圧倒的な衝撃を伴う読書だった。
スタニスワフ・レムの他者論が、絶対的なフェーズの違いをこれでもかと執拗に描くのに対し、フェーズの違いを乗り越えようと痛いほどに試みるのがこれだ。
スタニスワフ・レムの小説はSFであり、こちらは現実の恋人を対象にしているのだから、同じ土俵に乗せるわけにはいかないが、自分の中で、後者の他者論について考えたいと思っていることに、すこし成長したかな、と思ったりもするのです。

たまもの

たまもの

「たまもの」を読んだら、『ニシノユキヒコの恋と冒険』を再び読みたくなった。
こちらはどちらかというと、絶対的なフェーズの違い(とまで言うと言い過ぎか)をそれとして仄かに切なく感じる本ではないかという感じがするのだが…。いかに。

ううんと、他者論とは自分と人のマッピングの仕方??
あーあー。ちゃんと考えよう。

人に引きずられやすい。自分のペースをすぐに見失う。
とくに、自分と似たことを言う人、考えている人が現れると、話すのが楽しい反面、その人の言う言葉が大きくなって、自分は相手と交換可能なのではないか、相手の方が確実に勝っているので私なんかいなくても良いのではないか、見透かされているのではないか、相手のことを大切にかけがえのないものにしなくてはならないのではないか、などなど・・・・。
自分の押し出しの弱さが、非常に悪い方向に出てしまうのだろう。
同様の経験で、非常に怖い思いをしたことを思い出す。5年前と4年前の2回。
自分の感情がコントロールできず、相手(の言葉)が頭を占め、ぶんぶんぶんぶんと二六時中纏わりつく。

今日はそんなことを思い出してしまったのだ。

私は、人間と接するのが怖いのだ、怖いと思っているのだ。
知らないことを知らないというのも怖いが、知っていることが重なりすぎる人と出会うのも怖かったのだ。なんでそんなに怖いのか。なんでだろう。なんでなんだろう…。
それほど怖いと思う必要は無いはずなのに。
相手が自分に食い込んでくる、と感じるからか。自分を卑小なものと捉えているからか。
不用意にopenmindedなのか?小心者だからすぐに腹を見せる犬のような態度をとってしまい、それに縛られるからか。
すべて、じぶんの大切なものすべてがかっさらわれるような気分になるのだ。

明確に、自覚的になって、乗り越えていきたい。絶対に乗り越えなくてはならない。
だってサターンリターンなんだもん。

ひきつづき深沢七郎
なんでこんなに惹かれてしまうんだろう。
語り口の哀しみか、家族、地域、時間、あらゆるものがつながる感じ、シンクロニシティか。わかりません、自分でもよくわからないのですが、無知な人々が一生懸命心底一生懸命生きている小説を、たゆたっていたいと思わせるのです。

笛吹川 (新潮文庫 ふ 5-2)

笛吹川 (新潮文庫 ふ 5-2)

その2

NHKトップランナー 佐藤オオキを見る。
ミニマムな視点から、マキシマムな世界を透かし見ているような人。大上段に構えて小さなことを省みず、って在り方もあるかもしれない。でも、ふとすると見逃してしまう小さなものが、大きなことを起こすことのそのダイナミックさは、実は震えるほど面白いかもしれない。佐藤オオキ氏も「バタフライ効果」と言っていたけれど、地に足のついたところからはじめること。それと同時に「作法」などを気にしない軽やかさ。
飄々としていて器用そうだけど、なんだかほっとする人物のように見えた。