三信ビル保存プロジェクトの展開に期待する

三信ビル保存プロジェクトというネットを起点とした活動が展開されているが、上手く行けば現実の都市に大きな影響をあたえる可能性を秘めている。そう思えるので注目したい。

ことの発端は、東京、日比谷の近代建築の保存運動だ。三信ビルの解体建替計画が所有者から発表された。惜しい建物である。しかし、ただ反対を叫んでも所有者、事業者を押しとどめることができない。それは毎年のように良く知られた近代建築が壊されていく現状を見れば明らかだ。事業者は経済を問題にしている。古い建物では儲からないと判断するから新しくするのだ。ならば、事業として成り立つ計画を対案として示さなければならない。そう考えた。仕事として都市計画に携わる者が事業性をあれこれと検討すると、実現可能な計画が見えてきた。専門家を納得させる形になっていく。実際に、そんなことが起こっている。

建築事業には多額の費用がかかる。三信ビルの場合は、敷地が都心にあって、規模も大きく、単体の建築というよりは地区の単位になっている。遙かに金がかかるのだ。こうした大事業では、建築ないし都市計画を専門とする一個人がプレイヤーになることは難しい。しかるに結縁もない個人建築家(あるいはその集団)が、謂わば勝手に計画を作成して、いきなり広く一般に対し提案をした。事業関係者に割って入り、決定的な決断を促している。

三信ビル保存プロジェクトが肯定されるなら、その意義は何処にあるのか。

新しい形態の都市計画、再開発、まちづくりの実現性を示したことにあるだろう。近代都市計画が有効な方策を手にできず、ロクでもない建設が続くし、住民は概して我儘でまとまらず、行政にはスキルが不足していて後手を踏むばかり。まちづくりといってもコミュニティの育成なのか、景観といったモノの話なのか分からず迷うばかりだったのではないか。今、現れたのは、まず計画在りきのプロジェクト進行だ。概念理論を飛び越え、事業主体を差し置き、第三者が具体的なゴールを設定する。ヘボな計画では全く話にならないが、ピッタリとした設計が現れればすぐに展開する。そんな吃驚するような、これまでと根本的に違う進展が現実味を帯びてきたのだ。

事業者にとっても、また建物の利用者にとっても魅力ある都市計画手法ではないだろうか。

高松塚古墳を壊す経緯に疑問点を見つける


文化庁の恒久保存対策検討会(座長=渡辺明義・前東京文化財研究所長)が先月、6月27日に「石室解体案」による特別史跡高松塚古墳奈良県明日香村)の国宝、壁画の修復保存策の採用を決定したと報道された。

その是非は問いたいが、文化庁や専門家の先生方が何をしてきたのかという経緯が分からないままに、黴がどうしようもなく生えてくるから解体する、と「事後報告」だけを投げつけられた感が強くて不満を感じましたよ。腹いせもあって、何か拙いことを隠しているのでは、と勘繰ってみた。すると、怪しい線がなくもない。

平成15年6月26日付国宝高松塚古墳壁画緊急保存対策検討会報告「国宝高松塚古墳壁画緊急保存対策について」曰く、

...壁画の状態については、発見以来行われてきた保存措置によって約30年の間安定した状態で推移したため、ここ10年は年1回春の時期に定期点検を行っていた。

しかしながら、平成13年2月に石槨前の取り合い部壁面強化工事を行った後、同年9月に1年半ぶりに定期点検を行ったところ、石槨内に複数種の黴が発生する状況となったことから、点検回数を増やし黴の早期発見とその処置に努めてきたところである。...

なんだそりゃ。工事で失敗したんじゃないか。聞いてないよ、そんな話。

更にはこんな報告もある。「国宝・高松塚古墳壁画保存のための微生物対策に関わる基礎資料 −パラホルムアルデヒドの実空間濃度と浮遊菌・付着菌から見た微生物制御−」の、5.まとめ には、

...調査や保存対策のために入室することは,汚染を持ち込むおそれがあり,十分な準備を持って保存対策にあたる必要があることが明らかになった。...

とある。えらくはっきりとした結論じゃないの。保存のための調査がかえって仇になる恐れがアリアリということね。当然、取り合い部壁面を工事するとなれば、状況が悪化して不思議じゃないよね。そうだよね。

国宝高松塚古墳壁画保存管理の経緯」を見ると、平成7、8、10、11、12年の点検では「異常なし」だし、平成9年は「カビは盗掘口の上面のみ。」じゃない。長い期間に少しずつ悪くなったんじゃなくて、平成13年の工事を切っ掛けに黴が繁殖したんだよね。平成13年って、機構改革で保存科学部生物研究室が保存科学部生物科学研究室となった時 *1 じゃない。どんな工事したの。

責任云々が問題になるからと云って、避けたり隠しちゃだめだよ。失うのは誰かの面目だけじゃなくて、みんなの文化遺産も道連れにされるんだから。銭金も問題じゃないかも知れない。論点をずらしちゃいけませんな。

ヨーロッパ文明の源にかかわる建造物が発掘される


興味深いニュースがあったので、アップしておく。

U.K. の The Independent 紙、2005年6月11日付けの記事によると、

考古学調査によって、紀元前4800年から4600年の間に建造された150以上の神殿が、ドイツやオーストリア、スロヴァキアの野原や都市の下に確認されました。ヨーロッパではメソポタミアやエジプトの後で壮大な建築物が発展したと考えられていたので、ストーンヘンジやピラミッドより2000年も前の遺跡が見つかり、注目を集めています。

神殿は、直径150メートルにおよぶ円形施設で、土と木を材料にしていたようです。最も発掘が進んでいるのは、ドレスデン市内のもので、ここの神殿では、はっきりとした神域が屋内に設けられ、2つの柵、3つの土盛り、4筋の溝に囲まれます。この内部空間を「まもる」仕組みは、防御のためではなく、一般の部族民に「至聖所」で執り行われる神事を見せないためだったと考えられています。

巨大円形神殿を建設したのは宗教従事者で、現在の北セルビアハンガリーのドナウ平野から何世紀も前にやってきた移住者の子孫でした。この神殿の建設者達は遊牧民で、多くの牛、羊、ヤギ、豚を飼い、人や動物を象った石、骨、木、陶製の道具をつくりました。また、幾何学模様の投機類を数多く製造しました。

建設者達は、大きいと50メートルにもなる長屋に共同で住み、しっかりとした村々を周りに集めていたようです。

ライプツィヒ近くの Aythra でも、25ヘクタールの広さに村落と神殿の遺跡があり、200棟の長屋が見つかりました。人口は300に上り15ないし20棟のとても大きな共同建物に、高度に組織化されて生活していたと考えられています。

日本でも新聞やネットで報道されているが、余りにも省略が酷い。ここに上げたものも http://news.independent.co.uk/europe/story.jsp?story=645976 を、意訳した上で、興味のある部分を中心に編集したものなので、原文を確認して欲しい。

ドナウ平野にヨーロッパ文明の源があったという説は、『マスター・キートン』で覚えているのだが、こうなってくると漫画のネタ元が何だったのか気になる。

それにしても、建設技術って、民族のアイデンティティなのだろうか。日本の仏堂建立でも、工事関係者が集団で遣って来て、工事全体が渡来人に任されたなんてことはありえるのか。そこそこ面白い説だと思うが。

最近のネットには色んな情報があるが、独自にデータ蓄積をしなければ


もうネットで遊び始めて長くなってきたが、近頃はサイトをやっていると云うよりは、ブログに投稿することが主体の、愚だ愚だとした文章を流すばかりになっている。もう10年程前、初めて自分のサイトをつくろうとした時は、どんな分野をどんなシステムで情報を整理するのか、なんてことをあれこれ考えていた。企画構想に力を入れていたのが、最早忘れかけている。ここでやっていることももっと有意義にしたいと思っているし、建築の話を書ければと思うが、どうもそちらに気が向かない。

しかし、ふと建築のサイトを見て回っていると、建築物のデータベースや建築関係のリンク集を整理したところへ行き着いた。建築思草 http://www1.vecceed.ne.jp/%7Ey-satoh/architecture/ というところだ。かつては自分自身が目指していた方向を、人のところで見つけたのは久しぶりのような気がする。幾つかのページを開けたが、結構な情報量だ。

その一方で、何故かもうひとつ気持ちが踊らないのに気づいた。何故だろう? 何故面白いと感じないんだろう? 何故このリンクのひとつもクリックする気にならないんだろう? そう考え始めた。

普段は Google を始めとする検索エンジンを使うのがほとんどだ。URL を短期間で変えたり、サイト自体が消えてしまうことも珍しくないから、リンク集は当てにできないと思っているからだ。画像も検索できるし、今日辺りからは、出版物の全文検索 http://print.google.com/ も利用ができるようになっている。

そんな状況で、果たして個人のある一定期間の作業が、たまたまそこを訪れた者にとって、どれほど使えるのか。見通しは明るくない。一旦検索エンジンのクロールにかかれば、後は中身次第で利用者が増える。だとしたら、どんな情報が望ましいのか、と云うか、それも目的によるのだが、どんな情報だとネットに貢献できるのか。そう考えると、ユニークな情報が望ましいように思える。特徴的で限られた範囲であっても、そのスコープのあてどころが斬新であり、その範囲内を十分に調べ上げてあると、人によっては凄く有難いものとなりそうだ。

早い話が、有り触れたスコープなら検索エンジンの方が便利だから、狙いや主義主張のある情報がいいと思っている。しかも、出来ることなら、その人ならではのコメントがあって欲しい。整理の方法や見せ方も特徴に合わせて選んで欲しい。とても偏っていて他に転用が利かないほどに。勿論、上手く出来ていなくては不味いが、綺麗に整理されていても、特定の方向に特化しているのがいいだろうと思う。

本来、情報は必要な人が、その必要、目的に合わせて収集編纂しなければ、使えないものと相場が決まっている。データベースにしろ、自分で項目を選び、入力あるいは修正を延延と続けなるしかないじゃないか。人のつくったデータベースに満足できた例がない。メーラーやオフィス・スイート、スケジュール帖にある住所録を使ってみて、何の不満もなく使い続けられる人がいるだろうか。各種メディア・プレーヤーも、誰もが少少の我慢をしながら使っているのではないか。昨今、調査を外注することも珍しくないが、注文主が木目細かな指示を与えなければ、果たして分析結果がどれほど有用だろうか。

その割りに、自分で作ったテキスト・ファイルは何かと便利だったりする。内容をある程度覚えているせいもあるが、工夫された整理方法や目的に合った見せ方が整っているのが大きい。

ネットで手に入れる情報は、自分が再加工して溜めてゆく素材でしかないし、また、素材としても一部分でしかない。そんなものだよな。

今日は、そんなことを暫く考えた。

談合が何故起こるかを根本的に考える


国が発注する鋼鉄製橋梁工事の長年に亘る談合が公正取引委員会の告発を受け、東京高等検察庁が捜査を進めている。何がどうなっているのやら。いや、小説や漫画のネタに散々使われてきたものが、どうして今問題になっているのやら。そして、何故また鋼鉄製橋梁なのか。さっぱり分かりませんね。これをやるなら、他ももっとあるでしょうに。どこまで本気なの?

土木や建築の公共工事は、一件ごとの請負金額が大きいし、毎年の予算もまた凄い。そんな訳で、その金に群がるのもまた凄い。結構煩いのが色色いると、適当なところで囲い込みができる。ま、社会現象としては在り来たりかな。許認可の要る事業は押し並べてそんなもんじゃぁないかな。銀行とか、農業権とか、他にもそんな例は見つかるでしょ。要は隠れて山分けの図ということ。大っぴらにやっちゃあ、それこそ収拾がつかないから、すぐにクローズドな環境と秘密結社ができる。勿論、発注側の役人も仲間に入れるし、分け前も保証する。そうして皆の取り分を上乗せした発注予定金額、秘密であるはずの情報が業者に筒抜け、やがて分け前が複雑かつ巧妙に分配される。この手の悪知恵は尽きることがない。

つまり、本当に本気で最後までやるとしたら、発注側、そして監察の人間も引っ張り出さなければならない。検察庁に悪人がいないと誰が思うのか。

大きな金額がそのまま大口で動く限り、甘い汁を吸おうとするあくどい者は後を絶たないだろう。ここらで中央集権体制や、政府主導の事業形態を見直すのがいいと思うのだが、かと言って、役所が小さなことまで管理して労働者を直接雇って工事するのが良いんじゃないの、と嘯いても誰も相手にしないだろうな。でもなぁ、政府、行政が大きいほど社会は歪むと思うんだよなぁ。

大學の講義情報がウェブサイトで公開と謳われるも内容が薄い


日本OCW連絡会なるものが大阪大学京都大学慶応義塾大学、東京工業大学東京大学早稲田大学によって組織され、MITとの連携を強化して成果を公開していく予定だという。(参考

ちょいと興味が湧いたので、東京大学早稲田大学の建築分野を確認したら、何にもなかったのでがっかりした。予想されたとは云え、やっぱりまだ何にもないのか、で、言いだしっぺの MIT の建築は? と思い、アクセスしてみると、単に講義のタイトルと講師の名前を記録しただけのことだった。内容なんかちっとも分からない。「こんな講師を呼べるんだぞ。どうだ羨ましいか、ふふふん。」と受け取ったよ。

わざわざこんな花火を打ち上げなくても、検索すれば講義概要に行き当たるし、それはそれで参考になる。誰がどんな風に大局を捉えているかさえ、うがつことができる。内容が変わらないのに、名前の知られた大学だけが寄り集まって連絡会ですか。勝ち組宣言でもなさそうだし、連携強化にかこつけて抜け駆けの牽制かな。大学経営の「王道」を「一握り」で仲良く進みましょう、辛いときは皆で力を合わせよう、と。まぁ、大学経営なんてそんなものかもしれませんな。学閥の運営強化さえ達成できれば、後は結果が自ずからついてくるんでしょう。

「発言力命。それが情報社会≒学歴社会だ。」なんてウンザリするよ。

P.S. はてなの他のところを見たら、ありゃま! 皆素直に評価して期待している! おぉ、何故だ! これじゃあ、此処がまるで口の汚い分からず屋の捌け口日記じゃないか。認めたくねぇ。

建築保存運動のために その一


建築の保存を人に訴えると、すぐに出てくるのが「何故、残さなければいけないのか」という質問だ。この質問が出てきた場合、質問者の態度は既に決まったようなものだ。どんなに丁寧に、壊されようとしている建物の意義を説明しようとも、歴史的価値を誠意を込めて伝えようとしても、もうどうしようもないくらいケンモホロロに拒絶されてしまう。一通り話したところで、決まって同じ質問に戻ってくる。堂堂巡りとは、このことか。

だから、保存運動を広めるために、保存の必要が自明のことにしたい。後手を引かないために、順序を逆に考えてみる。普段から歴史を吹き込んで古い建築物の価値を知らしめるところから始める。つまり、今のところ、これが一向にできていないわけだが、建築に興味も関心もない人のことは一先ず置いて、訊いてみれば皆さん意外に建築に惹かれているもので、語れば面白がってくれるのだから、普段から分かりやすい言葉で気さくに説明したいものだ。

いいものを残すことと、それを語ることは、二つ相俟って文化を育む、そういう寸法ではないだろうか。