埼玉県職員の残業2,000時間の件について

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http://sankei.jp.msn.com/region/news/121106/stm12110619520003-n1.htm


残業2,000時間超の理由が税システムの更新だと聞いて、これは起こりうる話だろうなと思いました。


勿論、行政の仕事にもそれぞれに専門性があるわけですが、税システムの更新ですと、まず「税業務」「システム」に関する二重の専門的な知識が必要な上に、その税システムの運用・更新に必要となる個別の業務知識があって、更新時にトラブったからと言って、追加で人事配置をしようにも、その様な人材などそうそういなかったであろうと思われるからです。


追加の人事配置を行うとすると、税務課や情報システム部門の職員から、という事になるのでしょうが、税務課の他の職員は、税には詳しくても、システム関係の業務知識に乏しいですし、情報システム部門の職員が助けようとしても、逆に彼らはシステムには詳しいかもしれませんが、税業務関係の業務知識に乏しいわけで。


税システムは収納・窓口業務に関係しますから、作業の多くは深夜や休日にどうしてもなりますし、では深夜・休日作業の代わりに日中休めるかというと、日常業務の上に、更新関係の業務(業者との打ち合わせだの、庁内の調整だの)が追加で存在していたわけで、それはそれでかなり忙しかったでしょうし、振り替えで休みを取るのも非常に困難だった様に思います。


この様な残業をなくそうと思えば、結局は、トラブルが起きても大丈夫な様に、同程度の専門性と業務知識を有した人材を予め育成しておき、余裕をもって配置しておく、という事になるのかと思います。知事が言うような「コンピューターやシステム開発」では解決しませんし(というより、当の「システム開発」が残業をもたらしているわけですが)、また残業時間の上限を定めたからといって、システム更新時の仕事やトラブルが勝手に消えてくれるわけではありませんから。


しかし、埼玉県の人事管理の担当を弁護するつもりもないのですが、人員を配置しておくのも困難な話だったのだろうと思います。どの自治体も採用減で毎年人員が減っていくばかりで、この様な「余裕」を持った配置を行う余裕はありませんし、県民数に対する職員数の少なさを以て、知事が「最小・最強の県庁」と称していた様な、埼玉県の件なら、なおさらそれは難しかったでしょう。とりわけ確実にそうだっただろうと思うのは、今回の残業代に「税金泥棒」の声を上げている人が、その様な緊急時のためのバッファがもしあったとして、それを見たら「公務員は人が余っている、奴らは税金泥棒だ」とも言っていただろうという事ですが。

深夜までの明かりはサービス残業ではなく電気の無駄遣いの証拠らしい

最近話題になった、みんなの党の富田さんが、丁度1年前に下記の様な記事を書かれていました。
冨田かおり公式サイト

月平均16〜20時間の残業というと、民間レベルではそう多くない。というか全然多くない!
ならばなぜ、毎日のように深夜まで全階に明かりがついているのだ?無駄に電気をつけすぎているのか?それはそれで問題だ。



「月平均16〜20時間の残業」分の時間外勤務手当しかないのに、「毎日のように深夜まで全階に明かりがついている」のは何故か、というと、それは市職員がサービス残業をしているからではないか、という答えが普通に出てきそうなものなのですが、「公務員の世界は、サービス残業や打ち切り残業はない」という確固たる世界観があるため、目の前にある状況が「サービス残業」の証拠だとは認識できず、「電気の無駄遣い」の証拠の様に見えてしまうんでしょうね。


多分、民間だったら、同じ様な状況を見て「サービス残業が行われている」と素直に受け取られたのだと思うのですが。民間企業は残業代は一定額で打ち切りで、公務員の残業代は青天井だという、お決まりの「民間と比較して公務員は…」図式があるから、同じ様な状況でも全く違った風に受け取ってしまうんでしょうか。そもそもその「民間」が違法なのですから、それはそれでなんだかなあという感じなのですが。

大阪維新の会の議員が議会での発言に謝罪を求めている件

堺市議会の大阪維新の会の議員の方が、疑惑をかけられたという事で、ブログ上で怒っておられていました。


政治家の本分 | 池田かつしBlog
堺市議会(北区選出)の長谷川俊英氏が指摘した内容についてご説明申し上げます。(PDFファイルを開きます)


同じ堺市議会の長谷川氏が、領収書とかの資料を入手して、議会で発言をしたみたいなのですが、疑惑は事実無根だという事で、疑惑をかけた長谷川氏に対して謝罪を求めている様です。


勿論、僕も事実無根な疑惑を掛けたのであれば、当然謝罪すべきだと思うのですが、でも大阪維新の会的には「議員が議会において、入手した資料の真偽を正すべく、質疑を行うのは、むしろ市民から与えられた職責」で、「強制捜査権のない議員が、疑惑文書の真偽を確定、調査した上でなければ質疑ができない、というのであれば、疑惑の追及は「するな」 ということになり、議員の自由な言論を阻害するものであって」許容されるものではなく、「市民には真実を知る権利があり、議員は市民の代表として自由な言論のもとで質疑を通じて真実を市民に明らかにするよう努め、その事実に基づいて市民が判断する、これが民主主義の根幹」ではなかったでしたっけ。


捏造リストの件で、大阪市会議員団の機関紙で気高くそう回答されていた様にも思うのですが…。大阪市ではそうだが、堺市では違うという事なのでしょうか。それとも組合や職員の疑惑はそうだが、自分達の疑惑の場合は違うという事なのでしょうか。「民主主義の根幹」という割には、時と場合で色々違う様な気がしますが。


議事録はまだ堺市の市議会ホームページにアップされていない様ですが、pdfファイルの中に記載されている様に、「議員として当該法人への口利きをしたのではないか」という言及だったら、断定まではしていないわけですしね。一部断定的な表現をして市議会で質疑しても、当事者に謝罪しなくていいはずだったのに、断定まではしていない様に見えるこの表現は謝罪の対象になる様で、維新の会の「謝罪」の基準はよく分からないです。

「手を前に組むのはマナー違反」の実例

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120320/wlf12032021520017-n1.htm

また学校行事の際、教職員に国歌の起立斉唱を義務付けた大阪府大阪市の条例にからみ、高校の卒業式で国歌斉唱時に手を前に組んだり、マスクをつけたりした教員がいたとして「国際社会においてそれは非礼。当たり前のルールを教育現場でやらないと、子供たちのためにならない」と批判した。



地域の人しか来ないであろう卒業式で「国際社会において非礼」とか言う理屈を持ち出して、マスクするのは無礼だ、手を前に組むのはマナー違反だとか言うのは、僕にはあまり理解できないのですが、そう言えば、卒業式より国際的な場だと思われる場所で、手を前に組んで君が代を斉唱していた人がいました。この人。


ボクシングの亀田大毅の試合前、君が代を斉唱する橋下徹・大阪市長(右)と松井一郎・大阪府知事。


僕は別にマナー違反とも思わない訳ですが、この松井知事の行動は、維新の会の人達にとっては国辱ものでしょう。外国から選手やレフェリー等も来ていて、卒業式より遥かに国際的な場だと思われますし、放映もされていて、数多くの子供達や市民、もしかすると外国の人達も見ているわけですから。教師に対する態度を考えれば、きっと早急に厳格な対応がなされるのではないでしょうか(皮肉)。


あと、マスクの件で、マスクをする=口元チェックを避けると見なしている人もいる様ですが、大体口パクしておけば、口元チェックなんて逃げられるわけでして、マスクをするのは、風邪とか花粉症の人が式典中にくしゃみをしないための配慮だと思うんですけどね。そちらの方がよほどマナーを考えた行動だと思うのですが。マスク無しで国歌斉唱中にくしゃみ連発されてもいいんでしょうか。その時はその時で「不届き者の教員が国歌斉唱を乱すためにわざとくしゃみした」と難癖をつけられそうな気もしますが。

「9条がなかった時代」にあったもの

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120306/waf12030607080000-n1.htm

被災地のがれき処理の受け入れが各地で進まない現状に対し自身のツイッターで「すべては憲法9条が原因だと思っている」と書き込んでおり、報道陣に真意を問われ、憲法9条についての見解を答えた。橋下市長は「9条がなかった時代には、皆が家族のため他人のために汗をかき、場合によっては命の危険があっても負担することをやっていた」と指摘。



この記事を読んで、数年前に読んだ激高老人さんのブログの記事を思い出したのですが、「9条がなかった時代」におそらく確実に存在していたのは、自らは「自分のために生き」ながら、他人に対しては「皆が家族のため他人のために汗をかき、場合によっては命の危険があっても負担する」ことを要求する「愛国者」の人達ではなかったのかと思うのでした。


愛国者が威張った時代: 激高老人のぶろぐ

ところでこういう人たちは、他人に対してはお国への奉仕を要求しながら、自分たちは結構私利私欲を追求して恥じるところのない人たちなのである。そして仮に不幸にして戦争が起こった時、彼らは安全な場所にいながら若者たちに対してお国のために死ねと言う人たちであると、拙者は確信している。

お国のためにからだを鍛えた若者がいたとすれば、彼はその立派な体格のゆえに若死にしたのだ。一方「お国のために死ね」と煽った人たちのほとんどは無事に生き残った。彼らは結構「自分のために生き」ていたからである。



今は、あからさまに他人に危険や負担を追わせるために「お国のために死ね」というのは、「9条がなかった時代」に比べて難しいですから、その9条をダシにして「9条がなかった時代には、命の危険があっても負担することをやっていた」と言う事で、他人に危険や負担を追わせたいという事なのかもしれません。「9条がある時代」の「愛国者」。

「批判者は現場を知らない論」の終着駅

橋下徹 on Twitter: "そんな組織のトップは、太田教授が考えるマネジメント手法なんかでマネジメントはできません。典型的な現実不認識の机上の論。役所の課長に対して講義する論理がそのまま大阪市長に通用するわけがない。役所の組合と血みどろの政治決戦を踏まえた大阪市長と言うポジションは特殊です。"

そんな組織のトップは、太田教授が考えるマネジメント手法なんかでマネジメントはできません。典型的な現実不認識の机上の論。役所の課長に対して講義する論理がそのまま大阪市長に通用するわけがない。役所の組合と血みどろの政治決戦を踏まえた大阪市長と言うポジションは特殊です。



批判の対象となっている、同志社大学政策学部の太田肇さんは、組織論を専門に研究されている方で、国家公務員や地方公務員の「現場」の経験もある方なのですが、「批判者は現場を知らない」論は、批判者が体験していない「現場」を持ち出すしかないので、結局終着駅として「役所の組合と血みどろの政治決戦を踏まえた大阪市長」という自分しか知らない「現場」が出てくるのでした。


この論を認めるなら、結局は全て橋下氏が正しいわけになります。この特殊な大阪市長という「現場」を知っている人は橋下氏しか世の中にいませんので。勿論、京都市長も現職の門川氏が殆ど全て正しい。京都市共産党系が強いといった、様々な事情がある特殊な「現場」で、その「現場」を体験し、知っているのは門川氏以外には殆どいないわけですから。


あと、このツイートは、ワタミに対しても応用が可能です。「そんな組織のトップは、太田教授が考えるマネジメント手法なんかでマネジメントはできません。典型的な現実不認識の机上の論。一般企業の課長に対して講義する論理がそのままワタミに通用するわけがない。業界内で血みどろの競争を行っているワタミの会長と言うポジションは特殊です」。「特殊」と言った者勝ちの世界。

橋下氏の「功績」の矛盾の件

井戸まさとし(スズメおやじ) on Twitter: "谷川議員の引退は当然としても後釜に大阪府の借金を膨れあがらせたあの女性元知事の名前が上がるとは。自民党も懲りてないですね。"

後釜に大阪府の借金を膨れあがらせたあの女性元知事の名前が上がるとは。



維新の会の人達は、「太田府政は財政を悪化させたが、橋下改革により救われた」と功績を語る一方で、大阪府の府債が橋下氏の任期中に増加している事を指摘されると、臨時財政対策債等を除いた府の「府の実質的な借金の残高」なるものが減少したことを功績として持ち出されるのですが、彼らの主張を見る限り、その二つはそもそも相容れない主張の様に思うのでした。


http://www.pref.osaka.jp/koho/chiji/20110510_husi.html
といいますのも、上のリンク先が、大阪府のホームページに載っている橋下前知事の主張のページで、上記のとおり「臨時財政対策債等を除くと、府の実質的な借金の残高は減少している」と主張しているわけですが、彼の主張による「府の実質的な借金の残高」では、太田府政の時から既に減少傾向が続いているように見えるからです。グラフ1を見ると一目瞭然です。


つまり、「太田氏が大阪府の借金を膨れあがらせた」というのであれば、上記の資料を見る限り、その借金は「府の実質的な借金の残高」ではなく府債総額の話と思われるので、太田氏を批判するのであれば、橋下氏についても同様に批判されるはずですし、逆に、橋下氏を「府の実質的な借金の残高を減少させたのが功績だ」と評価するのであれば、太田府政を「大阪府の借金を膨れ上がらせた」と批判することはできないはずです。


しかし、大阪維新の会の人達は、太田氏が大阪府の借金を膨れ上がらせたことを批判しつつ、一方で橋下氏が府の実質的な借金の残高を減少させたことを評価するわけです。当の橋下氏が「借金残高はピークである平成14年度の3兆233億円から平成21年度の2兆7,708億円(決算額)へと確実に減ってきています。」と太田府政で府の実質的な借金の残高が減っていることを認めているのに。むしろ、維新の会の人達が、大阪市の平松前市長が財政指標を良化させたことを「それは関前市長の成果で平松氏の功績でない」と言っていたことを考えると、これについても「それは太田前知事の成果で橋下氏の功績でない」と言っても良さそうなものですが。


せめて、自分達の主張の中だけでも、自分達の功績を矛盾無く主張できないものかとも思いますが、わざわざそうしなくても「太田府政は財政を悪化させたが、橋下改革により救われた」と思っている人はそれなりにいるわけで、必要性を感じていないんでしょうね。数字や引用する指標の整合性より、わかりやすい「予算の黒字化」(しかし収入には借金が含まれる)アピールが功を奏するわけです。漠然とした予感ですが、大阪市政でも、その様な、わかりやすい数値のアピールが再び繰り返されそうな気がしています。