ブログ移転します。

ブログ移転のお知らせ。

続 オペラ座の怪女の日記へ移転しました。

このブログの続きは 復活したい。
もしくは、
サイトマップ へどうぞ。


途中長いブログ中断あれど、王様の耳はロバの耳。思いの内をただ書きなぐってきた日記。
長くなっているのでカテゴリー分けしようとおもったのですが、よくわからず、
移転することにしました。

ライブドアブログです。
膠原病 免疫抑制剤や、ステロイドプレドニンのこと。
アトピー のことなどです。

第二章、病気のデパートだけど、
せめて魂だけでも、復活〜と行きたいところ。
新ブログ、どうぞよろしく。。


このブログの過去記事は上のヘッダーの記事一覧からどうぞ。月別になってます。

本 あなたに話したい1

今年3月下旬も決して体調はよくなかった。
アトピープレドニンの服用で落ち着いていたが、
続いている左頸部痛とひだり手足のだるさは膠原病から来るものなのか。ああ、病気のデパート。
アトピー膠原病、そして将来への不安。

闘病の間パソコンは助けになる。
情報を探したり 同病の人といろんな闘病法の意見交換、悩み愚痴などなど。ただ、やはりネットには限界がある。

友の会というところにも顔はだしてはみた・・。意識の根底で満たされるものはない。


そうだ。日記を書けばいいんだ!。
若い頃はいいことがあっても悪いことがあってもよく日記に書きなぐっていた。誰が好きで〜。上司がどうだ〜。
〇とケンカした〜etc.それですっきりした。
パソコンをするようになってから、とーんと手で書くことが減っていた。
よし日記を書こう。思いを紙に書いちゃえ!
と久しぶりにノートを開きペンをとった。


が、今回は違った。
書けば書くほどに気持ちは泥沼にはまっていくようだ。
気分が落ち込んでいくのだ・・・。Why?
病気+いろんな想い
書くことで昔のように自分の不安を解消できると思った。

しかし長年の皮膚炎と加わった膠原病で私の心は限界だった。ああ、自分では自分を救えない。
どうしたらいいのだろう。
誰か助けて!でも誰も私を救えない。
家族も友達も、パソコンも。
そして自分も自分を救えない。


2年前に買った詩集「だいじょうぶだよ。」 晴佐久昌英著はすでに枕元におくようになっていた。


あ、そうだ。私は本棚へ向かっていた。
アマゾンで去年2013年11月に買った本。
ぱらっちらっとだけ見ただけで、
そのまま本棚に突っ込んでおいた本。

同じく、カトリック多摩教会の晴佐久神父さんの本。

あなたに話したい

あなたに話したい (晴佐久神父説教集)

あなたに話したい (晴佐久神父説教集)



とある夜、
どうしょもなくなりこの本を読みだした。
そして私は慟哭したのだった。

続きは 移転先のライブドアブログ 続オペラ座の怪女の日記の
あなたに話したい2

続く

共に手をたずさえて。

今年の3月ごろ・・湿疹は以前よりおさまっていたけど、膠原病?からかまだ左手足に違和感があって 体調が悪い日が続いていた。そこへ、ひとりの友人の死。
家の庭屋さんの娘さんCちゃん、バツイチ独身で長年過食に苦しみここ2年で拒食症に転じた。
Cちゃんとは去年の7月ごろ 連絡を取り合うようになり、メールのやりとりもした。 
その9月に拒食で救急車で入院、大腸がんが発覚
手術をしたけれど 散らばっていて、手遅れで
今年3月に亡くなった。 
余命が短いということは彼女には知らされなかった。もう十分、拒食で苦しんできた。辛い知らせを知ることはない0。と家族の判断だ。よかったと思う。ギリギリで踏ん張っていたから。



メールのやりとりを始めたころ、Cちゃんが突然家に来たことがあった。突然くるなんて、彼女も一杯一杯だったのだと思う。極度に痩せていて、私と同じくかなり老けてみえた。


その時すでに164センチ32キロ。
5月に退院したときは40kあったそうなのだが、
拒食の意志強固のダイエットで順調に痩せてしまうのだ
32キロ?と聞き、私はびっくりし、焦り過ぎ、「もうちょっと食べようよ。死んじゃうよ〜!」などと言ってしまった。
彼女はコーヒー飲んでいたのだが、20分滞在したぐらいで用があるからと帰ってしまった。


あー。拒食の人に「食べなよ」って言っちゃいけなかったのだよ・・わかってたのに。 
あまりにガリガリで、来てすぐに「ソファに横たわらせて」というほど体力が落ちてるようで、ついつい・・。
私の状況も説明開示するために私もハゲ頭は見せたのだが。


母は「あんたに何ができっこない。関わらずにいれば?
仕方ないでしょ。病院に入院しても拒食が治らないんだから。帰っちゃたしもう来ないんじゃない?あんたがベラベラ話すから。」と言った。


その時、拒食で障害3級手帳を所持。授産施設で月給2万の仕事してる。仕事は単純作業、賃金は安く、基礎3級じゃ年金も降りず 将来の見通しも立たない。
普通のバイトを探したいとその痩せ細った体で、バイトの探していた。

朝はキャベツとパン、昼はカップラーメン、夜は冷奴。
このまま食べないとまた、命も危ない。
もう拒食で二度も生死をさまよった。
生きる希望と未来・・って何。
「生きたい?死にたい?」
「死んでもいいかも・・」
「ダメ!私を置いていっちゃだめ!私は生きるから一緒に生きよう!」とメールしつつも
このまま拒食で、自然に旅立たせてあげた方がいいのかな・。
とも思った。
わかんなくなった。


知り合いの看護婦さんにきいてみたら、
拒食症の場合、死にたくないんだから救急車をぶだろう。本人に治す気がなきゃなおらない。「死にたいのなら死ねば」と突き放し、本人に自覚を促さなきゃだめとのこと。

でも死にたいんじゃなくて、
生きたいけど希望が見つからないから辛いんだよね。治す気がない、と言ってももはや脳内物質の問題だし。
どうしたらいいんだろう。


と、Nちゃんに相談のメールを送った。
Nちゃんは同じ学校だったのだけど
その時は知らず、友人を通して20代前半に知り合った友達。鍋パーティー、ディスコ、彼女と過ごした青春がそこにある。
30ちょい過ぎてからの私の長い闘病の間、
彼女は時折東京から電車に乗って何回かわざわざ
顔を見に来てくれたのだ。
無理しないで、具合がわるそうだったらすぐ帰るよ。といいながら。
たわいもない話をして、お茶を飲んで。


ありがたかった。
人はメリットのない人とは付き合わない。
だれしも一緒にいて楽しい人を好む。
病人とわざわざ会いに、それも 時を置いても連絡を取るなんて 酔狂な人は少ない。
容姿が変わっても、立ち上がれなくても友達でいてくれて、どれほど心の支えになったか。


メールを送ったのだが、その後すぐ自己解決した。

>自己解決しました。(*^_^*)。
私のままで、失敗もあるかもだけど寄り添う。自分の頭のハエも追えないのにと母は言うけど、
踏ん張るだけで精一杯な私だけど、目の前で流されて行きそうな彼女を見過ごすことはできないもの。ローブなら渡せる。
彼女に生きていこうよと言うことが
果たして幸せなのかは、わからないのが・。

とNにメールを送った。
Nちゃんは、「私は、そういう考え方をするオペラが友達でよかった」とメールをくれた。
母に「頭のハエもおえないくせに。まずは自分の病気を治せば」と否定された私を肯定してくれてうれしかった。


弱いからこそつながる必要がある。
世間は見捨てるから。見て見ないふりをするから。
弱ったものは、一人じゃどうしょもないからこそ、つながる必要があるのだ。一本の矢より2本の矢じゃないのかなあ?


確かに 母の言うとおり、まずは自分のあたまのハエを終えなのだろう。しかし、今にも溺れそうな彼女に、だれか手を伸ばしてるの?
もちろん家族は見守ってる。必死だ。
彼女は実は、陸上日本一もとったことがある選手。
そのころのアスリートは太るの厳禁。
一日何十キロと走りこむ、体力は必要だから食べなきゃいけないのだが、
太ったら、すぐに食事制限があったんだそうだ。
どうやら彼女の過食と拒食の原因の一旦はその時からのものらしい。
華やいだ経歴があればこそ、過食、離婚、そして拒食となって
友達ともだんだん疎遠になり、幼馴染とはそのまま付き合っていたようだけど、なかなか本音を語れる人もなく、
・・だからこそ私がだした自己紹介とともの、友達になってもらえないかな。の手紙にすぐに返事をくれたのだろう。


彼女が通院する日、こっそり私も病院にいった。
どうやら先生とうまくいってないらしく、病院慣れしてる私も一緒についていこうとおもったのだ。
黙っていったので彼女はびっくりしていたが喜んでくれた。 従姉妹ということで一緒に診察室にはいって
彼女が先生に訊きたかった質問を代りにした。ずうずうしいオペラ。
Nちゃんが私に会いにきてくれたように。
私もそうしたかったのだ。


そこから、彼女と私は、一層友達になった。
メールといっても、彼女と家族との「食べない」「食べろ」バトルとか、オペラ家の母娘喧嘩の愚痴とか
お互い栄養失調のため栄養剤のエンシュアリキッドの取り方とか。拒食でふらふらなのに昼のバイトのほかに夜のバイトも探してるとの求職してる話とか。
姪に走るの教えてあげてくれないかなあとか。
お互いの体調のことやら、たわいのない話も含めて。


9月中旬、
Cちゃんは布団上で意識朦朧してるところを母親が発見、救急車で搬送。体重26K。 
こんな体で、バイト探しをしていたんだよ・・・(涙)。

大学病院へ入院後、その後2か月は拒食を点滴治療するためベッド上で拘束されていた。
今時拘束なんてあるんだ・・と初めてしった。
面会も許されないとのことだった。

テレビの時間も携帯の時間も制限。
3時ごろから1時間の自由時間があった。
いい子にしてれば、制限を解いてくれるという拒食の治療のひとつの方法らしかった。
そんなんじゃ根本は解決しないのに。



Cちゃんはメールをくれた。
私もメールをした。
Cちゃんは私のメールが楽しみなの。といってくれていた。
あまりに「ありがとう」というから「あまりありがとうって言わないでお互い様なんだから」と答えた。



10月にこっそり食べたアイスクリームで腸閉塞を起こし、検査、大腸がん発覚。手術。 結果、手遅れで余命2か月〜半年と、弟さんから連絡があった。
本人にはとりきれなかった。拒食治療後、体重がもどってから治療と伝えたそうだ。
余命二か月ときいてびっくりした。
11月下旬、面会制限もとけたので、会いにでかけた。
その時Cちゃんはベッドの上で点滴やら心拍数やらの機械に囲まれていた。声も細く・・体力もなく歩けず・・
それでもベッドの上におきあがり、歓迎してくれた。



その後転院後、少し食べれるようになり、
「治して一緒にカフェめぐり。もう一度一緒に青春しよう。」と合言葉にしていた。
手術後、だんだん食欲がでて、3食食べるようになっていた。手術ができるように体重を増やしたいとの一身だったと思う。食べてるのになかなか体重が増えないといっていた。それでも救急車で運ばれたときは26kだったのに32kまで回復していたのだ。すごい。
年末年始は外泊許可。
その時電話したら 出会ったころよりもずーっと元気な声だった。久しぶりにコンビニにでかけ、大好きなスイーツを買い、家族と一緒に年末年始をすごした。
このまま家にいたい。病院に帰りたくないといいながら
病院へもどった。



1月下旬に電車とバスを乗り継いで、
会いに行ったときは元気を回復していたように見えた。
大粒のいちご甘王を買い、とろけるプリンをもって 会いに行った。
ちょうどリハビリから帰ってきたところ。
古いけど清潔で明るい病棟の個室。
11月は歩けずベッドの上だったのに、今回はすたすた歩けていた。
以前より元気で プリンたべながらおしゃべりをした。





末期の大腸がん。2月中旬大雪のあとぐらいからかなり苦しんだ。
たべれないようになり、おなかがきりきりと痛み。
「痛いよ。。」と何度もメールが来た。


大雪も降り、交通もマヒ。
そのうえ私の体調もよくなかったので会いにいけなかった。でもなんとしてでももう一度会いにいけばよかった。

私はどうすることもできず、メールでつらさを聴くことしかできず・・。

また先の知り合いの看護婦さんに電話。「ああ、大腸がんがあったのか・・だから拒食もそのせいだったのかも」と言った。
その看護婦さん、過去記事に書いたことがある。
自分も生死をさまよう大病をしたのに 上から目線にならず、人に寄り添う看護婦さんだ。
私もその時彼女の言葉と態度に救われた。


「もしよかったら、いっしょにその病院に行ってみようか」とも提案してくれた。


まずは今はいろんな緩和ケアの薬があるとののことをきき、そこの病院で処方してもらうようにと医師に伝えてと彼女に電話した。
モルヒネはね、痛みが治まればたべれるようになるから
そのためだって」といいながら。

・・会いに行けばよかったと後悔が残る。



なくなる3日前、電話したら通じて30分ほど
痛み止めの話と病状の話、よくなったらカフェめぐりしようね。 お互い厳しい環境だけどさ、2人だったらなんとかなるじゃん。一緒に花火にもいこうね と。
Cちゃんは四月になったら外泊するから、お花見に行こう!と
言ったのだった。

3月、桜を見ずに彼女は旅立った。

ああ、もう苦しまなくてすむんだ・・。と思った。

思えばいつもいつも彼女は私を励ましてくれたのだった。
私の調子が悪いとき、「オペラちゃんファイト!」「オペラちゃんのメールが楽しみ」
自分が大変なのに・・。

Cちゃんはいつも私を支えてくれていたのだ。
濁流にのみこまれないように、私を支えてくれていたのは彼女だったのだ。

彼女の弟さんがくれた、形見。
シンデレラのガラスの靴。が パソコンのそばに置いてある。

このことは書こうかどうか、迷った。
はたして書いていいのかどうか迷った。
でも書くことにした。

私は彼女を尊敬している。
いつもはげましてくれてありがとう。
友達になれてよかった。
会えてよかった。 


そう彼女に伝えたいから。

きんもくせいがよい香り。

土曜日は母が姪の運動会に出かけたため店番。
姪の運動会は今年で最後だが、おばちゃんは一度も顔を出してはいない。とても行ける状態じゃなかったし、
9月下旬のこのころ運動会の日は日中30度。炎天下はキツイ。
すぐに体温が8度近くに上がってしまっただろう。
そして、何より、そんなハレの場所にいてはいけないような・・
場違いのような気がしていて、ついぞ一度も行けなかった。
自意識過剰だといわれればそれまでだけど。
オペラ座の怪女の状態では、姪の学校と言う空間に顔をだせなかった。


姪が小学校低学年だったか、車の中でどこかに行く途中で聞かれたことがある。
「オペラちゃん、私も大きくなったら、湿疹がでるの?」
「なんで?」
「私オペラちゃんに似てるって・・言われた」
私「・・・。似てない似てない。絶対オペラおばちゃんには似てない。オペラちゃんの弟似、つまりはあなたのお父さん似だから大丈夫よ。お父さんは健康でしょ。肌もつるつるだよ。〇ちゃんだってお肌プルプルじゃん。
大丈夫だよ。似てないから。」
と頭をなでたんだっけ。


もっとも夏休などは姪のお稽古事につきそってでかけてたりはしたんだけどね。 
そこでは、「お孫さん何年生?」ってきかれたんだっけ。懐かしい思い出。今は笑い話として話してるけど、
当時としちゃ、大ショックだった。


ん?。今もそう見えるのかしらねえ。
自分じゃ少し若返ってるつもりでいるんだけど。



日曜日は午前ちょっと出かけて、午後店番。

青い空。
あちこちで金木犀のおれんじの香りがただよう。
香りたくて、かほりたくて、深呼吸する。

ああ、秋だ。
秋だなあ。

と感じられるようになってる。

進歩。


(・・強い薬のおかげなんだけど・・)

泣いたっていいじゃん。

メモみつかる 2年前の体力の続き。
>2012年10月の日記より

泣いたっていいじゃん。
テレビの障害者、闘病者番組でも「明るく元気に前向きに闘病する人」が取り上げられる。
そのひとたちにだって、たくさん泣いて、悲嘆に暮れて、絶望したこともあったろうに。
そこの部分は端折って伝えられ、「今、元気に前向きに輝いています。すばらしいですねー」と。

そこで、元気に明るく闘病できない持病もち者は、責められているように感じる。
健康な人々も、暗に強要する「ほら、あそこの○○さん、〇〇病なんだって。でもそんなこと微塵にもださずにはたらいていて、偉いわねー:」「ほら、あそこの○○さん・・」


そこにいたるまでにはたくさんの涙が必要なのだ。たくさんのじたばたが必要なのだ。

弱さによりそい、「辛いね・・・」「つらいよね」と共感してくれる友や家族、見知らぬネットの闘病仲間が必要なのだ。

でも、現在「つらいねー。でもさ、ほら、病は気からっていうじゃん。前向きに」などと、
相手の辛さ苦しさは「つらいね」とさらりとは言うけど、受け止めずに「でもさーほら、もっと前向きに」 と、
上から目線で頑張ることを、泣かないことを強要するのだ。

まずは「つらいね。頑張ってるよ。あなたの辛さを完全にわかることはできないけど、想像はできる。何かできることがあったら言って」
とまずは相手の気持ちの寄り添おうとする、そこが大事なのに。
前を向くには、這い上がるには、共にいるよ。ってのがまず先に必要なのだ。

ま、今の世の中面倒なことにはかかわりたくないって風潮だからね。
だれだって、暗さや闇病気に近づこうとはしない。
だから闘病者は  受け入れられるために「私、がんばってます!努力してます!前向きです〜。明るくいかなきゃ病気にまけちゃうもんね」
ってな姿勢でいようとするし、健康人も暗さもなくことも助けを求めることも、つまりは自分に迷惑がかからないから
ポジティブな闘病人をほめたたえる。そして、もちろん日常では嘆くことはしないけれど、
そこで淡々と闘病するだけで精いっぱいの人を 「もっと前向きに〜。治すために努力してんの」などと言うんだ。

おいおい、「また太っちゃった。どうもおやつをたべすぎちゃうのよね。コレステロールあがっちゃって」
なんて節制できない自分を棚に置いてよく言うよ。

ああ私ったら、罵言ばっかり。いや、普段言えないから・・そんなこと。



小泉政権の時代に政治の責任を棚にあげて、「弱いのは自己責任、」だの「負け犬」とかいう風潮ができあがった。もっと優しくなることが、そして手を携えて共に生きることが、皆が幸せに生きることにつながるのに。

たくさんの人が様々なをして毎日が支えられているのに、勝者、成功者、元気人は、自分が頑張ったから、
自分だけの力で今があると勘違いしている。


ホントたいしたことを言えた義理じゃないんだけどさ、私。
だけど長らく、いろんな持病を抱えながら、生きているからこそ、語れることがあると思う。


病気や障害に苦しむ人へ カトリック・ポエム集その2 病気になったら
http://www.youtube.com/watch?v=nGv7hJYu-wk
(リンク切れ)

ネットサーフィンで見つけた。見た。泣いた。
気づかないうちにこわばっている自分の体。
わかってくれる人がいる、弱さも抱擁してもらうことで、
ほぐれるからだ、安らぐ心。
泣いたあと、微笑んでいる自分に気づいた。


以上ミクシ日記より。
2年前の正直な気持ち。



残念ながら「病気になったら」の動画はリンク切れ。
マリア様だったかキリスト教っぽい絵をバックに
「病気になったら」の詩が白い文字であがってくる。
パッヘルベルのカノン、弦楽アンサンブルかチェロだったか忘れたけれど、カノンをBGMに。
静かに泣いたっけ。何度も。何度も。


動画がなくなっていて残念。
カノン流しながら読んでみて〜。



「病気になったら」

病気になったら、どんどん泣こう
いたくて眠れないといって泣き
手術がこわいといって涙ぐみ
死にたくないよといって めそめそしよう
恥も外聞もいらない
いつものやせ我慢や見栄っぱりを捨て
かっこわるく涙をこぼそう
またとないチャンスをもらったのだ
自分の弱さをそのまま受け入れるチャンスを 


病気になったら 思い切り甘えよう
あれが食べたいといい
こうして欲しいと頼み
もうすこしそばにいてとお願いしよう
遠慮も気づかいもいらない
正直に わがままに自分をさらけだし
赤ん坊のようにみんなに甘えよう
またとないチャンスをもらったのだ
思いやりとまごころに触れるチャンスを 


病気になったら 心ゆくまで感動しよう
食べられることがどれほどありがたいことか
歩けることがどんなにすばらしいことか
新しい朝を迎えるのがいかに尊いことか
忘れていた感謝のこころを取りもどし
この瞬間自分が存在している神秘
見過ごしていた当たり前のことに感動しよう
またとないチャンスをもらったのだ
命の不思議を味わうチャンスを 


病気になったら 素敵な友達をつくろう
同じ病を背負った仲間
日夜看病してくれる人
すぐに駆けつけてくれる友人たち
義理のことばも 儀礼の品もいらない
黙って手を握るだけですべてを分かち合える
あたたかい友達をつくろう
またとないチャンスをもらったのだ
試練がみんなを結ぶチャンスを 


病気になったら 必ず治ると信じよう
原因がわからず長引いたとしても
治療法がなく悪化したとしても
現代医学では治らないといわれたとしても
あきらめずに道をさがし続けよう
奇跡的に回復した人はいくらでもいる
できるかぎりのことをして 信じて待とう
またとないチャンスをもらったのだ
信じる喜びを生きるチャンスを 


病気になったら 安心して祈ろう
天にむかって思いのすべてをぶちまけ
どうか助けてください必死にすがり
深夜 ことばを失ってひざまずこう
このわたしを愛して生み 慈しんで育て
わが子として抱きあげるほほえみに
すべてをゆだねて手を合わせよう
またとないチャンスをもらったのだ
まことの親に出会えるチャンスを 


そしていつか 病気が治っても治らなくても
みんなみんな 流した涙の分だけ優しくなり
甘えとわがままを受け入れて自由になり
感動と感謝によって大きくなり
友達に囲まれて豊かになり
信じ続けて強くなり
自分は神の子だと知るだろう
病気になったら またとないチャンス到来
病のときは恵みのとき


だいじょうぶだよ 単行本 晴佐久 昌英  著より引用

だいじょうぶだよ            

だいじょうぶだよ            


アマゾンをクリックすると2012年10月に購入しましたと出ている。動画をみて早速購入し、入院するときにもっていったのだった。


その後しばらく本棚に眠っていたこともあったけど、
今年3月ぐらいからは常に枕元に置いてある。
「いいよ」「君は弱いときにこそ」「しみじみ教」「贈り物」32の詩。

どうしょもなく不安で、胸がざわざわするそんな夜に読む。心を救う詩集。

だいじょうぶだよ。と。


まずはどんどん泣こうじゃないか。
そこから始まる。

メモみつかる 2年前の体力

一応ミクシにアカウントをもっているのだけど休眠だった。
で、2年前膠原病とわかってから、初めのうちだけ(2か月坊主・・)記録しておいたのがみてみたら。



2012年10月の日記より抜粋
>150?。体重が35.5。
ここ数年37〜38k台だった。
今年に入ってから36〜37k台に。
この夏の暑さ、食欲はあるのに、ついに35k台に突入してしまった。
アルブミン2.4〜2.7ぐらいを行ったり来たりしてるし、A/Gは0.4.
やばい。やばすぎる。 力がでない。

>昨日は昼間も2度も寝たのに夜も12時〜8時とねてしまった。だるいんだなー。
入院もできそうだけど、その前に片づけしなきゃと踏ん張る。



>昨日は一日よく眠った。
朝10時半から12時半。 1時半〜2時半。
4時半〜6時。 7時〜9時。 夜11時〜朝8時。

なんでこんなに眠るかっていうくらい。
肌寒かったから眠気をさそったのか。 食っちゃ眠り・・・。
お店のお客にコーヒーをたてる力もなく。母任せ。

叔母が「義母90歳ったら一日寝てるのよ。廊下でもどこでも寝ちゃう」といっていたが私も同じだ。
アルブミン値が90歳なみに低いから、さもなん。


>体力がない。 なんとか郵便局と、ドラッグストアに行ってきた。

>今日は胸部CTをとりに行った。
結果は来週の月曜の診察。 その結果入院かな。
血液検査、夏は10あったCRP、先月は7台。
さて今月は・・・。ってこんな高い値のCRPだと本当は入院なんじゃ?って数値だよなー。
毎日だるくて寝てるほうが多いから入院したほうが楽なんだろうなー。 温度一定で、堂々とパジャマでいられる。

治療法っていう治療法がないらしいしー。
どうなるんだろうか。


昼間熱をはかったら37度。 夏場は38度行っていた。
皮膚の発汗ができず熱中症状態だったのかね。
涼しくなったから体温もさがった?



以上が2年前の10月。
はー、すっかり忘れてたけど、倦怠感半端なかったんだな。
今は昼寝もしてない。日中起きてる。普通に動ける。
居間に来客があっても「えー体辛いにマジ?店で話してくれ 」とも思わなくなった。
今日はまた母が外出中。自宅兼店舗の店番ができるようになるまで元気に。
と書いてるうちに、居間へ古くからのお客様(60代)。
お茶をだしてお喋り。
見た目も年寄なら、話も60代に合わせられるようになりました。


店の照明は暗めなうえ、常連さんが主で私のアトピー顔はわかってるので できる店番。(といっても店に来客は来ない日もある・・)
これコンビニだの、スーパーレジとか、明るい店内の店なら絶対不可だよな。
お客さん引くこと確実。商品に触ってほしくないと思っちゃうだろう。

やはり今服用中の薬は強いだけあって、体に効いているんだな。
副作用はも徐々にでてきて半端ないらしいが(汗)


やっぱり日記は付けとくもんだね。

日記の引用続く。

去年の夏に比べれば

疲労感、倦怠感、手足の重さ微熱などの症状は落ち着いているのよね。
さすがプレドニン。さすが免疫抑制剤
去年やおととしの夏はCRP炎症反応も高かったこともあり、夏は汗もかけず熱がこもってしまい部屋の中でさえ、7・5分、外へでれば体温8度。
今年は外出もOK外へ出ても上がっても、体温計チェックしなきゃと思わなかった。たぶん七度五分はいってない。
もう平熱が7度近辺みたいなことあるから、熱には慣れてる。

昨日は朝から電車に揺られて一日東京へ。
どうしても行きたいところに行ってきて、帰りには
ついでに新宿のデパートもよってきました。
京王デパートは比較的年齢層高めだから
年寄20歳?高くみられるオペラも溶け込めた??


ちょっと股関節がいたかったけど(プレ副作用?骨大丈夫か?汗)久しぶりの1万歩越え。
朝7時から夜7時まで、元気にかえってこれました。
今朝おきてみて大丈夫。


電車の中で行きかう人々を見る。
フィルター越しにみてるみたいな離人感がある。
生きてるのか、私。

年に2回の日帰り県外仕入以外は、病院、駅ビル、ドラッグストア、スーパーぐらいだったから、
ああ、私が閉ざされた闇の墓にいたときも世界は動いてたんだよね。 
病気懲役長かったから(まだ実刑中?)。
毎日ワクワク!生きてる!と実感できてたのは遠い昔。
皮膚病が悪化してから10年ちょい余り振り返ると長い空白。
体調皮膚の調子などがおちついてくると、
その実刑中にもっと何かできたんじゃないか?と思っちゃうけど、
やっぱりそれだけ体の炎症があって精一杯だったんだよ。


ホントそろそろ出所したい。

あー、あと、4月から始まった耳鳴りがひどい。
数年前からキーンという高い耳鳴りがあったけど
そこに低いボー、ゴーっという耳鳴りが加わった。
朝起きたとき、夜寝る前は特にひどいんだけど、
日中も続く。
長年耳の湿疹もあり、耳垂れもあり点耳薬はつかってたんだけど、痒さでかきこわして、耳穴も狭くなっている。
それで医者でも鼓膜もみることができないから難聴気味だけど、そこへ耳鳴りだもん。

突発性難聴?とびびって、医者にいったけど
点耳薬をもらい、 数日後から耳鳴りがはじまって
今度は大病院にいってみたけど、突発性難聴ではないといわれたのだった。 ごーっという耳鳴り。
たまに吐き気がする。

どうか耳鳴りがこれ以上大きくなりませんように。
プレ免疫抑制剤の副作用もきませんように。

神様仏様ご先祖様。
いい子(おばさんですがw)にしますから
よろしくお願いします!