DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

『劇場版SPY×FAMILY CODE: White』B-、『CUBE NEXT キューブ・ネクスト』B

【最近見た映画】

『劇場版SPY×FAMILY CODE: White』(片桐崇監督、2023年)B-

 映画はもともとほとんど見ないのに、好きなアニメの劇場版ということもあり、これだけは前から楽しみにしていたのだが……

 原作はもともと子ども向けと言い切るにはやや難があり、そこがスリリングで良かったと思う。劇場版はそういう要素はすべて捨て去り、完全に子ども向けの娯楽映画に徹している。

 そこを承知しておかないと観られたものではない。

 映像は良いかもしれないが、あまりにシナリオが雑である。まずアーニャがふとしたきっかけで事件に巻き込まれ、敵の組織に捕われる。ロイドとヨルはアーニャを救うべく敵の飛行船に潜入、大立ち回りの末にアーニャを救出。クライマックスは飛行船が市街地に墜落するのを防いでハッピーエンド――という流れは、コナン映画の没シナリオでも流用したのではないかと疑いたくなるほど。キャラクター造形もいまいちで、敵の親玉がレストランでアーニャのデザートを横取りする時点でどうかと思ったが、ユーリや夜帷などレギュラー脇役陣もそれぞれのお約束ネタに沿って動くだけで、見ていて恥ずかしいくらいである。

 映像にしても、確かにヨルのアクションはすごかったが、アーニャの変顔とか大画面で見たいわけでもない。原作者の描きおろしのコミックも適当きわまりないものでこれまたもらった価値がない。良かったところを挙げれば旅行中のファッションが多彩で楽しめたくらいか(だから予告編で期待したということもある)。

 あと、近くの席に座っていた子どもがエンディングのアーニャと一緒に踊りだしたのがかわいかった。昔デスノートの映画を見に行ったら隣に座っていた子どもが途中からLのような座り方になっていたことがあったが、ああいう没入の姿は好ましいものだ。

 世間的にはの評判は良いみたいで、この映画によってスパイファミリーはコナン映画やしんちゃん映画やドラえもん映画に並ぶものになったのかもしれない(もしかしたら毎年作られるようになるのかもしれない)が……もう少し大人向けな劇場版も見てみたいものである。

 

『CUBE NEXT キューブ・ネクスト』(ニコラス・ピーターソン監督、2006年)B

 不幸な映画である。

 アマゾンでは酷評の嵐。というのも、みんなあの不条理サスペンス映画『CUBE』(ヴィンチェンゾ・ナタリ監督、1997年)の続編だと思って観てみたら、まったく関係のない作品なのである。そもそも原題はIntellectual Property(知的財産)なのに、独断であたかも『CUBE』の続編のようなタイトルをつけた日本が悪いのだ。

 そういったトラップがあることはわかっていたので、自分は『CUBE』人気にあてこんだB級スプラッタ映画を予想して観たのだが、それも違った。

 意外にマジメなのである。

 舞台は1960年代初頭、マッカーシズム旋風の吹き荒れるアメリカというところでまず驚く。冒頭に「マッカーシズムは腕まくりをしたアメリカニズム」というエピグラフが提示され、街ではラジオがひっきりなしに共産主義の恐怖をあおっている。

 主人公は発明家のポール。若くして数々のすぐれた発明をして名声を得た彼だったが、周囲に騙されてその権利や利益はすべて奪われてしまい、アイデアも尽きて極貧の中にいる。老母の介護のために研究もままならない彼は、ただ一つ残された「キューブ」という発明品の完成に人生のすべてを賭けるのだが……(以下ネタバレ)

 ラジオが共産主義の脅威を喧伝し、隣人への疑念をあおる中で、発明がうまくいかないポールは次第に被害妄想を募らせていき、周囲が自分のアイデアを盗もうとしていると思いこむ。隣人をふとしたはずみで事故で死なせてしまった彼は、その責任を警察やマスコミに追及され、それから逃げようとするトラブルでまた人を死なせてしまう。

 そして最後の頼みの綱である「キューブ」は見に来たエージェントに酷評されてしまう。ポールが怒りのあまり彼を殺そうとしたとき、ポールを心配した者たちがタイミング悪く彼の家を訪れる。ついに彼は逮捕され、物語は彼の輝かしい時代を走馬灯のように振り返ってジ・エンド。

 終わってみればなんのことはない、これはアメリカ伝統のパラノイドの物語の系譜にある。ディック、ピンチョン、デリーロのようなものを、映画でやりたかったということなのだろう。

 いったい彼がどんな発明をしてきたのか、物語の鍵となるはずの「キューブ」なるものがどんな発明品なのかは一切わからない。それはマクガフィン的なものとして、狂気に追い込まれていくインテリが描かれる。

 この話は、すべて妄想の中で進み、結局最初から最後まで何も起こっていないともいえる。それを支えるのが、主演のクリストファー・マスターソンの怪演である。頭は良いが融通の利かない青年が、次第においつめられてどうにもならなくなっていく様を熱演し、ほぼ一人芝居の映画と言っても良い。結構うまいと思うのだが俳優としての評価はどうなのだろうか。

 そんなわけで、個人的には割と好きな映画なのだが、あまりに酷評ばかりなので自信がもてない。不幸な人間の破滅を描いた、不幸な映画なのである。

 

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最近のこと

 久しぶりに書いた。

 今年の6月に異動の内示があり、10月に引越しをした。40分かけての徒歩通勤となり、毎日1万歩以上あるいて体調はとても良くなったものの、貴重な通勤電車の読書時間がなくなってしまった。今は一日一冊読むのがだいぶ難しい。近所には良いブックオフがなく、本を買うのもままならない。仕事自体は楽しいのだが、読書環境は貧しくなった。

 それでも語りたい本が出て来たので、久しぶりに書いてみた。

 次がいつになるのかはわからない。できればまた毎週なにか感想を書きたいものである。

奥泉光『葦と百合』B+、貫井徳郎『神のふたつの貌』B

【最近読んだ本】

奥泉光『葦と百合』(集英社文庫、1999年、単行本1991年)B+

 現代文学の第一線で活躍し続けている奥泉光の、長編小説としては第一作に当たる。前半はミステリの外見を持ち、後半ではメタフィクション的な手法を用いて虚実を曖昧にし、虚構世界における事実のあり方を探っていく――という、『バナールな現象』『モーダルな事象』『「吾輩は猫である」殺人事件』『プラトン学園』『グランド・ミステリー』そのほか諸作品で定番として展開された仕掛けが既にみられる。

 物語の中心にあるのは、かつて新潟の山奥で、理想社会を目指す実験として作られた小規模なコミューン「葦の会」。大学生の一時期そこに恋人と参加したものの、そこのリーダーに恋人を奪われて決別し、後には医者となった男が、(別の女性との)結婚を控えてそこを再訪する。荒廃した跡地のもっと奥に、元恋人と彼女を奪った男がまだ二人だけで生活しているらしいという情報を得た彼は、彼らの姿を求めて森の奥へと踏み込む。そして彼は、夢とも現実ともつかない奇妙な世界へと迷い込んでいくことになる。

 こういう現実と虚構が混ざりあっていく、ディック的やカフカ的と称される小説は、昔は読んでいる間はただ振り回され、よほど頭が良いか幻視者でもなければ書けないもののような気がしていた。ただのお話であるとわかっていつつも、もしかしたらこの奥には現実が解体されてしまうような、このつまらない日常を脱出できるような神秘の鍵が隠されているのではないかという気がしていたのだ。

 しかし本作に関しては、意外にロジカルに作られていることがわかる。使われている仕掛けは2種類に分類できる。一つ目は超常現象によるもの、二つ目はメタフィクション的な仕掛けによるものである。前者を作中世界内における矛盾、後者を作中世界の人物には意識されない、テクストレベルでの矛盾と言っても良いかもしれない。

 一つ目は、作中で超常現象(らしきもの)を起こすものである。科学的にはありえないことを起こし、起こったことはすべて幻覚や妄想だったという解釈を提示したうえで、しかしそれだけでは説明できないような余地を残すのである。これにより、真実がなんだったか曖昧になる。

 それを可能にするための道具が、本書ではたびたび登場する幻覚キノコにあたる。このヒッピー文化お得意のアイテムは、実に簡単に、作者に都合の良い、現実とも幻覚ともつかない世界を見せる。このあたりの使い方はやや安易ではある。

 二つ目は、作中世界内では説明のつかない、テクストレベルで見たときに現れる矛盾である。一つ目は作中世界の人物に実際の現象として認識されるのに対し、二つ目は認識されないことが多い。たとえば作中作として出てくる小説の書き出しが本作の冒頭の書き出しそのものであるという入れ子構造や、冒頭の場面から分岐して事件の起こらなかったまったく別の未来が最後にぽつんと描かれるというものである(本作はおもしろさはこのラストの新鮮さにある)。これは作中世界の人間には認識されない、テクストレベルの矛盾である。

ひとくちに「虚実が曖昧になる」とはいっても、実際にはこの二つの手法が混ぜ合わされて使われているのだ。

 この2種類で、ある程度メタフィクション小説の分類ができるかもしれない。たとえば阿部和重の『シンセミア』など神町三部作は一つ目の手法、『インディヴィジュアル・プロジェクション』では二つ目の手法がさらに進化して使われている、というように。なろう系にみられるループものは、二つ目の手法を使いつつ、複数の矛盾するテクストをさらに別の物語によって結合させていると説明できる。

 しかしこういう緻密な構築性のほかにもうひとつ、この小説を読むには、作中でもわざとらしく名前があがる真木悠介的な、コミューンやヒッピー文化への憧れがある。多くの人間がこの時期、理想社会の実現を求めて小規模な共同体をつくり、自分の理想の実験を試みて、挫折していった。

 奥泉光自身が、こういった動きにどの程度かかわったことがあるのかはなんともいえない。しかし、彼が多用するメタフィクションや虚実の混交といった要素が、虚構世界における事実の探究という現代文学における大きなテーマに挑むものに見えながら、その実は薬物による変性意識状態の表現が真の目的なのではないか、と思うこともあるのだ。とりわけ終盤、主人公の友人たちが一連の事件に巻き込まれたとき、精神感応が起こったらしいことがちらりと触れられているところに注目したい。個人の幻覚を超えたその現象は、ティモシー・リアリーLSD実験やカルロス・カスタネダドン・ファンのもとでの修行が目指した物質文明からの解放や精神の融合といった「夢」を、小説の中で実現したもののように思える。それをほんの少し触れて見せたところに、奥泉光自身の願望が一瞬のぞいたように思うのである。

貫井徳郎『神のふたつの貌』(文春文庫、2004年、単行本2001年)B

 まずとりあえずは、この小説はミステリであるとともに、宗教小説であるといえる。そしてどちらかというと、宗教小説寄りである。

 たとえば二階堂黎人の『聖アウスラ修道院の惨劇』は、同じくミステリであり宗教小説であると言ってよいと思うが、こちらはあくまでミステリ的な解決が先にあり、その説明のために宗教の論理が持ち出されてくるという印象を与える。

 一方本書では、主人公が生涯をかけて真摯に繰り返す「神は我々を見捨てたのか、なぜ悲劇は起こるのか」という問いかけが中心にある。それについての考察や議論がメインとなり、それを現実へ適用するかのごとく事件が起こるのだ。終盤明らかになるミステリ的な構造は、この物語の宗教的・寓話的な構造を明らかにするために効果的に使われている。

 自分の内奥から発する問いや欲望を純粋に追い求めることで悲劇が起こっていくのは、貫井ミステリのお得意のパターンでもある。デビュー作の『慟哭』のごとく、あまりに精緻に構築された「悲劇」に、読後やるせない気分になるのはわかっているのだが、読む側にはどこかそれを求めるようなマゾヒスティックな気分がある。

(以下ネタバレ)

 だがこれは、本当に宗教小説として捉えて良いのか、と読み終えてから考えた。

 見方をかえれば、これは昔流行ったサイコサスペンスの変奏ではないか。主人公の思考が詳細に描かれているから、読者は彼らの行動の理由を知ることができる。しかし作中の人々は主人公の内面など知らない。外部から見れば、だれからも慕われる善良な牧師親子が、ある日いきなり人を殺したという、カミュの『異邦人』ばりに不条理な話である。多分あの親子は死んでしまったから、なぜそんなことが起こったのか、作中の人々は永遠に知ることはないだろう。

 サイコサスペンスの犯人は、他人にはとても共感できない、しかし独自の徹底した論理を持ち、その論理で次々に人を殺していく。登場人物がなす術なく殺されていくのをみるうち、読者は自分もまた殺戮対象のひとつにすぎないことを悟る――それが、このジャンルの醍醐味である。その殺人鬼が、フィクションの境界を踏み越えて自分を殺しに来そうな錯覚を覚えれば、小説として成功したとみて良いだろう。『羊たちの沈黙』や『ハンニバル』の最後で何処へともなく姿を消したハンニバル・レクターが次に現れるのは、「読者の前」なのである。

 本作はそういった作品群とは逆に、理不尽なはずの殺人の物語が恐怖よりも美しさや哀しさといった印象をあたえる――さすがに妊娠した恋人に暴力を振るうところなど時折嫌悪を感じるところもあるが、全体としての読後感は意外に悪くない――のが不思議である。主人公の態度があくまで真摯だからか? 客観的な記述が他人事のように距離をおかせるからか?

 個人的には、貫井徳郎の多くの作品にみられる精神世界的なモチーフ、もっといえばスピリチュアルへの憧憬が、読者に伝染しているのではないか、という疑いをもつ。奥泉光の場合、コミューンやヒッピー文化への憧れは前提のものとなっており、それがない読者には入りこみにくいものになっていた。しかし貫井徳郎の場合はそういった世界への憧れをもたないところから出発して、憧れや信仰を抱くに至るまでを描いている。自分がこの作品を読み終えたときに哀しさや美しさを感じてしまったということは、それに「説得された」ということに他ならないのではないか。

 こうなると、冒頭で書いた「宗教小説である」とはどういうことか、ということが問題になってくる。『慟哭』で新興宗教にのめりこんでいく男を描いたのをはじめ、カルト宗教、もっと広く言えばなにかの信念に魅入られていく人々を、貫井徳郎は説得力をもって描いてきている。それが単に小説的な味付けとして採用されているのか、それとも逆に、本人の内的な欲求の表現の手段として人に読まれやすいミステリという外皮が選ばれているのか――我々は、たとえミステリよりも宗教がメインになろうと、結局のところ主軸はミステリにあるのだと思おうとしている。しかし貫井徳郎自身が本当に向かおうとしているのは、宗教的な信念の「布教」そのものなのではないか。貫井徳郎を読むたびに気になるのは、そこのところなのである。

 

 

 

大沢在昌『ダブル・トラップ』B、西村寿行『魔の牙』B

【最近読んだ本】

大沢在昌『ダブル・トラップ』(集英社文庫、1991年、単行本1981年)B

 大沢在昌の第二長編であり最初期の作品である。かつて政府機関の凄腕スパイとして知られ、あるトラブルで組織を追放された男が、ともに組織を追われた友人の頼みで再び戦いに赴くという、これだけ見るとよくありそうな話である。単純なアクションものになりそうなところを、むしろ組織を追われるきっかけになった過去の物語に厚みをもたせており、それが5年という時を経て何もかも変わってしまった「今」の物語に哀しみを与えている。

 過去と今の間に横たわる5年間は、登場人物にとって以上に、社会情勢の急激な変化の5年間でもある。80年代のスパイ小説が多くそうであるように、この作品もまたスパイの終焉を描いている。大規模な陰謀など絵空事になり、スパイの存在意義が失われつつある時代には、スパイたちはみずから争いを巻き起こして、それを解決することで自分を売り込むしかないのである。

 ある種の寓話的な、箱庭の中の争いは、スパイ小説のパロディのようでもあり、過度に複雑にされているきらいもある。特に終盤ではセリフを誰が言っているのかよくわからない箇所もあった。それでも、最初は「気障とはこういうものだ」と言わんばかりの主人公が、最後にすべての決着をつけて去っていくところは、それなりに哀しみを感じさせるものがある。

 

西村寿行『魔の牙』(徳間文庫、1982年、単行本1977年)B

 大雨で孤立した南アルプスの山荘に一般客に混じって、銀行強盗とそれを追う刑事、さらに彼らを追うやくざや正体不明の男などが避難してきて一堂に会するという、新本格ミステリのような導入である。しかしそこは西村寿行、閉鎖空間での殺し合いになるかと思いきや、突如として現れたニホンオオカミの群れが、疑いあい争おうとしていた彼らを襲う。絶滅を免れた最後の群れは狂犬病に侵されて理性を失い、脱出を試みた者をことごとくその牙にかける。

 ある種ミステリ的なお約束へのアンチを感じなくもないが、単に動物小説を書きたかったのかもしれない。それぞれの人間ドラマが容赦なくニホンオオカミによって断ち切られていくところは類を見ない迫力がある。優れた頭脳を持つ銀行強盗も一匹狼の刑事もなかなか良いキャラで、もっと対決が見たかったところ。

 

 

山田正紀『アフロディーテ』B+、赤川次郎『静かなる良人』B+

【最近読んだ本】

山田正紀アフロディーテ』(講談社文庫、1987年、単行本1980年)B+

 ある建築家の思想にもとづきつくられた、海上の理想都市アフロディーテ。その栄枯盛衰の歴史を描くという点では、正直おもしろくもなんともない。それが、アフロディーテに夢を託して移住した若者の、18歳から30歳までの物語に重ね合わされることで一変する。個人の青春とその終焉の物語が、文明の行く末とオーバーラップする大河小説になるのだ。比較的短めなこともあり、一編の青春の叙事詩を読んだ気分である。

 

赤川次郎『静かなる良人』(中公文庫、1985年、単行本1983年)B+

 浮気をしていた妻が家に戻ると夫が血まみれで倒れており、知らない女性の名前をつぶやいて息絶えた。彼女は夫殺しの嫌疑をかけられ、世間の冷たい眼にさらされながらも真相を追う。その中で彼女は、真面目な面白味のない人間だと思っていた夫の、思いがけない「裏の顔」を知ることになる……

 いくらでも暗くなりそうな話だが、あまり深刻にならずにすんなり読めるところはさすが赤川次郎である。怒りに我を忘れることもあれば、どうしようもない事態に自棄になってしまうこともあるのだが、すぐに立ち直って行動に移っていく。80年代のヒロイン像としてはかなり斬新だったのではないだろうか。

 夫が死んだことで知らなかった彼の一面を知り、初めて彼のことを好きになっていくというのは哀しいことであるが、大事な彼を失った周りの人々が、よくもわるくもそれぞれの人生を歩み出すことを過不足なく描き出して、赤川作品の中でも完成度の高い長編であると思う。

 しかし、このタイトルはショーロホフの『静かなるドン』に掛けているのだろうか?

山田正紀『謀殺のチェス・ゲーム』A、ロバート・アスプリン『銀河おさわがせ中隊』B

【最近読んだ本】

山田正紀『謀殺のチェス・ゲーム』(ハルキ文庫、1999年、単行本1976年)A

 人をゲームに見立てたタイプの物語はなんとなく食傷していたので読んでいなかったが、これは面白かった。何者かに奪われた自衛隊の最新型哨戒飛行機の行方を突き止めるため、立ち向かうのは新戦略専門家(ネオストラテジスト)たち。ゲーム理論を駆使して状況の分析・作戦の立案を行う彼らは、自分たちが戦っている相手もまた新戦略専門家に他ならないことに気づいていく。

 非合理なものを徹底的に理論的に追い込んでいく快感、そしてそれが不確定要素によりひっくり返されることのマゾヒスティックな嗜虐の連続で、息もつかずに読み切った。いったいこれでどう収拾をつけるのか心配になってしまったが、冒頭のやくざの抗争がこうやって効いてくるというのは感心してしまった。最後のやや皮肉めいたエピローグも良い。

 

ロバート・アスプリン『銀河おさわがせ中隊』(斎藤伯好訳、ハヤカワ文庫、1992年、原著1990年)B

 落ちこぼればかりのダメ中隊の指揮官になった男の物語――というとよくあるものだが、この主人公の正体が銀河最大の兵器会社の御曹司なのである。自信たっぷりで、それに見合う能力もあり、コネと金を惜しみなく使って大活躍をはじめる。果たしておもしろいのかどうか読んでいて自分でもよくわからないのだが、とにかく今まで読んだことのなかったタイプのお話ではある。続きも読んでみる予定。

 

 

アンダースン&ビースン『無限アセンブラ』B-、フリーマントル『消されかけた男』B+

【最近読んだ本】

アンダースン&ビースン『無限アセンブラ』(内田昌之訳、ハヤカワ文庫、1995年、原著1993年)B-

 ナノテクSFの代表作――だったと思ったのだが、読んでみたらそうでもない。月面で謎の死亡事件が相次ぎ、それがナノマシンの仕業だったと判明して、人類がそれに立ち向かう、という筋だが、結局のところ起こることもやることもパンデミックものと変わらず、えらく古い小説を読んでいる気分になった。ナノテクSFがいまいち流行らない原因が見えた気がする。

 

フリーマントル『消されかけた男』(稲葉明雄訳、新潮文庫、1979年、原著1977年)B+

 フリーマントル新潮文庫トム・クランシーなどと並んでブックオフにたくさんあった作家で、そのためかえって侮ってしまうところがあって読んでなかったのだが、気まぐれで手に取ってみたら面白かったのだった。

 主人公のチャーリー・マフィンは英国情報部員、だいぶ年を食って見た目も冴えない男で、若手からは老人とバカにされ、新しく来た上司にも煙たがられているが、実は誰よりも鋭い分析力と行動力をもつ。本来なら失敗続きの英国情報部を誰も知らぬうちに支えているのがこの男なのだ。

 物語はチャーリー・マフィンのカッコよさと同僚や上司の無能さを見せつつ、冷戦構造を揺るがすようなソ連高官の亡命計画へと進んでいく。このあたりのCIAも巻きこむ熾烈な頭脳戦は、今読んでもなかなかに面白い。その中でいかにしてチャーリー・マフィンが勝利をつかんでいくのか、いかにして虐めてきた情報部員に復讐するのか、やや陰湿なピカレスクになっている。

 スパイ小説というのは、ジェームズ・ボンド流の「酒と女の情報小説」と、ル・カレやレン・デイトンなどによる国際情勢を背景とした文学路線の二極があるというのはよく言われるものだが、本作はその両方が盛り込まれた優れたスパイ小説であるといえる。

 これを読んで、あわててブックオフに行ってみたものの、もうフリーマントルの小説はほとんど置いていないのであった。気づくのが遅すぎた。