Defiled

 


熱海殺人事件、広島に原爆を落とす日、Defiledと、2年ごとにここで書いていることになる。重い作品が好きな傾向はあるが、それ以上に重い役を背負う戸塚祥太が好きなのだろう。しかしそれでも、熱海と広島は、作品としての引力の圧倒的な強さにねじ伏せられた感があった。Defiledは違う。脚本も演出も秀逸だけれど、強引に押し付けられたのではない。こちらから糸を手繰り寄せて、ハリーのかすかな仕草、かすかな表情から、言外の意味を読み取り、語られていないシーンに思いを馳せ、ハリーの気持ちを掬い取るような観劇だった。どうしてこんなにもハリーのことを特別大切にするのかといえば、それはもう、ハリーはわたしの一部が体現されたものだからだ。


この作品に、ハリーとブライアンの断絶を見出す人もいれば、ハリーの人生における失意に注目する人もいる。文字通り、デジタルとアナログの問題として見る劇評さえある。しかしわたしにとっては、最初から最後まで「本」の話だった。


本は女以上に多くのものを与えてくれる。友達も恋人もいなかったハリーにとって、本はそれらによって満たされなかったの空隙を埋めるようなものでもあった。本の特性のひとつに、手元において二人きりになれる、というものがあると思う。まるで自分とその本以外の世界が消えてなくなったかのように、本を自分の所有物として独占して、二人きりで会話をする。本にはそういう時間を与えてくれる機能がある。美術館で見る絵画や、映画館で見る映画では、それは叶わない。


本を胸の上に置いたまま眠ってしまうこととか、地下鉄の駅と駅の間でも読書にふけってしまうあの感じとか*1。ハリーの言っていることは、とてもよくわかる。わたしだけじゃなくて、きっととつかくんもその気持ちをよく知ってる。なぜなら、わたしとハリー、ハリーととつかくんの読書の共通点は、「何かの欠落を埋めるために読書を始めた人」だから。本当に生まれつき読書することが当然の環境で生きてきた人は、そういうことを強調しない。


ハリーの場合は、自分のことを理解してくれない父親や、自分を裏切った元恋人が、その欠落だったと思う。ブライアンとの会話にあったように、本は興味がなくなったら横に置いておけるし、本のほうから裏切られることもない。本は優しい。静かにそこにあって、読む人をいつでも受け入れてくれる。それは、自分の愚かさや無力さを思い知った人間が、壮大な活字の宇宙に包み込まれてすべてが許されるような慈悲の心に触れる、崇高な宗教体験でもあるのだ。そう、読書というのはアニミズム的宗教である。一冊一冊の本に宿る霊性を感じ取りながら、永い人類の歴史と、豊穣な文学の海に抱かれて、自分はなんと矮小な悩みに拘泥していたのかと気づき、人は救われることがある。自分にはまだ読むべき本があり、それらの本は自分がその本を見つけ出しアクセスするときを静かにじっと待っている。だから自分から働きかけなければならない。それはなんと希望に満ちた世界だろうか。


その静かで優しい宗教の支持体として存在する施設が、図書館なのである。公的機関でありながら、誰も話さない、ひっそりとした空間。目眩がするほどぎっしりと並べられた本。2000年前の哲学者の書いたものにも、4000年前の数学者が考えたことにも、ここから接近することができる。図書館が宗教そのものなのではなく、その背後にある壮大な世界の入り口として各地に存在する端末が図書館なのだ。


その図書館を爆破しようとしていたハリー。彼が行おうとしていたのは、この端末のひとつを破壊することだろうか。もちろん、違う。それはまったく意味がない。彼が危惧していたのは、「本の世界」というひとつの宗教が、「資本主義」という別の信仰によって侵略されていくことだ。家族や恋人との関係をうまく保てなかったハリーが逃げ込んだ、本の世界という神聖な領域。それが世俗的なものにとってかわってゆく姿を見たくない、それなら僕の愛した本とこの美しい図書館ともども心中するまでだ、というのがハリーの主張だった。ひとつの端末を破壊することで、かつて僕を救ってくれた本の世界の崇高さを守ることができるなら。せめて、図書館がハンバーガーショップのような卑俗な施設に成り下がるのに歯止めをかけることができるなら。ハリーにとって、リアルとは、結婚して子どもをつくって幸せになることではなく、過去の惨めな自分を慰めてくれた図書館とともに殉死することだった。世の中には「美しいものを美しいままで残したい人間」と、「美しいものがどんなかたちになろうとも愛せる人間」がいる。ハリーは前者で、ブライアンは後者だった。そして、ほとんどの人間は、人生経験を積むごとに、前者から後者へと移行する。だから、ハリーとブライアンは2種類の相容れない人間なのではなく、あらゆる人のなかに流動的に備わっている類型の象徴なのである。


ヘンリー・ジェイムスの手書きの原稿に触れた瞬間、エネルギーが伝わってきたというハリー。あれはまさに、聖骸布の暗喩だったと思う。実はわたしが初見のときに鳥肌が立って泣きそうになったのは、このシーンだった。なぜなら、わたしも同じ体験をしたことがあるから。デジタルの複製でもアナログの複製でもないオリジナル、その代替不可能な緊張感というのは筆舌に尽くしがたい。
そしてハリーがそのことを口にする意味。演劇というのは、人々が常時オンラインで複製された写真や音楽や映像を享受しているこの時代において、数少ない「一回性」かつ「オリジナル」を守り通している領域だ。それでいて、演劇は歴史上ほとんど常に、大衆のためのものであった。悲劇も喜劇も、人間の愚かさと滑稽さがいつの時代も変わらないことを描く。わたしは今回Defiledの原著を読んでから観劇したけれど、脚本を読んでいるとわからないことが、戸塚くんと勝村さんが演じることで生き生きと立ち現れてくることがたくさんあった。ハリーの黒猫っぽさとか。30歳の戸塚くんが演じるハリーにしか表せない何かは無限にあって、それはどんな書物でも記録しきれないし、数世紀後に図書館で上演の様子を追跡することはできない。図書館は宇宙のようだけれど、有限の宇宙だ。わたしは本というメディアを愛しているけれど、舞台に足を運ぶたび、目の前の生に心を奪われる体験をする。だから、わたしは図書館を爆破しないでいられるんだと思う。素敵な喫茶店スターバックスになっても、街角がコンビニだらけになっても、それが嫌悪することであれ歓迎することであれ、これが確かに戸塚くんもわたしも生きている社会だと思うからだ。



 

*1:台詞うろ覚えですみません

卒業の前に


ここが岐路か、と感じる。かつて過ぎ去ったいくつかの岐路ではまちがえた。それでもそのことに気づかなかったために後戻りすることも考えず、22歳から28歳まで苦しい年月を過ごした。東京で働きながらひとり暮らしをすること、それだけで精いっぱいだった。みんなこうやって働いているんだ、と自分を納得させて我慢していた。わたしはそれができない人間じゃなかった。もっと純粋で壊れやすい精神を持っていたら、わたしの人生は違ったかもしれないけど、わたしは大量生産された頑丈な玩具のようなもので、壊れないから捨てることもできないし大事にもされないし、邪魔になってもただ存在しつづけるしかないと自分のことをそう感じていた。


大学院に行きたいとずっと思っていた。22歳のときに進学できなかったことがずっと心残りだった。ありていにいえば、そのとき理解を示さなかった両親にも、なんとか進学できる道を探さなかった自分にも、ずっと憎しみを抱いていた。今思えば、誰かに相談すればよかったのかもしれない。でも22歳はそのときの自分には充分大人だと思われた。経済力のない人間は働かなくてはならない。そうして、ぬるりと社会に出た。


フランスに行ったことで人生が好転した。自分のやりたいことをせずに、何が大人だ、と思った。そして自分のお金で大学院に戻った。働きながら勉強をして、電車の中でしか睡眠をとれないような日々が続いた。それでも勉強できるのが嬉しかった。ずっとずっと大学院に来たくて、実際に来てみてそれ以上の喜びがあって、その先の未来など考える余地もないほど幸せだった。


しかし、結果的に、研究はわたしに向いていないと思った。修論は不満足な出来だった。それだけでなく、修論を書くこと自体、最後のほうは苦痛でならなかった。こんなに遠回りをして辿り着いた場所だったのに、早くこの場所から解放されたいと思ってしまった。自分の名前でこの研究成果が後世に残ることを想像したら、耐えられなかった。わたしは結局、勉強が好きなのであって、研究の素質はないと見切った。もし一生大学院に行かなければ、大学院に行けなかったことを呪い続けていたと思うから、その意味では行ってよかったと思う。


とはいえ。また再びビジネスの世界に戻ることになった。こちらが向いているわけではないけれど、働かなくてはならない。しかし、せめて自分が学んできたことを還元できる仕事を、と思っているのだが、それもままならず、まだこれから先を見通せずにいる。もっとわたしが利口だったら、と思わずにはいられないけれど、手持ちのものでなんとかするしかない。


特に仕事のために生きようとか考えてきたわけではない。だけど今なんとなく思っているのは、わたしはもう子どもを持たなくてもいいのではないかということ。子どもは好きだし、小さい頃から自分が母になるのは容易に想像できてたけれど、もし子どもができたことによって自分の存在が肯定できるようになってしまったら、それは子どもがかわいそうだな、と思うようになった。


大事なものは、少なくていい。わたしは自分のことを自分でそれなりに取り扱うし、大事なものがあれば、利害なしに大事にすればいいと思う。切り売りして雑に扱った20代の数年間を肯定するには、そのように考えるしかない。自分の人生を重要なものと考えてきた人たちと同じ土俵では戦えない。わたしの内部には価値などない。これまで学んできたことも、貴重な人間関係も、すべてはわたしの外にあり、いつでも失う可能性があるものである。だからわたしは働かなくてはならない。動くことにしかわたしの価値はない。





 

広島に原爆を落とす日


「広島に原爆を投下する」という方法で日本と恋人を愛したディープ山崎。わたしは初見でそれがすんなりと、何の抵抗もなく理解できてしまった。だからわたしにとってはこの作品はそれがすべてだった。語弊を恐れずに言うならば(というか、つか作品自体が語弊しかないようなものだけれど)、自分に置き換えて考えてみると、無辜の四十万人の市民を犠牲にしても自分の大事な人への愛情は余りあるものだと思ってる。正気でそう思う。世界中を敵に回しても君を守るよ、と言うのは簡単なことだけど、四十万人を虐殺しても君を愛してる、と言えるだろうか。つかこうへいが提示したその「究極」は、言葉で説明すると全然別物になってしまうけれど、わたしは理屈ではなく「ああ、わかる」と思った。ただし、自分が誰かを大事に思うような気持ちを、その四十万人のひとりひとりが持っている。その想像力によってわたしは無辜の人々を虐殺したりはしない。そして自分がそのような必然に置かれていない。それだけのこと。


この『広島』という荒唐無稽なフィクションにそういう反応をした観客はおそらく少数派だと思う。でも、わたしという個人にとっての本質的な話は、上記がすべてだ。しかし何度か観劇しているうちに、もう少し客観的な考えが降りてきて、それについて考えることが、この舞台を観劇するときの不安感や内容に関する不明瞭さを解消してくれるように感じたので、以下に書いておこうと思う。そう、わたしは不安だから「考える」のだ。


  • 「聖なる排他的存在」としてのディープ山崎

まず、この作品におけるディープ山崎がどのような存在として描かれているのかについて、わたしの理解を書く。


ディープ山崎の特徴は、欠損と純粋さである。欠損とは主に2点、純日本人でないこと、真珠湾攻撃を起案した人間であること(念のために書くけれど、純血でないことが欠損だと言っているのではなく、彼が当時のどのように扱われていたかを考えたときにそれが条件を満たしていないものとして受け取られるということ)。後に真珠湾攻撃が原爆投下の言い訳として使われることからも、実はこの真珠湾攻撃に関わっていたというのがすでに、日本軍にとってもアメリカ軍にとっても都合の良い「悪」の押しつけになっていたのではないかと思う。そして純粋さというのは、まずまっすぐな愛国心。それも山崎の愛する「国」というのは常に、国家や国体ではなく、美しい山河のことであり、公平な社会のことである。もうひとつの純粋さは、夏枝とのプラトニックな愛。「プラトニック」とはつまり「肉体関係のない」という意味である。


欠損と純粋さを持ち合わせた者は、いくつかの古代文明において「聖なる存在」として扱われる。「聖なる存在」は単に崇め奉られるだけではなく、人間であって人間でないものとして排他される対象でもある。殺害しても何をしても罪には問われない。生物的には生きているが、社会的な生は奪われている。そういう存在である。


日本にデモクラシーをもたらす原爆投下は、自分たちの共同体の中にいる「人間」であってはならない。しかし人形ではなく自らの意志を持って投下ボタンを押す「人間」でなくてはならない。ディープ山崎は、そのような存在としてまさに都合が良かったのだ。


山崎は受動的な運命ではなく、誇りを持って能動的に選んだ結果としての終末を受け入れる。しかし、「聖なる排他的存在」である彼は、犠牲者にもなれない。「犠牲」の本来の意味に基づいていえば、神に捧げる生け贄であるが、それにすらなれなかったのがディープ山崎の最大の悲劇だと思う。ここでいう神とはすなわち、デモクラシーの到来した未来のことである。その名の下に死んで行く「軍神」たちを見送った山崎は、数日後に投下ボタンを押し、その変わり果てた広島を眺める。神風特攻隊が映画や小説で語りやすいのは、その突撃の瞬間に死ぬからだ。山崎は原爆投下からしばらくの後に死ぬのだろうが、殺されるのでもなく自刃する。被害者になることすら許されなかったディープ山崎。では、加害者はどこにいるのだろう?それがこの『広島に原爆を落とす日』の最大のテーマなのではないかと思っている。


  • 『広島に原爆を落とす日』という「せめて」の演劇

この『広島』という作品には、「せめて」という台詞が頻繁に出てくる。「せめて愛しいあなたと引き換えに」「せめて愛する人のためという大義名分でもなければ」。「せめて」という副詞は、その語の前に “自分ではどうしようもない状況” が置かれ、その語の後に “自分の意志で望み、実行できる、ささやかな行動” が置かれて使われる。


ディープ山崎の “自分ではどうしようもない状況” というのは、まずロシアの混血であることで純日本人軍人としては扱われなかったこと。「白系」ロシアの、とディープ山崎が「白系」を強調するのは、それは政治的に「赤(=共産主義)」ではないという意味であるが、当時の日本人にとっては満州事件などを経て「ソ連=敵」だという認識がまず根底にある。つまり思想的には反ソ連である山崎の父か母は日本に亡命して安全に暮らしたいと考えているが、純血者が多数を占める日本、とりわけ日本軍内において、ロシアの血を引くディープ山崎は、その出自によって思想面と人種面の二重に偏見を受けたことが容易に想像できる。


もうひとつの “状況” は、その偏見に打ち勝つために、そして心から日本を愛していることを証明するために、優秀でありつづけてきたことによる孤独である。ディープ山崎は哲学と兵学の両方に通じていた。カントと西田幾多郎に共通するのは「善」の哲学である。設定上おそらく本当に日本を勝利に導くことができる頭脳を持っていたのだろう山崎は、同時に、戦勝国となったあかつきには日本が世界平和のためにいかにふるまうべきかについての青写真を持っていた。しかし、山崎自身も「日本が勝つことで本当にこの国にデモクラシーが根付くのだろうか」と内心不安に思っていたように、重宗教授も立場は違えど同じ見解を持っており、日本を敗戦に導くためにはディープ山崎を参謀本部から引き離し、南海の孤島に追いやらねばならなかった。けれど、使いどころはある人間であるから、前線に立たせるわけにはいかない。このようにして、山崎が偏見によって差別されないために行ってきた努力は、かえって山崎から日本の未来を築く権利を奪った。


「原爆投下は歴史の必然でありましょうな!」「何卒、文書でのご命令を」と山崎は懇請する。それは、これまで大きな圧力によって人生を歪められてきた人間にとって、自分のあらゆる行いは「求められたもの」であると考えることによって自分を守り、孤独も恨みも押し殺して自分を納得させてきたゆえの最後の懇願である。夏枝にも「ですから、あなたのほうから私に飛び込んでくる!という方向でレールを曲げてくだされば!」と強情を張り、夏枝に求められたという形式を守ろうとする山崎。日本に帰りましょうよ、と部下たちに言われたときも、「自分の意志で帰るんじゃありませんよ。あなたがたがそうやってぺこぺこするからしかたなく帰るんです」という山崎。自分の意志ではない、ということが山崎にとって自分が愛されている保証であり、否応なく歴史の必然の中に巻き込まれることが自分の存在価値を図る基準だった。


しかし、「あなたの意志ですわ、山崎少佐」と上官である夏枝は言う。そこで山崎は初めて自分の意志で何かを行うことを決心する。その何かとは、この原爆投下により戦後日本にデモクラシーが来るのかを歴史に問いかけること。その代わりに「せめて」、と、自分の愛する人と愛する広島市を差し出す。山崎にとってはその二つが差し出せるすべてのものだったのだ。


そもそもが、原爆投下とひとりの女への愛情は、二者択一として成り立っていない。「原爆を投下するのか、夏枝を失うのか、どちらかを選べ」という話ではない。そこの不整合性はどんな観客だってわかる。しかしそこで無理に落としどころを観客が探すのではなく、その齟齬をそのまま受け止めて、それがどこから来ているのかを考えるべきなんじゃないかと思う。そしてわたしにはそれが、「せめて」によるレトリックに表れているのではないかと思う。


「愛はレール。決して交わらない二本のレール」という例え話がある。あれは、夏枝への愛と日本への愛のメタファーなのではないだろうかと思っている。「たかが戦争くらいで、たかが第二次世界大戦くらいで、女に愛を打ち明けるほど私ははしたなくないのです!」と頑なに言い張っている限り、その二つの愛は永遠に交わらない。しかし、ディープ山崎は最後にその二本のレールを自分の意志でねじ曲げ、原爆投下という地点において交差させた。普通の人間ならその投下ボタンは押せない。ディープ山崎を普通でなくさせたのは、人種差別による偏見に対する恨みと、国家の政治的な思惑に対する純粋な怒りと理解、そしてささやかな夏枝の言葉、「あなたしかいないと思ったんですもの。私のあなたしか」という私的な、しかし壮大な独占欲だったと言える。


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最後に戸塚くんのことを。「この舞台は成功、いや大成功させなきゃいけないんです」「誰が見ても “あの作品は成功した” と思わせなければいけないなと。今までにない、そういう責任感が今の僕にはあります」*1と言っていた戸塚くん。その重責が戸塚くんにあの崇高な輝きをもたらしているんだろう。テクニックや理論で演技を出来ない人が、ほぼ精神力だけでこの巨大で恐ろしい作品に立ち向かっていく様子は、さながら怪物殺しに挑む英雄のようである。しかしそこで戦う戸塚くんは傷だらけには見えない。とても光輝いていて、ああ、この人はこの作品に、そしてつかこうへいや錦織さんに守られているんだな、と思った。『広島に原爆を落とす日』の「落とす」が他動詞であるように、舞台上の戸塚くんは命を「燃やしている」のであって、削られたり侵食されたりまったくしていない。この生命力にあふれたディープ山崎はまもなくこの世から消えてしまう。そのことを淋しく思うと同時に、彼の役者人生における決定的な転換期となるであろう瞬間に立ち会えたことに、今は心から感謝している。





*1:STAGE SQUARE vol.13

春を愛する人

突如郷愁に誘われて昔の曲を聴いていた。高校時代のわたしは春を愛する人が一番好きな曲って言ってたんだよなぁ。今思えば、その頃の自分は幸せだったんだな。今なら絶対言えない。


わりと好き勝手に生きてきて、今はずっとやりたかった勉強もできてるし、職も家もあるし、充分満たされているはずなんだけど、ときどき、14年前に置き去りにしてきた自分のことを思い出す。人に愛されるという能力だけ高校生で止まっているんだろう、いつまでたっても大人の関係に慣れない。好きだよ大事にするよっていう言葉をもらうたび、なんでわたしなの、他の人に行ってくれればいいのにって思う。たぶんもう無理なんだ。かつて世界で一番好きだった子とそれ以外の人を比べてどうこうじゃなくて、自分が誰かを愛するときの最大値を知ってるから、自分がそれほどの感情を向けられる対象になるとも思えないし、もしそうなったとしたら怖いなあと思ってしまう。自分に返ってくる感情というのは怖い。だからたまに会いに行けばそこにいて笑ってくれるくらいがちょうどいいんだと思う。





 

世界で一番遠い場所


わたしは研究者だけど、本当に書きたいことなんてそんなにない。ただひとりの男の子のことを除いては。


17歳のとき、わたしは君にひとつだけ隠していることがあるよ、って実家の電話でコードレスじゃないコードをひっぱりながらいった。教えてよ、おれに隠し事とかなしだろーっていうので、じゃあ3年たったら教えてあげるって答えた。3年たったらそんな特別な感情なくなってると思ったんだ。今日某ドラマで爽太くんが「12年。…今自分で言ってびっくりした」っていうのがすごいリアルだった。「自分で言ってびっくりした」のに「12年」はすぐ出てくるあの間合い、あれは記憶してるんじゃなくて、とっさに今の自分の年から高校一年のときの年を引く癖がついてるんだね。きっとそのときに世界が一変したから。その12ってすぐに15になるよ、って思ったけど、もしわたしが未来の自分に、その15はすぐに18になって20になるんだよ、って言われたらそんなの怖すぎるから口に出さないでおく。


高校時代のわたしは何も持っていなかった。かわいくもないし、やさしくもないし、かしこくもないし、特別できることもなければ、将来やりたいこともなかった。そういう自分があの子のそばにいてめそめそ頼るだけではだめだと思って、わたしはあの子から独立したいと思った。そして大学に入って芸術学に出会った。最初にわたしに芸術学を教えてくれた先生が、この年になって学問の世界に戻ったわたしにこういった。「あなたが芸術から離れられないのは、愛の喪失を知っているからです」。きっとそうなんだ。世界で一番大切だった人のいる場所からとにかく遠くに行きたくて赴いた新天地で、わたしはあの子の知らない領域の学問を身につけた。それは別に芸術学じゃなくてもなんでもよかったのかもしれないけれど、大学に入ったばっかりの、今思えばほんとにただの子どもなんだけど、今の自分よりもずっと切実に愛の喪失に絶望している状態で、絵画や文学はそういった悲しみを肯定してくれた。わたしがこんなに学問の世界に執着する理由のひとつがこれなんだと思う。


だからわたしは、ずっと研究だけできてればそれでよかった。もういい大人なので人と付き合ったりしたことあるけど、あの子以上に好きになる人は現れないだろうと思ってたし、今もずっとそう。自分が女であることを求められることにわたしは全然抵抗がないので、やさしい彼女のふりをしながら身体も心も与えてあげるけど、わたしが好きだったあの人は、唯一わたしのことを女でもなく男でもなく、ひとりの人間として特別に扱ってくれたなあ、と恋人といるときにときどき思う。わたしは今も、ショートカットだった高校生の頃のままで中身が止まってるんだろう。きっと今もし目の前にその子が現れても、手もつなげなければ触れることもできないと思う。というか、2年半前に会ったときがそうだった。緊張して緊張して、まるで席替えのくじ引きで隣同士になったときみたいにどきどきした。手が届く場所にある彼の身体は聖体のようで、わたしには世界一遠い場所だった。それに比べてわたしは自分のことをひどく汚れたもののように感じた。あの子以外の男なら誰でも同じだと思ったけど、およそ10年ぶりに会って、わたしは自分が大人になったことを後悔した。


わたしはきっと芸術学を手放さないだろう。だけどそのためにはたぶん、一生手に入らないあの子に恋い焦がれ続ける必要があるんだと思う。骨の内側で痛くなりながら、懐かしい音楽に泣きながら、会いたい、会いたいって思い続けているのがわたしの運命なんだと思ってる。


けど。まあ、わりとつらいね。ときどきね。










 

憲法


昔わたしのことを「微笑みの下でいつも何かに憤っている」と表現した人がいた。そのときはあんまりピンと来てなかったんだけど、今になってよくわかる。最近自分が不機嫌だったり怒ってたりするのをよく自覚するようになった。それは今の自分の環境がただ単に弱く繊細なだけではやっていけないからだと思ってたんだけど、もしかしたらわたしを突き動かす大きな要素には「憤り」があったのに、それをずっと見ないようにして自分の奥底に隠してきただけなのでは、って気がついた。


何に怒っているかというと、他人にもだし、自分にもだし。前は思ってることを何も言えない人間だった。自分が黙っていればいろんなことがうまくいくんだと本気で思ってて。でもそれって他人任せでずるいなあと思うようになった。自分が被害を被らないために何も主張しないことが一番の選択である世界に生き続けるのは嫌だって、あるときから強く思った。


でも同時に、そうやって自分の立場を表明すると、それに自分自身がつられて無意識のうちに心の中で自己弁護してることがある。そういう自分に気づくとなおさら憤りを感じて、そちらの思考や行動に凝固することから逃げるために強烈に自制心がはたらく。自分の言うこと為すことに懐疑的になったり、その件について考えることを放棄したり。そうやって今、これまでになく自己検閲が厳しくなってる。ある怒りの正統性に対する懐疑、そもそも怒りという感情に対する反省、さらにはそういう感情をアウトプットすることに対する自制。もっといえばそのことに感情的に関心を持つ自分への苛立ちがあって、最終的にそこですべてのベクトルが自分に戻ってくるので、ひとりで暴れ回った後ぐったりとする。


何のことを言っているかわかる人とわからない人がいると思うけど。例えばわたしはここでしばらく書いてなかったんだけど、なんかいろんなことを考えているうちに、自分の悪意や弱さ、怠惰、卑小さ、今まで「あちら側」のものとして直視してこなかった感情を最近嫌っていうほど自覚するようになって、そこでわたしは戦わなきゃいけないんだけど、最終的に「そんなこと考えてる暇があったら勉強しろ」っていう現時点のわたしにとって最高の憲法服従して全部を飲み込むことになる。自分の意思とか感情とか、わたしが今勉強すれば受け取れる世界の叡智にくらべたらどうでもいいわ、って。全然例えばの話になってないな。じゃあ何故今日書いたのかというと、「そんなこと考えてる暇があったら勉強しろ」は「そんなこと考えている暇があったら台本を一行でも多く覚えたほうがいい」に由来していて、今日はその優先法則ですべてのことが回っている人のリーガルハイ最終回だからです。わたしを律する憲法はそういう宗教的精神に支配されています。





 

スピラル


プロダクションノート、というほどのものではないけども。
すでに手にとってもらった方には、制作裏話的なものがあると楽しんでいただけるかなあと思って。


先日こちらの『SPIRAL スピラル』という小さい本を作りました。



発行所は「グラール堂」となっていますが、これはわたしのプライベートプレス名です。四谷アートステュディウムの編集オルタナティヴ講座で、郡淳一郎先生と間奈美子先生に習っていたときにつけました。由来は当時住んでいた「かぐらざか」から来ているんですが、今はもう住んでいないのでプレス名だけが残ったという次第です。


この本のもともとの構想は、2008年くらいからあったものです。その頃ポアンカレ予想*1にはまってて、それを発展させて本の形にしよう、というところから始まりました。まだこの段階では、物語にしようというつもりはなくて、造本計画から考えていた記憶があります。


そもそもわたしはフィクションを書く動機というものをそんなに持ち合わせていないので、別に書くことが好きとか、書かないと生きていけないとか、そういうのはないです。でも書物という媒体が好きだから、自分で作るならその素材を作らなければいけないっていう理由で、今までも詩とかお話とか書いてきました。最初はそういえば、デュシャンの絵画を何枚か順番に並べて、それが挿絵になるようなお話を作りあげる、という「デュシャンえほん」というのを書きましたね。その後シャガールでも試みました。そうやってできた物語は、絵画の中で初めから意図されているストーリーでもないし、自分本位でも書けない。でも想像力と辻褄合わせで書き上げると、他人が書いたものみたいにおもしろいんだけど、自分の無意識みたいなものがじわっと表れていたりして、それは結構楽しかったなーって思います。


そして前回のは、太陽系の惑星の詩集だったんだけど、あれは1ページごとに「素材と色彩」を決めて、詩にしました。たとえば木星だったら、自然に“木材”と“緑”の入る詩にする。そうすると、表面上は恋の詩っぽいんだけど、読んでる人は無意識のうちに手触りと色彩を感じるという。そういうふうにして、この言葉を使わなきゃいけないとか、この表現をどこかで入れるとか、裏ルールがないとわたしは書けないようなので、自分で自分に決めごとを作って書くという手法でやってます。


で、今回のは、ポアンカレの定理を元に、読んでるうちに二次元から三次元への飛翔、三次元から四次元への飛翔、っていうのがなんとなく感じられるようにまず構成を作りました。書いてるあいだ、ずっと見てたのはこの図です。



これがなぜああいう話になるのかは、自分でも謎ですがw


まあ今回のは小説だけど、誰がどうしたっていうストーリーではないので、自然とわたしの考えてることとか、影響されたものが出てくるものだなあって思いました。「また宇宙ですか?」「また宇宙です!」みたいなw あと、人間って頭で考えてることと別に、「手」が外の世界の様子を知覚して意志を持って動いていることってわりとあるよね、ということとか。ひとりの人間の中に複数の人格がいて、人格Aと人格Bは意思疎通できるけど、人格Cはいつも一方的に見ているだけで、向こうはこちらの存在に気づいていない片思い状態だったりするということはあるんじゃないか、とか。その他、天才の孤独についてや、内側と外側、閉じ込められることと閉じ込めることなど。そういうのがこの6ページのなかにぎっしりつまっています。


造本については、今回のテーマは「硬質さ」と「静謐さ」でした。最初の計画ではもっといろんな仕掛けを入れたり、本文組がぐちゃぐちゃしてたりしたんですけど、文章がすでにわかりにくいものになっちゃってたから、もうシンプルに行こうと思っていろいろ削ぎ落としました。そういえば、製本の先生からは「文字組を横書きにするとか信じられない。世代だなあ」って驚かれたんですが、そんなに特に主義とかなくふつうにやってたことだったから、びっくりされたことに逆にびっくり。自分が今の読んでる芸術書も和文だけど横書きだし、縦書きで組むことのほうが違和感あるかも。版型は、これは実はアップルの説明書と同じサイズです。本文中にも正方形って出てくるので。あと、初めは本文用紙を漆黒にして銀のインクで刷りたい!っていう夢があったのですが、印刷見積もりとったらすごい高くて、プリントゴッコでも細かい文字が出ないということがわかったので、断念しました。用紙については、本文用紙は、竹尾のNTラシャ(グレー40)、表紙は平和紙業の新・星物語(カレント)。表紙は別に名前で選んだわけじゃなかったんですけどw、いろいろ試してみて一番はまったので。まあ言わなきゃ自分だけが楽しいやつねw


反省点。やっぱりわたしは製本の経験が足りないので、オリジナリティに欠けるなあというのを一番実感しています。でも、中身がとっちらかってるわりに見た目はおとなしくて無害そう、というのはすごい自分っぽいなあと思いましたw 何度作ってもそうなるんだよねえ。今度はもうちょっと挑戦的なことしたいね。真っ赤な本とか。
文章については、本当に自分の文章が好きではないので、いや好きなんだけど子どもっぽくて嫌になるので、もうあんまり考えないようにしています…。あとこれは裏話だけど、当初冬のお話だったんだけど、発行が真夏になってしまったので、印刷直前に季節を夏設定に変えましたw なので実はちょっとあとから整合性が気になるところとか残ってたりします。
出来れば誰かに文章書いてもらって、絵も描いてもらって、装丁だけするのが夢なんだけど、それには装丁の経験をもうちょっと積まなければねー。


だけど、ひさしぶりに会社員でもなく学生でもないことができたなあって感じがします。これにかかずらってる時間を研究に向けたらすごい研究が前進するのかもしれないけど、でもわたしの本作りは一生もののホビーにしたいと思っているので。日本語の「趣味」よりももうちょっと専門性が高くて、積極的な活動をあえてアマチュアでやる、というニュアンスが英語のhobbyの意味にあるそうだけれど、それに近い。なのでまあ、次の長期休暇とかにまた作ろうと思います。


この本をほしいと言ってくださる奇特な方には差し上げていますので、もし興味のある方がいらっしゃいましたら、annaprique@gmail.comまでメールをください。無料でお送りいたします。お手元でご覧いただいて感想などいただけたら嬉しいです。






 

*1:余談。文字で書くと「ポアンカレ」が一般的なようですが、発音すると「ポワンカレ」が近いようで、いまだに自分の中で表記ユレあり