新自由主義者=非国民という思考(2)

 話は変な方向にそれてしまったが、経済合理性の対象は国家やその政府にも及ぶ。社会の仕組みを成立させるために国が行っているサービス、インフラ整備事業も、新自由主義者にしてみれば不要であるどころか害をなすもの、いわば不快なメタボのようなものになり、「民間にできることは民間に」の合言葉のもと合理化が進められる。新自由主義にかぶれた人間はいう。「教育は私立学校でできる。郵送は宅急便だってできる。警察事業は警備会社や探偵でもできる。軍事事業だってそういうことを専門とする会社ができる。健康保険だって生命保険会社ができる。」とそれ自体は正しい。基本的に国家や地方自治体がやっていることで民間にできないことは、ほとんどないに等しい。しかし忘れてはいけないことがある。新自由主義者は「できる」といっているだけであって、「する」とは一言もいってはいないということである。「できる」と「する」の間には大きな差が存在する。「私は銃を撃つことができる」ことが、「私は銃を撃つ」ということとは全然違うということが明白なように、「民間でもできる」ということは「民間がする」ということにイコールではない。民間がしなければその間隙にいる人たちは、なんらサービスや福祉を受けることもできず、見捨てられるだけのことである。「努力が足りない」「自己責任」の名のもとに。(次に続く)

新自由主義者=非国民という思考(1)

 この国において自由を信奉するものは、少なくとも「非国民」という言葉を使用することを極力慎まねばならない。しかしながら作家にして起訴休職外務事務官 佐藤優氏の「新自由主義は国家と国民を弱くする」という言葉を聞いて、普段から思っていた「新自由主義者または新自由主義めいたことをいう人間は、すべからく反ナショナル・非ナショナルである」という小生の考えを吐露したくなった。
 昨今は経済合理性の名の下、産学連携や民営化、合理化、格差の拡大が進み、それに合致しないものは無視されるか切り捨てられるかのどちらかにある。とりわけ社会に貢献しないまたは利益を生み出さない共通教養なるものは切り捨てられ、その代わりに出てくる共通の符号はお笑いのネタであったり、または「空気を読め」とかいった、お笑い芸人どもの世界の常識である(「空気を読め」というこの言葉が持つ匿名性の暴力は、さながら実態がよくわからない強制収容所がその国に住む人間にもたらす暴力支配と同じぐらいの統制力を持つ)。その国に共通教養や紐帯となる「神話」「物語」を提供すべき文学者や文学研究者はおらず、代わりにあるのはオタクの自己満足、それも「自分探し」というキーワードによって経済合理性に絡めとられたサブカルチャーばかりである。(次に続く)

本音を書けるのはこっち

 今まではミクシィのほうでいろいろ書いておりましたが、ミクシィのいいところでもあり、悪いところでもあるマイミクの方々から「顔が見える」という状況になってしまい、ミクシィに本音が書けないという状況になってしまいました。そこでHatenaのほうに復活することを決めました。