ある物語。

ある物語。

生まれたばかりの赤ちゃんがだんだんと成長していくにつれて、運動系やら情動系といった平行して働く沢山の仕組みが整備されてきます。そのうち言語系はかなり後のほうになってやってきます。
そこで初めて〈私〉が知られ、〈私〉を独立的な主役であるように錯覚します。〈私〉は言葉をとりまとめる架空の中心として仮構されたものなので、自らを主役とする錯覚は正しいのですが、そのうちうっかり自分こそを固定的な実体として捉えだします。


【問い】それでは、認識する架空の中心が、自らを架空であると認識することはできるのでしょうか。
【答え】できません。(知ったそのときには、コギトはコギトになってしまっている!)


それでも、問題「自らを架空であると看破せよ」には、答えがあります。答えを出したときには、跳躍は済んでしまっているというような答えが。それは、自分で自分を見ないこと。自分で自分を見るときには、コギトが不可避についてくるので、その逆をするということです。でもほんとうにそれをしたとき、自らを架空であると「知る」〈私〉はいません。自殺にも等しい跳躍。


ちなみに自殺の後、死んだままなのかというとそんなわけはなくて、自分で自分を見ること(すなわち人生)が再び始まります。それでも、〈私〉は〈私〉の外に触れて帰ってきたことを、なぜか知っています。そして、時に〈外〉に開くことができたりできなかったりしながら、生きていきます。

(おしまい)

君なくば

ここのまり十まりつきてつきおさむ十ずつ十を百と知りせば 良寛

君なくば千たび百たびつけりとも十ずつ十を百と知らじをや 貞心尼

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とても大切な大切な、命の恩人といってもよい人が、亡くなりました。幾人かと連絡をとりあい、その人にいのちを救われたと思っている人が沢山いることを知りました。


大学生のころ、感情をまったく失ったことがあります。

辛い苦しいを逃れたい逃れたいと思っていたら、辛い苦しいもない代わりに嬉しい楽しいも何もないところに行き着いてしまいました。

生きることは平坦で、もう何もすることがない、夢もなく恐れもなく、あとは余生のようなものと言った私に、「こけぐまさんの奥に五歳くらいの小さな子があって、泣いているような気がする」と教えてくれた友人がいます。私にはまったく実感がなかったけど、どこか真実だと思いました。それはたぶん、私の傷つきやすいやわらかいほんとうのところ。そこを守るためだったのでしょう、私が知らぬ間に感情を失ったのは。


その人に会って、坐禅を知って、その見知らぬ五歳の子にやっと会うことができました。傷ついても傷を知らない、そんなことがあると知ったから。感情がなくったってなんだって、文句つけなきゃすべてまる、ものみな救われ終わっているのです。
こんなことを教えられる人、他になかった。


君なくばちたびももたびつけりともとおずつとおを百と知らじをや


ほんとこんな人、他にない。
これでお別れするわけではないけれど、最後のご挨拶に行ってきます。

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2011年5月20日午後3時2分、川上雪担和尚が遷化しました。
それでも、こけぐま出版はぼちぼちとやっていきますよ。(・・・のつもりでしたが、いったん店じまいをすることにしました。)

無題

傷ついた、つらかった、悲しかった、みじめだった、
その感情は、何とかしてくれ苦しいと言う。

みかえせば、やりかえせば、「何とか」なるのか。
まあそうだ、だけどそりゃきりがない。あがったりさがったりするっきり。
許せばいいのか。
まあそうだ、だけど許すことが浪花節じゃしょうがない。

自分で自分を見ないこと。
傷ついた、つらい、悲しい、みじめだの真っ只中でそれを免れること。
救いとはこれ。

無所得を以っての故に、菩提薩埵

無題

言葉では届かない。
理屈では辿り着けない。
そのことが、「分かる」という不思議。(分かるとは言語内=意識内の出来事なのに)
だから、「気づいている」というのが正しいのかもしれない。
「分かりえない、分かったらそれはすでにそれではないということ」に気づいている。


「不思量底いかんが思量せん。非思量。」

問い。「無=ない」をどうやって考える。
考えるとはすでにして「存在=ある」でしかないのに。

答え。非思量。すなわち、考えるのでもなく、考えないのでもない=考える主が消え失せている=問う主消えればそれがそのまままるごと答え。

言語平面からの垂直ジャンプ。
こんなこと、なんで語ろうだなんて思ったんだい。

連作123

連作1

私(の自意識)は言葉でできている。
たとえば呪文が意味と効力を持つのも、私が言葉であるからだ。
その言葉である私をとらえようってのが、真理の探究。
だけどこの私は架空だから、いくら交通整理したって、追いかけたって、新しい言葉で新しいところ見つけたって、それはただそれだけのこと。
一切は言葉の夢。
自分良くなった悪くなった、こんな自分ダメあんな自分イイ、全て言葉が見てる夢。
自分の持ち物一切合切自分のものでない。
それを囲って持ち主だと思いこみ威張っている自分は、役立たずの用無し。



連作2

私(の自意識)は周回遅れで身体に付きそう解説員(しかも自分じゃ監督のつもり)。
自分が周回遅れとも知らず身体に向かって、あれやれ、これやれ、あれだめ、これだめ、いいのわるいの言っている。
そしてその通りになったら、おれがよかった、○○だから。
その通りにならなかったら、おれがだめだった、××だから。
なんて、ご託並べてご満悦。
なーにしてんだ、この役立たず。
安楽椅子に腰掛けて。
とんだ自閉症
自分を見るというよそ見。
ともかくてんで遅いんだ。

自分の慮りなんかすっとばして世界はどんどん進行してるっていうのにさ。



連作3

自分役立たずの、なんて、すがすがしい。
広くって、わああと叫びたくなるような、嬉しい。嬉しい。