるだろうか。ほとんどのラジオで、この東電のまるで地元を蔑ろにするような行為を取り上げてはいるものの、しっかりと迫っているものはないといっても良い。それまで永年読んでいた朝日新聞をやめて東京新聞にした甲斐がある。

LUMIX


 LUMIXというのはパナソニックのカメラのブランドで、パナソニックオリンパスと一緒にマイクロ・フォーサーズという規格のカメラを作って販売している。そりゃなにかというと、いわゆる一眼レフカメラのフル・センサーの3/4のセンサーを乗っけたカメラですね。だから、それだけフルサイズのカメラに比べたら、簡単にいうと感度がゆるい。だけれども、小さくできるから効率としては良い、という考えなんだなぁ。そんなことろくすっぽ知らずに、小さくて安いからという理由でそのLUMIXのG型のカメラを随分前に買ったことがあって、レンズもそれに対応したものを3-4本持っている。しかし、世の中はどんどん進歩していくものだから、どんどん高性能なセンサーのカメラが売りに出ている。
 2011年に発売された私のカメラは1600万画素しかないセンサーだけれど、昨年の9月に発売された最新型後継機は2033万画素もある。一度これで写真を取ってみたい。でも,いくら安くなってきているとはいえ、13万円もする。これでは手が出ない。

 近くにある中古カメラの店にここまではいかないけれど、それでも今の自分のカメラよりも高性能のものが79,600円で出ていた。ほしいなぁと思ったけれど、まだ下がるんじゃないか、と期待していた。
 ところが、先週末に店の前を通りかかると、それまで一年以上そこにあったものがなくなっていて、私のカメラと同じようなものに入れ替わっていた!思わず「あっ!」と声を上げた。多分あのカメラを買ったやつは、このカメラを売ってあれを買ったのだ!そうかぁ〜!その手があったかぁ・・・。遅かりし、由良之助ぇぇぇ。

 NIKONCoolpix P1000が嘘のように高騰している。一体何があったのか。

都バス東42-1


 南千住から東京駅八重洲口行のバスがある。そもそも都電22系統(南千住~新橋)の代替で南千住~東京駅八重洲口のバスだった。代替っていっても都電22系統は南千住から浅草、浅草橋、小伝馬町日本橋、中央通りをずっと銀座四丁目を通って新橋まで行っていたが、昭和42年、1967年に南千住-日本橋間に短縮された。1971年に都電が廃止されて、それが南千住-東京駅八重洲口間の都バスに代替になった。八重洲口といってもほとんど南口の遠距離バス停の傍にあって結構な頻度で走っていたから、かつては京橋の八重洲ブックセンターに来ては、このバスで帰宅していた。
 ところがいつ頃のことか、久しぶりにとってもきれいになった八重洲口の停留所に来てみると、かつてはいつでもバスを待つ人達がいたのに、全然人がいない。おかしいなぁと思って、時刻表を見たら、なんと一時間に2-3本しか来ない。おかしいなぁ、蔵前あたりで見ていると、結構走っているのになぁと思ったら、「東42-2」という論文の小見出しみたいな名前のついている路線があって、こいつは東神田で終わってしまうんだった。なんだよ、詐欺じゃねぇかと思ったことがあった。
 久しぶりに東京駅へ行くのに乗ってみた。途中で都営地下鉄浅草線にでも乗り換えればもっと早いんだろう。浅草橋あたりで乗客はがさっと降りてしまって、後ろはがらがらになってしまった。なるほど東神田なんて聞いたことのない地名で終点バスが出るわけだけれど、こりゃ「鶏と卵」じゃないのかなぁ、だって昔は東京駅からあんなに人が乗ったんだもの。

 用事があったのは大丸百貨店だったから南口からはビル風がびゅうびゅう吹く中、北口まで歩く。外国人観光客ばっかりが大きな荷物をごろごろさせながらランダムに向かいからやってくるから歩きにくくてしょうがない。大丸の中に入っても外国人が異様に多い。とはいえ、今どきの百貨店だから、上の方は人影はまばらだよね。良くこれでやっていかれるよね。

 日本橋まで出て、本屋とローソン系のスーパーを覗いて日本橋から都営地下鉄で帰ってきた。

ボイス・トレーニング



 区の老人福祉センターの活動のひとつだという「ボイス・トレーニング」なるものに応募しておいたら、「参加できます」という返事が先月末に来ていた。今日がその初日だった。開始10分ほど前に行ったら、20名の参加者はもう揃っていて、私が最後だった。どうしてか知らないけれど、こういう高齢者の集まりってのはいつどこででも定刻前からみんな集まる。とても早くから来ている。(遅れちゃいけない)という思いが小学校の頃からの訓練で刷り込まれているんだろうか。こんなの、多分日本だけだろう。あとから、それこそドリフターズの全員集合のコントみたいに、五月雨式にやってくるのが普通じゃないかという気がする。勤勉だった日本の時代の遺産ってやつですかねぇ。それこそ、途中でなにかがあって遅れちゃうかも知れないという懸念がそうさせるんですかねぇ。本当にどんなときでも集まりいいですから、日本の高齢者。

 高齢者用の集まりだからなのか、最初から最後まで座ったままだったのは意外だった。しかし、考えなくてはいけないのはこれは「老人福祉」センターの行事なんだよね。まさに「デイ・サービス」ののりなわけよ。その証拠に、最年長参加者はなんと93歳で、中には歩くのが大変という人すらいる。20名中男性はわずか4名。生き残るのは女性だものなぁ。
 うちに帰ってきてからこんな状況だったと説明すると「まさにデイ・サービスだね」と。それを聞いて、あぁ、本当だと思ったわけ。実習で通っていた特別養護老人ホームデイケア・サービスの行事をやっていた時に、当時40歳前後だった主任さんに「灰田勝彦って昔は有名な歌手なんですか?」と尋ねられたのを思い出す。あそこでもそういう歌を歌っていたものね。

 声帯の話くらいから声を出し始め、「ソ」の音、上の「ド」の音を出す。なんの意味があるのかと思ったらそれが「見上げてごらん夜の星を」の始めの音だった。このキーでこの歌を歌うのはちょっとしんどいよなぁ。女性と男性がいるからこのキーなんだろうな。
 隣の男性が自己紹介の時に「フォークソングをやっていた」といっていたので、途中のお休み時間にどんなフォークを?って聞いたらPP&Mだってんです。「じゃ、女性がおられて?」とお伺いしたら、今は男二人なんです、とおしゃった。お生まれが2年下だというから多分義理の弟と同年齢。

 大きな声を出すところまでいかないかなぁ、このボイス・トレーニング。

ドトール

 ドトールってその辺の「なんちゃって・カフェ」の代表選手くらいの店かと思っていたら、とんでもなくて、創業者の鳥羽博道は2014年 に旭日小綬章を受章、2020年には紺綬褒章を受章しているという今年87歳。有限会社ドトールコーヒー設立したのは1962年。大出世物語が語られた日経新聞私の履歴書」、テレ東・村上龍の「カンブリア宮殿」にも登場。「蘇れ日本人の会」(怪しさ満載だな)の対談なんかにも登場・・徐々に怪しくなるかもねぇ。死んじゃった安倍晋三といっしょにゴルフに興じる大経営者なんだよなぁ。と、こうくるとなるほど、そういう方向の人なんだなと良く分かる。そうじゃなきゃ勲章喜んだりしない。ものすごい豪邸に住んでいるんだってね。


 そういえばドトールコーヒーショップエクセルシオール カフェ、カフェラミル、ドトール珈琲農園、洋麺屋 五右衛門、星乃珈琲店F&F 、パンの田島、石釜パン工房サンメリー、神乃珈琲(ドトール最高級ブランドを自称)もみんな同系列の経営ですよ。パンの田島だけ入ったことがあるなぁ。
勲章嬉しくてしょうがないコーヒー屋なんて願い下げ。


 あっちにもこっちにも同じことを書いてしまって、ごめんなさいね。

訃報


 こんなんどうでもいいんだけれど、O.J. Simpsonが76歳で死んだ。癌だ。
私は彼がBuffalo Billsで活躍していた頃のことを殆ど知らない。
なぜか。
私もこの頃会社勤めを始めたばかりで、地方の工場づとめでもあり、結婚したばかりだった。
当時は多分東京にいてもNFLの情報なんて殆ど入ってきていなかったはずだ。
彼はアフリカ系にしてはもうハリウッドがほっておかないほどのハンサム・ガイである上にとてつもない記録を打ち立てていたから名前だけは知っていた。
しかし、プレイは殆ど見たことがない。年間2000ヤードを走るランニング・バックなんて見たこともない。

裁判費用のために売り飛ばしたハイズマン・トロフィーを取り返しに盗みに入って捕まった、てのが致命的だよな。
しかし、それもこれも、水原一平の24億円で、もはや霞んでいるな。

 生まれて初めてアメリカン・フットボールの試合を生で見たのは、たぶん1965年のお正月、国立競技場であったライスボウルだったと思う。その後は駒沢競技場での大学の試合を何試合か見ただけだ。横浜球場で行われた、誰かの試合を見に行っとこともあった。去年85歳で死んだ義理の兄と一緒だった記憶がある。あれはいつだったんだろう。
 死ぬまでに一度だけNFLの試合を見たいなぁと思ったけれど、それはもう実現することはなさそうだ。

私はこれで

 「1990年5月から永きにわたり皆様にご愛顧いただきました、阪急三番街北館地下2階の【 水のサーカス「アクアマジック」】は、来る2017年6月4日(日)をもちまして展示を終了させていただきます。」

これ、赤字受注でした。
発注元阪急、元請け読売広告、下請け「船場」から私が務めていた会社が受注。実質的には一人で担当。
デザイン:WET DESIGN(Las Vegasのベラッジオの噴水もここ)
この案件の赤字責任でとばされちゃいました。赤字だったからねぇ、言い訳のしようもない。最初のプロジェクトだから、という意識が間違いだったんだろうね。こういうものは毅然として売らなくちゃね。当時はこうしたものに対する理解は進んでいなかったので、塩ビパイプが1mいくらなんだ、見積もってみろ、なんていわれて、あぁ、これじゃダメだなぁとは思っていましたよ。断れば良かったんだろうね。「アートがおわかりに成らないのでしたら、縁がなかったということで」ってね。未だに残念に思っております。唯一の救いは当時の阪急の担当者の若い人がわかってくれていたらしいってことですかねぇ。これで日本に普及させようなんて思ってたんだなぁ。栗田工業がやった後楽園の噴水は良かったねぇ。あそこはその後何処かに売ったかなぁ。バブル最盛期の日本だったからなぁ。もうあんな時代はやってこない。それだけは確かだね。


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