「メディア/イアソン」

世田谷パブリックシアターのプロデュース公演。東京公演をご覧になった方の評判がなかなかよかったので足を運んでみました。上演時間2時間だというし!(短い芝居だいすき)

ギリシア悲劇の「メディア」の上演というよりも、ギリシア神話で描かれる「アルゴー船の冒険」にはじまるイアソンとメディアの出会い、爆発的に燃え上がる愛情と、その裏返しのメディアの激情のさま、そして有名なイアソンの裏切りからの悲劇までを実にコンパクトにまとめていたと思います。私は幼少期に山室静氏の「ギリシア神話」の本を文字通り舐めるように読んでいたので、メディアの物語よりイアソンの金羊毛を求めた冒険の顛末のほうが馴染み深いぐらいなので、こうした再構成は大歓迎。

その幼少期の記憶で一番印象に残っているのが、コルキスからの脱出の際、メディアが追っ手から逃れるために船に乗っていた弟を殺害し、その亡骸を切り刻んで海にばら撒き、追手がそれをかき集める間に脱出した…というエピソード。今回の芝居でも取り上げられてましたね。強烈過ぎだし、そんなものを幼少期に読むなという感じですが、このときにイアソンはメディアのあまりにも苛烈な性格にすでに引いてるんですよ。そんなこんながあってのコリントスでのイアソンの裏切りにつながるわけで、メディアの悲劇は単に糟糠の妻を捨てたみたいな話じゃないんですよね。今回の上演だとその二人の燃え上がり方の早さと、それゆえのしっぺ返しという因果応報がうまく掬い取られて面白かったです。

タイトルロールのイアソンを井上芳雄さん、メディアを南沢奈央さんが演じていますが、総キャストがなんと5人のみというコンパクトな座組なのも、よかった。全員がくるくるとよく動き、多様な場面をしっかり成立させていて、スピード感のある脚本とマッチしていたと思います。あとねー、舞台美術がめちゃくちゃよかった!!!スタッフ調べたら伊藤雅子さんという方だった。船や風景が影絵のように浮かび上がるだけでなく、組み合わせでどんどん表情を変えていくのもよかったなーー。ギリシア悲劇というと重厚!みたいな雰囲気に偏りがちだけど、脚本も演出もどこか童話の世界というか紙芝居のような軽やかさがあって、それはこの美術の残す印象が大きく作用していたと思います。

「オッペンハイマー」


クリストファー・ノーラン監督新作、第96回アカデミー賞作品賞・監督賞受賞作品。主演男優賞をキリアン・マーフィー、助演男優賞ロバート・ダウニー・Jrが受賞したので、主要賞総なめの感ありますね。全米公開から遅れることなんと8か月!「原爆の父」を扱った作品だからなのか、本邦での公開がなかなか決定しないなどの紆余曲折もありつつ(ビターズ・エンドさんありがとう!)、最終的にオスカー受賞を当て込んだ公開みたいなタイミングになったのはよかったのかどうなのか。

マッカーシズム、いわゆる「赤狩り」が吹き荒れた時代に、近親者に共産党員がおり、過去にオッペンハイマー自身も集会に参加したことがあることをほじくり返され、公職の任を解かれたその追及のさまと、オッペンハイマー理論物理学で頭角を現し、ナチスドイツが開発を進めていた「新型爆弾」に対抗するために軍が立ち上げた「マンハッタン計画」のリーダーとなり、ロス・アラモスで世界最初の核実験を成功させるまでが並行して語られます。カラーパートとモノクロパートがあり、カラーパートは「核分裂」、モノクロパートは「核融合」のタイトルが出て、単純に時制でモノクロとカラーをすみわけているわけではなさそう。

私は時系列が前後したり交錯したりする書き方に耐性があるのか、単に好みだからなのか、本作での過去と現在と現在の中で語られる過去、みたいな見せ方は大好物だし、さらに今作は最初と最後がリンクする(なので最初の5分を見逃すと結構つらい)構成で、わしの大好きなやつやんけ…となったことを告白しておきます。加えてちょっとしたサスペンスの要素もあり、180分間集中して観られたなと。オッペンハイマーを追いやるための聴聞会と、彼を追いやったストラウスが商務長官に承認されるための公聴会を主軸にしており、劇中でなんども「これは裁判ではない」と皮肉めいて語られますが、ある意味法廷ものジャンルの描き方に似ていて、それも私の好みに合ったのかもしれません(法廷もの大好きっ子)。ヒル博士の証言のくだりなんて、まさに法廷ジャンルの醍醐味というような登場ですもんね。

原子爆弾を主軸に語る作品である以上、そして劇中でそれが広島と長崎に投下されるプロセスが語られる以上、この映画に対して被爆国に生まれた者ならではの感情はもちろんありますが、少なくともこの映画は「原子爆弾とそれを開発した者」に対して真摯に向き合っているので、そこに不快感を感じることはなかったです。我々にとって8.6と8.9は何かの終わりであるわけだけど、アメリカにとってはそれは終わらない核開発のゴングであって、さらに言えばアメリカはあの瞬間からずっと大小さまざまな「戦争」に片足を突っ込んだままであることを考えてしまいます。アメリカにとって原子爆弾は、当初はナチスドイツへの、その後は共産「主義者」との競争を制するための手札であって、重要なのはどのように強力な手札を手に入れるかだったし、日本はその強者同士の争いの中で踏みにじられた弱者であったってことなんですよね。でもだからこそ、踏みにじられた側がこの映画に何を思うのかっていうのは我々だけしか語れない言葉でもあるはずなので、やっぱり日本で公開されたことはよかった以外のなにものでもないと私は思います。

オッペンハイマーが実際にトリニティ実験のあと、そして広島・長崎への投下のあと、どれだけ後悔の念を抱いていたのかっていうのは誰にもわからない。大統領に「私の手は血塗られたと感じる」と言ったのは本心であろうし、より強力な水爆の推進に反対の立場をとったのも過去への後悔があったのかもしれないけれど、でも後悔だけではなかっただろうとも思う。私が唯一この映画に対して複雑な感情を抱いた点があるとすれば、ノーランがIMAXフィルムで撮影したトリニティ実験による圧倒的な原子爆弾の威力を描くさまが、この映画における「映画としての魅力」に直結しているところかもしれません。あの瞬間はオッペンハイマーにとっても、確実に栄光の瞬間であったはずなんですよね。そして、人間というのはその二つの相反する思いを共存させられる生き物なんですよ。本当、人間とは誠に多面体。

先日拝見した舞台「イノセント・ピープル」がまさにこのロス・アラモスにいた研究者たちを題材にした芝居だったので、ニューメキシコ州の砂漠の真ん中に町を作る様子や、あの瞬間を縁に結びついたブラザーフッド的なものをこの映画でさらに多角的に見られた気がして、私にとっても結果的にいいタイミングでの公開になりました。

それにしても、端から端までキャストが豪華すぎてすごかったですね。キリアン・マーフィーもちろん圧倒的によかったですが、彼に対峙し圧倒的小役人ぶりを見せつけるRDJもすごかった。本当に一瞬ですがトルーマン大統領をゲイリー・オールドマンがやってんのもビビったし、エミリー・ブラントマット・デイモン、フローレンス・ピュー、ラミ・マレック、ケーシー・アフレック、デイン・デハーンジョシュ・ハートネット、そしてケネス・ブラナー。みんなノーランと仕事したさすぎてキャスト一覧がわけわかんないことになりすぎてた。

それにしても、ワーナーはこれまでノーランとの蜜月を長く続けていたのに、TENETで袂を分かってノーランがユニバーサルに移り、最初のこの「オッペンハイマー」でオスカーを獲るという…いやコロナ禍での劇場公開するかどうかの判断なんて、神でもない限り見通せない話だし、ワーナー的には逃した魚は大きいと感じているのかどうなのか。復縁希望なんて話も聞きますし、ノーランの次回作のスタジオがどこになるかも含めて楽しみです。

「ディア・イングランド」


ナショナル・シアター・ライヴ新作。サッカーイングランド代表とその監督であるガレス・サウスゲートを描いたもので、特にPK戦を苦手とするイングランド代表チームが2018年のワールドカップ、2020年(実際の開催はコロナで2021年にずれ込む)のユーロ、2022年のワールドカップをどのように戦ったのかに焦点を当てており、サッカー&演劇というある意味異種格闘技戦

何を隠そう、という出だしで始まる時は大抵何も隠してないことが多いですが、今回ばっかりは本当に何を隠そう、この3~4年私は楽しみの多くを欧州サッカーを見ることに費やしていて、かつどれほど費やしているかをSNSでは書かないようにしていたのでした。めちゃくちゃ詳しいわけではもちろんないけど、少なくとも本作で出てきた選手たちの実際の顔が浮かぶし、取り上げられた試合の結末も知ってるしという状態。それが演劇になってナショナルシアターライヴで観られるっつーんだから、そりゃ飛びついちゃいますよね。

日本代表の選抜でも、現在欧州のクラブチームで第一線で活躍している選手を招へいするかどうか、みたいな話題があがることがありますが、今作でも「代表選抜は選手にとって諸手をあげて歓迎することばかりじゃない」って話が語られてましたね。実際、現在プレミアリーグは世界最高のリーグと言われており、中東の資本が入ることによってマジで札束でぶん殴って世界中の有力選手を獲ってくるというような状態。その高騰する移籍金や給与は代表に参加する間もクラブチームが支払うわけで、代表=名誉ではあるけれど、すべての選手が代表活動を優先するわけでもない。

世界最高のリーグを抱え、フットボール発祥の地であるにも関わらずメジャー大会で結果が出せず、求心力を失いつつあるイングランド代表を、サウスゲートがまず精神面から立て直していこうとするところ、そして何より、ロシアワールドカップに始まり、カタールワールドカップの優勝という目標までを、イングランド代表復権のひとつのナラティブとして語ったのがほぉ~~となりました。PKへの取り組みはそのひとつの足掛かりというわけ。

スポーツは筋書きのないドラマ、とはよく言われる言葉ですが、筋書きがないからこそありとあらゆるスポーツにおいて、その選手、チーム、個人のナラティブを見出そうとしてしまうの、すごくよくわかるんですよね。でもって、それはほぼ、実現しない。ほぼ実現しないんだけど、でも、100%実現しないわけでもない。だから夢を見ちゃう。その繰り返し。

ロシアW杯でPK戦の呪縛を破り、ベスト4まで進んで対戦相手はクロアチア、行ける!と思ったところで敗れるのも、2021年に開催されたユーロで決勝進出、しかも場所はホームウェンブリーという絶好の機会にPK戦で敗れるのも、カタールW杯で最強フランスと準々決勝で対戦し、ハリー・ケインがPKを外してしまって敗退するのも…落胆、絶望、でもそのあとには「いつか」のための物語の途中であると夢を見てしまう。そういう、思い描いた物語にはならない残酷さと、それを受容するための過程を見せてもらった芝居だったなと思います。

個人的にいちばんぐっときたシーンは、ラッシュフォードがPKの前に「いつものルーティーン」をしたかどうか気に病み、それをカウンセラーのピッパと、祖母の名前を唱え、かかとを鳴らし…。あそこでピッパが祖母(とラッシュ)に語る言葉、よかった。でもって、世界中のサッカー選手のなかのエリートオブエリートのような選手たちにも、そういう心の揺れがあるという繊細さがすごくよく出ていたシーンだったと思う。

実際のところ、私はサッカー選手ほど激しい毀誉褒貶に晒される職業はないんじゃないかと思っていて、もちろんどのスポーツだってそういう面はあるけれど、「1点」が重いサッカーというスポーツでは昨日と今日で評価が180度反転する、みたいなことが日常茶飯事なんですよね。ユーロ決勝でPKを失敗したサカやラッシュ、サンチョが凄まじい人種差別に晒されたのも、その激しすぎる毀誉褒貶の一面に違いないんだけど、でもほんと、彼らはまだ20代、サカに至っては当時10代の若者なんだよ。サウスゲートがピッパのようなメンターになりうる人材をチームに入れたのは、間違いなく慧眼だったと思わされます。

ロッカールーム特有の縦型の箱をうまく使ったセット、よかった。サッカーの試合の再現というよりはPK戦での心理描写が主で、それもサウスゲートの過去からの物語として描くのでどうやっても肩入れしちゃうやつでしたね(サウスゲートが自らの過去を語るシーン、もらい泣きしかけたわ)。出てくる選手も絶妙に似ていて、というかまずジョセフ・ファインズがサウスゲートに似てるし、ハリー・マグワイアとか激似すぎてビビるレベル。あとスターリングは体形も似てたな。それからハリー・ケインですけど、劇中の彼を見ているとなんか人柄でチームを引っ張っていくタイプ、みたいに見えるけどああ見えてあの人マジでとんでもない(プレミアリーグ得点王3回、2018年W杯得点王、イングランド代表最多得点記録保持者)選手で、だからこそあの「いつも決めてるのに」がねえ、胸を刺すんですよねえ。

今年はユーロ2024がドイツで開催されますが、イングランドはフランスと並んでタレント揃い、これで優勝しなけりゃウソ、というようなメンバーが揃う見込み。もしかしたらサウスゲートの最後の大一番になるかも。彼のナラティブがここで完成するのかどうか、普段サッカーを見ない方もぜひ追いかけてみてはいかがでしょうか。

「中村仲蔵 ~歌舞伎王国 下剋上異聞~」

  • SkyシアターMBS 1階J列32番
  • 脚本 源孝志 演出 蓬莱竜太

2021年にNHKBSで放送された「忠臣蔵狂詩曲№5 中村仲蔵 出世階段」のドラマを舞台化!大阪では大阪駅直結の新劇場SkyシアターMBS杮落とし公演でもあります。脚本はドラマ版と同じく源孝志さんが、舞台版の演出は蓬莱竜太さんが手がけられ、主役の仲蔵を演じるのはドラマ版では「謎の侍」で出演していた藤原さんちの竜也くんです!

今更言うまでもなくドラマ版では仲蔵を中村勘九郎さんが演じていたわけで、一応(一応言うな)勘九郎さんのオタクとしてはドラマがむちゃくちゃよかっただけに(特にクライマックスの五段目の見せ方がよかっただけに)本業の舞台で勘九郎さんが出演されないのはちと複雑なところがなかったとは言いませんが、しかし竜也くんがやるならそれはそれ!これはこれ!で楽しみにしてしまうのが演劇好きの性というもの。

でもって、実際に今回の舞台を見て思ったけど、これは逆に本職の勘九郎さんでなくて正解だったなと。仲蔵は孤児で、志賀山お俊に芸を仕込まれて舞台を志すわけだけど、その前に立ちはだかるのは文字通り血のつながりでそこに選ばれる御曹司たちなんですよね。血がなんだ、育ちがなんだという仲蔵の反骨精神は、この板の上で勘九郎さんが言うよりも、藤原竜也の口から出る方が、舞台の台詞以上のサブテキストがそこに生まれる効果があった。何もないところから蜷川幸雄に見出され、「演じたい」というその一心のみでのし上がる仲蔵と藤原竜也が重なって見えたのは私だけではないと思う。一幕の幕切れ、「役者は演じてなんぼだぜ!」あの啖呵の迸るような熱さよ!これぞ藤原竜也というべき鮮やかさ。

こうして見ると、ドラマ版の「中村仲蔵」は終盤、仮名手本忠臣蔵の五段目の実演に「いかに本物か」を見せる作りになっていて、対して舞台版の「中村仲蔵」は仲蔵自身の演じることへの情熱の具現化としてあの五段目を見せていて、なるほどそりゃドラマ版は勘九郎さんでないとだめだし、舞台版は竜也くんじゃなきゃダメだよねと深く納得した次第。脚本・演出のおふたりの手腕、さすがすぎる。

仲蔵の妻とかをバッサリ削り、より孤独を浮き立たせる人物像にしたのもよかった。ドラマでは傳九郎との絆がフューチャーされていたけど、舞台では市川團十郎との関係性にシフトしてて、演じているのがどちらも高嶋政宏さんというのも面白かったな。市原隼人さんはドラマ版でいうところの「謎の侍」ポジションなんだけど、この侍はドラマ版よりも書き込みがあって、そのバックボーンが感じられるのが好きでした。あと今井朋彦さんの金井三笑、ぴったりすぎる。そしてこういう現場における植本純米さんの腕の確かさよ!本当にいつもいい仕事してはる。成志さんはいつもながらに軽妙洒脱に人外を演じておられ、実に楽しげでした。

それにしても、舞台上で「怒り」を表現するという点において、藤原竜也は得難い表現者すぎるな。あの迸るような情熱、それを「表現」として客席に届けることができるのって、マジで口で言うほど簡単じゃないし誰にでもできることじゃない。本当にでっかい役者になったもんです!

「デューン 砂の惑星 PART2」


PART 1の大ヒットを受けて(ヒットしなければ作られなかったそう)PART 2が無事製作されましたよっと。監督はもちろん引き続きドゥニ・ヴィルヌーヴ!ひさしぶりにエキスポのIMAXレーザーシアターまで出かけてきましたがな!

前作でハルコンネン家によって滅ぼされたアトレイデス家の生き残りポールが、母であるジェシカとともに砂漠の民フレメンと行動を共にしながらハルコンネン家への復讐を果たす…という主軸がどーんとあるので、ある意味「世界の紹介」と起承転結の「起」だけで「続く!」となってしまった前作よりもだいぶ見やすい。見やすいというのは主軸を見失わずついていけて、適度に盛り上がるアクションがあるなど、観客へのサービスがしっかりしているという意味です。

とはいえ、ポールは最後の最後まで予言にうたわれた救世主であることを引き受けることをためらうので、わかりやすいヒーローものではぜんぜんない。ないし、ベネ・ゲセリットとかのなんかよくわからんけどたいそうなことが起こってる匂わせ感とかは前作から引き続いており、やっぱ好き嫌い別れそうだなあという感じはあった。で、これはパート1のときにも(そしてブレードランナー2049のときにも)思ったけど、私はヴィルヌーヴ監督のこの手の匂わせ感演出が好みなんだなっていうことです。

チャニとポールの関係性、あの砂漠でふたりでダンスを踊るように歩くところが私の中のロマンティックポイント100点すぎて、予言を引き受けたポールがイルーランを娶ることを宣言し、チャニはひとり砂漠に去るというのもかなり納得のいく展開でした。そういえば皇帝を跪かせるときのジェシカの表情見て思ったけど、彼女は彼女なりにあの教母への復讐を果たしたかったのかな。

サンドワームの圧倒的描写、前作に引き続き凄かったんだけど、あれを乗り物扱いできるフレメンやば…と思ったし、あと「アラキスの南部には人は住めない」ってハルコンネン家あんななりして見通し甘すぎでは!?つーか男爵のあの風船つき移動装置、絵面面白すぎだったね。フェイド=ラウサといい悪役として倒し甲斐ありすぎた。オースティン・バトラーむちゃくちゃいい仕事してるな。

っていうかこの映画、このIMAXレーザーシアターの大きさをもたせる絵力のある役者ぞろいで、それを見ているだけでも楽しいという側面もあった。ティモシー・シャラメはもとより、レベッカ・ファーガソン、レア・セドゥ、フローレンス・ピュー、そしてゼンデイヤ…皆絵になるったら。ガーニイ・ハレック(ジョシュ・ブローリン)の復活うれしかった、できればダンカンにも帰ってきて欲しかった…(それはむり)。

今作も北米・ヨーロッパ興行は絶好調らしく、さらなる続編という話が出てくるのかどうなのか、骨太の原作があるだけにない線じゃない感じですよねー!

「イノセント・ピープル」

演劇ポータルサイトである「CoRich」が「名作リメイク」と称して、立ち上げたプロデュース公演の第一弾。以下公式サイトからの引用。

小劇場系カンパニーが生み出した舞台にはたくさんの名作がありますが、運よくそれを観ることができた観客は多く ありません。カンパニーが自ら再演を行うには集客などの課題があり、挑戦しづらいのが実情です。 CoRich舞台芸術!プロデュース【名作リメイク】は、小劇場系カンパニーの名作戯曲を探し出し、新しいキャスト・ス タッフとともに再演する企画です。一人でも多くの人に素晴らしい観劇体験をしてもらい、観劇人口が増えることを願っています。

まずこの趣旨自体にね、大きく首を縦に振らざるを得ない。この「小劇場で数多生まれた優れた戯曲が、その後日の目を見なくなる問題」は本当にずっとどうにかならんもんかねと思っていた。権利を持っている作家や劇団を整理して、アクセスしやすく、手掛けやすくなる環境作りマジでやってほしい。そういう思いを持つ一人として、このような試みは大歓迎です。今作は2010年に劇団昴が畑澤聖悟さんの脚本で上演したもので、今作の演出は日澤雄介さんが手がけるという、この人選の確かさも唸る。

世界で初めて原子爆弾実験を成功させたニューメキシコ州ロスアラモスで、原爆の開発に携わった5人の若者の、その後の65年の人生を描くというものですが、ちょうど時を同じくしてというか、つい先日その「トリニティ実験」を率いたロバート・オッペンハイマーの映画がようやく日本公開にこぎつけたところで(なので映画を見てからこの感想を書こうと思っていた)、この「イノセント・ピープル」を見ていたことで「オッペンハイマー」の解像度があがったところもあり、逆に「オッペンハイマー」によってこの芝居がより立体として感じられる部分もあって、なかなか得難い経験をさせてもらったなと。

日本人という立場から描く原爆開発者は、「オッペンハイマー」のそれと比べるとあまりにも無邪気に過ぎる感はあるものの、しかしそれも一つの真実だったんだろうなと思います。でもって、ついつい忘れそうになるけれど、アメリカという国はこの65年間、ずっと戦争している国なんだってこと。ブライアンの息子はベトナム戦争に志願し、命は助かったものの車いすでの生活を余儀なくされる。娘は大学で知り合った被爆2世の日本人と交際し、結婚して日本に住むと言い出す。トリニティ実験の成功の栄光(彼らにとってそれは人生最大の栄光だった)を経て、彼らはその過去をどう見るのか。まさに五人五様の受け止め方が描かれていました。

強烈だったのは、ブライアンの娘が交際相手の日本人をホームパーティに招くところ。この作品ではかなり痛烈な日本人に対するヘイト表現が出てきますが、舞台上で英語を解さない日本人は仮面をつけて出てくるという見せ方をしており、この演出が相当なインパクトがありました。その前段として「表情が読めない」と揶揄される場面があるだけに、まるでかれらにはこう見えているんですよとでもいうようなビジュアルにちょっと引いてしまう気持ちになったほど。どうせ聞こえていない、とその日本人の前でどストレートな差別用語をぶつけるシーンもあり、いやはや強烈だった。でもって、その仮面が外れるのが「彼が英語を話す」瞬間だというのがまたね。

鴻上さんがロンドンに留学していたとき、言葉が拙いというだけで周囲はその留学生を下に見る(もっとストレートに言えば「知能が足りない」と見る)けれど、実際に実践をしてみるとその言葉の拙い留学生がもっとも優れた結果を残すことに戸惑っていたと書かれていたけれど、それを思い出させるシーンだったな。

大戦中は日本も原子爆弾の開発をしていて、万が一にでもアメリカより先に開発に成功していたら、きっと戦争に使用しただろうし、その点においてここで描かれた開発者たちと日本人との間に倫理観に差があるのかって言われたら、私はないと思うと答える。でもそんなifにはほとんど意味なんてなくて、落とした国と落とされた国として、見える景色は全く違うんだということ、違うんだけれど、でもそれは永遠に平行線をたどるわけではなくて、いつか重なる時もあるんじゃないかということを考えたし、その可能性すら奪うのが戦争というものなんだとラストシーンは示しているようで、心のざわめく幕切れでした。

バラエティに富んだ顔ぶれが揃ってプロデュース公演の醍醐味を感じましたし、登場人物は多いながらもそれぞれのキャラクターがしっかり立っていて見やすく、濃密な2時間15分でした。ぜひともこの名作リメイクシリーズが今後も続きますように!

「諜報員」パラドックス定数

パラドックス定数新作。今回の題材はリヒャルト・ゾルゲ。太平洋戦争前夜の日本において、ソ連の諜報員として活動していたゾルゲと、彼に「かかわった」者らの物語。

ゾルゲそのものを描くのではなく、あの時代にゾルゲの諜報活動に心を寄せたであろう人を描くのが野木さんらしさかな。強制連行された個室のなかで、そのうち一人は官憲側だということを早々に明かされるというスリルもあるが、でもそこに眼目があるわけではない感じ。政府の職人、病院勤務者、新聞記者という三者三様の立場から「大日本帝国」への苦さの混じった思いが語られるが、個人的に新聞記者である芝山の、国際連盟脱退にまつわる悔恨が沁みたな。あの有名な「我が代表堂々退場す」…。このプロパガンダに自分は賛同してしまったこと、それがこの後の日米開戦に続く道になっていることを痛感している男…。

それぞれの信条から「主義者」と呼ばれるゾルゲたちにシンパシーを感じている3人と、権力中枢にあってその中で立身出世を夢想する男3人、どっちかというと後者に関する描写のほうが野木さんの筆が冴えているように思え、人は好きではないものを描くときのほうが解像度があがるのかもしれないなんて思ったりしました。

パラドックス定数の役者の皆さんは植村さん筆頭に皆様良い声爆弾の方ばかりですけど、今回は神農さんまで加わってマジで春のいい声祭り会場はここですかすぎた。あと次回作が青年座に書き下ろした「ズベズダ」で、あら野木さん演出で再演か、と思ってたんだけど、最後の挨拶で野木さん、「三部作六時間」つった…!?う、うそでしょ!?「またソ連かと思われそうですが」って、ちょっと笑っちゃいましたけど、いやしかし見たい気持ちはあるけどハードルあがるなー!