江戸の侍・村尾嘉陵(1760-1841)が文政二年三月二十五日(1819年4月20日)に江戸南郊の桜を見て歩いた日帰り旅の足跡を辿っている。
昔の大井村の鎮守・鹿島神社の向かい側にあった名主・大野五蔵邸(品川区大井7-4)の桜を観た後、ここまで一緒に歩いてきた大日向民右衛門と別れ、嘉陵は池上本門寺へと向かう。
(鹿島神社前の池上通り。通りの西側の田圃の向こうに五蔵屋敷があった)
池上通りを南へ行く。少し行くと左側に大森貝塚遺跡庭園がある(大井6-21)。明治十(1877)年にアメリカ人動物学者、エドワード・S・モース博士が横浜から東京(新橋)へ向かう列車の車窓から海食崖の地層中に発見した大森貝塚は縄文後期の遺跡で、大森は今の大田区の地名だが、発掘の中心は品川区側だった。
横浜に上陸したばかりのアメリカ人がすぐに発見するまで日本人は誰も遺跡の存在に気づいていなかったのだろうか。いずれにせよ、縄文時代から集落があった土地にこの地方でも最古級の街道が通っていたことは不思議ではないということだろう。
古代の東海道ともいわれる池上通りはまもなく品川区大井から大田区山王に入る。昔の新井宿村である。嘉陵は今の中央区の浜町から歩いてきたわけだが、僕も虎ノ門からずっと歩いてきて、さすがに疲れてきた。嘉陵は歩き疲れたということをほとんど書いていないが、疲れなかったのだろうか。この時、六十歳である。
右手に山王の地名の由来となった日枝神社とその別当だった成田山円能寺を見て、JR大森駅前に出る。
「五蔵が前を、南にゆきゆけば、やけい坂」
この「やけい坂」とは大森駅西口前の台地上に登って下る坂で、現在は勾配緩和されて自動車が行き交う緩やかな坂であるが、昔は相当な急坂で、薬研坂と呼ばれていた。この高台からは眼下に大森海岸、彼方に房総の山々を望む景勝地で、当時の文人たちが「笠島夜雨、鮫州晴嵐、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月、池上晩鐘」の「荒藺(あらい)崎八景」を選んだことから八景坂と呼ばれるようになった。
荒藺崎はこの付近の古い地名であり、万葉集にも「草蔭の荒藺の崎の笠島を見つつか君が山道越ゆらむ 」(作者不明)が収録されている。この「山道」は八景坂のことであろうか。八景坂の南に新井宿という宿駅があったといい、古代東海道の大井駅の推定地のひとつでもある。
現在の池上通りにはその面影は皆無だが、高台上の天祖神社へと続く石段を登ると、いくらかは当時の雰囲気は味わえる。言うまでもなく、房総の山はもちろん、海も見えないけれど。
(長谷川雪旦画『江戸名所図会』八景坂鎧掛松)
「さかをのぼりはつれば、台に茶亭あり、前の岨にいと大なる松二本ばかりあり、其かげより東を見やれば、平田数丁をへだてて、鈴の森見ゆ、そのこなた海道の松の並木のかげを、旅人の行かひ、馬ひけるおのこの過るなど、絵がくも筆につくすべからず、はた海づらはかすみて、沖の遠山はみへねど、水はさながら藍をときながしたらんやうなるに、しろく鳥かあらぬかとみゆるは、帆かけてはする舟なりけり、また天つ雁のたちもかへしてむれとぶが、みるがうちに霞がくれにきへゆくなど、いはまくもことばにおよばず、しばしながめにあかざりしも、さすが行さきの花に、猶もこころのいそがれて、坂をくだりに縄手をゆく」
(歌川広重『名所江戸百景』八景坂鎧掛松)
嘉陵の文章はほとんど広重の描いた風景そのままである。房総半島こそ春霞で見えなかったようだが、われわれは高台には茶店があり、眼下の東海道には松並木と行き交う旅人、海の上には舟の白い帆。崖の上の松はその昔、源義家が奥州へ赴く途上でこの地に立ち寄り、鎧を掛けたという伝説から「鎧掛松」の名があり、嘉陵は松は二本ばかりと書くが、広重の絵には一本だけである。長谷川雪旦が描いた『江戸名所図会』には二本だから、この間に一本が失われたということだろうか。崖が崩れたのかもしれない。
現在の高台からの眺め。これが文明の発展、人類の進歩ということだ。我々は「発展」によって多くのものを手に入れ、代償として得たものに見合うだけの多くのものを失った。それはこの先も同じだろう。
眼下に見える池上通りが昔は台地の上を通っていたというのだから、前後の勾配がいかに急だったかが想像できる。
八景坂上の天祖神社。創建年代不詳だが、江戸時代までは神明社といった。
拝殿に注連縄を巻いた松の丸太。嘉陵が目にし、雪旦や広重が描いた鎧掛松は源義家の時代から数えて三代目にあたり、それが大正六年十月の台風で倒れて、その一部が保存されているということらしい。
境内のご神木の椎。樹齢およそ四百年というから江戸時代からあった木である。
神社の石段の傍らに石碑があり、裏に八景坂の由来となった「荒藺崎八景」が刻まれているので「八景碑」と呼ばれている。表面に彫られた俳句は「鎌倉の よより明るし のちの月 景山」。大井村名主の大野五蔵、杜格斎景山の句である。景山はこの八景の選定でも中心的な役割を果たしたのだろう。
さて、今は商店街となっている緩やかな八景坂をさらに南へと下っていく新井宿地区に入る。
西に入る道の先に日蓮宗の善慶寺があり、参道はその境内を抜けて裏山の上の熊野神社へ通じている。江戸時代までは善慶寺が熊野神社の別当寺だったわけだが、明治の神仏分離でも切り離されずに、いまだに一体性を保っているように見える。
急に両脚のふくらはぎが張ってきたので、寺のベンチで休憩。熊野神社への長い石段は登らず。嘉陵もここについては何も書いていない。
(荒藺ヶ崎熊野神社の鳥居と石段)
この善慶寺の境内には新井宿村義民六人衆の墓というのがある。江戸時代の新井宿村は旗本木原氏の知行地であったが、延宝の頃(1670年代)、天災続きで困窮した農民たちが過酷な年貢に苦しみ、その減免を求めたが、木原氏は聞き入れなかった。そこで百姓六名が延宝五(1677)年、将軍家綱に直訴を試みようとしたが、直前に発覚し、この六人は捕らえられ、江戸の木原邸内で斬首となった。この後、年貢負担は半減され、六人は義民として善慶寺に葬られた。幕臣である嘉陵がそのような話を知っていたかどうかは分からない。
少し休んで、ふくらはぎの張りもいくらか回復したので、また歩き出す。前方に環七通りの陸橋が見えるが、その手前で池上通りから右に分かれる道がある。これが旧道である。
池上通り旧道を行く。環七陸橋をくぐると、まもなく春日神社が左手にあるが、その手前角に「いにしへの東海道」という大理石の碑があり、「この道は時代により奥州街道、相州鎌倉街道、平間街道、池上往還などと呼ばれていた古道です」と記されている。大田区が建てたこの石碑は古道沿いにいくつか見られた。
石碑のそばには「明神橋」の親柱が保存されている。今は水は見えないが、ここで渡っていたのは山王四丁目の弁天池など周辺の台地の裾の湧水を水源とする小川だったようだ。
春日神社を出て、しばらく行くと、また「いにしへの東海道」碑があり、その後ろに「新井宿 出土橋跡」の碑がある。ここで渡っていたのは内川で、この付近では暗渠だが、東海道線より下流で開渠となり、大森の海に注いでいる。往時はこの一帯は田園地帯だったのだろう。
「所々にわざとはうえぬ花あるも、ことさらに、これ見よとうえたらんより、かへりてながめせらるる心地す、はた今としは季候おくれて、桃李も猶のこんのいろを呈す、なわ手を行はつれば池上村」
このあたり、わざわざ植えたのではない桜が所々に咲いていて、これ見よがしに植えたものより好ましく、またこの年は例年より季節が遅れたので、桃の花もまだ残っていたようだ。
右手の住宅の向こうに連なる高台の緑を見ながら、商店が点在する旧池上道を行くと、旧新井宿村の大田区中央から大田区池上に入る。昔の池上村である。
旧六郷用水跡の緑道を斜めに横切り、すぐに浄国橋で呑川を渡る。
さらに数百メートルで本門寺前の交差点。向かい側に名物のくず餅の店や江戸時代の町家の面影を残す出桁造りの萬屋酒店(明治八年建築、国登録有形文化財)がある。
交差点を右折すると、文化八(1811)年建立の「南無妙法蓮華経」の巨大な題目塔が聳え立ち、霊山橋で呑川を渡ると、両側に塔頭寺院が並び、正面の高台の上が本門寺である。日蓮聖人終焉の地に建立された日蓮宗の聖地である。
「本門寺は、この比、例春千部の経よむとて、まいる人あまたつどふ、多くは都下の人なり、昔思ひいづれば、おのれ十七八の比神無月ばかり、先考(亡父のこと)のここにいざなひ給ひし事ありしが、年ふるままに何ひとつ覚へず、ただ本阿弥光悦が本門寺と書たる扁のみ、書法の瀟洒たるを、ほのかに覚へしまで也」
春に千部の経を読むという「千部會」は現在も続いている。そして、山門の額は今も本阿弥光悦の書であるが、これはレプリカで、本物は大切に保管されている。近年、当時の彩色も再現されたようだ。
(本阿弥光悦の書による扁額のレプリカ)
「門を入て石階をのぼる事七八十級、三門、釈迦堂、祖師堂なんど、いらかをならべてつくりなす」
石段は七、八十段と嘉陵は書いているが、当時も今も変わらず九十六段ある。江戸初期に加藤清正が寄進して造営したもので、「此経難持坂(しきょうなんじさか)と呼ばれる。虎ノ門から5時間半も歩いてきたので、きつい。ただ、あちこち寄り道せずに、ただ桜を愛でつつ歩くだけなら、まぁ歩ける距離である。来年は桜の季節にもう一度歩いてみてもいいな、とは思う。
石段を登ると、高台の上に広々とした境内が開ける。本門寺の建築はほとんどが空襲で焼失し、戦後に再建されている。
大堂(旧祖師堂)。
池上本門寺は日蓮聖人が弘安五(1282)年十月十三日、六十一歳で入滅した霊場。日蓮は甲斐の身延山から常陸に湯治へ向かう途中、武蔵国荏原郡池上の領主・池上宗仲の館に立ち寄り、そこで世を去ったのだった。
ところで、嘉陵は道中で通りすがりの人から本門寺の桜はほかとは比べものにならない見事さだと聞かされ、池上まで足を伸ばしたのだったが、境内に八重の薄色の大きな桜の木がたくさんあったものの、参詣者が多く、塵や埃を立てて歩いて、騒がしいばかりで、花をめでる気分になれず、期待外れだったようだ。こんなことなら、わざわざ来なくてもよかったと書いている。
本門寺の桜をことさらに褒めたたえた人は日蓮宗の熱烈な信者で、桜でも何でも池上本門寺のものは格別だと思い込んでしまうような人だったのだろう。その言葉を信じた自分も迂闊だったが、こうして騙されて、やってきてしまったのもまた一興ではあると観念すれば、その人を恨むようなこともなくなると嘉陵はいう。
「日蓮の墓は本坊の西の山にあり、しるしの石をいかめしくたてしは、後にその弟子のいとなみにして、もとはさる事もなかりしとみゆ、其かたへに池上左衛門志(じょう)某夫婦の墓もあり、こは二基とも小石の五重の塔にて、当代のまま今尚のこる鎌倉の塔の辻の塔に髣髴たり、この外見所なし」
かつて祖師堂の左隣にあったという釈迦堂は戦災で焼けた後、境内の奥に「本殿」として再建され、その左奥に日蓮聖人の御灰骨を奉安する墓塔を祀る御廟所がある。
嘉陵の訪れた時も当初のものより立派なものだったようだが、昭和六年に八角裳階付二重屋根の御真骨堂が建立された。しかし、それも戦災で焼け、昭和五十四年に宗祖七百遠忌に向けて再興されたのが現在のもの。
(日蓮聖人御廟所)
その御廟所の西側の小高い場所に歴代貫首の墓所があり、その傍らに開基池上夫妻の墓所があり、これは嘉陵の書く通り、石を積んだ五重塔である。
(池上宗仲夫妻の墓)
「本徳院殿の御廟塔、其外数々あるを、かなたこなた拝みめぐりぬ」
嘉陵は本門寺の広い墓地の本徳院殿の墓など、あちこち拝んで回ったようだ。
本徳院殿(1696-1723)とは徳川吉宗の側室で、俗名は古牟(こん)。紀州藩の竹本氏の娘で、嘉陵が仕える清水家や一橋家と並ぶ徳川御三卿の田安家初代当主、徳川宗武の母である。
境内東側の墓地に聳える慶長十三(1608)年建立(翌年落慶法要)で、戦災も免れた関東に現存する最古の五重塔の北側の巨大な墓塔が並ぶ一角のはずれに本徳院殿の墓はある。
(吉宗の側室・本徳院殿妙亮日秀大姉の墓)
「ここの鐘はいと大きにて、音もことさらに聞ゆ、増上寺の鐘の亜(つぎ)なるべし、申の刻(午後四時)告る時、山をくだりて、かへさにおもむく」
本門寺の鐘は正保四(1647)年に寄進されたものだが、これも戦災で火をかぶり、亀裂や歪みが生じたので、現在は鐘楼の傍らに仮安置されている。
嘉陵は本門寺をあとに、来た道を引き返し、八景坂の手前から田圃の中を抜けて磐井神社の裏に出て、よく知った東海道を歩いて帰り、七時過ぎに家に帰り着いたという。
その健脚ぶりには賛嘆するばかりだが、こちらは本門寺の参道を10分ほど歩いて、池上駅から電車で帰る。