在るに開く



世界と雫

朝の雫二つ〈世界〉の春がある


おもしろい。こんなの写しちゃいました、今朝方。
夜が明けて。朝があって。雨が上がって日が昇って。みんな動いて。もうボクらも動いてる。
朝とここに偶然雫に出くわしたボクがいて。これを見ていることもすっぽり包んだ世界ってのがあって。で同時に世界が映し出された玉の雫ってのがある。それがこんどボクらを映している。こっち側を見られている・・・。て云うか両方に開いている。
そんな感じかな。好い感じだよ。
で何かむずむずして。朝の新鮮があったからか、立ち現れ方とか云うより兎も角いい感じでついパチリだ。前にも雫くらいは写していたんだけどもな。でも何かが違うって感じ。意識の在り方とか、心理とかそんなんでは全然なくて。そうもっと何か実体そのものが在る。て云うか在るに開くというべきか。そのムズムズは実に何かに似てる。分からないけど。いつか何処かで嘗て見たような。それとも未知なのか。でももう知ってるような。だからムズムズというよりゾクゾクかな。
しばらく見たりして。考えないで実際を感じる。ひとまずアップ!

二重としての存在

思い出した。長野の小学生が書いた作文だ。

黒姫山妙高山の間に日はしずむ
その時みかん色の雲が
すうっとわたしの目の前を通る
一日の出来ごとをのせて雲は動く
わたしが学校で勉強していたのは
見ているだろうか

この感じどうだろう。これはいいよ。分かる。理屈よりも心理感覚でなく実際にその感じがそうだと解るもの。みんなも感じてくれると嬉しい。
(続)byつらら

ニチジョウの花


ニチジョウの花がきれい
コムラサキシキブの花がきれい
このコムラサキシキブの
このムラサキが
なにか
なにか
なにかニチジョウで
でもたぶん
ニチジョウはムラサキなんかじゃなくて
花なんだよって
たぶん言いたいんじゃないだろかって



私が手に触れることができる何かが、一つであるにもかかわらず、私の目の前に二つとして立ち現われる。「現われる」根拠は私にはない。他者の自由に任されている。私は一つに触れているから、おそらく一つだけが現われるのだろう思うが、そんなことはない。立ち現われるもの、そのなにものかが、一つであるという確証はどこにもない。この影のように。私が私を棚上げにしようがしまいが、立ち現われるもののみが決める、その姿を現したいように現す。


氷柱さん、秋だけど、寒くないんです。
歩くと汗ばむし、部屋にいると太陽に蒸します。
秋だからだと思うのでありまする。
秋になったから寒くなったでしょうと、やさしい心の氷柱さんは声をかけてくださる。声をかけてくださるのは、ただ「寒い」ことが気になるんじゃなくて、「元気かい」ということが知りたいからなのではないでしょうか。そんなふうに、秋は、みずから冬へと降りながらも、関係のために媒介となってくれているのですね。秋が冬に降りながら温める。

立ちすくむ


生命力に溢れ、打ち砕かれ、死に、復活したイエス・キリストを人間イエスとして想像するとき、私の目の前に、彼は、一人の人間としてしか立ち現われない。しかし、ほんとうにそれだけなのだろうか。多くの宗教芸術家が、彼らの前に立ち現われるイエス・キリストの姿を描いてきた。描くだけではない、歌い、奏で、物語のなかに表現してきた。しかしどうだろう。彼らは、立ち現われた彼を知り、その姿を真摯に描きながら、彼ら自身にまとわりつく人間性に苛まれることはなかっただろうか。また逆に、彼ら自身に備わった人間性に癒されることはなかっただろうか。同じように、宗教芸術家のように表現する手段をもたない者も、イエス・キリストを前にして、自らの人間性を知る。私の中に誰かが立ちすくむ、あるいは自分自身が立ちすくむその時を知るなら。私の人間性のありのままが、私にわかるという、それを神秘 Le Mystère と呼ぶのではないか。
by けい

 立ち現われる

書き綴る

やはり<立ち現われる>こと。
けいさん、元気?そっちはもう寒いでしょうね?

秋の水の礫がボクの肌を撃つ。そして秋の花が実をつけている。2005-10-13からこちらのはてなにシフトして、ボクはもう少していねいに書き綴れないかと思う。2005-09-26
確かで、明証的で、ボクらの存在に帰結することを。
ボクらを越えて<世界>が<立ち現われる>ことを。
ううん、超越の神なんかじゃなくてさ。神という話少し外してさ。

  • 確かにボクらがキリスト者だとしても、何だかそれとはもう少し違うこととして。このことが出来るからこそ神のことも話せる。このニチジョウを話してこそ神のことも話せる。むろん、ニチジョウがこっちにあって、神があっちにあるだなんてとうてい思えないけれども。それはズイブン都合がいい話というよりも元からそんなことは出来ないこと。そんなことならこんなふうにダラダラと書きはしないと、そう思える。

だから・・・遠回しかも知れない。たしかで明らかでボクらそのものに帰りつくことを。だけど少し書いてみることにする。
何故なら、この<立ち現われる>ことの輪郭をはっきりすれば、この先何か見晴らしのいい処。風通しのいい場所に立てると思えるから。

棚上げにする

次々にボクの形相的像(イデア)の器に流れをもって日毎に注ぎ込むものがある。有を越えたひとつの有を見る。ボクらはその流れに<思う>ことを棚上げにしてみる。その流れに<向うことの思い>を棚上げにする。あるいは花に<思う>こと、花に<向うことの思い>を棚上げにしてみる。「私」「わたし」を棚上げする。残ったなにがしかの「ワタシ」をも棚上げに。もしかしてフラッシュバックの残像さえあるならばそれもボクらの一切を回避してみる。これは無化ということだろうか。その真空によって満たすものが注がれるとヴェイユが云っても何だか白々と空を眺めてしまいそう。しっくりこない。

でどうなのだろう?棚上げになったかな? いや、それさえそのことすらももうボクらは離れているのかも知れない。ならどうする? いや、それは越えるということかな。分らない。

でもたとえばあの日かの時、誰しも強く失ったことのあること。その日々の実体と意識もついに忘れるような、あるいは悲しみさえからも遠く隔たったこと。こちらが遠くなるのか。思いがこちらから遠ざかるのだろうか。もうそれさえ分らないこと。というより、ボクらの<思い>だったことが別にあり、またボクらという<存在>が別にあるということのそのもの情景。と云う方がしっくりくる。
思いやボクらが時の彼方に行ったにしても、<立ち現われる>ことは決してボクらの記憶ではなく、<立ち現れる>記録というふうに云えるのではないか。

帰するところから新たに

だとしたら、無化というよりも一切を棚上げにしたボクらは回避したボクらは、そこにこそ、今にこそ、ここにこそ、ボクらが<世界>にそう思うことと<世界>がそう思われることの間で確かに<立ち現われる>ことがあると云えるのではないか。たしかで明らかでボクらそのものに帰りつくこうとすること。その帰するところからまた新たに思うことと方向を経ようとする。今もボクらの意識は留まることなく流れているのだ。
少しはボクは見晴らしのいい処にきたようだ。けいさんはどう?
by 氷柱

人の知恵とは何か?

御心を知る人の知恵とは何か? 天を仰ぎ賛美を唱えパンを裂き弟子に渡したイエスはキリストの核心といわれているのだが、満腹のためにのみ施しても、人は何れ去るのかも知れない。たが御心を知る愛こそボクらのまなかにあり、神の国はボクらのあいだにあると、み言葉はいう(ルカ 17:21)。その時確かにボクらは光の中をいる(ヨハネ手 1:7)ことでボクらは自らをなぞることが出来る。属性(attribute)という何れに帰するものは、まさに何れより与えられしものだとは云うことができるのだろう。実体のそれぞれの要素(器)も新たな像(情報)が日ごとに注ぎ込んではまた新たにされていく。
Vezelay - karpos’s blogの光に暫し瞳をとじてみた。光のふところの中で<わたし・あなた・わたしたち>がなぞられながら揺曳している。
by つらら

知ることとは

光は空なるもので、光には実体もなく、現象でしかないのだから。また可視光線はボクら人間の受容器たる眼を通して確認されるにすぎない。きれいな虹の七色がある。太陽の光が水滴によって分光されるのだと分りだしたのは17世紀だったのだが、しかしニュートンがすばらしいところは一度プリズムで分光されたものをもう一度プリズムで白光色に戻して分光のメカニズムそのものを明らかにしたことなのだ。だがやはりその光を知るというのはボクら人間の側の問題なのだ。光は立ち現われる。光のメカニズムを知ったにしても、知る以前とその後でも、なんら光とワタクシの間に変わりはない。全くもってわたし・あなた・世界を知ることもボクら側の問題ではないのだろうか。
Home of Masaki FUJIHATA

ボクら人間の側の問題

コンピュータはそれ実体の中で「do・やる」というプロセスの中でしかリアリティを持ち得ない。ならそれをもっと確かなものにするにはどうする?うん。そのリアリティを揺さぶる?ってやればいいのだろう。ただ画面を見ていても何も始まらないのだから。リアリティはボクら側の問題であって、コンピュータ側の問題ではない。
案ずるよりも考えるよりも何か?を入れて「Enter・実行」だ。その基本は今も昔もコンピュータは変わらない。(ところでボクの父は、生前古希の祝いボクらが贈ったマックのクラシックを前に電源を入れずにメールをずっと待っていたそうな。それはそれで微笑ましくもあり、そうも誰もやりそうで分る気もするのだけれど(^_^);)。せいぜい電源オンしてマウスを動かしてみたらどうだろうか。NTT InterCommunication Center [ICC]

そうしてボクらは

もっと目的を持ったクリエイションをしなくちゃいけない---自分の持っているものを素直に他者に伝えるための道具---身体の中に眠っている記憶を新しいメディアを使ってどうやって取り出すか
藤幡正樹 http://www.ntticc.or.jp/Collection/Interview/Fujihata_M/index_j.html

それは何よりも自分の中の不明瞭な形態だったもの(わたし・あなた)が記号(メタファーやメトミニー)を通すことで明快な実体を伴ってやってきたと言うことだった。だがそれがmetaphorであって、simileではないということの了解が何よりも必要だ。

またかつて藤幡は「コンピューターの宇宙誌」でCGの思考の有り様を次のような言葉で対比している。
ギリシャからローマへ。立体から平面へ。真実から虚偽(作為)へ。」このリアリティは修辞をはるかに超えて実体そのものを明らかにしてくれるのではないか。

新たにされて

ボクの内にも形相 - emmaus.hatenablog.jp的像(イデア)を入れる器があって、そして他方魂の記憶が次々に新たな像が日ごとに別な方に注ぎ込むのだ。有を越えたひとつの有を見るのである。
ある時、明かりひとつない真っ暗な広い無人の工場でNC工作機器が動く場に居合わすことがあった。またある時ボクは九死に一生をえるという事故でしばらくの間眼に光りを失ったことがあった。だが闇の中にボクをなぞる何かの実体があって、おのれの輪郭がものの輪郭浮かび上がったことを知った。あれが光か。そうならば光とは何? 確かなリアリティがあった。確かさは遮っても変わらぬものだった。