何となく・・・

研究生活は楽しい。周りの環境が大切ですとはよく聞く話であるが、それは本当なのだと実感する。ドクターの先輩たちはどのような研究生活を積んできたのだろうか。どうしたら自分もあのようになることが出来るだろうか。幅広い知識に斬新な視点、しかしそれも研究の世界では当たり前のことなのだろう。

このまま研究を続けていたとも思う。やっぱり歴史は面白い。ただ、自分にはそこまでやる意思があるだろうか。以前読んだ本に、有名な音楽指揮者が学生から「自分は音楽に進んでやっていけるだろうか、音楽に向いているだろうか」と聞いたときに、「向いていないだろう」と即答したという話があった。

その話によると、そもそものめり込むほどに好きならば、誰にも相談する必要は無いはずであるということだった。好きならばただただ努力するのみ、才能があるかどうかなどは関係がない。

確かにその通りだ。好きなら黙って頑張れば良い。大切なのは自分の望む結果を出せるかどうかということであり、社会的に成功することではない。となると、やはり自分は研究者には向いていないのだということになる。自分が好きなのは研究ではなくて、勉強なのだろう。

何に価値があるのか。

このところ結構凹んでいた。インターンを見事にクビになって以来、自分の無能さに呆れ果て、その一方で自己正当化が進められた。正直に言って何が正しいのかはよくわからないが、少なくとも今は小康状態にある。

有能な人間というのは、どこかで通じ合うことが出来ると思っている。理系の研究者であろうとも、小説家であろうとも、外資系のビジネスマンであろうとも、一流で有能であれば、きっと通じ合う部分があるはずだ。何かで結果を出すためには、一定のパターンを踏む。姿さえ違えど、本質的には同じだから理解しあえるのであろう。

今回のインターンの一件は、その世界に自分が入れないのではないかという疑いを一層強くした。もちろん、自分がノーベル賞を取れる器だとか、年収が10億に達するようなビジネスマンになれるだとかは思っていない。専門分野でも、網野義彦のように日本史を書き換えるような業績は残せないだろうし、ドクターの先輩方や先生方のようにもなれないかもしれない。

だとしたら、自分は何で生きていけば良いのか。どうしたらそういった劣等感を克服し、強く生きていくことが出来るのか。そのことをクビ以来ずっと考えていた。

包み隠さずにいえば、自分は無能ではないと思っていた。それは大学名のようにわかりやすい権威に裏づけされたものではなく、あくまで直感だ。そこまで頭が悪いわけではないはずだ。これまでの勉強の成果(そういう意味では大学ブランドもその証明に思っていることになるかもしれないが)や、勉強の意味を見出したことに関してはある程度の自信があった。

しかし、決して有能ではなかった。あくまで社会のごく一部で否定されたに過ぎないが、そこで働くインターン生が優秀であることは数日で十分感じ取れた。そこに残ることが出来なかったということは、彼らに対して能力の面で劣った人間であるということになる。

比べることによって生まれる価値に、どこまで意味があるかはわからない。むしろ、そんなものに価値はないと思っている。物事を社会的に見ることは必要なことであるが、それを自らの価値観として導入する必要は無いだろう。ただ、社会で生きる以上は比較による価値を受け入れていくしかない。

価値観というものは、自分で好きなように決められるように思えて、決してそうではないと思う。人間が一人で生きていくことが出来ない以上、社会の中で個人を離れた価値観が誕生し、自分が生きる世界の社会的価値観に個人は縛られてしまうのではないか。

例えば、自分は断じてそうは思わないが、「一流大学の学生」といえば社会的エリートである。彼らの世界においては彼ら独特の価値観がある。それは日本社会全体の価値観とはまた違ったものであるだろう。

就職活動のとき(今年は不況で大変であったらしいが)、「一流大学卒」の学生が、その大学のレベルに見合わない企業に就職したとしよう。そのとき、その人のことを何も知らない同じ「一流大学」の学生は何を思うだろうか。

恐らく「何でそんな会社に・・・?」とか「あぁ、ダメだったんだな」といったように否定的な見解を持つに違いない。その人が知り合いの人間であるならば、そういった否定的な見解を持ったとしても話し合いで理解し合える可能性があるからまだ良い。そうでなかったなら、そのまま否定的見解を持ちながら生き続けることになる。

目的を持った人間が、その世界の価値観に合わない行動を採ったとき、その行動は全体からは正当に評価されにくい。むしろ否定されてしまう。しかし、それは断じて正しくない。

世の中にはもっと多様な価値観があって良いはずだ。向上心を持った人間が、共通の価値観から外れた価値観を持ち、本流から外れた動きをしたとしたら、それは積極的に評価されるべきではないか。それが出来ないからこそ、今閉塞感に悩まされているのだと思う。

偉そうなことをいいながらも、自分はその共通の価値観から全く抜けられない。「向上心をもって自分の好きなことをやるのは正しい」と思いながらも、どこかで共通の価値観に従って確実に「間違いのない」道を探し求めているのだ。

辺境と中央

開国と日本人意識

院に進んで、学部時代とは比べ物にならないくらいに専門に打ち込んでいる(といっても先輩も同輩にも遠く及ばないが)。自分は教員として大成したいので、専門的な範囲だけではなく、少なくとも日本史にかけてはすべての範囲に対して広い知識を持っていなければならない。というわけで今は弱い古代史を勉強中である。

そこで、古代国家が強く意識されるのは、中央よりもむしろ蝦夷などの異民族と接する辺境の地であると学んだ。辺境においてこそ国家への帰属意識や統一感が意識されるという。これは幕末の日本人において異国に対峙したことで初めて藩の域を超えた「日本人」意識が生まれたのと同じ原理だろう。しかし、それは国家単位の話だけではなく、実は日常生活において個人が体験していることでもあるのではないか。最近そう思うようになった。

理論は自分で経験してこそ本物の知識になると考えている。理論を理解するのと体得するのでは少し違う。

世の中にはやりたくないけれどもやらなければならないことがたくさんある。それはインターンシップもそうだ。もしこのルートを回避することが出来るのならば、時間を節約してその分専門の勉強に費やしたい。また、ここ数日はやっていないが漢字や算数の勉強も本当はやりたくない。これに毎日1時間ほどかかるが、たいした時間ではないとはいえ、やらなくて良いということになればだいぶ気が晴れる。

そういった生活を四月からしばらく続けてきて、専門の勉強が疎かになっていた。そこで時間を確保して、久々に通史の勉強をしてみると、これが実に楽しい。一時期は「本当に自分は歴史が好きなのだろうか」と疑問に思ったこともあったが、やはり歴史の勉強は楽しかった。しかも自分のあまり好きではないと思っていた古代史でだ。

何かと比較することでその性質や全体像が見えてくることはたくさんある。自分の性格もその一つだと思う。それにとことん付き合うことも、本質を捉えるために必要なことではある。しかし、そのことだけに目を取られてしまっては、外から見れば簡単に気がつくことでもそうならないかもしれない。

そういった意味で、やりたくないことというのも必要なことがある。主体的に取り組みさえすれば、何らかのプラスの意味を見いだすことも出来るだろう。やりたくない、辛いからといってすぐに投げ出してしまっては何も得られないどころか、それに費やした時間がむだになる。だからインターンもがんばって続けよう。

正直もう登校拒否、というか出勤拒否したくなるような精神状態であるので、何かを強く信じていなければ続けられない。一つは社長の「理想を持ってがんばっているから育てたい」という言葉。これはインターン紹介企業の担当の人がいっていただけなので、本当かどうかわからないが、本当だと信じたい。厳しいことを言われても、それは意味のあることだ。

もう一つは、今の辛い時期が来年につながるということだ。そして来年につながるということは10年後の自分にもつながってくる。たった1日で辛いといって逃げてしまっては、今後の人生設計にかかわるかもしれない。自分の将来に意味のあることと信じる。

辺境とは無意味なものではない。辺境があるからこそわかることもある。今日も一日がんばろう。

インターン初日

今日はインターン初日だった。面接であれほど怒られたので、今日はなるべく優秀に仕事をしようと思って、5分前に到着すれば良いところを20分前に到着した。始業時刻は10時。しかし、5分前になっても誰もやってくる気配がない。

5分経って10時になる。結局誰も来なかったので、「今日は休みなのかもしれない」とちょっと期待に胸を膨らませながらドア一枚挟んだインターン先に電話をかけるが、虚しく電子音が響くだけ。

10時をちょっと回って、ようやく一人のインターン生がやってきた。どうやら10時始業は絶対ではないらしい。今までの自分の時間感覚ではなかったことだが、最初のインターン生が遅れてくるのだからきっと時間に緩いに違いない。と思って、先輩に聞いてみたら本当にそうらしい。

タイムカードというものを生まれて初めて切り、いよいよインターンの始まりだ。手が震えた。面接の悪夢が思い起こされて、嫌が応にも背筋が固くなる。パソコンを立ち上げるだけなのにいちいち確認を取る。あきれられるかもしれないが、それが一番安心安全だ。

午前中は、数ある作業のうちで一番簡単な作業を行う。それでも普段パソコンの管理などしたことがないので、一つ一つが難しく感じられる。それでも30分もこなしてくれば、ある程度出来るようになった。ただ、社長が求めるスピードには半分にも至らない。しかし、100マス計算の足し算を4日目で1分切り、割り算は目標5分のところ2分30秒で終える自分なら出来るはずだ!などとは少しも思わなかった。

なんとか平和なうちに午前の作業を終え、社長と先輩とお昼を食べに出かけた。財布の中には1500円しかない。早速大ピンチだ。初対面の人にいきなり金を借りるなどというわけにはいかない。まぁ借りられたことならばあるけれど、借りる側は気まずくて仕方ないのだ。しかも高そうな店・・・

だが、なんと今日はウェルカムということで、社長がおごってくれた。これが恐ろしい。まだ何もしていない自分が、つまり大きなミスをしていない自分がおごられるのは、大きなミスに対するプレッシャーが大きくなるのだ。どうせなら午前中に大きなミスをして、それを克服してからランチといきたかった。

そして午後、早速一人のインターン生がクビになった。自分の面接のときにいた人だった。簡単な作業にミスが多かったせいで、しかもどうも原因は集中力の欠如らしいが、「自信がつくまでは来なくて良い」と言われて10分くらいで帰らされていた。あれが将来の自分の姿でないことを祈るばかりである。可能性は十分ある。

今日は天気予報は雨だったが、恵比寿に雨が降るより先にオフィスに雷が落ちた。やってしまった。。。結局、仕事の内容がわかっていなかったのだ。そもそも用語を理解していなかった。怒られて当然だ。内容は当たり前すぎるので、ここに書く必要はないし、特に傷つきもしない。ただ、クビになるのではないかという不安があるだけだ。次は絶対に失敗しない。それだけだ。

そもそも入った時点で首の皮一枚なのだ。それすら半分くらいちぎれてしまった。これから先はどれほどバカと罵られても良いから、極力ミスを減らして回復を待とう。仕事には1ヶ月程度あればなれるらしい。しかし、これは優秀な東大M1の先輩(同い年)の言葉だから、そのまま自分に適用するわけにはいかない。おそらくその倍以上かかるだろう。

朝丁寧に指導してくれた先輩は入って3ヶ月らしいが、それでも輝いて見えた。3ヶ月経つと自分もそう見えるだろうか。それとも既にそこにはいないだろうか。

自分から辞めることはないだろう。怒られるのに理由があるのなら、いくらでも耐えられる。怒られて逆切れ(結構いるらしい)するなどということはあり得ないし、怒られて出勤拒否することもない。ただただ実力不足からのクビだけが恐ろしい。

絶対に3ヶ月後に、社長の口から「お前もだいぶ良くなったな。」と言わせてみせる。負けない!

研究生活初日

今日は大学院の初日だった。地獄の木曜日。12時半から授業が始まって、終わるのは21時。大学に換算すると3限〜7限まで授業があったことになる。それらすべてが演習授業。初日ということで特にやることもなく、時間だけが過ぎていった。

大変だったのは、2つ授業が終わった後のゼミだ。これは一番大切で一番辛いにもかかわらず単位に入らない。しかし、修論はここで磨いていくことになるので、決してさぼるわけにはいかない。ただ、自分はまだM1なので、発表はもう少し先である。

今日の発表は、M3かM2の先輩が一人と、合宿に来なかった同級生が担当だった。先に発表をしたのは同級生。卒論の発表なので、これは前座的な意味合いが強い。本番はもちろんM3の先輩だ。発表が1時間、討論が1時間の計2時間を一人のために費やす。つまらない発表だと眠くなってしまい、現に教授の一人は船を漕いでいた。

自分の知らない弁護士(これは確実に自分の勉強不足だ)をテーマにしていたが、どうやらここのところスランプらしい。あまり研究が進んでいないようなことを最初に口にしてから発表を始めた。

レジュメはあらかじめ手元に配布されていた。導入部を話しているうちに一通り目を通してみる。これから自分はどのようなレジュメを作れば良いのか、どのような論理展開が求められているのか、それを知らなければならない。

しかし・・・資料は豊富に掲載されているものの、自分の意見が全く書かれていない。資料に対する考察すら加えられていない。これでは単なる資料集であって、修論のレジュメとは言えないだろう。しかも文章で作っているために、書いてある文章を追っていくだけ。これでは何のための発表だかわからない。

と思っていたら、討論の時間で見事に、そして徹底的に指摘されていた。普段は穏やかで怒ったところを見たことのない教授まで厳しい言葉を投げかける。それは寝ていた教授なのだが、第一声が「これでは眠くなってしまいますよ」。そして実際に寝ていたわけである。

自分の意見がない、目的意識が曖昧だ、研究の意義は何か。必要な質問が次々と投げられる。もちろん言葉は選んでいるのだが、本質に迫るものばかりだ。学部では決して求めることの出来ない状況である。

正直言って、かなり忙しい生活を送ることになりそうだ。研究は最優先で取り組みたい。もしかしたらインターンもできないかもしれない。しかし、インターンをやるためや、就職するために大学院に進ませてもらったわけではないので、それはそれで仕方ないことだ。これまでの自分の勉強不足を呪うしかない。

それでも楽しい。少しずつステップアップしていくことが嬉しいし、自分よりもはるかにレベルの高い先輩に囲まれて院生活を送ることが出来るのが最高だ。ここにきて初めて文学部に進んだかいを感じることが出来た。まだまだ自分はのびる。その伸びしろを感じられるのだ。

昨日の面接などどうでも良くなってきた。昨日は正直にいってかなり凹んでいたのだが、見方を変えれば考え方も変わる。確かに昨日の面接の自分はダメだった。そしてそれを正確に指摘する社長は賢い人なのだろう。しかし、決して自分の理想とする人間ではない。厳しいことを指摘しなければならなくとも、罵倒する必要はない。昨日は確実に相手を罵倒するだけの目的で言葉を発していた面があった。そういうことに慣れたくはない。

これも自己正当化の一種かもしれない。ただ、自分が将来教職に就くのなら、発展途上の生徒たちに心無い言葉をかけるわけにはいかない。たとえ有能になったとしても、そういった面に無頓着になってしまったとすれば、それはむしろ退化だ。

それでもやはり昨日の社長には完全に打ちのめされた。いつの日か彼を見下すことなく見返すことの出来るようになりたい。そういう意味で、自分に対する理解が深まった気がする。それだけでも十分感謝に値する。がんばろう、まだまだがんばれる。

引っ越し

大学院の人に前の日記のことがなぜかばれたので、こちらに書くことにした。言われたその日にプライベートモードにするのも不自然だし、進学を機に新しくするのも悪くはない。でもアンテナの付け方とかがわからなくて困る。それにしてもなぜバレたのだろう。やはりネット上で特定されてしまうような情報は書かない方が良いということか。

Mac快適です。ありがとうid:notohiro。家と車とMacで生きていける君は偉大です。