サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ』  メモ

 サラ・ロイは、既にいまガザで欧米先進国グループの支持のもとに行われているジェノサイドが、10月7日のハマスによる襲撃などが原因ではないことを、明確に語っている。

 欧米の植民地帝国の鬼子であるイスラエルが、その植民地主義を見事に継承、体現して、真綿で首を締めあげるようにしてパレスチナの民の暮らしと経済を締めあげ、パレスチナの分断を画策し、息の根を止めようとしてきたことを。

 それが、いまや、イスラエルの思惑通り、達成されようとしている、あまりに酷い光景を私たちは見せつけられている。

 

2008年に発表された「ガザ以前、ガザ以降」には、こう書かれている。

近年、イスラエル人はますます占領から利益を得ています。彼らの生活は、西岸地区に建設された、入植地を結ぶ広大な道路網や、パレスチナ人を閉じ込め、紛争を封じ込めてしまうことで上向いた経済によって快適なものとなりました。(中略) 入植地はいまや自然に成長するもの、イスラエルの領土との重要な家族的結びつきとともに、庇護と治安を提供する不可欠な地盤と考えられています。したがって、入植地や、入植地の社会生活基盤をイスラエルに組み入れることは――それはとりもなおさず、西岸地区はイスラエルの一部であると主張することであるのですが――もはや常軌を逸したことでもなければ、論争を呼ぶことでもなく、それどころか、必要かつ普通のこととなっています。

占領の正常化など、もはや問題にもならない。というわけだ。

さらに、占領とセットで、これももはや日常化している<パレスチナの分断>がある。

オスロ合意(1993)によって、ガザから完全撤退して、占領の解消へとコトが動き出すと見せかけたうえで、ガザを完全に封鎖、(検問所で人も物資の流れも遮って、完全にイスラエルのコントロール下にある収容所状態)、そして西岸地区を隔離壁で細切れに分断していく、という事態が、ここ30年ほど、イスラエルによってたゆみなく推し進められ、世界が黙認してきたこと。

いまや、パレスチナ人の「領土的連続性」が語られることは少なくなり、代わりに語られるのは、「移動による連続性」についてです。(中略)パレスチナ人は橋やトンネル、「アラブ人専用道路」で互いに接続されるということを意味する言葉であり、西岸地区ではすでに日々、生み出されている現実です。

知るほどにすさまじい。

イスラエル国家がパレスチナに持ち込んだ資本主義経済は、占領とあいまって、ガザの経済をイスラエルの資本主義経済に従属する形に再編成し、イスラエルなしでは暮らせない状態にまで仕上げた。そのすえに、ガザを封鎖、イスラエル経済とのつながりを切断。どこともつながりのない、人道支援を生活の糧にするしかない場所へとガザを追い込んだ。占領という不正義の解消だとか、和平だとかが、重要なテーマから消えて、パレスチナといえば、テーマは人道支援というあまりに巧みなすり替え。

ここで起っていることは、「反開発de-devalopment」という言葉で言い表すべきことなのだともいう。

言い換えれば、「人間の暮らしの破壊」、ですね。

 

パレスチナ人を分断しなければならない、そしてそうすることは合法である、という考え方はいまや、パレスチナを領土的にも人口的にもばらばらにしていくつものブロックに分割してしまうことが、イスラエルと国際社会によって公式化され、制度化され、受けていれられていることのなかによく現れています。これが、もう一つの重要なパラダイム転換です。

 

西岸地区は、2009年の段階で、93の有人検問所、537の無人障壁で断片化されている。

社会秩序の断片化。共同体の破壊。パレスチナ国家の可能性の排除。

 

イスラエルパレスチナで画策してきたことを、サラ・ロイは邪(よこしま)という。

その邪は、さらに邪悪化、強大化して、今に至る。

イスラエルの邪は、イスラエルを生みだし、イスラエルを支える世界の邪にほかならない。

この邪な世界が声高らかに語る正義につらなることのない自分であること。

岡野八代『ケアの倫理  ――フェミニズムの政治思想』 読後メモ

 たとえば、民主主義の発祥は古代ギリシャだと言われる。
 しかし、それは、身の回りのお世話を誰かにしてもらっている男たち(=市民)が担うもので、彼らのお世話をしている奴隷や女たちは市民ではない。
 奴隷や女たちの無償の労働の上に立って、自由だの、平等だの、正義だのを論じてきたのが、普遍を自称する西洋哲学であり、政治思想であり、世界観であり、人間観であるということ。
 植民地や奴隷労働あっての発展である西洋近代、そして資本主義のことにも当然思いは及ぶ。
 こういうことを考えるときに、いつも想い起こすのは川田順造が記していた、あるアフリカの村での出来事。
 近代西洋からやってきた者が、村長に村びとの数を尋ねる。村長は答えられない。その代わり、村びと全員の名前なら言える。
彼らのことを、論理的思考ができないとか、未開だとか、西洋の尺度で計って、簡単にそう片付ける人も多いだろうけど、これはそんなに簡単なことではないし、実のところ、普遍を称する論理や思想が切り捨ててきた重要なことが、ここにはある。
アフリカのある村の村長は、ひとりひとり異なる人間を、数という抽象で表現することをおのずと拒んだ。いのちを数量化するという発想を持たなかった。それを野蛮だとか未開だと笑うのが、自称西洋文明であり、そこで語られる正義とは命を数量化し、個性を捨象して扱うことに疑問を持たない正義であるということ。
 タイトルに「フェミニズムの政治思想」とあるけれど、要は、資本主義とその果実を謳歌する者たちが構築してきた、非対称の関係なんぞまるでこの世に存在しないかのような「正義」と「公正」の概念を、
それによって影の部分に追いやられ、踏みつけられ、搾取され、かえりみられることのない「いのち」の領域から、再構築していくこと。
 一言でいえば、
「おまえたち、いったい誰の世話になってこれまで生きてきたんだい? それをすっかり忘れて、正義だの、公正だのと偉そうに、全くどの口が言ってるのかしらね」
ということでしょうし、
「どの命もケアを受けることなく生まれて成長してゆくことはかなわず、ケアなくして、明日に向かって生きる力を再生産することもできないのだから、そこを人間社会を考える際の出発点にしましょうよ。
ケアによって結ばれて、広がってゆく命と命の、その一つ一つが唯一無二の具体的な関係性をしっかり見つめることから、新たな正義、新たな公正、新たな倫理、新たな社会のあり方を考えましょうよ」
ということなのでしょう。
(ちっとも一言ではないですね……)
 岡野八代はこう語りかける。
「共に生きるためのニーズに対する気づきから始まる、こうした一連のケア実践が<わたしたち>を構成し、その先に政治的共同体が存在していると考えれば、逆に次のような問いも成り立つはずだ。現在の日本社会のどこに、そのような<わたしたち>が存在しているのだろうか」
 さらに、日本社会で生きる私たちに与えられている「時間」について、こう語る。
日本社会は「男女ともに有償・無償をあわせた総労働時間が長く、時間的にはすでに限界まで労働している」
「家族と職場の往復だけで、もはや時間的には「限界」なのだ」
つまり、日本社会には、ケアに充てる時間も、その事をじっくりと考える時間すらも、決定的に欠けている。そのように社会は設計されている。
 そして、ケアをお金で解決したり、誰かに丸投げできる特権的な連中だけが、いわゆる政治を動かすという<構造的不正義>がある。
 これを、分かりやすく「家父長制」大好き特権オヤジたちによる根腐れ政治と呼びましょうかね。
(注:家父長制オヤジには性別はありません。杉田水脈のような輩もオヤジです)
 だから、
「時間に追われた<わたしたち>は、こうしたケアのあまりに偏った配分を不正義として捉え直し、今こそ声を、つまりケアを求める声を上げるべきであろう」
と岡野八代は言う。
 そして、こう問う。
「なぜここまで執拗に家父長制といった構造的不正義が持続しているのか、その倫理的抵抗の源泉はどこにあるのか」
 その問いへの一つの応答として、岡野八代は、キャロル・ギリガンのこの言葉を引いて、『ケアの倫理』を締めくくる。
「こうした疑問に対する探究を通じてわたしたちは、声と関係性に基礎を持つケアの倫理を、不正義と自分の沈黙の双方に対する抵抗の倫理としてみるようになった。ケアの倫理は、人間の倫理の一つであり、民主主義の実践とそして、グローバルな社会が機能するためには欠かせない倫理なのだ。もっと論争的なことをいうならば、それは、フェミニストの一つの倫理であり、家父長制から民主主義を解き放つための歴史的な闘争を率先する一つの倫理である」
 
さて、闘いますか。

パレスチナのドキュメンタリー映画「壊された5つのカメラ パレスチナ・ビリンの叫び」を観た。

今日、2024年4月21日、大阪西成区の津守、リユースショップえまうすにて。
(ちなみに、えまうすはこういう場所 エマウス運動 - EMMAUS OSAKA CENTRE
 イスラエル vs PLOだとか、イスラエル vs ハマスという視点で、俯瞰して語られるものとは異なる、人間たちの姿を見た。
オリーブの木のように地に根差して生きるパレスチナの民。
 無法にも土地を奪い、命さえをも躊躇なく奪っていく、イスラエル国家という圧倒的な暴力装置に抗する闘い。
言葉を尽くして、知恵を尽くして、時には礫を投げての、素手の闘い。
 そこには、外からやって来て、共に闘う者たちもいる。なかにはイスラエル人もいる。
日本の政治家が形ばかり被災地を視察に行くような感じでやってくるパレスチナ側の政治家たちもいる。
 植民地主義との闘いの現実とは、こういうものなのだ、理不尽の極み、非対称の極みの世界に命が放りこまれ、蹂躙される。子どもだろうと容赦はない。ということを痛切に思い知る。
百十数年前、朝鮮半島で起っていたことも、こういうことなんだろうと、ひしひしとリアルに感じる。
 この理不尽極まりない闘いの光景を、カメラで命懸けで撮り続けたのは、イマード・ブルナート。イスラエル軍に壊されては、新しいのを入手して。5台のカメラが壊された。
最初の1台は、4番目の息子の成長を記録しょうとして手に入れたカメラだった。
「一度傷つくとその傷が治った後でも忘れない。しかし何度も傷つくと古い傷のことをわすれてしまう。カメラはそれを忘れない。だから私は傷を癒すために撮りつづける」と、イマードは語る。
 10月7日以降、イマードは無事なのだろうか? 彼の家族は? 彼の村の人々は?
 パレスチナは遠い。地図上では。
 しかし、植民地主義との闘い、ということでは、ここ日本からだって地続きの場所。
 地続きの場所に生きる、私たちの友。
 闘う彼らとともに、闘うわれらでありたい。

2024年3月31日 十和田に明山応義画伯のアトリエを訪ねた

 

壁いっぱいに「野火」シリーズの一枚が。

 

 

 

 

 

野火を背にした少年のこの眼差しを見よ。

 

少年は英字新聞を尻に敷いている。

 

画家が若かりし頃に訪ねた旧植民地アルジェリアでは、ヨーロッパへと向かうべく、無数の民が鉄道駅に、新聞を地面に敷いたり、新聞をかぶったりして、横たわったり、座り込んだりしていたという。

 

しかし、画家はなぜフランスの旧植民地を訪ねたのか?

 

24歳だった。その頃はまだ画家を志す青年だった。人生をかけて青森・十和田からパリへと向かった青年は、モンパルナスの丘のふもとの移民街に暮らし、旧植民地出身のムスリムたちと親しくなった。

そして、彼らがあとにしてきた地を無性に訪ねたくなって旅立つ。

アルジェリアサハラ砂漠……、

そこで、胸に刻み込まれたのが、新聞紙に身を包んで出発を待つ移民難民たちの姿だった。

 

「野火を背にして、明日の世界を睨みようにして眼差すこの少年は、自分自身だ」と、今では79歳になる画家が言う。

 

絵の中の少年が尻に敷いている英字新聞。これは三沢基地から持ってきた新聞をそのまま描いたもものだという。

 

背後の野火は、画家が訪ねていったシベリアの激しい森林火災の業火。画家はその目で森林火災を見たのだという。

 

画家はそれ以上のことは語らなかったが、

絵を見る私は、旧植民地ー移民難民ー米軍基地の英字新聞ー野火といった言葉が喚起する、燃え上がる火に包み込まれているかのような「今この世界の物語」と、その世界から新しい世界へと、必死の旅路に身を投じんとする「少年の物語」を思わず想い描いている。

 

 

もう一枚、画集で見つけた印象的な絵。

これは画家が描いた母親。

タイトルは「遠い日・夏」

 

画家は旧植民地出身の在日二世。

母が死ぬほど働いて、子どもらを育て、家を支えた姿をずっと見ていた。

その母に家を建ててやりたいと、どんな仕事も厭わずに死に物狂いで働いて貯めたお金で、24歳で母の家を建てたのだという。

そして、次は自分のこと。

他の兄弟のように勉強ができるわけでもなく、なんのとりえもない自分がただ一つ、子どもの頃から得意だったのは絵を描くこと。

そうだ、画家になろう。

迷わずにそう決心したのだという。

もし画家になれなくとも、24歳までにどんな仕事でもやりぬいてきた自分なんだから、何をしても生きていけるという自信があった。

だから、迷わず、画家になろう、絵を描こうと決心した。

そして、まだ何者でもなかった青年は、妻子を十和田に残して、パリに向かったのだった。

 

 

 

パリから、フランス旧植民地へと砂漠へと、果てへ果てへと旅をして、そこで明日への旅の厳しい出発点に立つ者たちに出会って、画家が最初に描いたのが、この絵なのだと聞いた。

 

 

www.shinseisaku.net

秋田 大館市花岡に行ってきた。中国人虐殺の記憶をたどって。

青森十和田から奥入瀬渓流沿いの道を走って、大館へ。

 

youtu.be

 

山腹に「大」の字。

大館の大文字は昭和に始まったもので、歴史は新しい。

 

 

 

太平洋戦争中の1944年、

軍需物資である銅増産のため、藤田組の花岡鉱山のインフラ整備(鉱滓堆積場整備工事/堤防建設・排水暗渠工事、山腹水路工事)を鹿島組が請け負った。

 

鹿島組は、厚生省に華人労務者斡旋申請書」を提出し、

1944年8月(294名)、1945年5月(589名)、6月(98名)の中国人が花岡に連行されてきた。

 

この中国人たちは、戦争捕虜、もしくは拉致されてきた農民。

洛陽・西工収容所、石家庄・石門俘虜収容所、北京・西苑収容所、済南・新華院、青島収容所等から、日本へと送られた。

 

送りだしたのは華北労工協会」

華北の労働力を華北満洲に調整配分すること、賃金の統制、俘虜の輸送手配など、華北の労働を一元的に統制する機関であり、興亜院華北連絡部(日本内閣直属機関)の指導下にあった。

 

この華北労工協会が、日本への中国人強制連行の89パーセントを担ったという。

 

1942年1月1日をもって華北の中国人俘虜(戦争俘虜および拉致した農民など)を一人当たり35円で売ることに決定したと、

華北労工協会は「満洲」の日本企業に通知していたともいう。

 

まさに奴隷売買。

 

そして、内務省が花岡鉱業所の中国人の扱いついて出した指示は、

「濡れたタオルの水が一滴もなくなる迄もしぼる方針を取れ」

 

①粗末な穴倉式仮小屋が華労の性格に適する。

華人労働者は露店生活する者が多いから、4枚も布団を支給するのは多すぎる

華人は麦粉が主食で、より下級な食料を摂っているから、麦粉22キロ(中国人労働者総数/1日)の支給は贅沢すぎる。

 

このような状況の中で、殺されるくらいなら立ち上がろうと、

1945年6月30日に中国人労働者が決起し、逃亡を図った。

しかし、逃げきれずに捕まった中国人たちは、縛られたまま三日三晩炎天下の中を、花岡の芝居小屋共楽館の前に置かれ、拷問され、そして、7月7日、13人の中国人が秋田刑務所に収容される。

 

一方、

鹿島組関係者が、戦犯容疑で米軍により秋田刑務所に収容されたのは、

敗戦後の10月15日以降のこと。

 

 

花岡に連行されてきた中国人986名。

花岡で殺された中国人は419名。

 

 

 

花岡平和祈念館

この日(2024年3月31日)は、みぞれ混じりの雨模様。寒い。

 

 

亡くなった方々の名札。

 

 

 

花岡鉱業所 共楽館前に縛られて放り出された中国人
共楽館内での拷問の光景

 

1949年11月1日、鹿島建設が、信正寺裏の畑の地下に納骨堂設置。

その上に追悼供養塔建立。

 

1950年7月1日 山本常松花岡町長が個人の資格で施主となり、供養塔前で慰霊。

ここで大事なのは――、

◆花岡鉱業所で働いていた朝鮮人たちが、1949年の夏と秋に中国人の遺骨調査をしていたこと。

◆1949年10月1日に中華人民共和国が成立していたこと。

◆中国人労働者の慰霊が、親共産主義的な行為とされる空気が醸成されつつあったこと。

 

そのなかで、町長が個人の資格で始めた慰霊祭は、花岡町による慰霊祭として続けられ、現在では大館市主催の慰霊祭となっている。

町村合併の際も、花岡町側からは行政による慰霊祭の継続が条件として付けられていたのだった。

 

 

信正寺

この寺の住職が、町長と親しかったという。

 

 

信正寺裏 慰霊塔(鹿島建設建立) 新しいものと古いものと

 

 

信正寺住職による、供養塔保存改修の記

これを読む限り、当時の住職が中国人犠牲者の供養に心を砕き、鹿島建設にこれを建立させたことがうかがえる。

 

 

高秉權(コ・ビョングォン)『黙々  聞かれなかった声とともに歩く哲学』(明石書店) メモ

高秉權。この韓国の哲学者が書くものは、とても好き。


哲学・思想がこの人の体をくぐり抜けると、社会を底から変えてゆく実践と結びついてゆく。
小さな声を封じることで成り立つ近代社会を支える人文学ではなく、変革の人文学が見えてくる。

     

『黙々」は、1993年に設立された障害者夜間学校 ノドゥル夜学の話から始まる。
ノンステップバスなどない。街はバリアだらけ。どこもかしこも介助をお願いしなくては移動ができない。学生たちが夜学に来るには大変な労力と時間が必要だった時代。

 

1999年に一人の学生が地下鉄の車イスリフトから転落する事故が起きる。これをきっかけにノドゥル夜学は移動権の保障を求めて闘争に入る。バスの行く手を塞ぎ、線路に体を縛り付けて。

 

社会そのものを障碍者の方へと移動させる。
社会全体を新しく学ばせる。

「学生になるためにはまず闘士にならなければならない。」
おのずと打ち立てられたノドゥル夜学の精神。

高秉權は、このノドゥル夜学で、一見すぐには何の役にも立たなそうな人文学の講座を持つ。
(そもそも{~のために}という発想が人文学を閉じたものにしてきた)

哲学者 高秉權は言う。
「生を諦めるのか、生きぬくのか。わたしは人文学の勉強の領域はここにあると考える。どのようにであれ生きぬかなければならない。それも「よく」生きぬかなければならないという自覚。生に対するそのような態度、そして姿勢のようなもののことだ」

この言葉とともに、高秉權はメキシコのチアバスの先住民女性の言葉を引く。
(これはノドゥル夜学のHPに掲げられていることばだそうだ)

そして、これもチアバスの実践から生まれた深遠な言葉。
   

「もしあなたがわたしたちを助けにここに来られたのであれば、あなたは時間を浪費しているのです。しかしもしあなたがここに来た理由が、あなたの解放が私の解放と緊密に結びつくからであるならば、ともに働いてみましょう。」

(チアバスの先住民の言葉)

 

『ハイファに戻って/太陽の男たち』ガッサーン・カナファーニー(河出文庫)

灼熱の砂漠を、車に積まれた鉄製の空の水タンクに潜んで、クウェイトへと密入国しようとする三人の男たち。密入国ブローカーに払えるような大きな金の持ち合わせはない。しかし、クウェイトで職にありついて生きのびたい。

三人の男たちは、車が検問所の手前から検問所を抜けるまでの数分間、タンクの中の業火のような熱地獄に耐えれば、その先に天国が待っている、はずだった。

運転手が検問所で係官の戯言に捕まって、無駄な時間を浪費することがなかったなら。

この運転手は宮刑のようにして男性機能を奪われたパレスチナ人で、

たまたまありついた金持ちの運転手の仕事のサイドビジネス密入国ブローカーもどきをしようとしたのであって、それでぼろ儲けをしようと思ったわけではない。

必死でクウェイトに脱出しようとする貧しい男たちを、運転手は運転手なりに必死に手伝ってやろうとしたというのに、

検問所の係官たちが、女遊びなどできない運転手に、そうとは知らずにいい女と遊んでいるらしいなと妙に絡んでくる理不尽、それが20分にもなれば、空の水タンクの中の男たちを蒸し殺しだ、声もなく、じりじりと砂漠の灼熱の太陽に焼き殺された太陽の男たち……

 

運転手は、死せる太陽の男たちを前にして、叫ぶんだよね、

「なぜおまえたちはタンクの壁を叩かなかったんだ。なぜ叫び声をあげなかったんだ。なぜだ」

すると、砂漠がいっせいに谺するんだよね。

「なぜおまえたちはタンクの壁を叩かなかったんだ。なぜ叫び声をあげなかったんだ。なぜだ。なぜだ。なぜだ」

 

カナファーニ―が文字として書いているのはここまで。

 

 

灼熱の砂漠の砂粒の一つ一つが、この世界で声もなく殺されゆく者たちのようであり、

そのひそかな叫び声のようであり、

そもそも私たちは既に空の水タンクに隠れて、新しい世界への脱出を夢みる存在でしかないようでもあり、

くだらないこと、ほんとうにくだらないことで、私たちの脱出は足をすくわれるばかりで、

でもきっと、私たちを破滅させるのは、金や女が大好きな連中なんだと、そんなあまりにばかばかしいことを絶望的に思いつつ、

 

みんなタンクの壁を叩け、叫べ、と私もついには叫ぶのでしょう。

灼熱の砂漠の砂粒たちよ、なぜだ、なぜだ、と世界中にその問いを響きわたらせろ、

と叫ぶほかないのでしょう。

砂粒の叫びを耳にした誰もが、なぜだ、なぜだ、と問いをつないで、世界中を「なぜ」で覆いつくして、転覆させるまで、叫び続けるんでしょう。

 

 

そうやって、叫んでいる間も、たとえばイスラエルにはイスラエルの、パレスチナにはパレスチナの、日本には日本の、沖縄には沖縄の、朝鮮には朝鮮の、アメリカにはアメリカの、それぞれの問題を体現しながら生きる者たちが次々と生まれ育ってゆき、しかもそれぞれの問題は、実は世界を覆う大きな問題、根本的な問題であって、すべてはつながっているというのに、人間たちは分断されている、そして、分断されている人間たちが過去にあとにした故郷は時と共に異郷となりかわり、人はもはや故郷は未来に作るほかなく、砂粒たちの叫びこそが未来の故郷の道標になるのだということを、忘れてはならない、と、おそらくガッサーン・カナファーニ―は死せるのちも叫びつづけているんですね、

なぜだ、なぜだ、なぜだ、と問いかけながら。