祝日(こどもの日)。日曜日。
昧爽起床。晴。
最近、午前中が(比較的)いい気分で、それなので(?)午前中何もしない。夜は九時頃に風呂を出ると、(何もしていないのに)もう一日の精神的残余物というかが澱のように溜まって、しんどくてだらだらと YouTube などを見ながら寝ころがっているうち、灯りを点けたまま眠ってしまう。まったく、非生産的な日々である。
 
鶴は飛び、龍は起つ | 玄侑宗久公式サイト
 
 
Mozart: Symphony No.39 /Karajan Tokyo Live 1988 モーツアルト:交響曲第39番 カラヤン 東京ライブ 1988 | YouTube
1988.5.5 (どうでもいいが、期せずして36年前の今日である)のカラヤン東京公演のライブ録音である。モーツァルト交響曲第三十九番 K.543、指揮はヘルベルト・フォン・カラヤンベルリン・フィルハーモニー管弦楽団カラヤンは1989年に亡くなっているので、最晩年の演奏ということになる。ソースはテレビ放送の録画か、FMエアチェックか、音はあまりよくなく、細部の分離が悪い。
 カラヤンの晩年、八十年代のそれといっていいのだろう、は、これまでわたしはあまり注意していなかったし、たぶん一般もそうで、全盛期は七十年代ということになるのだろう。しかし、これを聴いてみると、まずは衝撃的なまでの巨大さにびっくりする。目が覚めた。七十年代のアクの強さは、影を潜めているが、強度も充分だし、なにより、いまの音楽(だけでないが)にない、「中身が詰まっている」感がひしひし。我々の「枯渇」が、とてもよくわかる。
 それで思い出されるのが、小澤征爾さんの発言だ。大江健三郎との対談で、小澤さんが「カラヤン先生は生涯成長されて」などといって、大江さんが「一般にはその反対と思われていますね」みたいな会話があったのだが(たぶん、いいかげんに覚えていると思う)、ははあ、小澤さんのいっているのは、これかと(勝手に)わかったような気になった。
 わたしは最近思うのだが、カラヤンを聴くのに大事(?)なのは、カラヤンの巨大さをよく認識して、特に領域の小さい音楽をやるとき、カラヤンがそれにどう合わせるか、というのに留意することがひとつあるだろう。シューマンとかの録音を聴いていると、カラヤン、しんどそう。でもここでは相手がモーツァルトであり、こういうのだと、カラヤンも全力を出せて、こちらは驚くことになる。
 しかし、我々の「枯渇」ってのはどうしようもない事実だが、さて、それがどういうことかとなると、正確に言語化するのはいまのわたしにはむずかしい。何故、(仮に巨大であってすら)精神の「枯渇」が避けられないのか。まあ、自分たちの貧しさに自家中毒を起こしているのは、ほんと多くがそうだと思うのだが。
 

 
辻井伸行さん 名門ドイツ・グラモフォンと日本人ピアニスト初の専属契約 | NHK | 音楽
おお、辻井伸行君、ドイツ・グラモフォンと専属契約かー。僕はニュースとかあまり見ないので、気づかなかった。衰えたとはいえ天下の DG、これで辻井君のことを認知・評価する人もいるだろう。わたしは辻井君、現在世界最高峰のクラシック音楽ピアニストのひとりだと思っているので、これは嬉しいニュースである。辻井君のすばらしい音楽が、これでさらに多くの人に届くにちがいない。
 
スーパー。あるブログ日記を読んで老母が「〆鯖が食べたい」とかいうので、大量に刺身類を買ってしまう。キュウリやかいわれ大根も買って、今夜は手巻き寿司だな。
 
 
昼。
NML で音楽を聴く。■モーツァルト交響曲第三十五番 K.385 で、指揮はオットー・クレンペラーフィルハーモニア管弦楽団NML)。クレンペラーって昔の指揮者ってイメージで、ほとんど聴いたことがない。これもモノラル録音なんだろうな、って先入観で聴いてみたら、ステレオ録音で音が充分よかった。演奏も(当たり前かも知れないが)知情合わさったよいもの。録音年代が知りたいのだが、ちょっとわからない。

シューマン交響曲第四番 op.120 で、指揮はヘルベルト・フォン・カラヤンベルリン・フィルハーモニー管弦楽団NMLCD)。1971年の録音。
 
 
U-NEXT で『辻井伸行 カーネギーホール・デビューLIVE《完全版》』(2012)を視聴する。
 曲はマストの インプロヴィゼーションとフーガ、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十七番 op.31-2、リストの「ため息」「リゴレットパラフレーズ」、ムソルグスキー組曲展覧会の絵」。アンコールは辻井伸行「ジェニーへのオマージュ」 op.1、ショパンの「雨だれ」 op.28-15、辻井伸行それでも、生きてゆく」。2011.11.10 のライブ録音。97分。
 いやーもう、すごすぎてめちゃめちゃ疲れた。感動というも愚か。「天才」という言葉は基本的に使っちゃいけないんだと思っているけれど、辻井君は天才というか、天使というか。まさか、「リゴレットパラフレーズ」で泣かされそうになるとは。「展覧会の絵」は、しんどくてこっちが壊れるかと思った。
 しかし、さすがカーネギーホールというか、いいお客さんたちで、辻井君も感動してボロ泣きしていたな。ライブを生で聴いた人は、一生ものの体験になったことだろう。

扶桑町の木曽川左岸へ

祝日(みどりの日)。晴。
昨日は一万歩歩いたくらいだと思うが、そんなので疲れてしまったな。
 
みかんと夏みかんの白い花がいっぱいに咲いている。いい匂い。みかんの木は寿命が来て半分枯れてしまったが、今年はその残りの半分に生(な)りそうだ。最後かもしれないな。
 
 
昼。
先日犬山を訪れた際、木曽川左岸(愛知県側)に木曽川を眺めるよさそうなポイントがあったので、ドライブも兼ねてひとりでいってきました。
 各務原大橋経由で愛知県へ渡って、お囲い堤ロードをずっと上り(新緑のトンネルがきれいでした)、愛岐大橋南をさらに越えたあたりで、堤防を降りて適当に車を駐めます。

扶桑町が整備しています。

木曽川、奥は各務原市の伊木山。

ちょっとわかりにくいですが、新愛岐大橋の建設が進んでいます。
 
もう少し上流へ行って、また車を駐めます。木曽川犬山緑地の近く。

上流方向を眺めます。奥は各務原市の鵜沼の町、左は伊木山。



伊木山のほぼ全体。

奥にライン大橋、右に小さいですが、国宝・犬山城天守が見えます。

犬山城天守

ノイバラ(野茨)。

後ろからブーンと飛んできて、首筋にがっちり留まったのでさすがにちょっと驚きました。車に入れるわけにもいかないので、下りてもらいました。ウバタマムシかな?

堤防を登っておしまい。
 
もっと下流木曽川扶桑緑地公園にも寄ってみましたが、ここは家族連れ向けの、遊具が置いてあるようなふつーの公園でした。川も見えず、人もたくさんなので、早々に退散。
 あとは犬山までいってライン大橋を各務原市へ渡り、市民プールの前のコンビニでポカリスエットを購入。外気29℃で、ほとんど真夏日でしたから、喉が渇いた。堤防道路を下って、緑の多い田舎道を帰宅。そうそう、堤防にオレンジのオオキンケイギクが咲き始めていました。
 

 
夜。
中国、フィリピン沿岸警備隊の船に放水 BBC特派員が同乗取材(BBC) - YouTube
米大学での「反ガザ攻撃デモ」、キャンパス内で何が 学生らの思いは(BBC) - YouTube
 
早寝。

老父の傘寿のお誕生会

祝日(憲法記念日)。晴。
 
(我々のいちばんの問題点は、「生きていない」ということだろう。生のリアリティが感じられなくて、どうして生きているといえるのか。恐ろしい時代である。「知」が生を殺すとは、既に散々いわれてきた陳腐な真実であるが、こんなことをあらためていわねばならないとは。象徴構造は、生のリアリティそのものに比べれば本当に貧しいものだ。
 善良さへの志向性。ってむずかしいことをいわなくても、ふつうに、素朴に善良に生きるということ。どうして我々は、マウンティングし、幼稚なナルシシズムを満たす、そんなことばかりしているのか。凡庸でいいのに。いわゆる素朴な無名の民衆、「地の塩」というものが、消滅した時代。インターネット、恐るべし、である。)
 
午前中、気分がよかったのでひさしぶりに一時間あまり散歩。陽射しが強くなってきたが、まだ快適に歩ける。世界がすばらしく美しく、いつもながらとてもカメラには収められない。

ゼニアオイ。


いつの間にか今年も用水に水が流れ始めた。

葦(アシ)。

ユウゲショウ、らしい。




矢車菊ヤグルマギク)。


レンゲ(蓮華)の咲く田んぼも少なくなったが。小学校への通学路とか、かつては一面にレンゲ田だったような記憶がある。


左下はシロツメクサ

アメリカフウロ、らしい。



わかりますかね、ジャガイモの花ですよ。



ムラサキカタバミ、らしい。

ニゲラ、らしい。


さくらんぼかな。




ガザニア、かな。

どこかのお宅の、すばらしい芍薬たち。




カタバミ


テッセン(鉄線)。
蝶やツバメが飛び回っている。
本当にいい日和で、歩いてよかった。こんな日はめったにない。
 


 
昼。
妹一家来訪。老父の「傘寿のお誕生会」をやる。ホールケーキを買ってきてくれて、「80」ってローソクも点けて、皆んなでハッピーバースディ・トゥ・ユーを歌う。妹夫婦、孫たち(わたしからすれば甥たち)、やさしーねー。老母が作った老父の「記念アルバム」を見て、笑い合う。さても、じい、長生きできてよかったねえ。
 
老母が夕食の用意をしている間、他の者たちは散歩。近所に大きな古墳が二つあるので、わたしが先導して一時間くらい歩く。なんか好評だったようで、よかったな。
 
夕食はいつものおばあちゃんの料理。もう(飲める人は)皆んなアルコールが入って、楽しくやる。上の甥っ子が学生なのはあと一年間だけだし、もうこんなことはないかも。平凡な幸せ、これでまったくいいのだと思う。これ以上、特に何もいらない。
 
夜。
風呂を出て一時間あまり眠る。

池川玲子『ヌードと愛国』

深夜起床。
 
NML で音楽を聴く。■ヴィヴァルディのフルート協奏曲 ニ長調 op.10-3 で、フルートはパトリック・ガロワ、オルフェウス室内管弦楽団NMLCD)。■ドビュッシーの「映像」第二集、「版画」、他で、ピアノはイヴァン・モラヴェッツ(NMLMP3 DL)。めったにないレヴェルのドビュッシー。何よりつつましくて、美しい。こんなピアニストがいたのだな、無知だった。■メンデルスゾーン交響曲第三番 op.56 で、指揮はパーヴォ・ヤルヴィチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団NMLCD)。これいい。パーヴォ・ヤルヴィ、きっちり聴かせてくれる。
 
朝食まで一時間うとうとする。
曇。
 
ハイドンのピアノ・ソナタ第十五番 Hob.XVI:13 で、ピアノはラルス・フォークトNML)。
 
晴れる。スーパー。ゴールデンウィークの谷間のせいか、客が少ない。
駐車場の上の電線でツバメが鳴いている。きれいな声。嘴(くちばし)でしきりと身を繕っている。もう一羽来て隣に留まる。
自分の部屋という暗い窖(あなぐら)へ帰ってくると、こんなところに閉じ籠っているとマジ(精神の)不健康だなと思う。
 
昼。
蜘蛛が天井から静かにつーっと降りてきた。いま、机の上を歩いている。見ていると何か不思議な感じ。
 
ひさしぶりに珈琲工房ひぐち北一色店。
ナボコフの『ディフェンス』を読み始める。若島正訳。ナボコフは小説がうますぎて、というか、わたしのレヴェルを超えていて苦手なのだが、これはなかなかおもしろい。
外気23℃で家の中だとまだ涼しいくらいだが、陽射しは強くなった。
 
庭。


キスゲ
 
図書館から借りてきた、池川玲子『ヌードと愛国』(2014)一時間ほどで読了。近代日本という国家(あるいはナショナリズム)と(主に女性)ヌードを絡み合わせて論じた本。フェミニズムの観点が強く入っており、知的でなかなかおもしろかった。こういう本を読むと、性的に古くさい時代遅れの自分を感じずにはいない(悪しき昭和の男性である)。例えばインターネットに氾濫する大量の女性ヌード画像に、わたしはきわめてナイーブな視点しかもっていない。自分の視線を解体、相対化していないといえるだろう。さて、若い世代の男性は、そのような視線を解体できているのだろうか。
 略歴を見ると、著者は若桑みどり先生に師事しているのだな。なるほど、と納得させられるところがある。

 
夕方、六時を過ぎてもまだ明るいな。
 
夜。
『僕の心のヤバイやつ 第2期』(2024)第19話(1期からの連番)まで観る。原作の感じがよく出てる。ここは原作でもいちばんいいところだからね。やっぱり第18話の卒業式の送辞のシーン、そのあとの、山田が気持ちを口にするところは感動的だった。
 たぶん、2期の最後は修学旅行の例のエピソードだろうな。原作はそのあともかなり健闘してたけれど、さすがに最近はダレてきて、惰性で読んでいるというのが正直なところ。さすがの『僕ヤバ』もあれがピークだったか。とにかく、2期はいいところなんだよ。
 
どうでもいいが、その送辞を読む前のシーン、市川が「自分で自分のことを好きになる」それって原作者が確かいっていたけれど、これめっちゃ今風だと思った。自分をなかなか好きになれないとか、若い人がよくいうよね。わかる、わかるんだけれど、「自分」なんて存在しない、関係性しか存在しないんだから、自分を好きとか無意味だろって、思わないでもない。まあ、理論的にはだけれど。

こともなし

昧爽起床。雨。
 
昼から雨の中、県営プール。外気が暖かくなってきたので、水温が低めにしてあった。

白いブラウスの女子高生が傘もささずに自転車を漕いでいた。降るという予報じゃなかったしな。
日野から抜ける井ノ口トンネルの上の山が、ツブラジイの黄金色の華に染まって美しい。
帰りに肉屋へ寄る。豚かたまり肉×3 など。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルトの 二台のピアノのためのソナタ K.448 で、ピアノはマリー=ルイーズ・ヒンリクス、クリスティアン・ツァハリアス(NML)。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十九番 K.465 で、演奏はベルチャ弦楽四重奏団NMLCD)。
 
精神のなめらかさ。
 
夜。風呂を出てすぐ寝てしまう。

中沢新一『構造の奥 レヴィ=ストロース論』

未明起床。暗い中で静かな雨の音を聞く。
瀧口修造のラディカルなシュルレアリスム詩を読んだせいだろう、なかなか消化し切れなくてしんどい。まあ、『まほあこ』のせいもないとはいえないが笑。
もう四時台から明るくなり始めるのだな。
七時まで二度寝する。
 
なんとなく Amazonコンデジ(コンパクトデジタルカメラ)を見ていたのだが、全体的にめっちゃ高くなったねー。わたしのもっている Canon PowerShot SX620 HS は 2018年に 2万円ほどで買ったのだが、同じクラスのだといまは 6~8万円くらいする。もちろんスマホが普及して、多くの人がスマホの高画質なカメラで撮影するようになったからだろうな。コンデジが売れなくなった。わたしのコンデジも画質ではスマホに敵わないが、高倍率光学ズームなど、使い勝手は悪くない。しかし、ものには買い時ってのがあるなー。
 

 
中沢さんの『構造の奥 レヴィ=ストロース論』(2024)第三章「構造の奥」を読む。驚くべき発想と、創造性。
『人が他の人と結びつくためには、お互いの心理のうちでこの互酬性が働いていなければならない。そうしなければ、人間はこの宇宙でたった一人、孤独のまま生きなければならない。この宇宙でなにかのつながりをつくりたいと思ったら、相手が人間であろうと動物であろうとかまわないが、相手にまずなにかを贈与しなければならない。すると贈り物をもらった相手は、互酬性の原理に基づいて、なにかのお返しをする(相手が動物なら好意を見せるようになるだろう)。』(p.125)
『…ここで互酬性の原理を重力の作用に比定するレヴィ=ストロースの喩えは、まことに正確で深い。互酬性には引力に似た力を発生させる原理がひそんでいる。引力は物質同士を引きつけ合わせるが、互酬性は人間同士を引きつけ、交換を発生させ、社会をつくりだす。天文学は重力の理論によって盤石な基礎が据えられている。それならば、人間科学の盤石な基礎は互酬性の理論の上に築かれることになるのではないか。私たちの求めている「構造の奥」は、この互酬性の内部に潜んでいるに違いない。』(p.127)
 もし、わたしが孤独にして誰とも結びついていかないとすれば、「社会」というものがなかなか理解できないとすれば、それはわたしに「贈与」が欠けているからかも知れない。わたしはまず、他人に何かを贈らねばならないのだ。では、わたしは何を「贈与」すればよいのか。それは、はっきりとわかっている(すべての人間がもっているものだ)。いずれにせよ、(現代社会でも)人と人の結びつきの底に(「重力作用」として)互酬性 reciprocity がある、というのは、まさに的を射抜いている感じがする。
 
『現代の天体物理学はきわめて高度なトポロジー数学を用いて、その特異点の中身を調べている最中である。それに比べれば私たちの人間科学が心の構造を調べるのに用いているトポロジーはあまりに素朴なものでしかなく、しかもそのモデルを提供してくれているのは、崩壊直前にあった双分制のような先住民社会からもたらされた、いわば人類最後の情報なのである。しかしその情報から、人間科学は心的宇宙の特異点の構造に踏み込んで行くことも可能である。それをもとにして、人類は行き先のまったく見えなくなってしまった未来への航行図を描いて行くことができるかも知れない。』(p.156-157)
 まことに、「行き先のまったく見えなくなってしまった未来」。残り時間は限られている。自分がまったく不十分なことを、痛感して已まない。
 なお、本論文では人類学の贈与論と(物理学の)重力理論の深い対比がおこなわれている、というか、そこにインスピレーションが発火しているが、元(ひよっ子の)物理学徒の目から見て、中沢さんの重力理論の理解は、きわめて正確であることをいちおう付記しておこう。
 

セージ。

芍薬
 
昼。雨あがる、曇。
 
国際情勢知ったかぶり。
 アメリカやイギリスがハマスに対して停戦条件を飲むように圧力をかけているが、この紛争以前の状態、すなわち、イスラエルによるパレスチナ人のいわゆる「漸進的ジェノサイド」と、国際社会におけるその「無視」――という状態に戻るのなら、ハマスにとっては何の意味もないことを、理解していないな。確かに「停戦」は大事だ、もうジェノサイドはやめにしなくてはならない。でも、それが「漸進的ジェノサイド」に代わるだけなら、何も変わりはない。あるいは、パレスチナ人の絶望はもっと深くなるかも知れない。
 もっとも、ハマスがもう、譲歩して、あるいは、あきらめて停戦条件を飲まないとはいえないし、そうなったらそれでまた悲劇を生むだろう(「オスロ合意」が茶番だったことがちょっと思い出される)。こういう考え方は、人命の軽視だろうか? しかし、イスラエルによる「漸進的ジェノサイド」を長年放置してきた国際社会の人間(わたしも含む)とは、いったいなんなのか?
 
 
中沢新一『構造の奥 レヴィ=ストロース論』(2024)読了。第四章「仮面の道の彼方へ」を読んだ。わたしは日本についてすら、あまりにも無知だな。
 中沢さんは、本書を「レヴィ=ストロースの主題による四つの変奏曲」といっている。中沢さんの理解するレヴィ=ストロースが、世間で流通しているそれとあまりにちがうので、本書は、編集者の働きかけがなければ、別に書かれなくてよかった、心に秘めておいてよかったというのは、恐ろしい話だ。書いてみて、著者自身にすら、「四つの変奏曲」はどれも、新鮮な革新力に満ちていると、感じられているという。ほんと、とてつもない独創性をもっていると、わたしも思うのだ。さて、わたしごときが、本書からどれくらいの宝物を、得ることができるのだろうか。

 

 
夜。
魔法少女にあこがれて』(2024)第13話(最終話)まで観る。いやー、冬アニメでいちばん話題になった作品だが…、まーはっきりいって H すぎる変態アニメだよね笑。魔法少女にあこがれるうてなちゃんは悪の組織の女幹部・マジアベーゼになってしまい、魔法少女たちに変態行為をしまくるという――しかしよく地上波放送できましたね。でも、凛としたマジアアズールが「闇堕ち」しそうになるところから、話がちょっと変わっていく。単純な「善」と「悪」の話じゃなくなるんだな(クソバカバカしくも変態的なのにはちがいないが)。水着回である最終話は、ハッピーエンドといってもいいくらい。やー、おもしろかった。でも、この作品が冬アニメの覇権作でいいの?笑
 OP、ED もよくて、毎回楽しみだった。曲、ふつうにいいし。

こともなし

祝日(昭和の日)。昧爽起床。薄曇り。
庭。次々に古い花がダメになっていき、代わりに新しい花が咲く。季節はうつろい、無常である。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルトのディヴェルティメント K.254 で、ヴァイオリンはヴィルモーシュ・サバディ、チェロはチャバ・オンツァイ、ピアノはマルタ・グヤーシュ(NMLCD)。軽くていい曲だな。■ショーソンピアノ三重奏曲 ト短調 op.3 で、演奏はトリオ・ヴァンダラー(NML)。

 
昨日の話だが、UUID を変更してしまったら、/etc/fstabファイルをいじればいいのかな。ちょっと検索力が足りなかったか。
fstabについて - Qiita
 
スーパー。よくこのあたりを歩いている、ピカチュウやキティちゃんの帽子をかぶったコスプレ的(?)おじいさんがいるのであるが、スーパーで御一緒した。今日はピカチュウだった。
 
神社のお祭りで、町内の子供神輿が練り歩いている、チンチンという鉦の音が遠くでする。わっしょいという声。

 
昼寝。
だらだら過ごす。
ちょっとだけ外へ出たら、たちまち蚊に喰われる。老母のいっていたとおり。まだ四月ですよ。
たまたま2019年のブログ記事を読み返していたら、11.13 の写真がおもしろかった。11.5~7 は沖縄へ家族旅行。
 
『コレクション瀧口修造11 戦前・戦中篇1 1926-1936』の続きを読む。
 
ごろごろする。雨。
 
夜。
僕は YouTubeiPad miniSafari で観ることが多いのだが、最近かなりひどいバグが出ている。サムネイルに表示される動画の長さが明らかにちがっていたり、動画のアップローダーの名前がちがっていたり。YouTube は安定したサイトだと思っていたが、何があったのかな。Safari のバグではないと思う。
 
魔法少女にあこがれて』第8話まで観る。