ポストモダンというエクリチュール的虚像世界

パロール(会話)的コミュニケーション

コミュニケーションとは、自分の抽象的な心象を、交換し合う行為であり、コミュニケーションしたい欲求が先にあり、うまく伝えるとは、相手の内面(心象構造)をよく理解して、相手に会わせて言語という道具をうまく活用しようとする。ここには共有し合いたいという強い欲求である。

すなわちパロール(会話)的コミュニケーションは以下のように説明することができる。
パロール的コミュニケーション・・・・主体心象→言語→客体心象」
主体が自分の中に生まれた心象を客体に伝える場合、主体は的確に自分の中に生まれた心象を伝えるということは、客体の中に主体の心象がより的確に再現されることであり、そのためには心象構造を理解し、言語が発せられる。
たとえば、主体に「くやしさ」のような心象が生まれ、それを客体に伝えるために「おれはくやしい」という。これは社会的な言語意味による言語の使用方法である。また客体に対して様々な罵倒「糞!ボケ!死ね!」など発話することにより、的確に客体に「くやしさ」の心象が再現される場合もある。これは言語の社会的な言語意味から離れた伝え方である。パロール的コミュニケーションにおいては言語はコミュニケーションツールであり、言語の社会的意味と離れた意味で言語は使われる。言語学において、社会的意味をデノテーション(外示)、社会的意味と離れ多様性をもつ(多義性)意味を=コノテーション(共示)という。
ここで言語が多義的な意味をもつならば、そもそもコミュニケーションなど可能なのか?と言う問題がある。すなわち、コミュニケーションにおいて、無数の意味から一義的な意味を決定するものは何かと言うことである。
これは主体と客体の相互理解である。主体は客体の心象構造を理解し、客体は主体の客体を理解することにより、多義的な意味は、一義的な意味へ選択される。しかしこのような相互理解は往々にして錯覚であり、そのためにコミュニケーションには多くの誤解が生まれるのである。そのような誤解を修正しながら、主体と客体は相互理解を深めながら、コミュニケーションの正確性を高めていくのである。

エクリチュール(書かれたもの)的なコミュニケーション
次にエクリチュール(書かれたもの)的なコミュニケーションを、パロール的コミュニケーションと比較してみる。
手紙を考えてみよう。たとえば手紙の送り手(主体)と手紙の受け手(客体)が相互理解されている場合には、パロール的なコミュニケーションが成立している。
パロール的コミュニケーション・・・・主体心象→言語→客体心象」
しかしこの手紙が、第三者(主体、客体を知らない)に迷い込んだ場合にはどうだろう。
「第三者的コミュニケーション・・・・?→言語→客体(第三者)心象」
主体を失ったコミュニケーションにおいては、客体(第三者)の心象は混乱する。それは言語の多義性から一義性への選択のための情報(主体心象)が決定的に欠落するからである。たとえば、手紙に「糞!ボケ!死ね!」と書かれていた場合には、まずはそれは社会的な意味(デノテーション(外示))で読まれ、そしてさらに多義性からの選択は、客体(第三者)にゆだねだれる。
エクリチュール(書かれたもの)には、根元的特性として、このような「引用可能性」がある。すなわち主体を離れて、自由に引用され、解釈されるのである。エクリチュール(書かれたもの)のこの断絶力は、時間を、空間を越えて生き続けることを可能にする。この特性は、多義性という虚像をはらみ、客体に混乱と選択を要求するのである。

「迷い込”ませた”手紙」
しかし現代において、この第三者的コミュニケーションは、「迷い込んだ手紙」ではない。現代世界は複写技術に支えられた、主体から離れた言語=「迷い込”ませた”手紙」で溢れている。さらにそれはエクリチュール(文字)でさえないもない。これは記号であり、エクリチュール(文字)的「引用可能性」をもつものであり、主体を”隠して”、解釈”させる”ものである。それはマスメディアを中心とした、視覚的には「書籍、写真、映画、TV」、聴覚的「ラジオ、CD」、体感「ゲーム」などなど
「迷い込”ませた”手紙」とは、エクリチュール(書かれたもの)の断絶力を使用して、「第三者的コミュニケーション・・・・?→言語→客体(第三者)心象」を演出する。すなわち「迷い込”ませた”手紙」においては、主体は客体心象を理解しているが、客体からは主体心象を隠蔽するのである。たとえばマーケッティングでいえば、広告主(主体)は大衆(客体)心理を研究し、大衆内に広告主が意図する心象が生じるように記号を発信する。しかし大衆からは広告主の心象は隠蔽するのである。心象を隠蔽するとは、記号意味は二重構造を持つことになる。バルト的な意味でも、デノテーション(外示)とコノテーション(共示)である。
ポストモダンでは、複写はマスメディアを介在する一部特権者が持っているものであり、このような心象を隠蔽するとは、記号意味の二重構造を物量に任せて大量に配布する。大衆は大量の「迷い込”ませた”手紙」の前で、知らず知らずに選択させられている。たとえば、タバコの広告にビーチの写真が使われていれば、その写真の写っている意味(デノテーション(外示))は、「ビーチ」であり、写っている以上の意味(コノテーション(共示))は「タバコの悪いイメージを払拭するさわかやさ」である。

ポストモダン的大衆虚像価値
記号意味の二重構造は、「心理学化」と言われる現象ととらえられ、そのような中で大衆も「心理学化」するのである。たとえば、
SEXそのものに満足するのではなく、(AV的)SEXしている自分に満足する。
恋愛そのものを楽しむのでなく、(ドラマのような)恋愛をしている自分に満足する。
洋服そのものを楽しむのでなく、(雑誌にのっている)洋服を着ている自分に満足する。
これはマスメディアが演出する「大衆虚像価値」が前提としてある。そして「大衆虚像価値」というものがあり、大衆全体が目指していて、そして自分は回りに人よりも先にいっているというところに満足がある。これが「記号消費」と言われるものである。
このような「大衆虚像価値」に基づく虚像化は進んでいる。たとえば、恋愛という「記号消費」の元では、恋愛の相手も自分の価値のアクセサリーになる。ならばそれは二次元でもいいのである。そして二次元が往々にして、ロリコン化されているのは大人にはリアルな設定が必要である(たとえば就職は男性経験はとか人生が必要になる。)のに対して、高校生なら高校生と言うだけで済み、虚像化しやすい。またこれはコスプレ化というものにも繋がる。虚像化しやすい記号である。