自由についてちょっと考えてみた

本日は趣向を変えて…自由について思うことをダラダラと。「自戒」ではないのでこのブログには相応しくないのかもしれませんが、まぁ、いいや。「ほぼ日刊イトイ新聞」で糸井重里さんがこんなテキスト(3月10日の今日のダーリン)を書かれていました。

・唐突に言うんですけどね。
 罪を犯した人が裁かれて、
 刑務所に入るという罰を受けます。
 
 刑務所にいても、食事はあるわけですし、
 トイレも許されているし、病気にも対応してもらえる。
 制限されるけれど入浴や運動も、
 いちおう保障されてはいるのですから、
 もしかしたら塀の外で苦労している人からしたら、
 「そっちのほうがいい」と見えるかもしれません。
 死んじゃう心配をしなくてもよさそうですから。
 
 でも、刑務所にいるのは「懲らしめ」なんですよね。
 なにかが決定的に奪われてしまうという罰です。
 そのなにかというのは「自由」ってものなんですよね。
 自由を奪うという罰を受けているわけです。
 「自由」なんて、とても観念的なことばだし、
 目に見えないし、触ったりもできないし、
 どこからどこまでが自由で、どこからが不自由かなんて、
 なかなかわかりづらいことなのですが、
 あきらかに自由というものは「ある」んですよね。
 憲法でも、とても大事なものとして扱われています。
 
 にもかかわらず、「自由」って、
 真剣に生きていくためには必要ない「甘え」
 みたいに、思われているような傾向があるなぁ
 と、思ったんです。
 
 「自由」というのが、ものすごく大事なことなんだって、
 そういえば、ちゃんと習ってなかったですよ、ぼくも。
 岡本太郎の本が、いまの若い人たちに売れているのは、
 強く「自由」の重みを語っているからかもしれないな。

これを読んで考えた事をダラダラと書いてみます。


さてさて、まず私が最初に思ったことは、刑務所とは「自由を奪う懲らしめの場」ではなくて「社会に適応できる人材を作り出すための再教育の場」なのではないかな、ということ。それの一環として「自由を奪う」というカリキュラムが設定されているだけなのではないか、と。もちろんここでの教育は犯罪を犯した者のために行っているのではなく、あくまでも「社会」にとって迷惑でない人材を作り出すための強制的な教育です。

私にはどうにも日本という国が用意する「教育」とは全てそのような側面を内在しているものだと思われてなりません。それはもちろん学校教育においても同様です。個人のために行っているのではなく、国家のために役立つ人材を作り出すための教育。それを行う場が学校というわけです。*1トップダウン形式の日本国家という社会*2に役立つ人材を育成するためには、その者に自由という概念を教えてしまってはいけないのでしょう。各々が自由に行動してしまえば、その管理はとても大変なものとなってしまいますから。

以上の理由から私達日本国民は過去「自由」というものを教えてもらう事がなかったのではないでしょうか? 自由な人々は管理する事が出来ないので、上に立つ者=権力者にとってはとてもジャマな存在だったのでしょう。下手をすれば寝首をかかれてしまう可能性だってあるわけですから。

この考え方が正しいとするならば「国の行う教育=国にとって都合のいい人材を作り出すための洗脳」と認識して問題ないでしょう。それによって作り出されるのは日本国家にとって都合のいい「自由をしらない」兵隊達です。

さて、そんな状況で私たちが「自由」というものの存在に気付くためにはどうすればいいのか? 国の教育には頼れません。国には「自由」を国民に教えるメリットがありません。であれば結局のところ、その存在の大切さにどうにかして気付いた人々が声を上げるしかないのではないかと思います。その結果がどうなるのかはわかりませんが、まぁ、どうにかなるんじゃないでしょうか。要するに国家に対する反骨精神を叫ぶ…あら、これってロックンロールですね。カッコいいですね。

そんな事を思いました。

※余談ですが「自由の国アメリカ」って不思議な言葉ですよね。国という制度を作ってしまうと自由は確実に阻害されてしまうと思うのですが、アメリカはそうでもないのでしょうか。私にはワカリマセン。

*1:不勉強ゆえに私は本来の学校教育の意義等を勉強した事はないのですが、実際に学校教育を受けた身としての実感はこの通りです。

*2:これも私の実感でしかありませんが。

世界はそれを議論と呼ぶんだぜ

自分と異なる意見を表明する人に会うと、どうも感情的に反発してしまい「その人の考え方」ではなく「その人自身」を批判してしまいがちです。今回はそれを防ぐための考え方について記述します。


物事を円滑に進めるためには「和」が大切だと言われています。「みんな仲良く、円満に」が標準的な日本人の考え方なのでしょう。確かに、私もその考え方は基本的に間違っていないと思います。「仲良く」するためにはお互いがお互いを信頼する必要があり、人類全てが人類全てを信頼する社会。それは全ての人類にとってとても住みやすいものとなるでしょう。すなわち、究極的な理想として「みんな仲良く」は素晴らしい標語となりうる可能性が高い。
しかし、「みんな仲良く」するための方法論というものについて考えると、これは非常に難しい事なのではないかと思われてなりません。

「出る杭は打たれる」ということわざがあります。
出る杭…すなわち多数派の意見に対してそれとは異なる意見を述べる者。その者は安定していた社会*1に対し揺さぶりをかけます。その者は当たり前の常識に対して疑問を投げかけます。これは、それが起こった場合の状況をメタファーにより表したことわざです。

  • 「外国人に参政権を与えるべきだ」
  • 派遣労働者の地位を向上させるべきだ」
  • 「お金を稼ぐ事は悪い事なのですか?」


基本的に人は変革を嫌います。揺さぶられる事を嫌います。だから、出る杭は打たれるのです。出る杭が存在しなくなれば、すなわち揺さぶりも収まります。ある価値観に支えられた安定した社会に戻ります。
安定した社会はそこに住むものに安心感を与えます。そこはその社会に順応した者にとっては非常に住みやすい世界です。そこでは「和」が保たれています。同じ価値観に支えられた人間同士がお互いにお互いの考え方を信頼しています。それは当然です。同じ価値観の持ち主同士なのですから、そもそも疑いようがありません。

しかし、実際のところ、その「和」は本当の意味で「他者を信頼しあった結果生まれた和」ではありません。「他者」…すなわち「出る杭」を排除した結果、生まれた「和」に過ぎません。それは「みんな仲良く」ではないのです。出る杭が仲良く出来ていないのです。

そして、もっと言ってしまえば本当は個々の人間同士は全て他人です。よって、本当の意味では全ての人間が「出る杭」なのです。同一の存在などこの世には存在しません。しかし、表面上は人はそうではないように振舞います。争いを、変化を恐れているからです。
変化を避けるために「出る杭」は自らの意見を殺し、多数派の意見に迎合します。そうして日本社会では偽りの「和」が蔓延する事になるのです。

このような場では誰の価値観が多数派になるのか? それはその場において最大の力を持つ者の価値観です。強い者とその価値観に迎合する人々によって作られた安定した社会。確かに一見してそこには「和」が存在するように見えます。争いは起きません。しかし、その社会は「みんな仲良く」していると言えるのでしょうか? 私はとてもそうとは言えないと考えます。その社会は「力」に支配された、「力」を持たざるものにとってとても生き辛い社会です。そこに「信頼」などは存在しようがないでしょう。

異なる価値観を持つ個人が「信頼」しあうためにはどうすればいいのか? そのためにはお互いが変革しあうしかありません。Aという価値観とBという価値観をぶつけ合い、お互いが納得するCという価値観を作り上げるしかないのです。確かにそれを行うためには一時的に争いが発生します。波風が立ちます。涙を飲む人が生まれるかもしれません。しかし、その争いの後には「みんな仲良く」する事が可能な社会が生まれるはずです。そこには「和」が存在するはずです。

全ての人間は出る杭です。力に迎合するのはやめましょう。変革を恐れるのはやめましょう。衝突は必ず発生します。それら全てを受けいれましょう。その先には今よりも多くの人々が生きやすさを感じる社会が作り上げられるはずです。

*1:本文の社会とは「複数の人間によって構成される場」を指します。よって、例えば男性Aと女性Bのカップルなども本文においてはひとつの社会と認識されます。

優しい人の処世術

世の中には「優しい人」が沢山います。しかし、不幸な事に優しければ優しいほど彼らは他者から傷つけられ思い悩むという結果に落ち入ってしまっています。その状況を打破するために私の考える心構えを記載したいと思います。


恐らくほとんどの日本人は義務教育期間中に「人に優しく」と教え込まれた事だと思います。確かにそれは正しい。素晴らしい教えです。ただし、それが全ての子供にキチンと教えられたとは言えないでしょう。
世の中には悲しいことですが人を人とも思わぬ「優しくない人々」が存在します。
彼らは他者に対して人権を認めていません。他者の人としての尊厳を踏みにじっても良心の呵責を覚える事がありません。なぜならば彼らが蹂躙するものは彼らにとって自らと同じ人間ではないからです。
人間は人間以外のものに対してはどこまでも残酷になれます。牛を殺し、血を抜き取り、皮を剥ぎ、肉を切り刻み、パックにつめ、陳列し、焼いて、食べます。そのくらいの事は誰しも平気で行います。なぜならばその対象が人権の認められた存在ではないからです。牛がいくら苦しもうが私たちには関係のない事です。どのような人間も飢えから逃れるためならば牛に地獄の苦しみを与える事が出来ます。それをしても誰からも罰せられません。ならば人は生きるためにそれを行います。
「優しくない」人々にとっての人間とは「優しい人々」にとっての家畜程度の価値しかありません。「優しくない人々」にとって他人とは自分が生きるための糧であり、踏み台です。ですから彼らが生きるために他者を冒涜するのは至って自然な行為なのです。
そして、悲しい事に「優しくない人々」の餌食になるのは決まって「優しい人」です。「優しい人」は他人を傷つけません。反撃をしません。だから「優しくない人々」は「優しい人」を攻撃します。「優しくない人々」にとって「優しい人」は格好のストレス発散道具…要するにサンドバックなのです。


なぜ「優しくない人々」が「優しくない人々」として育ってしまったのかについては色々な理由が考えられますが、それについては学者さんに任せたいと思います。「優しい人」にとって重要な事は「優しくない人々」が少なからずこの世に存在する事を自覚する事です。
そして「優しくない人々」に優しくするするのをやめることです。「優しくない人々」に優しくしても彼らはそれに対して何の感謝の念も抱きません。それどころか優しくされた事に味を占めた「優しくない人々」は「優しい人」を徹底的に利用するようになるでしょう。ですから「優しくない人々」に優しくしてはいけません。「優しくない人々」に優しくするのをやめれば彼らは「優しい人」を利用価値のない人間だとして「優しい人」から離れていきます。それを寂しく感じてはいけません。「優しくない人々」も同様に「優しい人」には利用価値のない存在だからです。「優しくない人々」は「優しい人」に何のメリットももたらしません。そんな関係は断ち切ってしまいましょう。


「優しくない人々」には優しくしない。「優しい人」には今まで通り優しくする。それが私の考える「優しい人の処世術」です*1

*1:それでも「優しくない人々」に関わりたいという「優しい人」は「優しくない人々」に戦いを挑まなければなりません。そして「優しくない人々」の人間性を根幹から変え、彼らを「優しい人」へと変革させなければなりません。これはただの「優しい人」には出来ない事です。「優しい人」かつ「力のある人」でなければ実現できません。過去、それを行う人々は自らを聖職者と呼称し、子供たちに教育を行っていました。今は存在しないその人々はそう呼ばれるほど尊く、難しい所業を行っていたのです。それは「処世術」の範疇を越えています。ですので今回のエントリではそれについては割愛させていただきました。

他の価値観を貶めないために

自分の好きなものを肯定するために、他を否定するという対人戦略があります。私も時に軽い気持ちでこれを行ってしまう時があります。
しかし、私はこれは自己にとっては無為な、他者にとっては迷惑な行為だと思うのです。


各々には、それぞれの価値観…すなわち基準付けが存在しています。大きなものを好む人、小さなものを好む人…それぞれにそれぞれの価値判断のためのルールがあり、それは互いに矛盾するものではなく、どちらにも正当性があります。
例えば卑近な例として音楽ジャンルの好みで説明すれば「クラシックが好き」という価値観と「ハードロックが好き」という価値観は矛盾せずに共存する事が可能です。なぜならばクラシックにはクラシックの良さが、ハードロックにはハードロックの良さが存在するからです。もちろん、クラシックにはクラシックの問題点が、ハードロックにはハードロックの問題点が存在する事も十分に考えられます。しかし、それは各々のジャンル固有の問題点であり、他のジャンルとは関係ありません。あるジャンルの問題点を指摘しても、他のジャンルの問題点が解決するわけではありません。
だから、ある価値観を否定したとしても、それはその価値観が他の価値観よりも劣っている=他の価値観がその価値観よりも優れているという事の証明にはなり得ないのです。


これはとても当たり前の事実であり、この事を認識しさえしていれば冒頭で紹介した対人戦略を行ってしまうという愚を冒す事はなくなるでしょう。また、他者からこのような対人戦略を持ちかけられたときにも、冷静な対応が取れるようになるはずです。

表現する前にちょっと考えよう

文学作品において「誰に」「何を」「どうやって」伝えるか、はかなり重要な事だと思います。
一番重要だと言ってもいいかもしれない。
確か、私が今まで読んできた「小説の書き方」とかにもそういう風に書かれていたはずです。


これは別に文学に限った事だけではないと思います。
歌でもそうでしょうし、演劇でも舞踏でもブログでも会話でもそうでしょう。
あらゆる表現において上記3つは重要な事なのだと思います。


しかし、何かを表現する場合において、往々にして私は「どうやって」伝えるかに主眼を置いた考え方をしてしまうクセがあります。


確かにどうやって伝えるか、という事は非常に重要です。
「この人に○○を伝えたいんだ!」という熱い想いがあったとしても、その方法論を間違ってしまっては他者に何事かを伝える事は不可能です。


例えば、AさんがBさんに愛の告白をする場合。(AさんからBさんに好意を伝える場合)


成功例
Aさん「僕はあなたが好きです!」
Bさん「嬉しい!」


とても簡略化しましたが、基本は上記の通りのはずです。


失敗例
Aさん「あの…その…ぼ、僕は…あのたなgなあた・・・(あたふた)」
Bさん「・・・? (なんだこの人、気持ち悪いなぁ…)」


これでは好意を伝えるどころか、悪印象をもたれてしまいます。
このように表現を伝えるための方法論というものは大変に重要です。


しかし、かといって表現方法だけに精通しても、伝えたい事、伝えたい人、が不在の場合にはその表現には意味がなくなってしまいます。むしろ害があるとも言えるかもしれない。


Aさん「僕はBさんが好きです!(ウソだけど)」
Bさん「嬉しい!」
Aさん「僕はCさんが好きです!(ウソだけど)」
Cさん「嬉しい!」
Aさん「僕はDさんが好きです!(ウソだけど)」
Dさん「嬉しい!」
Aさん「僕はEさんが好きです!(ウソだけど)」
Eさん「嬉しい!」


その後…


Bさん「Aさんが好きなのは私よ!」
Cさん「私よ!」
Dさん「私よ!」
Eさん「私よ!」



Aさんが不要な表現を行ったばかりに、不毛な諍いが起こってしまいました。


表現方法を磨く事はとても難しく、重要です。
しかし、そればかりを磨いていると、いつの間にか一番重要だったはずの事を忘れてしまうかもしれない。
一番重要なことを欠いた表現は、意味が無いばかりか、もしかしたら悪い結果を招いてしまうかもしれない。


誰に、何を伝えたかったのか?*1
なんらかの表現をする前には、必ずこの事を思い出してから行いたいと思います。

*1:もちろん、伝えるべきではない想いというものもあるはずです。例えば「○○を殺したい」など。それは表現しない方がいいはずです。その判断も、誰に何を伝えたかったのか?という事を考えれば自ずと出来るのではないかなぁ…と思う。

はてな、おもしれー

愛・蔵太さん(id:lovelovedog)のエントリ「まさか「兄の人生の物語」をリアルだと思って読む人がそんなにいようとは」で佐山 27歳(id:asianshore)さんのエントリ「兄の人生の物語」に対する私のブクマコメが紹介されてました。


おぉ、はてなすげぇ。
こういうブックマークコメントにも反応がつくんだ。


てか、その中でこんなメタブックマークが紹介されてるんですが

2007年12月10日 gnt fuck なんつーか、こんなクソリアル風が受けちまってasianshore氏も痛し痒しだな。ケータイショーセツを笑えるのかブクマ村民は。


俺、ケータイショーセツを笑ったことなんて一度もないです(^ω^;)
どんな表現方法だろうと、何かを創作する人には素直に尊敬の念を抱いています。俺は。
そこはご理解いただければ幸いです。


書いた事に対して反応が返ってくるのって、面白いなぁ。



※追記

上記のエントリを読んで、私は「面白い話であればそれがフィクションだろうと実話だろうと、私にとっての価値は同じ」だと考えているという事に気が付きました。
これはなかなか面白い発見です。私一人では恐らく気が付かなかったと思います。
愛・蔵太さんには多大なる感謝の意を表明させていただきます。ありがとうございました。

僕の考える他者とのコミュニケーションにおいて必要な心構え

人とコミュニケーションをとる事はとても難しい。

なぜかと言うと一人ひとりが思っている「常識」というものがまさに十人十色であるからだ。
一人ひとりがその「常識」を基に話す。

困った事に日本人はほとんどの人が「日本語」という共通のツールで会話を行うから、自分も相手も同じ認識で物事を語っていると思っている。*1

でも、実際はそうではない。
一人ひとりが違う環境の下で育ち、違う経験をしてきている。

だから、同じ「花」という言葉でも、それを聞いて思い浮かべるのはそれぞれ違う「花」であるはずなのだ。
ある人は満開の向日葵を思い浮かべるかもしれないし、ある人は一輪のバラを思い浮かべるかもしれない。*2

「花」くらいだったら認識に差があっても大した問題にはならない。
でも、これが「片付ける」や「伝える」などの日常生活に深く関わる行為や「愛」なんていう抽象的なものになると大変な事になる。

ある人は整理整頓をする事を「片付ける」と認識しているのかもしれないし、ある人は「処分する」=「片付ける」だと認識している人もいるかもしれない。*3

この認識のズレがディスコミュニケーション*4を引き起こす。


例えば先ほど例に出した「片付ける」という言葉を使った「アルファ君」「ベータ君」の場合。


アルファ君「ねぇねぇ、ベータ君、ちょっとお願いがあるんだ」
ベータ君「なんだい?」
アルファ君「今から彼女を自宅に招待するんだ。それで僕は今から彼女を迎えに行ってくるから、悪いんだけどキミは僕の部屋のものを【片付け】ておいてくれないか? 後で焼肉でもおごるからさ」
ベータ君「焼肉か。よし、交渉成立だ。キチンと【片付け】ておくよ」
アルファ君「ありがとう、恩に着るよ」


30分後、駅前にて…


彼女「ねぇねぇ、私からの誕生日プレゼント、ちゃんと使ってくれてる?」
アルファ君「あぁ、【今日からキミも小島よしお! オッパッピー海パン】だろ? ちゃんと使ってるよ」
彼女「本当!? うれしい! じゃあ、家に着いたらはいてみせてね!」
アルファ君「お安い御用さ、ハッハッハ…。」


アルファ君の家に到着…


彼女「ねぇねぇ、早くはいて!」
アルファ君「そんなに焦るなよ、ちゃんとここに……アレ!?」
彼女「どうしたの?」
アルファ君「いや、そんなはずは…キチンとここにおいてあったのに…アレぇ!?」
彼女「もしかして…無くしたの!? ヒドいわ! 三日三晩、一睡もせずに糸から採取して作ったのに! さよなら!」
アルファ君「アレ手作りだったの!? てか、海パンなのに糸って海水しみこむ…いや、今はそんな事より……まって、いかないで!! お願いだ、待ってくれ! え、ちょ、リアルに足速いんだけどあの娘…! ま、まって…ぜぇぜぇ…!」
彼女「アバヨ!」
アルファ君「なぜ…去り際が柳沢慎吾…ぜぇぜぇ…」


10分後、焼肉屋にて…


アルファ君「ベータ君! どういう事なんだ!」
ベータ君「どうしたんだい? そんなに血相を変えて…キミもナムルでも食べて落ち着きなよ。どうせキミの奢りなんだ」
アルファ君「どうしてキミはせっかくの焼肉なのにキムチだのナムルだのキャベツだの野菜ばっかり注文してるんだ! いや、そんな事はどうでも…」
ベータ君「真の贅沢とは焼肉屋で人に奢らせておきながら、あえて野菜を食べる事だと親から教えてもらわなかったかい?」
アルファ君「人の話を聞け! ベータ君、どういう事なんだ! 僕の部屋から彼女が三日三晩、一睡もせずに糸から採取して作った【今日からキミも小島よしお! オッパッピー海パン】が無くなってるぞ! それと、キミの親は変人だと思います」
ベータ君「あぁ、アレなら捨てたよ。汚かったんでね」
アルファ君「す、捨て…!? なんて事を!」
ベータ君「何を怒ってるんだい? 部屋を片付けろと言ったのはキミだぜ?」
アルファ君「確かに片付けろとは言ったが、誰も物を捨てろなんて言ってない! 僕は整理整頓をしてくれという意味で「片付けろ」と言ったんだ!」
ベータ君「それならそうと言ってくれないとわからないよ。僕はてっきり「いらないものを処分してくれ」という意味で言われたのだとばっかり…」
アルファ君「とにかく、金輪際キミとは付き合わない。キミのせいで彼女に逃げられてしまった。焼肉もおごらないからな!」
ベータ君「えぇ、それは困る。もう会計は24万円を越えてるんだぞ…」
アルファ君「どんだけ野菜食べたんだよお前!」


このようにある言葉の認識のズレは不要な争いを生み出す基となる。
これを防ぐためには、とにかく双方が密なコミュニケーションをとり、お互いの共通認識を増やしていくしかないだろう。*5


他者の心の内を覗く事は、エスパーでもない限り不可能だ。
であれば、完全なコミュニケーションなんて事も恐らく不可能だ。
でも、たぶん、限りなく完全に近いコミュニケーションは、それを行うものがそれを目指して努力すれば、きっと出来ると思う。


そのためには、自分の常識が相手の常識とイコールだと思わない事が重要なのだ。

*1:少なくとも僕にはそう思えるのだが、アンケートなどで調査した事はないから実際のところはわからないんだけどね

*2:あとはラフレシアとか

*3:どうでもいいけど、「片付ける」=「なおす」という方言はどの地域まで通じるのだろう

*4:ディスコミュニケーションって和製英語なんですって。外国人に「ディスコミュニケーション」って言うと、それこそディスコミュニケーションが引き起こされちゃうんだね。面白いね

*5:でもよく考えるとここでもディスコミュニケーションが発生する可能性は普通にあるのよね