成人

 先日、21歳の誕生日を迎えた。成人してから丸1年が過ぎたが、未だに自分が大人になった自覚がない。お酒も飲むし、献血もする。選挙にだって行った。街を歩けば風俗の客引きに声をかけられる。それでも、まだまだ子供のままの感覚である。
 自分の中での大人の定義は曖昧だ。大人は万能選手だという発想は、成人式の会場でゴミ箱に捨ててきたはずだ。それでも「このままではいけない」という漠然とした焦燥感は消えなかった。感情にまかせ、手当たり次第に知識を貪った。背伸びをしてでも、大人と同じ土俵に立ちたかったのだ。
 しかし、知識は僕をほんとうの大人にしてはくれなかった。たしかに以前より大人に近づいた気がしたが、本質ではなかった。必要なものが何なのか。まだ答えは出ていない。
 たぶん、死ぬまで「大人」は完成しないのだろう。「大人」とは、一つの理想の形なのかもしれない。だとしたら、いつまでも、「大人」を追い続ける大人でありたい。

指導

自分がまだ子供だったころは、親や教師というものは基本的には何でも知っていて、大抵のことは何でも出来るような存在だと思っていた。成人した時の自分自身を考えた時にはそれが間違いだったと気付いていた。今、子供に指導する側に回って、もっともっと成長しなければならないと焦っている。
しかし、人に物を教えているだけでは、相手に与えられる知識はあまり増えない。自分から新しく何かを学ぼうとしなければ、知識量というのは増やせない。その努力を怠ってしまうのは、指導する側としては失格では無いだろうか。
先日、芥川賞に史上最年長の受賞者が出た。このことは私たちに、年を重ねても成長することができるという希望を与えてくれた。
社会に出て、その忙しさに甘えて、日々の最低限のノルマをこなすだけではいけない。指導とは自分自身を切り取って与えることに等しく、指導する側は絶えず自分自身を磨き続け、その質をよくしなければならない。

担当者:ナスカ

 私が小さいころは、両親の手を焼かせる子どもだった。よく口ごたえをし、危ないことをしたものだ。おかげで、何度げんこつや平手をもらっただろう。
 両親の一発には絶対的な権威があった。その前では、自分は悪いことをしたのだと、認めざるを得なかった。流した涙のほとんどは、どうすることもできない悔し涙だった。そのとき私が考えていたのは、反省ではなく「殴った親をどうしたら見返せるか」という当時の私なりの復讐方法だったと記憶している。幸い人の道を踏み外さずに今も生きているのは、私の復讐が成功したのか、躾のおかげか。
 大阪の高校で起こった体罰事件が、連日メディアを騒がせている。体罰も指導方法のひとつだという人もいるが、指導と躾は違う。相手も、園児や小学生ではない。物心がつき、もう一人前になろうかという高校生である。話せばわかる相手ではないのか。私たちは、体罰という前時代的な指導方法の存在について、いま一度問いなおす必要がある。

担当者:みっちゃん

雄弁

お店や施設、電車やバスの中で、泣いたり騒いだりしている子供を見ると、うるさく煩わしいものだと思う人もいるかもしれない。だが、私はそれをとても喜ばしいことだと思う。
 それが泣いている赤ん坊ならば、社会のルールや他人の気持ちなどもちろん考えもしないだろう。彼らが泣くのは親に何かを伝えるためである。周りは泣くだけ元気なのだと喜びはしても、煩わしく思ってはならない。
 それが大声で何かを親に話している子供ならば、確かに静かにするという躾くらいは必要だろう。ただ、よく喋る子どもというのは、それだけ常に物事をよく考え、それを親、つまり他者に伝えようとしているのだ。その姿勢や力は将来必ず役に立つだろう。「喋るな」といってしまうと、人に何かを伝える力を失うことに繋がる。
静かにすべき時や場所など後で覚えればいいのだ。子供はやかましく、雄弁であれ。大人は黙ってその健康と将来を喜ぼうではないか。

担当:ナスカ

イヤホン

 イヤホンして街を歩く。耳から流れ込む自分の世界は、誰にも邪魔されない。頑張る人には活力を与え、疲れた人には安らぎを与える。そんな音楽の効能を、いつでも享受できるようになった。自分の好きな音楽を聞きながら過ごす時間は、私の特効薬である。
 一方で、音のない環境が欲しくなることもある。そんなときはイヤホンを外して、静かな裏通りを歩く。耳が痛くなるほどの静けさに身をひたすと、どこか身が洗われるような気分になってくる。音楽が特効薬としての価値を持っているからこそ、静寂は何よりの贅沢になるのだろう。
「沈黙は金、雄弁は銀」という言葉がある。人間の話す言葉だけではない。全ての音について当てはまるのではないか。イヤホンを外して街を歩けば、猫の鳴き声やどこかの家から聞こえるピアノなど、新たな発見があるかもしれない。自分の世界は居心地が良いが、閉じこもっていてはもったいない。イヤホンを捨てよ、街へ出よう。

担当:みっちゃん

2012

テーマ:2012
担当:みっちゃん

 両想い切符をご存じだろうか。切符についている四桁の番号の千の位と一の位の数字が同じ場合、百の位と十の位で表された数字が意中の人と両想いである確立を表す、という遊びだ。
先日、私が買った切符がたまたま今年の西暦「2012」であった。先の理屈でいうと、両想いの確立は1%。かなり望みは薄い。
しかし、1%という数字も馬鹿にはならない。100回挑戦すれば1回は当たる計算だ。つまり、意中の相手に100回アタックすれば、1回くらいは了承してくれるのではないか……というのはあくまで数字上に過ぎない。実際はそんなに甘くない。3回目くらいで平手打ちを食らうのが関の山だ。
しかし、これを怖がってばかりはいられない。「肉食女子」に脅かされる今日、受け身の「草食男子」でいては、両想い切符の結果に振り回されるばかりであろう。そんなものに一喜一憂している場合ではない。今、日本男児の心意気が試されている。

2012

テーマ:2012
担当:ナスカ

2012年。私はコンビニで3時間超、塾で2時間働かせて頂く度に、何度も2012円を頂
いたことになる。
2012円で私は何をしただろう。私は好きなラーメンを3杯食べられた。文庫本を4冊
買えた。ちょっと音質のいいイヤホンも1つ買った。
2012円で私は他に何ができたのだろうか。家で寝ていた休日、1度くらいどこかへ電
車で遠出ができたのではないか。母の日、しばらく帰っていない実家の母に、花くらい
贈れたのではないか。お世話になった人と、お酒の一本くらい飲めたのではないか。
2013年、私は稼いだ2013円を何に使うだろう。使わずに貯めるのだろうか。夕飯を
少し贅沢にするだろうか。本を衝動買いしては、読まないまま積み重ねてしまうだろう
か。うっかりイヤホンを踏んで壊して、また買い直してしまうだろうか。親に感謝の気
持ちとして、何か贈れるだろうか。2013円で何をしよう。誰と、誰に何ができるだろ
う。考えるのはとても楽しい。