ブログ『鴨着く島』−邪馬台国九州説・神武東遷実在説・任那実在説−

今年になって松下高明さんが主催する『鴨着く島』http://kamodoku.dee.cc/index.html
という研究会のHPを見つけた。
感服した!!!
細かい異見はあるものの、ほぼ完全に説得された。
これでファイナルアンサーじゃね。

邪馬台国真論―まぼろしの月支(つくし)国

邪馬台国真論―まぼろしの月支(つくし)国

奴国と狗奴国

ときどき奴国・狗奴国について考える。
どうしてこの問題はあまり話題にならないのだろう?
古代大型集落が発見されたなら邪馬台国と同時に奴国を疑うべきだろう。
 
・ 57年:奴国は漢に外交官=太夫を派遣し金印をもらう。★
・107年:奴国から「倭国王」スイショウ(帥升)が遣使朝貢
・172年:ヒメミコ生まれる。
・178年:倭国大乱。
・184年:ヒメミコ共立。戦争終わる。
・220年:魏建国。
・238年:ヤマトのヒメミコ(卑弥呼)がナシメ(難升米)を魏に送り倭国王と認められる。金印をもらう。★
・240年:魏皇帝、2代皇帝即位に際し出張所(帯方郡)から倭に人を送って倭国王認定を継続することを示す。
・243年:ヤマトのヒメミコ、太夫を魏に遣使朝貢
・245年:魏皇帝、出張所から倭に人を送り軍旗を与える。
・247年:狗奴国の副官クコチヒコ(狗古智卑狗)が朝貢するが卑弥呼の使者が邪魔をする。
      魏の大使張政が軍旗を携え倭国に至りナシメと会見。
・248年:ヒメミコ死ぬ。76歳。騒乱起こる。
・249年:ヒメミコを継いだトヨにより張政は魏に帰還。報告の中で狗奴国はヒミコ支持の奴国の南と報告。
・264年:狗奴国降伏。
・265年:トヨが晋に遣使。★
・1778年:志賀島で金印発見される。
 
奴国の位置であるが、志賀島がポイントになる。
志賀島海上交通の要所、安曇氏の聖地である。
安曇氏のネットワークは全国に連なる。
つまり地中海におけるフェニキアのような連合国家だったと考えられる。
奴国の官職名、シマコ、ヒナモリ(兕馬觚・卑奴母離)は、海上交通長官と都市長を意味すると思われる。
 
張政はヤマトの外交機関のある北九州大宰府あたり(伊都国)にしか滞在していない。
倭国の地理情報は伝聞で、前提として日本列島が東西ではなく南北に伸びていると想定している。
すると東南の奴国は実際には東北にあたり、出雲に比定できる。
 
というわけで、漏れの結論は、出雲=奴国。
 
最初は出雲の奴国が日本を統治していた。
大和は後から北部九州から瀬戸内海を領分として成長。
覇権を賭けて争うが決着付かずいったん休戦、ヒメミコを共立する。
だがヒメミコは勝手に魏に朝貢倭国王に認定される。
これでまた戦争となるが、こんどは奴国連合のうち出雲がはやばやと大和に帰順。
このときに多数の剣は大和に献上され金印は聖地に埋められた。
奴国の残りは東国を拠点に抗戦する。これが狗奴国と呼ばれる。
やがて古代の小田原攻めを経てついに陥落、大和による全国統一がなされる。
この報告に晋に遣使。
  
なお、そもそもなんで奴国は漢に遣使したのか?
それは軍事的な理由しか考えられない。
なんらかの危機があったのだ。
それは大和の前身たるある一族による大和平野の占領だろう。
そのヒーローこそイワレヒコ=神武天皇だっと思うが、それはまた別の話。。
  
追記)
さらにいうと、このあたりの史実が日本書記・古事記の神代記に残響している気がする。
出雲といえばスサノオで、スサノオ兵主神であり、
なんでスサノオが海を治めろといわれるかといえば、海人族だからでしょう。

   

山谷周辺

 

 
宮下忠子「思川 」
http://www.maroon.dti.ne.jp/~satton/bungaku/omoigawa.html
丹下拳闘クラブを探せ!
泪橋周辺探索 『あしたのジョー』ツアー
http://kingfoolishdream.yokochou.com/Q1010home.htm
http://kingfoolishdream.yokochou.com/Q1010-02-2.htm
東京ウォーキング(吉原、浅草へ)
http://blog.maapallo.jp/?eid=192
吉原・浅草旧跡巡り

http://blogs.yahoo.co.jp/norburyjp/30216539.html
http://blogs.yahoo.co.jp/norburyjp/30259127.html
http://blogs.yahoo.co.jp/norburyjp/30324783.html
http://blogs.yahoo.co.jp/norburyjp/30368957.html
http://blogs.yahoo.co.jp/norburyjp/30704511.html
http://blogs.yahoo.co.jp/norburyjp/30785954.html
http://blogs.yahoo.co.jp/norburyjp/31286629.html
http://blogs.yahoo.co.jp/norburyjp/31322538.html

四道将軍

 

 


 
最北の畿内型古墳、未盗掘で発見 日本海の王、ヤマト政権と同盟
2012.9.6 14:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120906/wlf12090614000011-n1.htm
 
 新潟県胎内(たいない)市にある「城(じょう)の山古墳」(4世紀前半)から、長大な舟形木棺や矢を入れる靫(ゆぎ)、刀剣、銅鏡などが未盗掘の状態で出土し同市教委が6日、発表した。北部日本海側では例のない、ヤマト政権期の畿内的要素を持っており、市教委は「初期ヤマト政権と同盟関係にあった王の墓」とみている。この時期、畿内の影響は能登半島付近までしか確認されておらず、専門家も「ヤマト政権の北限が書き換えられる発見」としている。

ヤマト政権、もっと広大な勢力か

 城の山古墳は同市大塚にある全長41メートルの楕円墳。主体部から長さ8メートル、幅1・4〜1・8メートルの舟形木棺が見つかった。人骨片も残り、頭部を北東に向け、木棺やそれを覆う粘土には多量の赤色顔料(水銀朱とベンガラ)がまかれていた。

 副葬品は直径9センチの小型銅鏡やヒスイの勾玉(まがたま)、ガラス玉、銅鏃(どうぞく)など畿内の古墳にみられる遺物が残っていた。靫は鮮やかな黒い漆塗りだった。築造時期は4世紀第2四半期(316年−330年)。

 市教委は「ヤマト政権と同盟関係があったため築造を許された」としている。日本海側で畿内と深い関係を持つ前期古墳は、石川、富山両県までしか確認されていない。
 
 日本書紀には、第10代崇神(すじん)天皇の10年、北陸道を治めるため四道(しどう)将軍の一人、大彦命(おおひこのみこと)が派遣されたと記される。同古墳は、四道将軍伝承に象徴される日本海側での政権の勢力伸張を裏付ける遺跡といえそうだ。

 福永伸哉大阪大学教授(考古学)の話「邪馬台国の女王・卑弥呼の没後、数世代しかたってない4世紀前半のこの地に、これほど畿内色を持った古墳が築かれていたことに驚いた。ヤマト政権の勢力伸長の理由は、農具や武器の材料の鉄を独占的に供給できたことだろう」

 【用語解説】ヤマト政権 大和朝廷との呼称が一般的だが、近年は国としての大和を越えた広域の連合王国だったとの見方が広がったことなどからカタカナ表記が普及している。卑弥呼邪馬台国後の、3世紀後半から7世紀前半にいたる古墳時代に、奈良盆地など近畿地方を中心として本州、四国、九州に勢力を伸ばしたことが、遺跡などから確認されている。

陰部をみせる踊り

兵頭二十八 2012/08/30
岡田啓介海軍兵学校を卒業した直後(明治22年)の練習航海で、サモアパゴパゴ港に上陸した。そこで、原住民の若い女たちが、歓迎の踊りを見せてくれたのだが、それは腰巻を持ち上げて裸体を見せるものであったのでまったく困った、と回想している。天の岩戸の前でのダンスとは、このようなものだったのだろう。天皇制のルーツを発見したのは、日本人ではなく、米国のルース・ベネディクト女史だった。米国が前世紀からサモアやハワイに関与していたおかけで、そんなフィールド・ワークが可能だったのだ。