嘉陵紀行「南郊看花記」を辿る(その2)

 江戸の侍・村尾嘉陵(1760-1841)が文政二年三月二十五日(1819年4月20日)に江戸の南郊を花見をしながら散策したルートを辿った話の続き。

 愛宕下通りから切通し坂を経て、増上寺境内に入り、山内の桜を愛でながら、南の赤羽門を抜け、赤羽橋を渡って、今の桜田通りを南へ向かうところから。

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 国道1号線の桜田通りで港区芝と三田の間を行く。これは古代の東海道と考えられる古道である。右に春日神社、さらに慶應義塾大学を見て、三田二丁目の交差点で桜田通りは西に折れるが、古道はその次の交差点で曲がって南西に行く三田の聖坂を上る。

(「芝三田二本榎高輪辺絵図」部分。図の右側が北)

 聖坂高野山の遊行僧(高野聖)が開いた坂であるとか、そこに商人も兼ねた高野聖の宿があったとかの伝承により、この名がつけられている。古代から中世にかけて都から関東、江戸、そして奥州へと続く街道がここを通っていた。

「麻布聖坂を上り、ここに功運寺といふ禅刹あるに立より、故長沼国郷先生の碑をみる」

 坂を上ると、左手に済海寺(浄土宗)がある。幕末に最初のフランス公使館が置かれた場所である。そして、その斜向かい、三田中学校付近に功運寺があった。嘉陵がこの寺に立ち寄ったのは桜が目当てではなかったようだ。長沼国郷(1688-1767)は剣術家で、功運寺に墓があり、国郷の実子・徳郷に頼まれて嘉陵の父が国郷の顕彰碑の文字を書いたらしい。碑文は儒学者・松崎観海の作。嘉陵は自分の亡父の字を見るために功運寺に立ち寄ったのである。碑文を読み進めていくと、脱字があったようで、石碑を非常に急いで造らせたために石工が誤ったのだろうと推測している。

「今にして四十五六年の昔感なき事あたはず」

 石碑が立ったのは四十五、六年も昔のことで、感慨無量であったようだ。なお、功運寺は大正十一(1922)年に中野・上高田に移転しているが、三田功運町の町名は昭和四十二年の住居表示実施まで存続した(現在は三田三丁目、四丁目に編入)。

 

「ここを出て白金を下り、長応寺前より泉岳寺の惣門の内を横ぎりに、如来寺のうらの小門より入」

 さらに三田の尾根上の道を行く。三田と高輪の境界が伊皿子(いさらご)の交差点。ここから北西に下るのが魚籃坂、南東に下るのが伊皿子坂である。左折して伊皿子坂を下る。

(伊皿子交差点を左折)

 伊皿子の地名の由来は諸説あるが、一説には江戸時代、付近に明から来た中国人が居住しており、それを地元の人が外国人を意味する「えびす」「いびす」と呼び、それを受けた中国人の一人が「伊皿子(インベイス)」と自称したのが由来だという。

(「芝三田二本榎高輪辺絵図」部分。右側が北)

 坂は途中で右へカーブし、そこにかつて日蓮宗の長応寺があった。長応寺は幕末にオランダ公館に指定され、明治の廃仏毀釈で衰退したため、北海道北部の幌延に移転して現存し、明治末には品川区小山にも再興されている。

 その長応寺跡を過ぎると、まもなく泉岳寺の門前に出る。

 赤穂義士の墓があることで有名な泉岳寺は慶長十七(1612年)年に徳川家康が門庵宗関を招いて江戸城桜田門付近に創建した曹洞宗寺院。寛永十八(1641年)年の大火で焼失し、現在地の高輪に再建された。

 嘉陵はその惣門内を横切って、南隣にあった如来寺を訪ねている。

 如来寺寛永年間(1624-44)に創建された天台宗の寺で、「高輪の大佛(おおぼとけ)」として知られた丈六の五智如来坐像が安置されていた(高輪辺絵図にも「大佛」の文字あり)。丈六は立ち上がると一丈六尺(約4.85m)の仏像のことで、坐像の場合はその半分ほどの高さになる。その大きな仏像が五体。大日如来を中心に釈迦如来阿弥陀如来宝生如来薬師如来が並び、その総称が五智如来で、広く信仰を集めていた。如来寺は明治四十一(1908)年に今の品川区西大井に五智如来とともに移転し、現在は「大井の大佛」と呼ばれている。

 如来寺は海岸沿いの東海道から参道が通じていたようだが、嘉陵は泉岳寺側の脇門から境内に入ったようだ。

「ここの境内この十四五年ばかりこのかた、桜数百本を植たり、咲ものこらずちりもはじめぬながめ、ことにめでたし、艮(うしとら=北東)の隅に高き岡あり、上に弁才天の祠、かたわらに坊舎あり、其縁に腰かけて高き花の梢を見おろせば、其ながめ又仰ぎのぞむにまさる、いはんや東南海を見わたすに、沖の山々霞みこめ、風おだやかに浪しづけし、かかる美日はまたなき心地す、この岡の岨に桜もあまた植たり、早春花の比はさぞとしのばるるに、又こん春はきても見まほしなんど、思ふもはるけし」

 嘉陵の心は大佛よりも桜にあったようで、実際、境内には数百本の桜が植えられ、ちょうどすべての花が残らず咲いて、散り始めてもいない、まさに満開だったようだ。

 境内の北東の高き岡に登って、ここから桜を見下ろすのも、下から仰ぎ見るのにまさる絶景であった。絵図では如来寺の上に「フジ」の文字があり、富士塚らしき形が描かれているから、そこに登ったのだろうか。山の上からは桜ばかりでなく、江戸湾の海原を見渡し、春霞の彼方に房総の山々を望み、風は穏やか、波は静か。またとない素晴らしい日和である。次の春もまた来てみたいと、まだはるか先のことにも嘉陵は思いを馳せている。

 現在は寺は移転し、周辺は住宅やマンションが立ち並び、富士塚も跡形もないようだが、険しい地形だけは変わっていない。ただ、高台からも現在はビル群に阻まれて海は全く見えない。

 さて、僕は泉岳寺前からその敷地沿いに南へ行き、かつて如来寺があったと思われる場所を通り抜け、細くて急な坂を上り、西へ回り込んでいくと、再び尾根上の古道に出て、そこが二本榎である。昔、伯母がこの付近に住んでいて、小学生の時、従姉に今の細い坂道を通って泉岳寺まで案内してもらったことがある。お寺より急な坂道のほうが印象に残っていて、記憶のままであった。

 

 ところで、嘉陵には如来寺でひとつの出会いがあった。

「傍に人あり、おなじく風景の美をめでてたたずむ、かれと我と、ふたりの外はさらに人もなければ、かたみに何くれかたらふ」

 如来寺の岡の上で同じように春の絶景を眺めていた人物について、嘉陵は彼から聞いた話を長々と書き留めている。大日向民右衛門といい、現代においてはなかなか出会えないような人物である。

 彼の先祖は真田左京太夫殿に仕え、信州松代で荒れ地の開墾を任せられ、その功によりその土地を与えられ、今も一族が住んでいる。祖父は百十六歳で亡くなり、父は八十一で亡くなった。母は八十七歳で健在。いまだ杖もつかず、腰も曲がらず、目も歯もしっかりしている。男女八人の子を育て、孫は三十八人いる。みんなそれぞれに様々な生活をして、裕福ではなくとも貧乏でもない。僧侶になった者も武士も百姓も商人もいる。先祖の教えにより、孝を基本とし、生きるものを殺さず、人や物を大切にする。三あるものは一を残して二を施す。兄弟親族みな睦まじい。民右衛門には三人の子がいて、みな商人となった。みんな自然に孝を大切にするようになり、教えなくてもまっすぐに育ってくれた。これはすべて父祖のおかげである。五十を過ぎて、妻を亡くした。それ以来、自然を愛でながら諸国を遊歴し、およそ二十九か国を巡った。

 今年も琉球国王の代替わりで、江戸へ謝恩使が派遣されると聞いていたが、幕府が五年間の差し止めを決め、琉球使節の江戸上がりは中止となった。代わりに薩摩藩琉球に番兵を派遣することになり、江戸詰めの薩摩藩士が琉球へ送られるというので、行李や長持など大量の荷物を宰領して自分も彼の地へ行くことになっていたが、事情があって取りやめとなった。そこで小田原で寺の住職をしている弟のところへ行き、その後、安房、上総、銚子から仙台まで巡って帰ろうと思っているなどという。

 民右衛門の相貌は温和でふくよかな顔立であり、天性の美質が見える。

 江戸にもまだ知らない場所はたくさんあるので、見て歩こうと思うが、ただぶらぶら歩いていると昼盗人と間違われてもいけないので、一昨日は干し大根を担いで、売るともなしに売りながら本郷から日暮里、上野、浅草まで花見をしながら歩いたら、夕方には七八百銭ばかりになったので、それでものを食べ、あるいは施しなどして家に帰り、元手の銭を息子に返し与えたという。

 その日、本郷では病気で食事にもありつけない者を目にし、浅草でも同じようにやつれきった者を見た。あまりにも気の毒だったので、昨日は花見には行かず、金一歩をもって同じ場所で出かけ、ふたりに二朱ずつ貸し与えた。返ってくることはないだろうが、自分はさしあたってお金には困っていないので、構わないと思っている、などと語ったという。

 諸国の事績にも詳しく、しかも細かく覚えていて、曖昧な知識ではない。嘉陵と同世代で、母親も健在であるという。彼の母親を自分の母に会わせてみたいとも思うし、まだまだ元気に年月を重ねてほしいと願いながら、自分の家にもぜひ遊びに来てくれと住所を書いて渡し、嘉陵はなおも民右衛門と一緒に如来寺をあとに歩き出した。

 

 つづく

 

 

 

嘉陵紀行「南郊看花記」を辿る(その1)

 江戸の侍・村尾嘉陵(1760-1841)の江戸近郊日帰り旅のルートを辿るシリーズ。今回は江戸南郊の桜を見て歩いた記録である。当然、僕も桜の季節に歩くべきであったが、この日の記録を読むと、江戸からあちこちに立ち寄りながら池上本門寺まで歩いていて(もちろん徒歩で往復)、その距離の長さから二の足を踏んでいたのだ。それで代わりにずっと距離の短い文京区小日向の道栄寺から新宿区北新宿(旧柏木村)の円照寺まで花を見ながら歩いた道筋を前回辿ったわけだ。それでも「南郊看花記」は面白くて、やはり歩いてみたい。もう桜はわずかに八重桜が残るだけで、ハナミズキツツジと新緑の季節だが、とりあえず頑張ってみることにした。

 

「文政二己卯のとし三月廿五日(1819年4月20日、南郊の花見ばやと、辰の刻(午前八時)ばかりやどを出、朝まだきは空うすぐもりて、ふりもやせんと覚束なかりしも、芝の辺に行ころより空はれて、ことに風さえなく長閑也、小袖一きてあつき程なりけり」

 数えの六十歳になった嘉陵は当時はまだ浜町に住んでいた。家を出た頃は薄曇りで、雨が降りそうな天気だったようだが、芝付近まで来たら晴れて、風もなく、のどかなお花見日和。少し暑くなったらしい。

 僕は地下鉄銀座線の虎ノ門駅からスタート。虎ノ門ヒルズか開業し、江戸時代の人が見たら、卒倒しそうな景観である。

 その虎ノ門ヒルズの東側を南北に走る愛宕下通りは実は古代の東海道とも考えられる大変古い道である。

 やがて、右手に標高26メートルの愛宕山。江戸の最高峰で、山の上には愛宕神社が鎮座している。
 嘉陵が現代にタイムスリップしたら、江戸の風景の激変ぶりに唖然とするだろうが、ここだけは愛宕山だと分かるのではないだろうか。

 徳川家光の家臣・曲垣平九郎が馬に乗ったまま、この急な石段を登って、山上の梅の枝を取ってきて将軍に献上したことから、家光に称賛され、一躍名を挙げたという故事にちなみ、「出世の階段」として有名な愛宕神社男坂。歩いても、怖い(特に下り)。

 今は神様に対して不敬に当たるとして、石段でのトレーニング禁止の注意書きがある。

 愛宕神社。今でも出世を願うサラリーマンの参拝が多い。過去にお笑い芸人が熱心に拝んでいるのを見たことがある。

「あたごの山のつづき、切通しの坂をのぼり、少しひぢ折てゆけば、増上寺の門あり、入てゆくての右に柳、さくら、あまたうへられたり」

 嘉陵は愛宕山を右に見て、そのまま南へ歩く。すぐに愛宕山から続く山を背にした萬年山青松寺。文明八(1476)年、太田道灌が僧雲岡に命じて麹町貝塚に創建させた曹洞宗寺院で、慶長五(1600)年に当地へ移転している。

 青松寺の門前を過ぎ、交差点があるが、横断歩道がないので歩道橋をコの字に渡る。

 歩道橋から見た増上寺

 歩道橋を渡って交差点から西へ行くと、すぐ左へ入る道が切通し坂である。愛宕山から南へ連なる山を切り開いた坂という意味だろう。往時は坂の登り口の傍らに「時の鐘」があり、人々に時刻を知らせていた。坂は昔から道幅が広く、今は公衆トイレがあるせいか、タクシーの休憩場所になっている。

 東京タワーを見ながら坂を上ると、正面が正則高校で、右に曲がると、学校の敷地の先に左へ入る細道がある。

 切通し坂を上ると、増上寺の門があったというのはここのことで、広大な増上寺の北西に位置し、涅槃門と呼ばれる裏門があった。門の脇の恵照院に涅槃像があったことにちなむ名称のようだ。ただし、昔はもう少し西寄りだったかもしれない。

 涅槃門があった細道を行くと、芝公園に出る。かつての増上寺境内を公園化したもので、道路に区切られ、いくつもの地区に分かれている。当時は柳や桜がたくさん植えられていたそうで、今も桜はあるが、柳は見当たらない。

 嘉陵によれば、十四年前に市谷念仏坂から出火して、このあたりまで燃え広がり、近隣の金地院や薬師堂を焼失。さらに増上寺境内にも炎が及び、御霊屋(将軍の墓所)も危うく焼けそうになったことから、その後、ここにあった寺や町家を移転させて火除け地を設け、道を造り替えて、その際に桜や柳を植えたのだという。

 

「少し行て、道のかたはらに山あり、石階をのぼる事しばしばにして、上に白金いなりの祠あり、この山のふもとみな花なり、ことに鳥居の右ひだりにある二もとは、八重の薄いろなるが、今日をさかりのながめたぐひなし」

 

  「道のかたはらに山あり」の山とは芝公園内の丸山古墳(中腹に稲荷神社あり)かと思ったのだが、山の上の白金稲荷とは「金地院境」にあったという。上の絵図で涅槃門を入るとすぐ右側に「イナリ」があり、瑞蓮院前から南へ行くとまた「イナリ」とある。白金稲荷の正確な場所は不明だが、増上寺境内にあった白金稲荷を含むおよそ10の社は明治の神仏分離で現在は金地院の北にある幸稲荷に合祀されている。

 

 金地院の北に位置する幸稲荷神社。

 東京タワーのすぐ北側にある金地院。増上寺が浄土宗であるのに対して、金地院は臨済宗南禅寺派の禅寺で、京都南禅寺塔頭で江戸における宿寺であったという。開基は徳川家康、開山は家康の政治顧問でもあった以心崇伝和尚。元和五(1619)年、江戸城北の丸内に創建され、寛永十六(1639)年に当地へ移転している。

 金地院の向かい側が東京タワー。

 東京タワー東側のもみじ谷。嘉陵は東京タワーと増上寺の間を歩いたはずだが、このあたりは往時の面影がいくらかは残っているだろうか。嘉陵が歩いた時は桜がちょうど見頃であったようだ。

 嘉陵は増上寺には過去に何度も参詣していたからか、この時は境内を北から南へ花を見ながら通り抜けただけのようだが、僕は久しぶりなので、ちょっと立ち寄る。東京タワー周辺も増上寺も外国人観光客だらけである。

 増上寺は明徳四(1393)年に開かれた浄土宗の寺で、創建時は今の千代田区平河町から麹町にかけての武蔵国豊島郷貝塚にあり、徳川家康の江戸入府後、徳川家の菩提寺に選ばれ、慶長三(1598)年、現在地に移って、寺は大いに発展した。徳川家墓所には二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の、六人の将軍とその正室、側室の墓がある。

 東京タワーに見下ろされる徳川家墓所

 墓所の前に並ぶ四菩薩。左から文殊、虚空蔵、地蔵、普賢菩薩。鎌倉期の造立ともいわれ、かつては愛宕山から増上寺境内へと連なる丘陵のうち、増上寺の北部にある地蔵山にあって、街道を見守っていたともいう。

「ここより赤羽門に行みちのかたはら、みな花の木を植をうえらる、年へなばさぞとしのばるるまでになん、瑞蓮院の東池の弁才天の嶋にも、よき花四五株あり、ことに祠の門のかたはらなるは、木もややふりて花いとうるはし、はた向ひの岸には、山ぶきさへ咲おほりて、春ふかみ行いろ、いはまくもさら也」

 嘉陵が歩いた道筋にはずっと桜が植えられ、まだ若木だったようだが、年月を経て木が育った後の花の美しさに思いを馳せている。

 「瑞蓮院の東池の弁才天」とは今もある池の中の島に祀られていた。この池は昔は今よりも大きく、蓮が植えられ、中の島にも弁天堂のほか、桜が四五本植えられて、上野不忍池を小さくしたような感じだったらしい。この弁才天平安時代の作といわれ、源氏や北条氏の手を経て増上寺に伝わり、家康の念持仏にもなっていたが、一般の人もお参りできるように、と貞享二(1685)年に弁天堂が建立され、別当として宝珠院が池のほとりに創建された。弁才天は現在は宝珠院の堂内に秘仏として奉安されている。

 瑞蓮院は正徳六(1716)年に有章院(七代家継)廟の別当として建てられ、その後、惇信院(九代家重)廟の別当も兼ねた。ただし、場所は増上寺境内の北西、今の正則高校付近にあった。ちょうど弁天池(白蓮池)に一茎二花の蓮が咲いたことにちなむ名称だという。嘉陵は宝珠院と瑞蓮院を混同したのだろう。

 お寺らしからぬ建築の宝珠院。弁才天のほか、閻魔、本尊の阿弥陀如来などを奉安。

 現在、徳川家墓所は安国殿の裏にあるが、かつては本堂を挟んで北(現在の東京プリンスホテル付近)と南(現在の東京プリンスパークタワー付近)に分かれた大規模なもので、戦災で焼失してしまったため、戦後、発掘され、将軍らの遺体は詳しく調査された後、改めて荼毘に付されて現在の墓所に改葬されている。

 

 増上寺の南側に隣接する芝東照宮

 徳川家康が還暦を迎えた記念に彫らせた自身の像(寿像)を家康の死後、その遺言によって増上寺に祀っていたが、明治の神仏分離増上寺とは切り離して家康を祭神とする東照宮を建立し、家康寿像をご神体として祀っている。

 嘉陵が見た八重桜もこんな感じだったか。

 嘉陵は桜のほかに山吹も咲いていたと書いている。芝公園の山吹。

 東照宮の裏手には丸山古墳。東京都内では最大級の前方後円墳で、自然の地形を利用して5世紀頃に築造されたと考えられる。中腹に丸山稲荷が鎮座し、増上寺の裏鬼門を守っていた。

 この丸山の西側は現在、東京プリンスパークタワーとなっているが、昔は二代将軍・徳川秀忠(台徳院殿)らを祀る霊廟があった。

 

 さて、嘉陵は増上寺を南の赤羽門から出て、ここから桜田通り(国道1号線)に入って古川に架かる赤羽橋を渡り、さらに南へ向かう。赤羽橋にはアジア系の外国人が大勢いて、みんな東京タワーを背景に入れて、さまざまなポーズを取りながら写真を撮っている。恐らく、SNSで有名な撮影スポットなのだろう。

 

 首都高速が真上を走る赤羽橋から芝公園方面を振り返る。外国人がたくさん写真を撮っている。

 赤羽橋の下を流れる古川。上流は渋谷川である。

 ここからしばらくは大田区の洗足池まで歩いた時と同じルートである。ただし、時系列でいえば、「南郊看花記」は文政二年、「千束の道しるべ」は文政十一年で、「南郊」のほうが9年も前の話である。

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 つづく


 

ハーブゼラニウム

 東京は晴れて、最高気温は今年最高の28.2℃。都内では青梅市の29.8℃が最高だったが、真夏日になった地方もあり、全国最高は福島県伊達市梁川の32.3℃。しかし、4月の真夏日にももう驚かなくなった。まあ、そういうこともあるだろう、という感じだ。

 我が家では毎日、いろいろな花が咲きだすが、今日はハーブゼラニウム(センティド・ゼラニウム)オレンジフィズが開花。この春、ホームセンターで見つけて買ってきたもの。

 こちらは何年も前からある普通のゼラニウム

 ゼラニウムクレマチス

 子どもの頃はゼラニウムのニオイが嫌いで、今でもニオイは好きではないが、現在、3株を育てていて、今年、新たにハーブゼラニウムが加わった。

 クレマチスのピールも咲き出した。

 今日のインコ。

(きょうの1曲)Jacques Pelzer / My Foolish Heart


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シランが開花

 シラン(紫蘭)が咲き始めた。

 バラは2輪目。

 昨年、小さな1年生苗を買ってきたクレマチスのネグスも最初の一輪が開花。去年も咲いたが、今年のほうが花が大きいようだ。

 ロウバイを支柱代わりにしているクレマチスアンドロメダも咲き始めた。

 冬に咲くロウバイは今年たくさん蕾をつけたのに、ほとんど鳥(ヒヨドリ?)に花を食べられてしまい、花がまったく楽しめなかったので、この季節にクレマチスの鉢を根元に置いて、絡ませているのだ。

 先日から咲き始めたクレマチスのマダム・エドワード・アンドレ

 カキツバタの花芽が透けて見える。だんだん上がってきた。

 けさの鳥たち。


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 世界MDカーリング選手権。日本は5勝2敗とプレーオフ進出の可能性が十分にあったが、8戦目、ここまで1勝6敗のフランスに延長の末、まさかの敗戦。両チームともアイスの読みに苦戦し、ミスが出たが、フランスはここぞという時にナイスショットが出て、1点差で日本を破り、2勝目。

 そして、5勝3敗で迎えた日本の最終戦の相手はスイス。6連勝で首位を走っていたが、ここへきて2連敗と調子が落ち気味だったのか、日本が8-7で勝利。この結果、日本は6勝3敗で、7勝2敗で1位通過を決めたノルウェーに次ぐ2位タイで、スイス、エストニア、イタリアと並んだが、これらのチームとの対戦成績の結果、予選リーグ敗退が決まる。まぁ、がんばったほうだとは思う。それにしても、もしフランスに勝っていれば、7勝2敗となり、ノルウェーにも勝っているので、日本がA組1位で準決勝進出となっていただけに、フランスに負けたのが本当に惜しまれる。僕はフランス人がカーリングをやっているのを今回初めて見た気がするのだが・・・。

 とりあえず、今年4人制とミックスダブルスの両方で世界選手権に日本代表として出場した上野美優はこの経験をきっかけに次のシーズンのさらなる飛躍につなげてほしいと思う。今までは世界的には無名に近かったかもしれないが、今回でだいぶ知られるようにはなっただろう。

(きょうの1曲)ROUND TABLE featuring Nino / 夏待ち


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アヤメ咲く

 東京は弱い雨が降り続く一日。

 庭のアヤメが咲き始めた。

 過去3年の開花日を調べてみると、21年が4月23日、22年が26日、去年が15日、今年が24日。去年だけは早かったが、今年は例年通りという感じか。

 スズラン。

 世界MDカーリング選手権。日本は昨日ドイツに勝って4勝2敗。そして、今日は日本の天敵トルコにも7-5で勝利。これで5勝2敗。予選リーグは残り2試合。次はフランス戦、そして最後は現在6勝1敗でA組1位のスイス戦。

 

(きょうの1曲)NATIONAL HEALTH / Clocks and Clouds


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バラとクレマチス

 東京は今日も曇り空で、すっきりしない天気。

 昨日の時点で開きかけていたバラがすっかり開いた。今年最初のバラ。

 昔からある大変古いバラで、挿し木で株を更新したのだが、品種などは不明。

 同時にクレマチスのマダム・エドワード・アンドレも咲き始めた。まだ花弁が開ききっていない。

 世界ミックスダブルスカーリング選手権がスウェーデンエステルスンドで開催中である。日本からは今年の日本MD選手権で初優勝したSC軽井沢クラブの上野美優・山口剛史組が出場。昨年の世界選手権で銀メダルをとった松村千秋・谷田康真組や今季から世界ツアーに本格参戦して大会に出れば優勝というぐらい勝ちまくった小穴桃里・青木豪組、このチーム別世界ランキングでトップ10に入っている二組(4位と6位)を抑えての出場である。

 大会は20か国が出場し、二組に分かれて総当たりの予選リーグを戦い、各組上位3チームずつが決勝トーナメントに出場。

 A組の日本はここまで5試合を終えて3勝2敗の4位タイ。いきなり強豪ノルウェーと対戦して逆転勝利。続くこれも強豪のエストニアには4-7で敗れ、第3戦ではデンマークに8-3で快勝。第4戦は北京五輪で全勝優勝したコンスタンティーニのイタリアに2-8で完敗。そして、第5戦がスペインに7-4で勝利。

 今日はこれからドイツ戦。負けられない相手だ。

 

(追記)日本はドイツに7-5で勝利。接戦となったが、4-4の同点で迎えた7エンド、日本が3点を取って勝負を決定づけた。これで4勝2敗の3位。

 4人制では女子、男子とも3勝9敗の11位と良い結果を残せなかったので、MDでは上位に食い込みたい。

 

 

(きょうの1曲)Cannonball Adderley with Bill Evans / Elsa


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嘉陵紀行「小日向道栄寺・柏木村円照寺 桜のつと」を辿る(後編)

 江戸の侍・村尾正靖(1760-1841、号は嘉陵)の江戸近郊日帰り旅の記録『江戸近郊道しるべ』のコースを辿るシリーズ。今回は今の文京区小日向にある道栄寺から新宿区北新宿(旧柏木村)の円照寺まで歩く。

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 嘉陵が歩いたのは文政三年三月十日(1820年4月22日)のこと。前編では新宿区余丁町の「抜弁天」までやってきた。

 ここから抜弁天通りを西へ向かうが、その北側に旧道が残っており、それが「久左衛門坂」である(嘉陵は若松町から抜弁天方面へ下る団子坂と混同した可能性がある)。路傍に坂の名前と由来を記した標柱が立ち、徳川家康の江戸入り以前から大久保に居住する島田家の久左衛門が開いたことにちなむ名称だとある。このあたりの町名は新宿七丁目だが、昔の東大久保村である。

抜弁天通りから右に分かれて下る旧道・久左衛門坂)

 坂上には慶安元(1648)年創建の永福寺曹洞宗)があり、境内に銅造の大日如来地蔵菩薩の座像が並んでいる。宝永六(1709)年造立の大日如来抜弁天別当で明治初期に廃寺となった二尊院にあったものだと伝えられている。

 境内にはほかにも庚申塔やさまざまな石仏、山の手七福神の寿老人を祀るお堂などがあるが、嘉陵はこの寺については何も触れていない。

 「少し行て天満天神の社あり〔祠正西に向ふ、故に西向天神と云〕、本社は銅をもていらかをふく、幣殿、拝殿は茅もてふけり、寂寞として人の来るを見ず、祠頭に大なる松二十本ばかり、てる日の影ももらぬばかり、梢おひしげり、いと神さびたてり」

 嘉陵は抜弁天の後に西向天神を訪れている。旧東大久保村の鎮守であった西向天神は鎌倉時代の安貞二(1228)年創建という古社で、その名の通り、社殿が西方を向いている。台地の端に位置するため、古くから景勝地としても知られていた。

 久左衛門坂の途中で左折し、抜弁天通りの下をくぐって、まっすぐ南へ行くと、左手の高台が西向天神で、境内にはかつての別当寺、大聖院もある。明治の神仏分離後も寺と神社が同じ敷地にあるのは珍しい。境内には富士塚もある。

 昔は境内に松の木が生い茂っていたそうだが、今はクスノキケヤキが目につく。桜もあるが、まだ若い。

 社殿前の狛犬は宝暦十二(1762)年造立なので、嘉陵が三歳の時からここにあり、当然、彼も目にしただろう。

 「木の間より見れば、西南のかた田の面をへだてて、向ひの山の木だち見わたさる、ながめ又こよなし」

 当時は天神の下は田圃が広がり、その向こうの山の木立が見えたようだ。田圃だった低地を挟んで、すぐ向こうは地形が高くなっているのは今でも分かるが、もちろん、すべてコンクリートに覆われている。その意味でもこの西向天神は昔の雰囲気を残していて、貴重な空間だ。

 西向天神一帯はかつては桜の名所でもあったそうだが、嘉陵が訪れた時にはもう桜の木は社殿の傍らに一本あるのみであったという。

(石段の下は田圃だった)

 境内に残る富士塚

 さて、再び久左衛門坂に戻り、坂を下ると、そこにはかつて蟹川が流れていた。歌舞伎町付近に水源があり、西向天神の下の田圃の中を流れ、大久保から早稲田を経て、神田川に注いでいた川で、加二川とか金川とかいくつかの表記がある。

(ゆるやかなカーブを描きながら下る久左衛門坂)

 

明治13年の地図(赤線が嘉陵の歩いた道)

(現在、久左衛門坂の区間抜弁天通りは勾配緩和、直線化され、北側に旧道が残る)

 蟹川の谷を過ぎて、少し上ると再び抜弁天通りに合流。

 抜弁天通りはすぐに明治通りと交差し、ここから道路名は職安通りに変わる。交差点の地下が都営大江戸線東新宿駅で、明治通りの下を走る東京メトロ副都心線との接続駅になっている。「市谷柳町」交差点付近の牛込柳町駅から若松河田駅東新宿駅と嘉陵が歩いた道の下を現代の大江戸線が走っているわけだ。

 「猶行て百人町〔南中北の三筋あり、こは南町也〕、家々にあるとはなけれど、ここかしこ花あり」

 

 明治通りを過ぎると町名は北側が大久保、南側が歌舞伎町となり、北側はまもなく百人町となる。百人町は江戸幕府の警護に当たる百人組の鉄砲隊(伊賀組)の居住地で、東西に走る三条の通りに沿って南北に細長い短冊状に区切られた土地に屋敷が並んでいた。この区割は今もそのまま残っているが、今ではハングルの看板が目立つ街となり、いつのまにかさらに多国籍化が進んでいる。

 百人町の三本の道のうち、最も南がいま歩いている職安通りである。百人町の出入り口には木戸が設けられ、木戸番が警備に当たっていたというが、天下泰平の時代が長く続くにつれて、鉄砲隊の軍事的重要性は薄れ、副業としてツツジの栽培が行われるようになり、大久保はツツジの名所として知られるようになった。しかし、ツツジ園も都市化の進行により失われてしまった。

 西武新宿線と山手線のガードをくぐり、さらに中央線の線路をくぐって、さらに西へ歩く。小滝橋通りと交差すると、道路名は税務署通りに変わり、町名も北新宿となり、昔の柏木村に入る。

 「西の木戸を出はなれて、人家ニ三戸、ここにも花あり」
 百人町の西の木戸を出れば、当時はすでに江戸近郊の農村地帯であった。小滝橋通りが百人町の西端であったから、ここに木戸があったのだろうか。

 「これより並木の間をゆく、左右ははたなり、七八丁ばかり行て、両岐(ふたまた)あり、南へ行ば淀ばしのこなたへ出」

 当時は両側が畑だった道を行くと、分かれ道。小滝橋通りの「北新宿百人町」交差点から150メートルほどの地点で、北新宿一丁目3番地の先のことだと思われる。ただ、そうすると「七八丁ばかり」というのはどこからなのか、という疑問が残る。ここで右折して北へ入るのが昔の柏木村への道で、左へ行けば青梅街道に合流し、その先に神田川の淀橋があった。

(税務署通りから、ここで右へ入るのが嘉陵の歩いた「畑の細道」だと思われる)

 「畑の細道を北へのぼりゆけば、又七八丁ばかりにして円照寺、門に扁あり、医光山と書す〔佐々木玄竜〕」

 

明治13年の地図(赤線が嘉陵の歩いた推定ルート)

(税務署通から北上する区間はその一本西側の道だった可能性も考えられる)

 

 かつては畑の中の細道だった、今は住宅街ながら、なんとなく古道らしい雰囲気を残す道を北上する。

 やがて交差する道路が大久保通り。百人町の中道だった通りで、現在は百人町を抜け、中野方面へ通じている。

 その大久保通りを渡ると、道は「柏木親友会」という古い商店街になる。ここに昔の村の名前が生きている。

 やがて道は下り坂となり(下の写真で警備員の左側を直進)、円照寺の前に出る。

 門前に「伝説 柏木右衛門桜ゆかりの地」の石柱が立っている。

「寺門の外曲りかどに、もみの大なるが二本、道を夾みてたてり、門を入て左に愛染堂、其前に斜にたちのびたる大松樹一もとあり、右に多羅樹あり、堂の西に薬師堂、其中間に右衛門桜あり、花はや重ひと重とまぢりさく、堂の前に、いち大なるが一本あり、又老木の幹うちきりたるが三もとばかり、若木三四もと、花はみな八重にて、うすいろ也、堂の東に鐘あり〔寛政二年鋳とあり〕、其かたはらに、すぐにたちのびたるもみの大樹あり、高さ凡七八丈ばかり、かこみは三囲みもありぬべし」

 

 当時は寺の入口の両側にモミの大木が立っていたそうだが、今はない。山門を入ると、左に愛染堂があったというが、それもなく、代わりに当時は反対側にあったという鐘楼があり、寛政二(1790)年の梵鐘がある。これは嘉陵が見たものと同じである。当時はまだ鋳造から30年しか経っていなかった。

 今は山門を入ると、正面の本堂の前に枝垂桜があり、まだ美しさを保っていて、写真を撮っている人がけっこういたが、これは新しい木である。姿のよい松もあるが、大樹とはいえない。

 

 そして、右衛門桜であるが、当時は本堂の左に薬師堂があったそうだが、今はその位置に焔魔堂がある。そして、本堂と焔魔堂の間に今も桜の木がある。嘉陵によれば、右衛門桜は八重と一重が交じって咲いていたというが、今の桜はそうではない。

 そもそも右衛門桜とはどういうものか。文政十(1827)年に刊行された『江戸名所花暦』(岡山鳥著、長谷川雪旦画)によれば、「薬師堂の前にあり。花形大りんにして、しへ長く、匂ひ茴香(ういきょう、ハーブのフェンネルのこと)に似て甚高し」とのことで、右衛門桜の名前の由来はこの桜を愛した武田右衛門という浪人が老木となって枝が枯れているのを見て、若木を接ぎ木したところ、樹勢が回復し、花もかつての色香を取り戻したことから右衛門桜と呼ばれるようになり、「幸なるかな、所を柏木村といへは、源氏の柏木右衛門に因て名高き木とはなれり」という。柏木村の右衛門桜が『源氏物語』の登場人物・柏木衛門督(ゑもんのかみ)と結びついて、ことさら有名になったということなのだろう。その右衛門桜は昭和初期に枯れてしまったという。

 嘉陵は円照寺の桜の花の美しさを楽しんだかと思いきや、当日は本堂の茅の葺き替え中で、境内には茅のくずや芥が散らかり、桜の梢にまで足場の木が立てかけてあるといった有様で、「あまりに心なきわざなめり」と嘆いている。

 

 嘉陵は浜町まで歩いて帰ったわけだが、僕は新宿駅まで歩いて、電車で帰る。