「雨あがる」(1999)を観る

雨。
 
昼。雨あがる、曇。
(「キャッチ!世界のトップニュース」を観ていると、いまの日本人は政治家も含め、きわめて非政治的だと感じないではいない。いくら政治的な YouTube チャンネルがたくさんあったところで、デモや抗議活動などの直接的な政治的行動に訴えることはまずないし、またごく少ない例外は報道されない。政治家も、アメリカに頼り切っているのか、じつにのんびりしていて、政治的危機感というものがおよそ感じられない。わたしはこれらを、必ずしもネガティブに捉えているわけではないが。政治的にならず、のんびり微温的にまどろんでいられるのなら、それで何がいけない、といわれれば、そうかも知れないとは思う。そういうわたしも、何もしないし。)
(どうでもいいが、いまの米中対立を見ていると、わたしはなんとなく80年代の「日米貿易摩擦」を思い出さざるを得ないのだけれど、日本が最終的にアメリカに唯唯諾諾と従い、そのうち経済的に没落してしまったのとは、中国はちがいそうである。激しく、アメリカに反発している。さて、どうなるのか。)
 
昼寝。
 
U-NEXT で『雨あがる』(1999)を観る。黒澤明の脚本をもとに小泉堯史監督が映画化した時代劇。小林信彦さんが佳作としていたもので、うん、ふつうにエンタメとしておもしろかった。いい話だし。主演は寺尾聰で、剣の腕はいいが心やさしい武士を演じている。91分と比較的短いのもよかった。映画はたいてい二時間もあるのが苦手なんだよねー。

 
どうやらメイン機 PC のイヤホンジャックが死んだようだ。Linux のドライバのせいかとも思ったのだが、Windows でもダメなので。この PC も 9年目だからなあ。仕方がないのかも知れない。まあ、USB DAC を通せばイヤホンが使えるのだが、映画を観るときとかはちょっと大げさすぎる気もして。
 
夜。
アマガエル鳴く。
 
吉本隆明全集28 1994-1997』を読む。吉本さんが当時、将来日本がここまで没落するとは、予想だにしていなかったことがわかる。わたしもまったくそんなこと、思ってもみなかった。また、当時は「一億総中流」といわれたくらいで、将来これほどの格差社会になるというのも、予想できなかった。吉本さんは、(少なくとも)飢えることのなくなった日本といっているし、学生のとき、森毅先生も同じことをいっていた。

「彼女がフラグをおられたら」(2014)を観る

晴。巻雲あり。
 
スーパー。曇った。漬けるためのラッキョウを買う。
 
昼。
スーパーで薬味ネギとして買ってきたものの残りに、まだ根っこが付いていたので、老母が「水耕栽培」してみたのだが、それを使ってみたところ、じつにネギくさくてうどんの薬味によかった。もとは買ってきたものなのに、なんでウチの畑のみたいにネギくさいんだろうという話になったのだが、たぶん、採れたてだからなんだろうなという結論に。
 

ドクダミの花。ドクダミはとても強い雑草で、油断しているとあっという間に蔓延る。薬草としてさまざまな効能があり、古来広く使われてきたことは周知だろう。ドクダミ茶などは商品としていまでも見かける。実際、亡き祖父は、庭に生えていたものを採って乾燥させ、煎じて飲んでいたものだった。強烈な匂いを覚えている。
 
長時間、昼寝。
 
雨樋の掃除。いわれていた大屋根をやる。これ、リフォーム(大昔である)のとき、雨樋の構造をまちがえたな。檜の落ち葉のことをまったく考慮していなかった。ということを、祖父がいっていたそうだが、いまになってようやくそのことがわかる。大工もあまりよくなかったわけだが。
 
ミニトマトの苗をプランターに入れる。わたくしの「おままごと」的自己満足。老父がめずらしく(?)高い苗を買ってきたそうなので、どうなるか楽しみである。
 
老母が自分の本棚の整理をした。古本屋に来てもらう予定。よさそうなのがあれば拾ってゆけというので、何冊か救う(?)。文庫本や新書本で、高橋英夫さんや鶴見俊輔さん、小沢昭一さんや、吉村昭さんなど、数冊。出す新書本を見ていると、昔はいい学者や、民間の篤学者がたくさんいたなと思う。松田道雄さんとか、いまどれくらい認知されているだろう。悲しいことである。
 
夜。
老父が育てていた芹(セリ)の味噌和えを、夕飯に食う。もう少し早い時期に食べるとよかった気もするが、まだ充分香り高くおいしかった。芹の味噌和えとは、以前食べたのはいったい何十年前か。
 
『彼女がフラグをおられたら』(2014)第13話(最終話)まで観る。なんと、こういう終わりか! 完全なハッピーエンドではなかったな、こんなシリアスに終わるとは。まあ、バカバカしい三流アニメにはちがいないが、最後の二話は悲しかった。菜波が特別だった理由もわかった。決してよくできた作品ではないけれど、独特の魅力はあると思う。観てよかった。

こともなし

晴。
 
Bavarian Radio Symphony Orchestra | Carnegie Hall Live | WQXR
マーラー交響曲第六番で、指揮はサイモン・ラトルバイエルン放送交響楽団。2024.5.2 のカーネギーホールにおける演奏会の配信(この曲は配信の後半)。わたしのベストはスケルツォ、ラトル、気合が入っていた。しかし、さすがのラトルでも、長々しくも凡庸な終楽章は退屈を感じないではいられない。マーラー交響曲第六番は大好きなんだが、いかにも長すぎる。
 聴いていて、(この曲のように)すごいけれど昔の音楽を聴くか、退屈あるいは下らなくても、現代の音楽を聴くか、とか、どうでもいいことを考えたりする。まあ、何も聴かないのがいちばんなのだろうが。
 
昼。
NML で音楽を聴く。■武満徹の「雨の呪文」「海へ III」「ヴォイス」「マスク」「そして、それが風であることを知った」「エア」で、フルートはアレクサンドラ・ヤノフスカ=トカチ、ウルシュラ・ヤニク=リピンスカ、ハープはアレクサンドラ・メイスネル、クラリネットはアダム・エリャシンスキ、ピアノはウカシュ・フジェンシュチク、ヴィブラフォンはタマラ・クルキエヴィチ、他(NML)。アルバム全体を聴いた。
 何も聴きたくないとき、武満さんだけ聴ける。現代日本の文化的虚無の中で、コンテンツ消費にまどろんでいるわたしを、武満さんは引き裂き、こんなことでよいのかと目を覚まさせてくれる。武満徹、二十五世紀後の音楽だ。
 わたしは別に、武満さんの音楽がよくわかるというわけではない。しかし、風が吹き抜けていったり、水が流れていったりするのを、理解するということがあるだろうか。なんていってみる。

 
 
イオンモール各務原へ老母を連れていく。居間に置くアナログ時計を購入。安物ばかりで、あまりいいのがなかったが。
ついでに、老母に(いちおう)誕生日プレゼントとして、財布を買ってもらう。これまでのはもう長いこと使っていて、だいぶ傷んでいた。
 
老母とわかれて、3Fフードコートのミスド。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー462円。
 ちくま学芸文庫種村季弘コレクション(2024)を読み始める。真に無用な読書で、こういうのは精神衛生上、よいのだ。以前読んだ文章もあって、ドイツのペテン師「ケペニックの大尉」についての小文は、よく覚えていた。痛快な話である。
 あと、種村さんのデカルト論がじつにおもしろかった。これも以前読んだかも知れない。というのも、デカルトが「驚異の学問 scientia mirabilis」を発見した記念すべき夜の、不思議な三つの夢について、かつてどこかで読んだ覚えがあるからだ。この夢は本当におもしろい。デカルトヴァレリーの考えるような「歩める定理」の如き明晰判明な知性どころか、魔術師のひとりといっていいような「知」の持ち主であったことは林達夫もつとに指摘しているが、この三つの夢はまさに、デカルトの「学問」が精神の混沌・危機の中で構想されたことを暗に物語っているからである。まあ、ここでこれ以上は(めんどうくさいので)詳述しない、種村さんの「少女人形フランシーヌ」なる小文に是非目を通して頂きたいと思う。
 
外へ出ると、光の按配のせいだろう、世界がすみずみまで完璧に美しい。カメラはもっていたが、とても撮る気はしなかった。種村さんを注入したせいも、あるかも知れないが。
 帰りに肉屋。いわれていた豚しょうが焼き肉がなかったので、ロース肉(計4パック)で代用する。あと、豚かたまり肉。
 

 
夜。
かつて日本企業であったシャープが、テレビ用液晶の生産を終了し、国内での生産がなくなるというニュースを偶々見た。我が家のテレビも、昔の「亀山ブランド」である。
 つい、気の迷いで、どうでもいいことに「有機EL 日本」とかで検索してみた。有機EL はまさに日本で開発し育てた技術だが、日本企業はすべて撤退し、韓国と中国がシェアを分けている。半導体の敗北と同じ、迅速で大規模な投資ができなかったのが原因といわれるのだが、まあ、そんなことわたしが知ってもね…。
 日本企業は、現在の超高速グローバル資本主義には、向いていないのだろうな。ま、過去の観光資産はまだあるのだから、観光立国でいいじゃないか、とか、ほんとどうでもいいけれど…。
 しかし、皆んな死ぬほど労働しているのに、なぜこんなに日本経済は悪くなったんだろうな。で、いじわるでギスギスした雰囲気が、日本語のインターネット中に瀰漫している。なんか知らんけど。
 
 
『彼女がフラグをおられたら』(2014)第8話まで観る。オレ、何よろこんで観てんだろうな。めちゃくちゃなストーリー展開で、わけがわからない三流アニメなんだが。いちおうハーレムアニメの体裁だが、とにかくヘン。女の子たちが皆んな譲り合っている、というか仲がいい。で、颯太が最初に会った菜波だけちょっと特別で、一切フラグが立たない。彼女がどうなるか気になるのもあって、観ている。
 OP、ED もつい観てしまう。OP曲はアニソンとしてめずらしい感じ。

わたしのいう「制度」 / 内田樹『日本習合論』

雨。
 
昨日『日本の歪み』を読んでいて、「自由意志」が存在するかというので、三人とも存在するわけないじゃん、で一致していた(ただし、見かけ上存在するというふうに扱われねばならない、とも)。自由意志の存在は現代哲学でも大きな論点のひとつではないかと思う。でも、僕は、「自由意志」という言葉で、何が指されているのか、その指示対象がまったくわからない。「自由意志」って、いったい何? だから、それが存在するかどうか、というのもよくわからない。ついでにいうと、「自由」や「意志」って言葉も、よくわからないでテキトーに使っている。バカで困るぜ。
 ちなみに、「自由」ってのはよくわからないが、我々の生が「概念」、そしてそれによって作り出される「制度」(わたしはこれを少し特殊な意味で使っている。ラカンのいう「法」「父の名」*1といってもいいかも知れない)によって、がんじがらめに拘束されていることは、わかっているつもりである。
 
わたしのいう「制度」は、外部に存在する具体的な構築物のことというよりは、むしろ、概念によって頭の中に(内的に)構築されているものである。我々はどんな社会に生きたって、なんらかの具体的な社会制度の中で生きるしかない。例えば現代日本なら、学校制度や、資本主義の要請に従った会社制度。これらには、(ふつうは)どうしたって誰だって、従わざるを得ない。しかし、我々を縛っているのは、むしろその学校制度や会社制度の基盤となっている、わたしたちの頭の中の「思い込み」である。わたしのいう「制度」は、むしろそちらのことだ。
 かかる頭の中の「制度」は、頭の中でできるだけ「解体」した方がいい。具体的な社会制度からは逃れられないが、それが頭の中で「解体」されていれば、多少は「柔軟な」生き方ができるんじゃないかと、わたしは考えている。所詮、我々のできることはそれくらいだが、そんなことでもめちゃくちゃむずかしい。頭の中の「労働観」(「人生観」でもあるだろう。人生観も強力な「制度」である)という「制度」を、解体できて労働している人はなかなかいないし、恥ずかしながら、わたしだってそれができてはいないのである。
 

 
昼。
図書館から借りてきた、内田樹『日本習合論』(2020)読了。ところどころ飛ばし読みしながら(特に第三章は飛ばした)、一気に最後まで読む。

 
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第九番 op.59-3 で、演奏はクイケン四重奏団NMLCD)。■クセナキスの「テトラ」で、演奏はアルディッティ弦楽四重奏団NML)。リゲティの室内協奏曲(NMLCD)。
 
【第168回】アイヌ民族差別の背景には何がある?|世の中ラボ|斎藤 美奈子|webちくま
こういうことをピックアップする斎藤美奈子は、本当に勉強になる。いまアイヌ民族差別がそんなに盛り上がっている(?)ことをわたしは知らなかったし、かつてのアイヌ民族差別が主に「無知から来る偏見」によるものだったのとちがって、現在のは「限りなく歴史修正主義に近い」というのも知らなかった。わたしはニュースに疎いので、知らぬうちに無知にハマっているなと思う。しかし、日本人、なさけないな、ガックリくる。
 
 
夜。
『彼女がフラグをおられたら』(2014)第3話まで観る。本当に下らんアニメだな。こういうの、結構好きだ笑。原作はラノベか。

*1:ただ、「父の名」というのは、ラカン化されたエディプス・コンプレックスの理論と結びつき、言葉の響きとしてあまりにも性的なニュアンスが強い。とても西洋社会的であるが、世界的な「西洋社会化」(日本ももちろんそうである)からすれば、この語を使ってもいいかも知れない。

養老孟司&茂木健一郎&東浩紀『日本の歪み』

日曜日。雨。
 
雨間(あまま)に雨樋の掃除をする。いつもの場所ではなく、南側の屋根と、風呂場の屋根。檜があるので、落ち葉でどうしても詰まる。
 

ムラサキツユクサ。これは庭ではなく、家の横の道路脇の、毎年決まった場所に咲く。まあ雑草だが(だから、勝手に庭にも咲くけれど)、きれいな雑草だな。たまたま一年前の今日にも写真をアップしているから、毎年どおりに咲いている、ってことかな。
 
ロラン・バルトは、日本へ来てどうして日本を「記号の帝国」といったのか。もう本の中身は忘れてしまったが、記号の帝国はまちがいなく西洋である。西洋ほど、普遍的記号が暴虐をきわめている社会はない。西洋の文学や芸術はその「記号の暴虐」に対抗する手段という側面があったが、既に敗北し、記号だけが残って力をふるっている。ついでにいえば、それは現在、世界的現実である。
 
スーパー。客多め。デリカの弁当やお惣菜をなんとなく見る。ここは賞を取るくらいで、デリカが充実している。なかなかおいしそうだ(イオンとかマックスバリュの惣菜は、あんまり好きでない。老母が入院したときは、時々使ったけれど)。ウチは(うどん用の天ぷら以外)買わないが、値段は高めだけれど、もしひとりだったらこれで充分かなと思う。自分ひとりのために食事を作るのは、めんどうくさい。ひとり暮らしの男性で自炊されている方は、ちょっと尊敬してしまうくらいだ。
 
 
昼。雨。
アマガエル鳴く。
 
図書館。
借りたもの。新着で、白隠禅師『夜船閑話・延命十句観音経霊験記』(2023)、高澤秀次『評伝 立花隆』(2023)。文学では吉本ばなな『ミトンとふびん』(2021)、柴崎友香『百年と一日』(2020)、山尾悠子『迷宮遊覧飛行』(2023)、ちくま文庫の『野呂邦暢作品集 愛についてのデッサン』(2021)。あとは養老孟司茂木健一郎東浩紀『日本の歪み』(2023)、内田樹『日本習合論』(2020)など。内田樹の最近の本を読んでみたいかなと思ったのだが、図書館にないようだ。
 
市民公園では「全肉祭」というのをやっていて、雨がかなり降っているにもかかわらず、たくさんの人(家族連れ多し)が来ていた。
帰りに餅信へ寄って、白桃大福Premium と草餅を買う。
 
お茶の時間に白桃大福Premium を食う。お茶は先日「道の駅」で購入した揖斐茶の新茶。
 
 
図書館から借りてきた、養老孟司茂木健一郎東浩紀『日本の歪み』(2023)読了。かつてのわたしだったら、必ず買って読んでいた本だろう。実際、書店では何度も手に取って、中身を見た。読んでみて、まあ買わなくて借りて読んで充分だったと思う。
 養老さんの「破滅的な大地震」待望論はめちゃくちゃのようだが、わからないでもない。戦争ですべてが焼け野原になり、ゼロからの出発がわりとうまくいったから、今度もゼロからのリセットに期待する、ってわけだろう。しかし、それは待望しているけれど、待望しているわけではないとも思う。ちょっと露悪的に、本音のようなことをテキトーにいっただけだろう。
 東さんの、日本では目立っちゃダメ、というのは胸をつかれた。東さんは、ほんと目立って、めちゃめちゃ叩かれてきたもんな。これは、金言だと思う。
 この人たちはかなり自由にいえることをいっているが、それでもまだまだ既成概念、既成の視野に縛られているなって思った。メディアの中で「日本」なんてことを考えたら、これくらいが限界だろう。そして、いまの若い人たちはそういう(いや、もっと縛られた)言説を読み聞きしながら、育ってきているのである。東さんのいうとおり、政治的な正しさのせいで、メディアの中で文系学者たちは互いに差異のない言説を繰り返している。いってることが、皆んな、おんなじなんだ(文体も同じ)。で、テキトーなことをいうと、同業者に刺されるって東さんがいってた、まさにそのとおり。はは。

ちなみに、わたしは日本だけ「歪んでいる」とはあまり思わない。欧米もアジアもアフリカもひどいものだと思っている。むしろ、日本の方がまだマシじゃないか? ただ、我々一般の日本人(自分を除外しているわけでない)がほんとダメになった、これは痛感する。本書で主に扱われるアカデミシャンや、知識人、エスタブリッシュメントには、正直それほど興味をもてなくなった。本書では一般大衆のことは扱われていない、といっていいと思う。
 
夜、早寝。

「白聖女と黒牧師」(2023)を観る

曇。
よく眠れてすっきりした朝だが、喉のいがらっぽさだけ少し残る。それより寝すぎで腰が痛い。いずれにせよ、今日も一日おとなしくしているつもり。
 
昼寝。

ユキノシタ(雪の下)。次々と咲いてきた春の花ももうおしまい。
 

吉本隆明全集28 1994-1997』を読み始める。何もしたくないときに読める本が本当に減った。吉本さんはいつ読んでもおもしろい。
『究極の意味で理想の都市とは何か? これは大真面目に論じるのも愚かなことです。人間にとって一番、理想の状態ははっきりしていますよ。それは、端的に二十四時間、全く働かないこと。ボタンを押せば食い物がひとりでに出てきて、自分の好きなものが食べられる。それからどこかへ遊びに行きたくなったら、ボタンを押せば、椅子が自動的に移動してゆく。眠くなったら、また別のボタンを押す。そうするとするすると自動的にベッドメーキングされて、横になる。(中略)(要約。これじゃ糖尿病になるっていうのなら、ボタンを押して海岸へ行って遊べばいい。森林浴、運動も、したければボタンで行ってすればいい。)(改行)だれが何と言おうと、僕はそれ以外の理想はないと思う(笑)。これこそが「欲望」の理想ですよ。簡単明瞭なことじゃないですか。この簡単明瞭な事実を、思想家や主義者はしばしばねじ曲げて、目隠ししてきた。認めようとはしなかった。何かしら理想の大義名分で飾りたてようとしてきた。どうしてこの「欲望」の姿を、認めようとしないのか。自分自身が、そこから自由になれもしないくせにね。』(「都市から文明の未来をさぐる」p.39-40)
 これは強力な人間理解だと思う。しかし、ここには他人との関係性がない。世界は、他者がいるからこそ、楽園であり、地獄なのだ。ずっとひとりでいられるなら、話はまた別だが。
 
『いまだかつて人類は、環境に不適合を生じて滅びたということはないのです。ある人種が戦争で滅びたとか、殺し合いをして滅びたということはあります。けれども文明の進行方向に従ったがゆえに、滅んだということはないんです。歴史的に一度もない、ということはこれからもおそらくないと言えます。ですから文明が発達すれば、その精一杯の範囲内で人類は適応性を発揮して、新たに環境に適合する諸条件を必ず見つけ出すと思います。そういう面に関しては、僕はひじょうに楽観的に考えます。』(「都市から文明の未来をさぐる」p.52)
 吉本さんは「加速主義」者そのものだな。「人新世」をどう考えるか。わたしはその点、悲観的なのだと思う。吉本さんのように楽観的になれない。ただ、人類が近い将来滅びたところで、どってことないと思うくらいには楽観的(?)あるいは楽天的だが。いつかは必ず滅びるのだ。いつ滅びたって、似たようなものである。ただ、滅びに対して自分なりに抵抗したいと思うところもあるが。
 結局、極論をいうと、吉本さんは人間の世界が完全に人工化し、いわゆる「自然」「生態系」というものが周りになくなってしまっても、まったくかまわないのだと思う。「自然」と共存し、生態系の一員として生きる、ということは、必要がない。その意味で、都会人の典型だ。もっとも、田舎でも事情は同じだが。
 
『都市が人の欲望を刺激し、吸引する。その同じ欲望を、農村はまったく味方につけることができないでいます。』(「都市から文明の未来をさぐる」p.36)
 現代の田舎者の少なからずが、都会に憧れるのはまちがいない。「田舎で暮らすとか、何の罰ゲーム?」ってね。何度も書くが、飛騨の高校生の八割が、卒業して地元を離れるという。
 特に田舎の若い女性が、都会へ出ることがわかっている。田舎には、彼女たちを満足させる職業がない。古くさい田舎は、女性にやさしくない。田舎は、刺激的じゃない。
 やはり、吉本さんのいっているとおり、欲望の形態が問題なのだと思う。
 

 
夜。
『白聖女と黒牧師』(2023)第12話(最終話)まで観る。いやー、たわいなくもとってもいい作品だった。聖女様と鈍感な牧師さんの「恋」が尊すぎて浄化される。アニメってのがそもそもイノセントなのだが、これはその中でもとりわけイノセント。原作は少女マンガなのかな? その割に、女の意地の悪さが出ていないと思う。
 ED 好きなのは前に書いたが、ずっと観ているうち OP も悪くないなって思うようになった。OP曲は ClariS の中ではいちばん好きかも。

調べてみたら、原作は少年マンガということになっていた。なるほど。このイノセントぶりはそうか。全然話題にならなかった作品だけれど、僕の好きなアニメ YouTuber は評価してたんだよねー。どうでもいいがその人、仕事が忙しくて新作動画が全然出ていなくって、わたしはさみしいのである。