嘉陵紀行「南郊看花記」を辿る(その5)

 江戸の侍・村尾嘉陵(1760-1841)が文政二年三月二十五日(1819年4月20日)に江戸南郊の桜を見て歩いた日帰り旅の足跡を辿っている。

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 昔の大井村の鎮守・鹿島神社の向かい側にあった名主・大野五蔵邸(品川区大井7-4)の桜を観た後、ここまで一緒に歩いてきた大日向民右衛門と別れ、嘉陵は池上本門寺へと向かう。

鹿島神社前の池上通り。通りの西側の田圃の向こうに五蔵屋敷があった)

 池上通りを南へ行く。少し行くと左側に大森貝塚遺跡庭園がある(大井6-21)。明治十(1877)年にアメリカ人動物学者、エドワード・S・モース博士が横浜から東京(新橋)へ向かう列車の車窓から海食崖の地層中に発見した大森貝塚は縄文後期の遺跡で、大森は今の大田区の地名だが、発掘の中心は品川区側だった。

 横浜に上陸したばかりのアメリカ人がすぐに発見するまで日本人は誰も遺跡の存在に気づいていなかったのだろうか。いずれにせよ、縄文時代から集落があった土地にこの地方でも最古級の街道が通っていたことは不思議ではないということだろう。

 古代の東海道ともいわれる池上通りはまもなく品川区大井から大田区山王に入る。昔の新井宿村である。嘉陵は今の中央区の浜町から歩いてきたわけだが、僕も虎ノ門からずっと歩いてきて、さすがに疲れてきた。嘉陵は歩き疲れたということをほとんど書いていないが、疲れなかったのだろうか。この時、六十歳である。

 右手に山王の地名の由来となった日枝神社とその別当だった成田山円能寺を見て、JR大森駅前に出る。

「五蔵が前を、南にゆきゆけば、やけい坂」

 この「やけい坂」とは大森駅西口前の台地上に登って下る坂で、現在は勾配緩和されて自動車が行き交う緩やかな坂であるが、昔は相当な急坂で、薬研坂と呼ばれていた。この高台からは眼下に大森海岸、彼方に房総の山々を望む景勝地で、当時の文人たちが笠島夜雨、鮫州晴嵐、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月、池上晩鐘」の「荒藺(あらい)崎八景」を選んだことから八景坂と呼ばれるようになった。

 荒藺崎はこの付近の古い地名であり、万葉集にも「草蔭の荒藺の崎の笠島を見つつか君が山道越ゆらむ 」(作者不明)が収録されている。この「山道」は八景坂のことであろうか。八景坂の南に新井宿という宿駅があったといい、古代東海道の大井駅の推定地のひとつでもある。

 現在の池上通りにはその面影は皆無だが、高台上の天祖神社へと続く石段を登ると、いくらかは当時の雰囲気は味わえる。言うまでもなく、房総の山はもちろん、海も見えないけれど。

(長谷川雪旦画『江戸名所図会』八景坂鎧掛松)

「さかをのぼりはつれば、台に茶亭あり、前の岨にいと大なる松二本ばかりあり、其かげより東を見やれば、平田数丁をへだてて、鈴の森見ゆ、そのこなた海道の松の並木のかげを、旅人の行かひ、馬ひけるおのこの過るなど、絵がくも筆につくすべからず、はた海づらはかすみて、沖の遠山はみへねど、水はさながら藍をときながしたらんやうなるに、しろく鳥かあらぬかとみゆるは、帆かけてはする舟なりけり、また天つ雁のたちもかへしてむれとぶが、みるがうちに霞がくれにきへゆくなど、いはまくもことばにおよばず、しばしながめにあかざりしも、さすが行さきの花に、猶もこころのいそがれて、坂をくだりに縄手をゆく」

歌川広重『名所江戸百景』八景坂鎧掛松)

 嘉陵の文章はほとんど広重の描いた風景そのままである。房総半島こそ春霞で見えなかったようだが、われわれは高台には茶店があり、眼下の東海道には松並木と行き交う旅人、海の上には舟の白い帆。崖の上の松はその昔、源義家が奥州へ赴く途上でこの地に立ち寄り、鎧を掛けたという伝説から「鎧掛松」の名があり、嘉陵は松は二本ばかりと書くが、広重の絵には一本だけである。長谷川雪旦が描いた『江戸名所図会』には二本だから、この間に一本が失われたということだろうか。崖が崩れたのかもしれない。

 現在の高台からの眺め。これが文明の発展、人類の進歩ということだ。我々は「発展」によって多くのものを手に入れ、代償として得たものに見合うだけの多くのものを失った。それはこの先も同じだろう。

 眼下に見える池上通りが昔は台地の上を通っていたというのだから、前後の勾配がいかに急だったかが想像できる。

 八景坂上天祖神社。創建年代不詳だが、江戸時代までは神明社といった。

 拝殿に注連縄を巻いた松の丸太。嘉陵が目にし、雪旦や広重が描いた鎧掛松は源義家の時代から数えて三代目にあたり、それが大正六年十月の台風で倒れて、その一部が保存されているということらしい。

 境内のご神木の椎。樹齢およそ四百年というから江戸時代からあった木である。

 神社の石段の傍らに石碑があり、裏に八景坂の由来となった「荒藺崎八景」が刻まれているので「八景碑」と呼ばれている。表面に彫られた俳句は「鎌倉の よより明るし のちの月 景山」。大井村名主の大野五蔵、杜格斎景山の句である。景山はこの八景の選定でも中心的な役割を果たしたのだろう。

 さて、今は商店街となっている緩やかな八景坂をさらに南へと下っていく新井宿地区に入る。

 西に入る道の先に日蓮宗の善慶寺があり、参道はその境内を抜けて裏山の上の熊野神社へ通じている。江戸時代までは善慶寺が熊野神社別当寺だったわけだが、明治の神仏分離でも切り離されずに、いまだに一体性を保っているように見える。

 急に両脚のふくらはぎが張ってきたので、寺のベンチで休憩。熊野神社への長い石段は登らず。嘉陵もここについては何も書いていない。


鎌倉時代に創建の日蓮宗善慶寺)


(荒藺ヶ崎熊野神社の鳥居と石段)

 この善慶寺の境内には新井宿村義民六人衆の墓というのがある。江戸時代の新井宿村は旗本木原氏の知行地であったが、延宝の頃(1670年代)、天災続きで困窮した農民たちが過酷な年貢に苦しみ、その減免を求めたが、木原氏は聞き入れなかった。そこで百姓六名が延宝五(1677)年、将軍家綱に直訴を試みようとしたが、直前に発覚し、この六人は捕らえられ、江戸の木原邸内で斬首となった。この後、年貢負担は半減され、六人は義民として善慶寺に葬られた。幕臣である嘉陵がそのような話を知っていたかどうかは分からない。

 少し休んで、ふくらはぎの張りもいくらか回復したので、また歩き出す。前方に環七通りの陸橋が見えるが、その手前で池上通りから右に分かれる道がある。これが旧道である。

 池上通り旧道を行く。環七陸橋をくぐると、まもなく春日神社が左手にあるが、その手前角に「いにしへの東海道」という大理石の碑があり、「この道は時代により奥州街道、相州鎌倉街道、平間街道、池上往還などと呼ばれていた古道です」と記されている。大田区が建てたこの石碑は古道沿いにいくつか見られた。

 石碑のそばには「明神橋」の親柱が保存されている。今は水は見えないが、ここで渡っていたのは山王四丁目の弁天池など周辺の台地の裾の湧水を水源とする小川だったようだ。

 新井宿春日神社は鎌倉時代の創建と伝えられる古社。

 春日神社を出て、しばらく行くと、また「いにしへの東海道」碑があり、その後ろに「新井宿 出土橋跡」の碑がある。ここで渡っていたのは内川で、この付近では暗渠だが、東海道線より下流で開渠となり、大森の海に注いでいる。往時はこの一帯は田園地帯だったのだろう。

「所々にわざとはうえぬ花あるも、ことさらに、これ見よとうえたらんより、かへりてながめせらるる心地す、はた今としは季候おくれて、桃李も猶のこんのいろを呈す、なわ手を行はつれば池上村」

 このあたり、わざわざ植えたのではない桜が所々に咲いていて、これ見よがしに植えたものより好ましく、またこの年は例年より季節が遅れたので、桃の花もまだ残っていたようだ。

 右手の住宅の向こうに連なる高台の緑を見ながら、商店が点在する旧池上道を行くと、旧新井宿村の大田区中央から大田区池上に入る。昔の池上村である。

 旧六郷用水跡の緑道を斜めに横切り、すぐに浄国橋で呑川を渡る。

 さらに数百メートルで本門寺前の交差点。向かい側に名物のくず餅の店や江戸時代の町家の面影を残す出桁造りの萬屋酒店(明治八年建築、国登録有形文化財)がある。

 交差点を右折すると、文化八(1811)年建立の「南無妙法蓮華経」の巨大な題目塔が聳え立ち、霊山橋で呑川を渡ると、両側に塔頭寺院が並び、正面の高台の上が本門寺である。日蓮聖人終焉の地に建立された日蓮宗の聖地である。

「本門寺は、この比、例春千部の経よむとて、まいる人あまたつどふ、多くは都下の人なり、昔思ひいづれば、おのれ十七八の比神無月ばかり、先考(亡父のこと)のここにいざなひ給ひし事ありしが、年ふるままに何ひとつ覚へず、ただ本阿弥光悦が本門寺と書たる扁のみ、書法の瀟洒たるを、ほのかに覚へしまで也」

 春に千部の経を読むという「千部會」は現在も続いている。そして、山門の額は今も本阿弥光悦の書であるが、これはレプリカで、本物は大切に保管されている。近年、当時の彩色も再現されたようだ。


本阿弥光悦の書による扁額のレプリカ)

「門を入て石階をのぼる事七八十級、三門、釈迦堂、祖師堂なんど、いらかをならべてつくりなす」

 石段は七、八十段と嘉陵は書いているが、当時も今も変わらず九十六段ある。江戸初期に加藤清正が寄進して造営したもので、「此経難持坂(しきょうなんじさか)と呼ばれる。虎ノ門から5時間半も歩いてきたので、きつい。ただ、あちこち寄り道せずに、ただ桜を愛でつつ歩くだけなら、まぁ歩ける距離である。来年は桜の季節にもう一度歩いてみてもいいな、とは思う。

 石段を登ると、高台の上に広々とした境内が開ける。本門寺の建築はほとんどが空襲で焼失し、戦後に再建されている。

 大堂(旧祖師堂)。

 池上本門寺日蓮聖人が弘安五(1282)年十月十三日、六十一歳で入滅した霊場日蓮は甲斐の身延山から常陸に湯治へ向かう途中、武蔵国荏原郡池上の領主・池上宗仲の館に立ち寄り、そこで世を去ったのだった。

 ところで、嘉陵は道中で通りすがりの人から本門寺の桜はほかとは比べものにならない見事さだと聞かされ、池上まで足を伸ばしたのだったが、境内に八重の薄色の大きな桜の木がたくさんあったものの、参詣者が多く、塵や埃を立てて歩いて、騒がしいばかりで、花をめでる気分になれず、期待外れだったようだ。こんなことなら、わざわざ来なくてもよかったと書いている。

 本門寺の桜をことさらに褒めたたえた人は日蓮宗の熱烈な信者で、桜でも何でも池上本門寺のものは格別だと思い込んでしまうような人だったのだろう。その言葉を信じた自分も迂闊だったが、こうして騙されて、やってきてしまったのもまた一興ではあると観念すれば、その人を恨むようなこともなくなると嘉陵はいう。

日蓮の墓は本坊の西の山にあり、しるしの石をいかめしくたてしは、後にその弟子のいとなみにして、もとはさる事もなかりしとみゆ、其かたへに池上左衛門志(じょう)某夫婦の墓もあり、こは二基とも小石の五重の塔にて、当代のまま今尚のこる鎌倉の塔の辻の塔に髣髴たり、この外見所なし」

 かつて祖師堂の左隣にあったという釈迦堂は戦災で焼けた後、境内の奥に「本殿」として再建され、その左奥に日蓮聖人の御灰骨を奉安する墓塔を祀る御廟所がある。

 嘉陵の訪れた時も当初のものより立派なものだったようだが、昭和六年に八角裳階付二重屋根の御真骨堂が建立された。しかし、それも戦災で焼け、昭和五十四年に宗祖七百遠忌に向けて再興されたのが現在のもの。

日蓮聖人御廟所)

 その御廟所の西側の小高い場所に歴代貫首墓所があり、その傍らに開基池上夫妻の墓所があり、これは嘉陵の書く通り、石を積んだ五重塔である。

(池上宗仲夫妻の墓)

「本徳院殿の御廟塔、其外数々あるを、かなたこなた拝みめぐりぬ」

 嘉陵は本門寺の広い墓地の本徳院殿の墓など、あちこち拝んで回ったようだ。

 本徳院殿(1696-1723)とは徳川吉宗の側室で、俗名は古牟(こん)。紀州藩の竹本氏の娘で、嘉陵が仕える清水家や一橋家と並ぶ徳川御三卿の田安家初代当主、徳川宗武の母である。

 境内東側の墓地に聳える慶長十三(1608)年建立(翌年落慶法要)で、戦災も免れた関東に現存する最古の五重塔の北側の巨大な墓塔が並ぶ一角のはずれに本徳院殿の墓はある。


(吉宗の側室・本徳院殿妙亮日秀大姉の墓)

「ここの鐘はいと大きにて、音もことさらに聞ゆ、増上寺の鐘の亜(つぎ)なるべし、申の刻(午後四時)告る時、山をくだりて、かへさにおもむく」

 本門寺の鐘は正保四(1647)年に寄進されたものだが、これも戦災で火をかぶり、亀裂や歪みが生じたので、現在は鐘楼の傍らに仮安置されている。

 嘉陵は本門寺をあとに、来た道を引き返し、八景坂の手前から田圃の中を抜けて磐井神社の裏に出て、よく知った東海道を歩いて帰り、七時過ぎに家に帰り着いたという。

 その健脚ぶりには賛嘆するばかりだが、こちらは本門寺の参道を10分ほど歩いて、池上駅から電車で帰る。

 

 

嘉陵紀行「南郊看花記」を辿る(その4)

 江戸の侍・村尾嘉陵(1760-1841)が江戸南郊の桜を見て歩いた日帰り旅の足跡を辿っている。

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 嘉陵は途中で知り合った大日向民右衛門と一緒に品川の御殿山から東海寺をめぐり、さらに南へと足を進める。

 当時は東海寺境内を横切るように流れていた目黒川を要津(ようじん)橋で渡る。ここから南品川である。

(目黒川を渡って、対岸の東海寺を振り返る。もはや昔の大寺院の面影はない)

(目黒川に浮かぶカモメが海の近さを教えてくれる)

(東海寺の)南門より出て、畑のほそみちをゆく〔右に田の面見わたさる、左に海晏寺の山のうしろ見ゆ〕、菜の花のさかりなる、満地に金をしくがごとし」

 左にかつては東海寺境内の塔頭だった清光院、右の路傍に銀杏と稲荷の祠(小野稲荷大明神)を見ながら南へ行く。このあたりは目黒川の低地で、今は右手に工場や運送会社などが並んでいるが、昔は水田だったのだろう。

 道はすぐ突き当りとなるが、ここに東海寺の南門があったようで、左折すると、まもなく左手にレンガ塀の天龍寺曹洞宗)。その門前で右折。


(レンガ塀の天龍寺

 天龍寺前から南へ行くのが、嘉陵の歩いた「畑のほそみち」だと思われ、当時は菜の花が満開で一面に金を敷き詰めたかのようだったという。現在は「品川銀座」と称する商店街となっていて、ゼームス坂通りの名がある。この先にある坂がゼームス坂で、元は浅間坂と呼んだが、慶応二(1866)年に来日した英国人で、造船技術の指導などにあたったJohn M. Jamesがこの坂の下に住み、地元の人たちが急坂に難儀するのをみて、私財を投じ、坂を改修したので、それ以来、人々が感謝の意を込めてゼームス坂と呼ぶようになった。

 この通りの東には第一京浜国道15号線)があり、そのさらに東に旧東海道が通じている。嘉陵はあえて当時の幹線道路を避けて、この田舎道を歩いたのだろうか。

 天龍寺前からすぐ左手にはお堂の中に三面六臂馬頭観音が祀られている。

 しばらく行くと、今度は右側に東関森稲荷。「とうかんもり」は稲荷森(とうかもり)だろう。

 やがて道は上りになる。坂の途中の三越ゼームス坂マンション付近にかつてジェームス氏が住んでいたらしい(下写真の画面右)。

 このゼームス坂(浅間坂)は東側が崖になっていて、眼下に品川の海が見下ろせたという。

 そして、左手に海晏寺の山が見えたと思われる。海晏寺は建長三(1251)年頃、品川の海で網にかかった鮫の体内から観音菩薩の木像が出てきたことから、その観音像を安置するために臨済宗の寺として創建され、その後、衰退したが、徳川家康によって再興される際に曹洞宗に改められている。境内の山はもみじの名所として知られた。なお、付近の鮫洲という地名はこの観音像の出た鮫が由来となっている。

(海晏寺)

 さて、ゼームス坂を上ると、南品川から東大井に入り、大井町駅前通りに出る。

「向ひに木だちしげりたる一かまへみゆ、松平陸奥守どのの品川のやしきといふは是也と云めり」

 松平陸奥守は仙台藩伊達家である。その下屋敷が東大井四丁目付近にあり、今もある仙台坂という坂の名の由来となっている。仙台坂は現在は池上通りの坂名となっているが、もとは海晏寺と泊船寺(臨済宗)の間を上る坂だった。

 仙台坂上からの眺め。走る電車は京浜急行。その向こうに東海道が海岸沿いを通っていた。

 旧仙台坂。左が泊船寺。右が海晏寺。泊船寺はこの寺の住職が松尾芭蕉と親交があったことから地元の俳人が集まる寺となり、境内に多くの句碑があり、また松尾芭蕉の木像を安置している。

 この旧仙台坂の上には樹齢300年以上というタブノキ(温暖な海岸地域に多く見られる常緑高木)の古木が今も葉を茂らせ、さらに新旧の仙台坂が合流する坂上には仙台味噌醸造所がある。これは伊達家が江戸在勤の仙台藩士に仙台味噌を作って配給したのが始まりという。

 仙台坂のタブノキ。嘉陵が「向ひに木だちしげりたる~」と書いた中にこの木も含まれていたのだろう。

 仙台味噌醸造所。入口に大きな味噌樽がある。

(松平陸奥守殿の)その垣にそふて西へめぐり、又南に行くば〔このあたり道の左はみな畠なり〕来福寺のうしろに出」

 嘉陵は御殿山、東海寺から来福寺までの道筋を絵図に残している。

 図の右端が御殿山、左端が来福寺で、下端の広い通りが東海道である。この図だと東海寺の南門を出て、嘉陵たちは「畑」「ハタ」「菜花多」の文字のある細道を南へ行くと、松平陸奥守の品川屋敷の門前に出たように描かれている。嘉陵たちはゼームス坂(当時は浅間坂)の下、今の南品川五丁目の交差点あたりで左に逸れて、海晏寺の裏を通って仙台坂に出たのかもしれない。仙台坂のタブノキは伊達屋敷の裏玄関付近にあったということなので、そのあたりに出たのだろう。ちなみに伊達家の品川屋敷はかつては広大な敷地を有していたが、越前鯖江藩間部家の大崎の下屋敷と土地を交換しており、嘉陵が通りかかった時は仙台坂沿いに物資を収納する蔵と味噌の醸造所があるだけで、敷地の大部分は間部家の下屋敷となっていた。

 とにかく伊達家の敷地に沿って西へ回り込み、今の「見晴らし通り」に入ったようだ。これが東の海岸低地と西の立会川の低地に挟まれた台地の尾根筋を行く古道である。

 嘉陵の割註に「このあたり道の左はみな畠なり」となっているが、絵図では左側に間部下総守の屋敷があり、右側に畑が広がっている。嘉陵の書き間違いか、自筆本を後に書写する段階で逆になったかのどちらかだろう。

 やがて嘉陵たちの左側に来福寺が見えてくる。垣根の隙間から寺の裏手の桜が見えたようだ。

「まばら垣のすきまより寺の後面の花見ゆ、よこ折て径に入ば、小門あり、そこより入てみれば、堂の前うしろ、庭の築山まで、なべてみな花なり、書院の庭の左の隅にかきをへだてて、幹くちたる老木のさくら一もとあり、これぞ春日の局のうえし、しほがまといふ桜也と云」

(東向きの来福寺山門)

 来福寺の表参道は東側の東海道から伸びているが、嘉陵たちは境内の脇の小門から入ったようだ。現在も東大井3-13と20の間を左に入ると来福寺西門があり、階段を上り、寺の駐車場を通り抜けて本堂前に出られる。

 海賞山地蔵院来福寺は正暦元(990)年に智弁阿闍梨が創建した真言宗智山派の寺である。寺はその後、荒廃し、本尊の延命地蔵菩薩も行方不明となってしまう。文亀元(1501)年に梅巌という僧がその昔、源頼朝が戦死した兵士たちの追善のために写経を埋めたという納経塚(大井一丁目)から読経の声が聞こえるのを不思議に思い、掘ってみると、地蔵尊が出てきたので、この地蔵尊を来福寺に戻し、改めて本尊として安置したと伝わる。その秘仏だった地蔵尊は昭和の戦災で本堂諸とも焼失している。

 嘉陵たちが訪れた時、境内は桜が満開で、徳川家光の乳母・春日局が植えたと伝えられる「塩竃」と呼ばれる桜の老木も健在だったという。岡山鳥著『江戸名所花暦』(1827)にも桜の名所として来福寺が取り上げられ、境内に咲く「塩竃」を含む28品種の名前が挙げられている。

 また、境内には信州伊那出身の俳人与謝蕪村と同世代の雪中庵蓼太(1718-87)の「世の中は三日見ぬ間に桜かな」の句碑が弟子たちによって建立され、嘉陵が訪れた時にもあったはずで、現在もある。


(雪中庵蓼太句碑)

 嘉陵によれば、境内には百本近い桜があったそうで、ほかに本堂前に「梶原松」と呼ばれる松が一本あったという。これは源頼朝重臣だった梶原景時が植えたと伝わる松が枯れた後、新たに植えたものだという。

 来福寺は付近一帯を領有した梶原一門の帰依を受け、境内の北側には梶原塚があり、梶原一族の墳墓であるとの伝承があるが、嘉陵はこの地にいた梶原氏とは戦国時代に小田原北条氏の家臣であった梶原氏で、それが鎌倉時代梶原景時・景季父子と混同されたのだろうと考えている。『新編武蔵風土記稿』でも北条家臣の梶原説である。ちなみに来福寺の北に梶原塚は現存し、梶原稲荷が祀られ、神社の縁起では梶原景時の創建としている。


(梶原稲荷)

 さて、現在も来福寺の庭園には枝ぶりのよい松や多くの桜があるが、古木は枯れたり戦災で焼けたりして、すでに失われている。その後も桜の植樹は続けられ、近年の奉納者の名前には小泉純一郎安倍晋三石原慎太郎などの名前もある。いずれも染井吉野である。

 僕が訪れた時は境内はひっそりとしていたが、嘉陵たちが訪れた時は桜の木の下に床几を並べて茶や菓子を売る男がいて、嘉陵は持ってきた飯を民右衛門にも分け与えて、昼食にしている。

(『江戸名所図会』来福寺)

 

「やがて、もとの径を出て西南をさして、人のゆくまにまに行〔右は畠、左は松平土佐守殿のやしき也〕」

(嘉陵紀行の絵図・来福寺~西光寺)

 来福寺をあとにした嘉陵と民右衛門はさらに今の見晴らし通りを行く。右には相変わらず畑が広がり、左には松平土佐守の下屋敷があった。松平土佐守は土佐藩山内家で、当時は十二代の山内豊資(1794-1872)の時代である。

 その屋敷跡には現在、大福生寺という天台宗寺院がある。これは明治十四年に日本橋蛎殻町に創建され、明治二十四年に現在地に移ってきたものである。

(左が土佐藩下屋敷だった大福生寺)

「ややゆきて南へくだる小坂あり、ここの右の方を千軒台と云、そのかみ梶原景時このあたり二万石ばかりの地を領して、ここに住しとぞ、人家ありし跡、今畠と成、と土人のかたるままに書つく」

 この下り坂にはヘルマン坂の名がある。戦前にドイツ人のヘルマン・スプリット・ゲルベルト氏が坂の途中に居住していたことにちなむという。

 この右側がかつて千軒台と呼ばれ、梶原景時の領地で、居館があったと地元の人が語るので、嘉陵はそのまま書き留めているが、信じてはいないようだ。

 大福生寺の下で道は二手に分かれる。右へカーブする道が古い。坂を下ると立会川を渡る。

「坂をくだれば用水流る、その見わたしに水磨ある家あり、小橋をわたりて少しゆけば、西光寺〔来福寺より七八丁ばかり〕」

 当時は川を渡ったところに水車があったようだ。もちろん、今はない。現在の立会川はこの橋の上流では暗渠の緑道、下流は開渠となっている。コンクリートで固められた味気ない都市河川である。

 少し上って、東海道本線の線路を前後に階段のある地下道でくぐり、まもなく西光寺の前に出る。

 松栄山西光寺は浄土真宗の寺で、口伝では天徳二(958)年の開創、寺伝では弘安九(1286)年の創建といい、当初は天台宗の寺であった。江戸時代には桜の名所として知られ、嘉陵も有明桜、車がえし、児(ちご)桜、醍醐桜などを見て、歌を詠んでいる。

 今日ここの花にやどりて起ていなばなごり有明の月もみてまし

 佐保ひめやなでて生せしちござくら山ふところの露を乳ぶさに

 いつの世にみやこの花をたがうへてつきせぬ春のさかりみすらん

 しづけさはすまでもしらるすまばさぞ花にこもれる春の山でら

(『江戸名所図会』西光寺)

 これらの名木は明治二十六(1893)年の火災で焼けてしまった。ただ、境内には今も「兒(ちご)櫻」だけが残っている。

 「近年品川区の調査で固有品種、つまり西光寺にしかない世界でひとつの櫻」と判明した兒櫻。

「寺門を出て、岨にもあらぬ木の下みちを、垣にそふて猶南にゆき、とばかりの坂をくだりはつれば、少しの畠をへだてて、向ひの小高き所に、かやふける門つきづきしく住なしたる一かまへの家あり、其門の前に、さくらあまたうえなみたり、こはここ〔大井村〕の名主五蔵といふものの宅也けり」

 西光寺を出て、さらに南へ行く。道なりに進むと、右手に大井山光福寺があるが、嘉陵たちは素通りしていて、嘉陵はのちに再訪したようである。


(樹齢八百年以上という大銀杏のある光福寺)

 光福寺は延暦元(782)年に天台宗の神宮寺として開かれたのが始まりで、文永二(1265)年に親鸞上人の門弟であった了海上人により浄土真宗の寺として再興され、この時に光福寺と名を改めている。境内には「大井」という横穴式の井戸があり、この井戸で了海が産湯をつかったとの伝承があり、また大井の地名の由来になったともいう。水に恵まれた土地でもあり、古代東海道の大井駅が置かれたのがこの付近だとも考えられている。


(大井の地名の由来となった「大井」)


 光福寺を過ぎて、すぐ突き当りを右折して、すぐ左折。さらに南へ行くと、左にタブノキが茂る来迎院墓地が見えて、来迎院の門前に出る。

 来迎院は平安時代の安和二(969)年、南隣の鹿島神社創建と同時に別当寺として開かれた天台宗寺院で、江戸時代に入ると徳川家光が鷹狩のたびに立ち寄る休息所となり、「大井の御殿」と呼ばれた時期もあった。道を挟んだ向かい側には小堂が三つ並び、品川区有形文化財に指定された江戸初期の念仏講供養塔3基のほか、庚申塔不動明王像などが安置されている。

 もとは石仏の堂宇も境内にあったが、戦後、第一京浜国道池上通りを結ぶ道路が来迎院境内の本堂と石仏のお堂や墓地の間に通され、敷地が分断された形になっている。

 その来迎院を分断した道路を渡り、寺の敷地に沿って南西に坂を上ると、池上通りにぶつかり、これを左折すると鹿島神社の前に出る。

 安和二年に常陸鹿島神宮から祭神・武甕槌神タケミカヅチノカミ)の分霊を勧請して創建された古社である。ここまで歩いてきた道に来福寺、西光寺、光福寺、来迎院、鹿島神社といずれも平安時代の創建と伝わる古い寺社が並ぶことは、古代からここを街道が通っていた証拠でもあるだろう。

鹿島神社


 嘉陵は来迎院や鹿島神社には触れず、この池上通りを挟んで鹿島神社の向かい側あたり(大井7-4)にあった大井村の名主、五蔵の家を訪ねている。

 この五蔵(1763-1847)は大野五蔵惟図(ただのり)といい、杜格斎景山(とかくさいけいざん)と号する俳人でもあって、『南浦地名考』など地誌や随筆の著作も多い、この地域を代表する文化人であった。鹿島神社境内には「爐の友のめくり逢ひたるさくらかな」という景山の句碑がある。ちなみに鹿島神社宮司が大野氏である。

(杜格斎景山句碑)

 嘉陵が五蔵宅に立ち寄ったのは、やはり桜が目当てである。敷地内にはたくさんの桜が植えられており、「大井桜園」と称し、屋敷の門前に台命桜、上意桜と呼ばれた名木があった。嘉陵は台命桜とは徳川家光が愛でたことが由来かと書いているが、徳川吉宗が鷹狩でその前を通りかかった時に桜に目を留めて一枝を所望し、大枝ではなく小枝を折るようにと命じたためにこの名がついたと伝わる。八重の薄色であったという。ちなみに五蔵はこの地方の桜の名所案内である『南浦桜案内』自費出版している。

 嘉陵たちは五蔵に会って話を聞いたわけではなく、ただ屋敷の前で桜を眺めただけのようで、ここで一首を詠んでいる。

 うらやましいく世をここにすみぬらん花のあるじと人にいはれて

 

 高輪の如来寺で知り合い、ここまで一緒に歩いてきた民右衛門は、今日は行先も告げずに出かけてきたので、遅くなると母や子が心配するから、といって、ここで帰る。民右衛門は三田荒木の近くに住んでいるそうだが、四五日のうちに芝口の松坂屋の方に呼ばれて、そこに移るのだという。

 嘉陵も一緒に引き返そうかと迷ったが、道行く人が「まだ未のさがり(午後二時過ぎ)ですよ、池上まで行って本門寺の桜をごらんなさい。ここらの桜とは比べものにならないですよ」などというので、その気になり、民右衛門と別れて、さらに南へ足を伸ばすことにした。

 

 つづく

 

 

谷戸山公園でバードウォッチング

 座間市谷戸山公園でバードウォッチング。

 ウグイスがよく見える場所でさえずっていた。

 全身を使ってさえずっているのがよくわかる。


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  コジュケイ

 先週の御岳山ではちゃんと見られなかったキビタキ。ここではとりあえず姿は確認できた。

 証拠写真にはなるだろう。

 黄色のリュックを背負っているみたい。

 またそのうちどこかで会えるだろう。

サラサドウダン

 今日の東京は午前中は晴れ間も出たが、だんだん雲が多くなり、夕方には凄まじい雨で、雷も鳴る。

 鉢植えのサラサドウダンが咲き始めた。

 サツキも一輪だけ先走って開花。

 ゼラニウム。我が家ではなぜかゼラニウムがうまく育たないことが多く、これも去年は元気がなかったのだが、今年は植え替えたせいか、調子がよさそうだ。

(きょうの1曲)THE ENID / The Loved Ones


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ロックガーデンから大岳山へ

 5月5日に奥多摩の御岳山へ行った話の続き。標高929メートルの山頂のすぐ下から急斜面を下って七代の滝を見たところから。

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 七代の滝。

 七代の滝から岩場に架けられた鉄の階段や露出した木の根っこを足掛かりにして急斜面を登り、天狗岩に出る。巨岩の上に天狗が祀られている。

 この付近は個人的にはオオルリウォッチングのポイントになっていて、今回も期待していたのだが、声が全く聞こえない。さえずりがなければ探しようがないので、そのまま歩き続けるほかない。

 これは去年のオオルリ

 人が多い天狗岩は素通りして、再び下っていくと、七代の滝の上流部にあたるロックガーデンに出る。

 渓流と岩石、苔、木々の緑が織りなす天然の庭。ミソサザイが水音にも負けない大きな声で複雑な節回しの歌を聞かせてくれる。


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 ラショウモンカズラが咲いていた。

 深い海の底に堆積してできた岩盤が凄まじい地殻変動の結果、このような山奥に露出するまでの壮大な時間を考えると、地球の歴史の中で人類が存在する時間というのはほんの一瞬のようなものなのだろうと思ってしまう。

 我々が目にする大地の姿というのは、常に現在進行形で変化する途中経過でしかない。

 ロックガーデンの終点、綾広の滝までやってきた。山岳霊場の水行の場である。

 滝壺の傍らの岩の上に骨が一本。シカの脚の骨か。

 去年はここにミソサザイのつがいらしい2羽がいたのだが、今日は見当たらず。声も聞こえず。そういえば、去年はここでもオオルリの写真を撮ったが、今日はロックガーデンではオオルリキビタキの声をほとんど聞かなかった。そのかわりキセキレイが1羽飛んできた。

 綾広の滝から斜面を上り、御嶽神社からの道と出合う。ロックガーデンは過去に3回歩いたが、いずれもここから御嶽神社のほうへ戻った。逆方向へ行くと大岳山である。標高は1,200メートル以上あり、途中に岩場や鎖場もあるそうだが、まだ10時半を過ぎたところで、時間はたっぷりあるから今日は大岳山に登ってみよう。御前山、三頭山と並ぶ奥多摩三山のひとつに数えられ、独特の山容で都心から見ても、目立つ山である。古くは海上からも航海の目印となったという。

 多摩動物公園から見た大岳山。

 ということで、さらに奥地へと歩き出す。御嶽神社周辺の賑わいに比べると、ロックガーデンはだいぶ人が少なかったが、ここからはさらに人が少なくなる。ただ、これは時間帯のせいでもあるだろう。あと1、2時間もすれば、もっと人が増えるはずだ。

 沢を渡り、斜面につけられた山道を登っていくと、前方にガイドに引率された十数人のグループがいた。その後ろをゆっくり行けばいいな、と思ったのだが、ガイドさんが「ちょっと左に寄って道をあけてください」といって道を譲られてしまった。仕方なく一団を追い抜いて先へ行く。

 アオゲラの声に続いてドラミングを耳にしながら、ひたすら登って行くと、道標のある峠に出た。芥場峠というらしい。左に行けばサルギ尾根、上高岩山方面、右が大岳山からさらに鋸山、馬頭刈尾根方面だ。

 しばらくは比較的歩きやすい針葉樹林の道を行く。しかし、「この先滑落事故多発、岩場・鎖場あり」の看板があり、自分の体力や装備を考えて、引き返すなら今のうちですよ、というメッセージなのだろう。ゆっくりと慎重に歩くことにしよう。

 やがて、左は植林されたヒノキ、右は新緑の広葉樹となり、まもなく明るい新緑の尾根道に出た。風が心地よい。山桜の花びらが散っていて、タチツボスミレがわずかに咲き残っている。

 こういう道ならいくらでも歩けるな、と思ったが、少し行くと、いよいよ岩場が多くなり、鎖が張ってある場所も出てくる。ただ、それほど険しいというほどでもなく、鎖につかまらなくても歩ける。

 なかなか味わい深い標識だ。「滑落注意」。一歩一歩慎重に。

 道はだんだん険しさを増し、時に手すりや鎖、岩や木の根につかまりながら、ゆっくりと登り、やがて左下に廃屋らしき建物がある広場に出た。10人余りがベンチで休んでいる。

 この建物は大岳山荘といって、2008年まで営業していたそうだが、今はだいぶ荒れ果てて、屋根も歪んでいる。

 さて、ここには鳥居があり、石段を登れば大岳神社がある。

 祭神は大嶽大口眞神、つまりオオカミである。日本人はニホンオオカミを絶滅に追いやってしまったので、まだ神様がいるのかどうかはわからない。

 社殿の前には狛犬ではなく、狛狼。雄雌がはっきり分かるようになっている。こちらは雄。

 神社の脇からさらに登る。あと一息だが、ここからがまさに急登で、道は険しく、岩場、鎖場も本格的になる。両手両足で岩にしがみつくようによじ登る場所もあって、これは登るのも大変だが、下るのも怖いな、と思いながら登る。

 そして、ついに大岳山の山頂に到着。時刻は11時半頃。途中では遠くが見える場所はほとんどなかったが、ここで一気に視界が開ける。

 標高1266.4メートル。富士山もばっちり見える。

 さほど広くはない山頂には20人ほどはいただろうか。大岳山には御岳山からだけでなく、奥多摩方面からも檜原村方面からもルートがあるので、次々と到着し、みんな大岳山の標柱と富士山をバックに写真を撮り、周囲の風景をぐるりとスマホで動画撮影したりしている。外国人もいる。

 僕も御嶽駅から歩いて4時間半かけて登ってきたので、感慨もひとしおではあるが、ゆっくりと休むような場所もない。

 二等三角点。

 丹沢から奥多摩へと連なる山並みを見渡し、頭上の木々の新緑を眺め、正午前には下りにかかる。

 険しい岩場を慎重に下り、登ってきた同じ道を戻る。

 早朝から登っている人は登山用品の専門店でウエアから様々な装備までしっかり揃えた本格的な人が多いが、今ごろのんびり登ってくるのは気軽に山歩きを楽しむといった風の人たちで、アジア系の外国人の家族連れなども多くなってくる。その服装で大岳山の岩場は大丈夫か、と思うようなスカートの女性もいた。

 芥場峠を過ぎて、まもなく近くでオオルリの声が聞こえた。斜面の下に生えた木がちょうど目の高さに枝を広げていて、そのどこかに止まって、とても良い声でさえずっている。姿さえ見つかれば、ばっちり写真が撮れそうなのだが、見つけられない。

 一度飛んだので、一瞬だけ姿が見えたが、ますます見えにくい場所へ行ってしまったので、諦めて歩き出す。ほかにアオゲラやカケスが飛ぶ姿も見たが、今日は夏鳥ウォッチングという意味では大きな成果は得られず。

 御嶽神社

 奥の院(1,077m)の遥拝所。

 往路に御嶽神社に参拝しなかったので、帰りには石段を登ってお参りし、下りは14時半頃のケーブルカーで山を下り、そこからバスを使って御嶽駅まで。どちらも満員で立ちっぱなしで、歩くより楽という感じでもなかった。青梅線の電車も青梅までは座れず。

 自宅から自宅まで33,728歩。

 本格的な夏が来る前にもう一度ぐらいどこかの山に登りたい。

 

 

御岳山へ

 5月5日、新緑と夏鳥をめあてにどこか山へ行こうと考え、とりあえず御岳山へ行くことにした。

 朝4時半の月。

 4時前に目が覚めたので、小田急の始発で出かけ、南武線青梅線を乗り継ぎ、6時57分に御嶽駅に着いた。すでに登山客がたくさん乗っていて、御嶽でもかなりの下車客があった。

 御岳山へ行くには駅からバスとケーブルカーを乗り継いでいくのが普通だが、時間はたっぷりあるので、駅から歩く。

 御岳橋からの多摩川の清流が何とも気持ちがいい。

 街路灯の上でキセキレイがさえずり、ツバメが飛び交っている。ガビチョウの声も聞こえる。

 多摩川右岸の吉野街道を行くと、さっそくキビタキの声が聞こえてくるが、次々と走り去るクルマやバイクの音がそれをかき消してしまう。

 やがて、左手に火の見櫓が見えたので、ちょっと寄り道。その先にはお寺もある。

 心月院。弘法大師像が祀られているから真言宗だ。ウグイスの声を聞きながら、手を合わせる。

 参道沿いや境内に小さなお堂があり、石仏がある。

 観音菩薩地蔵菩薩

 庚申塔

 弘法大師像。

 街道に戻って、さらに歩く。ツバメがたくさん飛んでいて、ホオジロの声も聞こえる。

 街道から分かれ、赤い鳥居をくぐって御岳山への登山道路に入ると、山のほうからオオルリのさえずりも聞こえてきた。今年初めて聞く声だ。去年はここで実際にオオルリの姿を見たのだったが、今年は姿までは見つからず。ミソサザイの声も響いてきた。役者は揃っている。この先で姿を拝めるかどうか。

 寄り道も含めて40分ほどでケーブルカーの滝本駅に着く。バスで来た人たちが行列を作っているので、素通りして、この先も歩いて登る。

 滝本の由来となった小さな滝が傍らにある禊橋を渡り、「御嶽神社」の額がある石鳥居をくぐると、道の脇に大杉が聳えている。江戸初期に整備されたという表参道の杉並木で、樹齢は四百年近いのだろう。

 この道は去年も歩いたが、山上集落の居住者や通いの従業員、荷物や郵便の配送・配達のクルマやバイクが通れるように全区間舗装されている。ただ、道幅は狭く、かなりの急勾配。ヘアピンカーブが連続するので、車はカーブのたびに一度では曲がれず、切り返しをしなければならないようだった。

 滝本の標高がすでに400メートルを超えているが、神社がある御岳山頂は929メートルで、参道の長さは約3キロある。

 途中には「ろくろっ首」と呼ばれる旧道が残っていて、まさにろくろっ首のようにくねくねと曲がりくねっている。

 やがて、高いところからオオルリの声が聞こえたが、姿は見えず。ヒガラやキクイタダキの声も聞こえる。

 ケーブルカーに接近する地点では杉の木が何本か伐採されていて、丸太に腰かけて休憩している人がいた。

 斜面に生えた杉は根元の土が侵食されて、根がタコの足のように露出しているものが多く、だからといってすぐに倒れるわけではないだろうけれど、万が一倒れた杉の巨木がケーブルカーを直撃したら、大惨事は間違いなしである。そこで予防的に伐採したのかな、と思ったのだが、真相は不明。

(根っこが露出した杉が目につく)

 ところで、途中で気がついたのだが、杉の木には番号札が貼り付けられている。そして、進むにつれて、番号は小さくなっていくのだ。目の前にあるのは339と338である。スタート地点の杉が何番だったか確認しなかったが、あとで調べてみると784番であるらしい。伐採された木の番号は欠番になっていて、数字はどんどん減っていくので、これを励みに登ればいい。

 やがて、参道入口の禊橋と御師集落のほぼ中間地点で、かつては小さな茶屋があったという「仲見世」を過ぎ、ケーブルカーの高架をくぐる。ここまで滝本から27分。

 さらに少し行くと、団子堂。お地蔵さんを祀ったお堂があり、団子を供えたというので、この名がある。傍らにベンチがあるので、ちょっと休憩。今朝はまだ何も食べていないので、おにぎりを1個食べる。けっこう汗をかいた。滝本から表参道を歩いて登る人がいることは分かったが、御嶽駅からバスを使わずにずっと歩いてくる人というのはそんなにいないのではないか。それでも、昔の人は江戸からでも、どこからでも、自分の家からずっと歩いてきたわけだから、それに比べれば、電車で来ただけでも、相当楽をしているのは間違いない。

(ケーブルカーが登っていく)

 さて、歩くか。目の前の杉の番号は305番だ。

 しばらく上ると、キビタキのさえずりが聞こえ、ほとんど同時にツツドリの声も聞こえてきた。キビタキはかなり近い。姿を見つけられそうだ。杉と新緑の広葉樹が混交して、そのどこかにいる。絶好のチャンス。なんとか姿をカメラに収めたいと思うのだが、なかなか見つからない。しばらくピッコロのような声で弾むように歌うと、場所を移動するので、木から木へと飛ぶ姿は何度か確認できたのだが、見やすい場所には止まってくれずに、だんだん遠くへ行ってしまった。

  とりあえず音声だけでも、と動画撮影してみた(サムネイル画像は過去の撮影)。


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 これも過去に撮影したキビタキ。この場所で撮りました、と噓をついてもバレないかな?

 まだまだ粘れば撮影チャンスはありそうにも思えたが、後ろ髪を引かれる思いで歩き出すと、すぐにまたキビタキの声。ただ、今度の個体はまだ声が本調子ではないのか、いかにもメスにもてなさそうな歌声だった。

 杉の木の番号はどんどん減っていき、3、2、1。1番の杉はかつて黒門があったという場所にあり、さらに道は続いて、ケーブルカー御岳山駅からの参道に合流。急に人が増えて賑やかになった。ここからは宿坊が並ぶ御師集落を行く。ここまで滝本から1時間10分ほど。キビタキ探しで15分ぐらいは樹上を見上げていたので、歩いた時間は1時間弱か。

 すぐにビジターセンターがあるが、まだ9時前で開いていなかった。

 参道途中の宿坊の前の台上にラップでくるんだ手作りおにぎりがザルに盛ってあって、1個100円。ミニチュアの賽銭箱があり、そこにお金を入れるシステム。気まぐれおにぎり屋と書いてあり、前回もここを通った時に買わなかったけれど、記憶には残っていて、今日も売っていたら買ってみようと思っていたのだ。

 タケノコご飯と山椒味噌のおにぎりを買う。

 樹齢千年という神代欅。

 土産物屋が軒を連ねる通りを抜けると、御嶽神社の石段の前に出る。これを登り切ったところが山頂だ。

 しかし、僕は山頂までは行かず、心の中で神様を拝んで、随神門から脇道に逸れる。現在の時刻は9時07分。御嶽駅からここまで2時間ちょっと。けっこう疲れた。

 少し行くと、長尾平。ヘリポートのある展望台からの眺め。

 東側。クロツグミの声が聞こえた。

 西側。ひときわ高いのは御嶽神社奥の院

 長尾平の分岐からは養沢川の谷へ向かって急な下りを行く。段差が大きく、上りも辛そうだが、下りも足への負担が大きい。それでもどんどん下って、養沢川の七代の滝へ。

 昨年はここでミソサザイがさえずっていて、写真も撮ったのだが、今日は鳥の声が全く聞こえない。ただ水音だけ。去年はこの先でオオルリの写真も撮ったので、また期待しているのだが、ここで声が聞こえないということは、オオルリもこの近辺にはいないということか。ちょっとアテ外れだ。

 七代の滝の周辺には今から1億5千万年以上前のジュラ紀に深海の底に堆積したチャートの岩盤が露出していて、滑落死亡事故が発生したとの注意書きがある。確かに滑りやすそうなので、注意しながら滝を眺め、さらに進む。

 この先には渓谷美が素晴らしいロックガーデンがある。

 

 つづく








 

ホースショー

 JRA馬事公苑で今日から3日間、ホースショーが開かれる。第46回ということだが、長らく休苑していたので、ホースショーも久しぶりだ。2016年以来か。

 キッチンカーや乗馬グッズの店などが出ていて、来場者も予想以上に多い。大変な盛況だ。

 メインアリーナでは馬術競技の大会が行われていた。以前はチームごとに様々な仮装をしての馬術競技があって、あれが楽しみだったのだが、今回はないようだ。

 東京五輪でも使用された花札障害。そして、この馬場で無観客で五輪の馬術競技が行われたのだ。

 昨年秋の再開苑後、馬術競技は何度か見たが、今回の135センチクラスは今までで一番高い。

 これも五輪で使われた歌舞伎障害。馬にはどう見えるのだろう?

 インドアアリーナも開放されている。

 パドックには引退競走馬が出ていた。

 ボールライトニング

 その隣は…。おっ、ダイワキャグニーだ。

 今日はとにかく馬がたくさん見られる。

 陽射しの下では暑いが、日陰に入ると、爽やかで、とても気持ちがいい。

 池にはカキツバタスイレンが咲いている。

 馬術競技の合間に馬とのふれあいタイム。

 ミニチュアホースのリキマルも登場。

 その間にインドアでは警視庁騎馬隊によるレプリーズ。馬によるマスゲームのことらしい。先ほどは閑散としていた会場が満席で、立ち見の人垣が何重にもできていた。

 そして、外ではまた馬術競技が始まる。

 スタンドは満席。

 以前のホースショーのほうがいろいろあって、面白かったような気はする。

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