『クピドの悪戯』を読む深夜。

久米田と北崎の戦いでは久米田に私怨支援せよと教えられて育った90年代中盤サンデー読者の僕が何をとちくるったのか深夜のマンガ喫茶北崎拓先生の『クピドの悪戯』を全巻読んでしまったりしたわけなのだった。というわけでいきなりですが恋がしたいです。すっかり鯛男化。三日で忘れそうだけど、今、僕、絶賛鯛男。
(以下脳内はてブコメントとの対話)

#payatan2[非モテ][はいはいワロス]じゃあオシャレとかすれば?

ちがーう。女の子と付き合いたいんじゃないんですよ。恋がしたいの、恋が。自分自身よりも大切な存在が自分の外側に欲しいというこの気持ちですよ。察しろ!

#payatan2[非モテ][これはひどい]『ボーイズ・オン・ザ・ラン』でも読んで解毒しろよ。

嫌。もうスピリッツ系の鬱恋愛ものは嫌なのー。『ハクバノオウジサマ』とかも爛れすぎなの。時代はヤンサン系。間違いない。拝啓、原秀則〜(「拝啓、ジョン・レノン」のメロディーで)。

#payatan2[ツッコミ]なんでヤンジャンじゃダメなの?

ヤンジャンにはロマンが足りないんだよ。

#payatan2[きんもーっ☆]

エロじゃなくて愛が欲しいんだから仕方ねえだろうよーッ。
(対話終了)
こんなことをしてみても気持ちは紛れないのであった。しみじみ切ないですね。すっかり気温は冬仕様だし。人肌恋しいわ…。

会話ニアイコール遊戯なのかしら。

幼稚園のお遊戯、なんていうときの「遊戯」という言葉には、ただ「『遊』び『戯』れること」という意味ではなくて、「社会性や運動能力を身に付けるための一定の方法にしたがった遊び」という意味があるんだそうですね。言われてみれば…という感じですが、あまりそうやって言語化してみたことはありませんでした。
数日前にそんなことを考えて以来、他人との会話って後者の意味で「遊戯」だよねぇ…などと考えています。「非モテは無意味な会話が嫌い」なんて分析がどこかでされていたはずで、言うに及ばず僕自身もそうなのですが、しかしふと冷静になると「無意味ではない会話」というものがどうにもイメージ出来ない自分に気が付いたわけです。
ここしばらく仕事で会議が多いせいかもしれません。狭い社内での会議なんて、始める前に既にゴールは見えているんですよね。そこに辿り着くために、事前に話題や論理を詰めておいた記憶の引出しを相手の行動に応じつつパッパッと開いているだけで、行われている会話自体からは何も新しいものは生まれてきてない。ようするに会議の内容は無意味なんですよね。開くことには意味があるんでしょうけど。会議を廃止したら仕事が上手く行ったという話も聞きませんし。
ないと困るけどなんだか好きになれない、という「会話」って一体なんなんでしょうね。そんなことを思います。こうまとめると、お金ともちょっと似てますね、会話。
…なんだかすごく散漫なエントリになっちゃった。うー。あまりに会話が多いので、ちょっと独り言を書きたかったということで、お許し下さい。
(誰に謝ってるんだろう)(自分自身かなぁ)(エントリのハードルがどんどん下がってる…)

夢見るように綴りたい。

リンダリンダラバーソール (新潮文庫)

リンダリンダラバーソール (新潮文庫)

引用されていた
「本当は、表現したいという衝動だけがあるのであって、表現したいものなど、実は何ひとつないのである」
という末井昭さんの言葉が心に痛い。バンドブームといえばバンドをやり、ラップブームといえばラップをやり、ブログブームといえばブログをやってしまう僕たちの悲しみが凝縮されている言葉だと思う。
そして、ブームという名の大海に飛び出した人たちは、長い人生の中ではほんの一瞬にしかすぎない時間にだけ訪れる悦びのために、その何倍もの時間の苦しみを耐えるのだよね。なんて悲しいことなんだろう、と僕にはまだ思えてしまう。それが人生なのだ、と割り切ってしまえない。まだ人生の悦びに未練がありまくるからなんだろうなぁ。あー、苦しいなあ。はやくお爺さんになりたいよぅ。
この本を読み終えると
http://youtube.com/watch?v=FWvOjTByWjg
http://youtube.com/watch?v=UxtecDRcuYU
こういった動画を観ていても、とってもせつない気持ちになってしまった。
漢字をあてるなら「切ない」じゃなくて「刹那い」と書いた方がしっくりくる具合で、せつない。……上手いことを言っているようで自分でも何を言っているのかよくわからんような。

禁をやぶってしまった。

圧倒的な肯定の言葉だけを書きつづけるブログにしようと思っていたのに禁をやぶってしまいました。
僕の中の他人と関わりたいという欲望、何かを表現したつもりになりたいという欲望のなんと根深いことだろう。恥ずかしい。沈思黙考を何十年と行いほんの少しだけ文章を発表する。そんなあり方に憧れるのにどうしてできないのか。孤立が怖いからだ。孤独が怖いからだ。沈黙が怖いからだ。「非モテ」とひとこと書けば誰かが読んでくれる。はてなはそんな優しい空間で、そこに僕は甘えようとしている。心の奥深くでは甘えたくないと思っているのに、表面の部分がそれを許してくれない。情けない。
非コミュになるには勇気が足りない、非モテでいるには知性が足りない、モテになるには自分が嫌いすぎる。でもどこかナルシシスト。溜息が出る。ふぅ。

藤本由香里さんとか中島梓さんとか。

http://d.hatena.ne.jp/nogamin/20061106/1162820540
もともと大塚英志さんの史観へのDisから始まっているということも含めて、一連のエントリは読んでいてちょっと歪んだものを感じてしまいました。「これまで少女マンガ論は男性の論者を主にして本来の読者たちの読み方からは大きくズレたまとめ方をされてきた」みたいな、ちょっと懐かしいフェミニズム論者の香りというか、軽い被害妄想っぽいというか、「研究」をされる際には問題になりそうな思い込みを読み取ってしまうのは、僕の目が何かの影響で曇っているからでしょうか。
例えば、女性の側から、「私の居場所はどこにあるの?」=「生きている限り逃れられそうにない承認欲求とどうやって付き合っていけばいいのか?」という問題意識について思考し続けてきたものとして少女マンガを捉えて、その変遷を一本の流れとしてまとめられた藤本由香里さんの一連の仕事(担当編集として関わった中島梓さんの著作も含めて)を、この方はどう受け止めておられるんだろうか? ちょっと気になります。

  • 誤解を招きそうなので追記。藤本さんへの言及はリンク先にちゃんとあるんですが、僕は不十分だと思うのですよ。特に「(「承認欲求」by宮台)「かわいい私」(by大塚)「かわいいを媒介として実現される少女としての私」(by大塚))」この切り取り方はちょっとなくない?と。どうしてここに藤本さんをいれないんだろう……。

幸せになりたいよ。

勝ってるやつには勝ってるなりの、負けてるやつには負けてるやつなりの苦しみや悲しみがある。
不治の病で今にも死にそうな奴に「お前は生きていられるから勝ち組だな」と言われたとき嬉しいだろうか。無理だろう。そんな残酷に人間の心はできてない。
だからこのエントリを読んでくれたあなた。あなたからでいい。始めて欲しいんですよ。勝ってるやつを認めてやってくれ。もちろん負けてるやつも認めてやってくれ。そして、勝ち組と負け組が対立しているなんていう幻想を吹っ飛ばしてくれ。僕たちはただこの世界に存在しているだけなんだって叫んでくれ!!
そこから考え始めてくれないか。どうやったら僕たちみんな幸せになれるのかってこと考えてくれやしませんか!!
「他人を傷付けたい訳じゃない、ただ幸せになりたいだけなんだ」って、世界中に大声で発表してくれやしませんかーーーーーーーーーーー!!!!!!!