なぜ日本人のコロナ対応だけが法よりも同調圧力なのか

コロナ対応のさまざま

 

世界的にはほぼ西洋人タイプか中国人タイプになる。なんで唯一日本人だけが変わってるのか。

<西洋タイプ>

憲法の非常事態に基づいた行動制限法、違反したら逮捕。要請したって守るわけない。法律を制限しても暴動起こして反発する

<中国タイプ>

要請なんて絶対無視。法律でも守るか怪しい。だから共産主義権力で、厳しく逮捕、拘束、罰金、資格剥奪。法律に則っているかも怪しい圧力。

<韓国>

一番日本に近くで世間圧が働く。でもあそこも国家権力が強くて法律はしっかり作って守らないものは行動をネットで公開されるとか見せしめやってたね

<日本>

なんか緩いコロナ関連の法律作ったけど使ってないだろう。国家圧力も別にない。なのに世界で一番コロナ対策を行われた。同調圧力と言われる。同調圧力だけで国を左右する国

 

社会系倫理と世間系倫理

 

日本には、社会系倫理と世間系倫理があると言うこと。社会系はようするにこれ法律に基づく法治、ある程度世界標準。

では世間系はなにか?コロナで、日本は欠陥憲法のために非常事態宣言が出せなかった

法的な拘束力持つ私見規制が出せなくて、緊急事態宣言と言う、お願いベースしか出せなかった。

でも日本人は世界一のコロナ体制を取れた。みんなマスクして、外出自粛した。なぜか?世間系倫理が働いたから。同調圧力と言われたけど、その大元は世間系倫理。世間のために、世間が求めるから。

たとえばモリカケさくらの安倍叩き。あれば社会系倫理では問題がない。なにも法に触れてない。かつてのロッキード事件のように明らかに賄賂をもらってたら裁かれるがそれがないのは野党も認めるところ。忖度を禁じる法はない

でもあれたのは世間系倫理。そう野党は法的に問題ないことはわかって、世間系倫理に訴えた。忖度と言う言葉は世間系倫理用語。

面白いのは左翼は本来世間系倫理を認めず社会系倫理、すなわに法を重視する立場なのに世間系倫理使って世間を訴えて同調圧力を促した。そこまでやってなんとしても安倍叩きをしたかった。

左翼は、社会系倫理を重視する立場、世間系倫理という曖昧で日本ローカルなものはできるだけなくす立場。保守、右派は、当然法治国家なので社会系倫理がベースだか世間系倫理も大切にする立場。

日本人はコロナでわかるようになんだかんだ言って世間系倫理を重視している。頭では社会系倫理が大切とわかっていても。だから自民党が安心する。自民党を支持すると言うよりも、心が安心する。

 

世間と社会

 

いまでは世間はすっかりマイナスイメージ。社会は民主的で平等なのに対して、世間は曖昧で古くて抑圧的で薄情。しかし世間が生まれた江戸時代は世間は良いイメージだった。「渡る世間に鬼はなし」世間は公平で弱者も救われる。さらにとても倫理的な意味を持つ。世間には恥じないように生きることが大切なことであった。

それがネガティブに変わるのはまさに明治にソサエティ翻訳語として社会が生まれて西洋的倫理を持つことで対比として世間は貶められた。

世間とはもともと仏教は用語で世界のこと。すなわち日本人が世間的と言うとき、日本人は世間という仏教的な倫理が作用する世界を生きてる。それは江戸時代の長い平安の中で成熟した。

 

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 要するに、西鶴が(永代蔵で)いうには、この世にある願いは、人の命をのぞけば、金銀の力でかなわないことはない。夢のような願いはすてて、近道にそれぞれの家業をはげむがよろしい。人のしあわせは、堅実な生活ぶりにある。つねに油断してはならない。ことに「世間」の道徳を第一として、神仏をまつるべきである。これが、わが国の風俗というものだ、ということである。

そもそも商売は、町人にとって生涯の仕事であり、親子代々に伝える家業であった。西鶴は、自分と家業との関係において、家業にはげみ、諸事倹約をまもるこの必要性を説くいっぽう、<家業>と<世間>との関係において、「世間」の道徳にしたがうことの必要性を説いているのである。

・・・西鶴の作品には、「世間」を道徳基準のよりどころとするような表現がなんと多いことであろうか。たとえば「世間並に夜をふかざす、人よりはやく朝起して、其家の商売をゆだんなく、たとへつかみ取りありとも、家業の外の買置物をする事なかれ」、というふうにである。P60-66

 

「世間体」の構造社会心理史への試み 井上忠司 講談社学術文庫 ISBN:406159852X

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西洋の歴史、哲学を語られるとき、キリスト教と切ってはきれないことは常識だ。しかし日本人を語るとき仏教との関係が語られることが少ないのは何故だろうか。日本人を分析するときでさえ、西洋哲学や、西洋心理学で語られるのはほんとに滑稽だ。そしてほんとに多くの日本人分析の滑稽本が作られて来た。簡単には西洋中心主義のドグマに捉えられた日本人。明治時代以降いまにいたるまで。

しかし本質は決して乗っ取られてはいない。国難となれば作動するのは世間倫理。そして世界で最も日本人に批判的な民族は日本人。ここに仏教の無我が流れている。そして同調圧力の源泉。その否おいて決して満足せず止まらず、勤勉に進み続ける。

 

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大乗仏教の根本原理を「即非の論理」と呼んでいる・・・例えば、「世界は即ち世界に非ず、是世界なり」、また「微塵は即ち微塵に非ず、是を微塵と名づく」等である。これを一般的な形式に引き直すと、「甲は甲であると言うのは、− 甲は甲でない、故に甲である」という方式になる。・・・肯定が否定で、否定が肯定だということになり、普通の論理ではとうてい承認され得ない非合理であり、常識外れも甚だしいと言わなければならない。それにも拘わらずこの即非の論理が、仏教的思惟の根本なのである。

仏教では、物の本然、物の真実或いは物の「在りのまま」の存在を「如」或いは「如々」と呼んでいる。即非の論理は、定立(肯定)されている概念をいったん否定し、この否定を経てもう一般肯定に戻ったときに初めて、その概念に対応するところの物が真実にとらえられると言うのである。

 

「日本的霊性」 鈴木大拙 ISBN:4003332318 P257-258

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なぜいまのコロナ対応は贅沢品なのか

今日の感染者数という謎の指標


コロナはすっかり1日に発見された感染者数が最も重要な指標になった。世界各地で免疫検査されて統計的に住民の数十パーセント、百万人規模が感染していると公表されてる。日本だけが例外とは考えにくく発症していない人も合わせて少なくとも数十万人単位で感染していると考えられる。すると1日に発見される感染者数はたまたまそのときに検査で見つかった人の数でしかない。

しかしそういう話しを専門家も、政府も、マスコミもしない。今日の感染者数だけが語られる。すでに何十万人規模が感染して、死亡者が百人単位ということは致死率はインフルエンザと同等かそれより低い。インフルエンザは毎年何百万人単位で感染して数千人以上の死者がでる。

このようなことは当然知っているだろうが語らない。自粛だ、緊急事態宣言だ、ここまで国家レベルで盛り上げて、いまさら実はインフルより軽いウィルスでしたと、言うことはできないんだろう。じゃあ、この大騒ぎの責任は誰がとるんだと。ここまで来たら、国難であることで押し切るしかない。マスコミも、専門家も、政府も暗黙の合意ができてるんだろう。

さらには多くの国民も暗示にかかってる。このバニックになった状態で、いまさらインフルエンザよりも軽かったと言われても受け入れられないだろう。コロナはインフルより未知でなにが起こるかわからないと洗脳された心は安易に事実を受け入れられない。くしくも戦争前の日本に似ていると言った人がいた。現代では戦争は軍部が悪かったと言い訳をしているが一番後押しをしたのは国民だ。みんなやる気満々だった。


なにが守られてなにが犠牲になっているのか。


死者500人、8割が高齢者。これらの人たちを守るために、おそらく何十万人単位の雇用が危険にさらされている。つぶれた会社、失業は簡単に回復せず、特にその影響は今後も尾を引き、何百万人規模で影響を受けるだろう。

目先心配なのは中小企業だ。2カ月収入がない。でも従業員への給料、家賃、投資への返済と支出は変わらずある。政府の補助がどこまで機能してるのか。

正社員も安心してられない。いまだに日本ではサービス残業など過重労働が問題だと思っている人がいるが、実際は企業は従業員の残業を減らしたがっている。日本は一人当たりの生産性が低いことが有名だが、その一つの要因が企業が抱える過剰な労働力だ。日本は労働組合が強く風土的に正社員をやめさせにくい。さらに日本人は仕事に自らのアイデンティティを求めるために仕事好きで管理しないとどんどん残業する。このために生産物に対して労働コストが高く生産性が低くなる。

国難とされるコロナ対応での企業業績の悪化はこのような慣例を変える可能性がある。コロナ対応を口実に解雇しやすくなる?さらに社外活動の抑制、テレワークなどで仕事が制限され、従業員が仕事から切り離されている。それでも会社が回ることで、本当に必要な仕事は何か、必要な人数は何人か、選別が行われる。

いまのコロナ対策を続ける意味があるとすれば、死者の規模が日本と二桁違うとはいえ、欧米がコロナ対策をしてるのに日本だけしないのは格好がつかない、遅れた国と言われる、収まったときに日本はコロナ放置国家として観光客もこなくなる、オリンピックも開けなくなる。そしてなにより日本で経済活動を続けようにも経済はグローバルだから世界がこの状態じゃやりようがない。なら対外的に見栄え良くする方がよい。政府としてはこの当たりが一番の本音かもしれない。


コロナ対応という贅沢品


こんな前例が作られると今後はどうなるのか。インフルは毎年何千人規模で死者が出る。これから同じような恐怖となるのか。コロナはインフルと同じで絶滅されないだろう。ずっと一定数広がり続ける。コロナ後、人びとは恐怖を生きるのか。こんなことを続けていれば経済的危機がやってきて多くの人の生活が脅かされるだろうから、その時にはじめて、コロナの恐怖と実生活の貧困とのバランスを理解するんだろう。

いまのコロナ対応は簡単に言えば贅沢品だ。豊かさ、経済的な余裕の中で、安心して恐怖することができる。真に貧困が蔓延すればこんな贅沢なことを言ってられない。それより生きなければならない。マスクがないというのと良くわからない。30分もあれば自分で作れるだろう。ネールに何時間もかけてるんだから。

街はほんと穏やかだ。ニュースやネットでのヒステリックが嘘のようだ。こんなに穏やかな街の空気は初めてかもしれない。家族連れが多くてなんかみんな仲良く見える。他の人と会えないし家族で助け合うみたいになってるのか。家族という単位が復活してる感じ。心なしか父親が頼もしく見えるしすごく穏やかにみえる。歴史的な日本の休息と言う感じがする。

■なぜIZ*ONEはガールクラッシュをやらないのか


韓国の女性アイドルグループは、「ガールラブリー」と「ガールクラッシュ」に二分されると言われています。
女の子らしい可愛らしさを打ち出すのが「ガールラブリー」で、主に男性ファンをターゲットとしています。
少女時代やTWICEといったグループはガールラブリーと言えますね。
一方、今回ご紹介する「ガールクラッシュ」は、女性から見て憧れになるような格好良さを打ち出すアイドルです。
強い意思を持った歌詞やMVの楽曲や、ハイセンスなファッションで女性ファンを抱えています。
韓国の歴代ガールクラッシュアイドル今で言えば、BLACKPINKがガールクラッシュアイドルの代表です。


BLACKPINKが代表格?韓国アイドル・K-POPガールクラッシュの歴史を解説!
http://kpop-chige.tokyo/girlcrush/

世界的な大きな流れとして、リベラルの人権向上というのがあって、LGBTなんかはわかりやすい例だけど、その中心の一つが女性の人権向上。

音楽の世界なんかはもともとメッセージ性が強くて、女性のアーティストで強い女性を表現するのは常識。

それが唯一当てはまらないのが日本。日本の女性アイドルは世界的なリベラルの流れからすれば、人権侵害でしかない。

日本人の女性は世界的にも不思議な存在で、別にアイドルでなくても、女性の多くが無意識ににかわいいを演出して、人と話すときに鼻声、歩くときは内また気味など、世界の女性が見ても不思議な存在。

最近は、世界で日本の可愛いが人気があるが、日本とは使われ方が少し違うように思う。世界的に受け入れられているのは、日常的に求められる強い女性への反動、あるいはあえて可愛いことを演出することでの逆説的だか自己主張することの強さ。ようするにメタ可愛い。

IZ*ONEでも明らかに韓国メンと日本人メンの違いがある。日本人メンはおしとやか、韓国メンはぶっきらぼう。ミンジュが日本人に人気があるのは日本女性的な弱々しさがあるからだろう。でも韓国メンからは弱いといじられる。

IZ*ONEのコンセプトは、K-POP女性アイドルの中でも、日本市場を意識して、可愛さを演出している。TWICEも同様な立ち位置だが、IZ*ONEはAKBとの合同ということからより可愛いより。

だから韓国メンも日本人的な感性に近づけるように頑張ってるんではないだろうか。

韓国でのIZ*ONEが女性人気が低いのはそのため。可愛すぎるということだろう。

韓国は世界的なリベラルの流れとは別に、1990年に民営放送設立自由化が行われたように、90年代以降に民主化が進み、まだ日が浅くて、なにかと人権に敏感だ。上からの抑圧に対して過剰に反応する面が強い。反日もそこから来ている面がある。日本は今も権力の象徴として位置づけられている。

IZ*ONEの韓国での女性支持の低さが、認知度の低さやCD販売数の強さに対するストリーミングランクの弱さにつながっているのではないかと思う。やはり女性人気はどの国でも拡散力として大きい。

日本でも活躍した韓国女性タレントによくあるのが、韓国での活動が中心になると、途端に反日、強い女性を演じる。日本での可愛さ人気は日本以外ではなかなか通用しない。IZ*ONEの韓国メンの何人かもそうなるのだろう。

なぜ令和は激動の時代となるのか(テスト)

これから訪れる弥生時代以来2000年の激動の大移民時代を考えると、 1000年後、平成は最後の 日本の古き良き時代と言われるんだろう。 そして令和は象徴的だ。移民たちと令を持って和を勧める。

 

かつて「甘えの構造」がベストセラーになった。甘えという言葉は英語にはない。西洋人が自立を重視するのに対して、日本人は江戸時代から義理人情など甘えの文化であり、西洋人のように自立すべきだというようないう日本人批判の書。作者は心理学者だ。まさに心理学は西洋中心主義の学問だが、いかに公平が担保されているかわかっていない。

自立的主体は、自由と平等により公平のバランスが取られている社会における理想像だ。日本の場合は、贈与返礼により公平のバランスが取られる。困っている人がいれば助ける、自分が困っていると助けてもらう。贈与と返礼は通常、顔の知った範囲で強う働く公平だが、日本の場合は世間という広域で贈与返礼が働く特異は社会だ。これを可能にしているのが仏教から来ている慈悲だ。

仏教はインドの強い階級社会での階級間の対立、あるいは国同士の争いなどを乗り越えて公平を生み出す仕組みだ。仏教の基本の慈悲は本来、身近な人に働く贈与返礼を広域で働かすことを説く。身近に人に贈与すれば困ったときに返礼してもらえる可能性は高い。しかし見知らぬ人に贈与しても返礼は期待できない。しかし慈悲では見知らぬ人に贈与しようと説く。そこにあるのは無我である。我にこだわっていては見知らぬ人に贈与する発想は生まれない。無我により可能になる。そうすれば、小さな贈与返礼のバランスで維持された小さな共同体は広域に広がる。しかし実際、リスキーだし、かなり高い精神性が必要だ。それもあって現代では仏教は世界的に廃れている。

日本人は聖徳太子時代から、仏教により土着民族から高度な精神性を構築してきた。そして江戸時代には庶民レベルにも広がり、広域の贈与返礼、義理人情を公平を方法論として組み込んでいた。キリスト教にも慈愛という卑近な贈与返礼を広域へ広げる教えはある。そして現代もボランティアや日本よりも遥か高額な私的基金がある。そこには弱者救済の面が強い。慈悲は弱者強者さえも乗り越えて贈与返礼する。仏教では慈悲は手段の1つではなく、慈悲の宗教である。

人間の最高難度の精神性である慈悲が日本で成立した奇跡には、仕掛けがある。一つは島国に閉じ込められた疑似単一民族であること。原理的に慈悲は世界中の人間を公平とする、これはあまりに難しい。しかし日本の場合は、日本人のみと言う限られて中で試行された。さらに江戸時代に慈悲の方法として勤勉が発明された。ただただ見知らぬ人に贈与するのはさすがに難解すぎる。江戸時代に、職を通して慈悲を施すという発明を行われた。わざわざ慈悲をすると考えなくても、懸命に勤勉に働くことが慈悲行なのである。みんなが勤勉に働き少しでも世間の役に立つ、こうして世間という広域の公平は担保される。それを大きく推進したのが敬虔な仏教徒でもあった徳川家康である。

再度言えば、勤勉は西洋でもプロテスタンティズムの天職として、資本主義の立ち上げに貢献した。現代では自由と平等により公平を維持することを重視する。

柄谷は、3つの交換様式を定義し、現代でもこの3つが働いているとした。

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交換様式A:贈与返礼という互酬交換 共同体、ネーション
交換様式B:再分配 国家
交換様式C:商品交換(貨幣と商品) 資本
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さらに、資本主義を乗り越える社会主義において、交換様式Dを想定した。アソシエーションでは交換様式Aが広域化する交換様式D。これは仏教の慈悲であり、日本では日本内という限定的だがすでに実現されている。

江戸時代に成熟した世間という勤勉によるアソシエーション。明治に入り危機を迎える。西洋近代化により、西洋と同じように自由と平等により公平維持しよう社会変革が進められるが、西洋の近代化と同じく、資本家と労働者という格差が拡大する。そこから西洋では共産主義国家が生まれてきたが、日本は昭和維新以後、国家社会主義として、江戸時代からの勤勉によるアソシエーションへ回帰する。それは当初、軍事国家として活用されるが、戦後は経済発展の推進力となり、いまや世界有するの先進国と発展した。

日本で奇跡的に慈悲の公平を成功させたのは、島国であることが、大きかったが、現代ではどうだろう。相変わらず日本人は日本にこもりがちだ。慈悲の公平の快適さで育つと、その外に出ることは大変だ。

では日本人の慈悲はエセで、単に日本人だけのものだろうか。世界的に日本人は、礼儀正しく、真面目で、勤勉なことは誰もが認めることだ。そして実際に海外に多く侵出して、日本イズムとでも言うべき、勤勉さで地域貢献してる。しかし実際、それは他国に比べて多いとは言えない。そこが日本人の発明した勤勉による慈悲の素晴らしいところだ。日本人の勤勉は直接、相手に働く必要はない。日本にいても、勤勉に働けば広域に贈与することができる。たとえば日本人の勤勉により発明された家電製品は世界中に広がって人々を豊かにしている。確かに原理的な発明の多くはアメリカであるが、そこに日本人は慈悲を注入する。高い品質、効率、使いやすさ。

最近はITでジョブスなど多くのカリスマが生まれて、世界的に貢献している。しかし日本の無名の勤勉はそれに劣るだろうか。世界に広く売っているのは韓国、中国かも知れないが、そこに組み込まれているのは日本の慈悲である。それが世界の公平を担保するにはまだ遠いが、資本主義の自由と平等による公平だけでは維持できない公平のために、革命を起こそうとしている。

闘いはこれからである。大量の移民の受け入れで、日本の慈悲による公平は維持できるか。そして移民がそれを学びまた世界に広げていけるか。真の日本による世界革命が始まる!

なぜ日本人の性はゆるゆるなのか


新潮45「そんなにおかしいか杉田水脈論文」の内容が凄まじい「性的嗜好について語るのは迷惑」「LGBTはふざけた概念」 http://lite.blogos.com/article/325875/?axis=&p=2


小川氏は「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」というタイトルで、「性的嗜好(編集部注:本文ママ)についてあからさまに語るのは、端的に言って人迷惑である」、「極端な希少種を除けば、性には、生物学的にXXの雌かXYの雄しかない」などと主張した。論の後半では、「LGBTの生き難さは後ろめたさ以上のものだというなら、SMAGの人達もまた生きづらかろう」と、自身の造語であるSMAG(サドとマゾとお尻フェチと痴漢)を例に出し、

「ふざけるなという奴がいたら許さない。LGBTも私のような伝統保守主義者から言わせれば充分ふざけた概念だからである(中略)彼ら(編集部注:痴漢症候群)の触る権利を社会は保障すべきではないのか。触られる女のショックを思えというか。それならLGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ、精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく」




日本人の性はゆるゆる


日本人はもともと性には寛容な民族だからね。乱交、夜這い、買春、男色、幼児性愛、子供の性欲。目くじら立てない。日本が性には不寛容になったのは、近代にキリスト教の性倫理が入ってきてから。現代の処女信仰や、純愛、童貞率の高さは、根はキリスト教倫理の屈折した影響にある。とは言え、いまだにオタクロリコンとか、グラビアをどこでも見られるとか、西洋に比べたら全然性に開放的なんだけど

というか、基本的に世界的にはキリスト教の性倫理の厳しさが異常で、世界的な性的禁欲はキリスト教に根があると言ってるいいでしょ。仏教でも、儒教に比べても、キリスト教の性への厳しさは異常さ。同性愛者の西洋での扱われ方はひどかったよね。基本は犯罪者で、逮捕されて薬付けで廃人にされて戦後、同性愛者も立ち上がって今では市民権を得たけど

たとえば日本人はアメリカ人の方が性に開放的でゆるくて日本人は真面目だと考えている。この間違いがどこから来るか。キリスト教もかつては童貞を推奨した時代もあったが、子孫繁栄を考えたら馬鹿げてる。だから彼らは性の正常、異常で考える。正常な性とは生殖のための性。すなわち大人と大人の純愛。それ以外は異常だから排除。逆に大人と大人の生殖、純愛を前提にときだけは開放的でも言い。この前提で日本より開放的に見える。でもそれ以外、浮気、同性愛、子供の性、そして一番は幼児性愛は病気で犯罪。R指定も大人だけが楽しむように規制される。

それに比べても、大人の性の開放だけは負けているが、日本は性全般に寛容。ゆるゆる。世界では西洋キリスト教がスタンダードだから、日本の性のゆるさにも圧力がかかってる。特に幼児性愛。児童ポルノ、援交などもっとしっかり取り締まれ。外圧でロリコン取締法もできた。まだほぼ機能していないけど。




豊かさと倫理の相関関係


日本では人権派は人気が無い。そもそも性には寛容だし、人権派は嫌いだし、LGBT運動は盛りあがらないでしょ。ミートゥーとかも。政治的リベラリスト人権派、政治的左派、平等主義。日本は公平の文化があるから、人気ない。

人権派、平等主義は、社会的な背景とかよりも、とにかく個人の平等。人権リベラルは、平等主義なんだけど、女子供やマイノリティは存在そのものが弱者で平等のためには、救済が必要という考えだけど。社会的な背景を無視して、平等が強制されることがある。平等主義は伝統的な文化を破壊する面がある。平等主義って行きつくと、個人主義、自己責任、さらにお金の分配論に行きつくのではないかな。

日本の公平の文化は、社会の中の個人としての公平を目指す。日本の公正文化は、世間的な納得が反映される。世間は時に冷たく、時に暖かい。社会的な背景の中で個人が犠牲になることがある。たとえば世間の空気が影響しやすい。公正文化ってどこでも作れるものではないし、日本は特殊かもしれない。

でも豊かになるほど、リベラルに傾くのは仕方がない。人一人を育てる費用は上がり、肥大した自我同士は干渉しないことが尊重される。豊かさはそれを許容する。貧しければ個人尊重どころではない。だから先進国では年々倫理繊細に、人権重視になっている。禁煙、ストーカー規制、セクハラ、パワハラモラハラ、LGBTQIA+、ミートゥー、過労死、スポーツ倫理、コンプライアンス。豊かさと人権、倫理の高さはある程度相関関係があるだろう。

倫理もスメハラまで来て、最近は視線ハラスメント。やらしい目で見るとダメ。何をもってやらしい目か。イケメンならよいけど、おじさんはやだとか。どんどん受け手の主観になる。人権リベラルも突き詰めると、神経痛の領域に入って生きにくい世の中になる。そこでアメリカでも、サンデルのようなコミュニタリアニズム共同体主義)が出てきている。日本人ももともとが共同体主義的というか、世間主義。世間が調整機構として働く。

江戸時代でも、武士はほんの一握りで今で言う芸能人みたいな注目の存在だから進んで道徳的であることが求められた。そこに働いたのが世間圧で、世間で叩かれると実際の人事に響くだけでなくて、対面を重んじる武士は自決するとこまでいく。今も世間は、有名人を社会的に抹殺する力を持つ。結局、自民党が長期政権の理由の一つは、世間に敏感であること。

少し前の民主党政権は世間を無視して、マニフェストの政治理念を重視した。それは世界的な標準として。世間よりも世界を重視した。最近は、野党はそれを逆手に取ってなんとか世間を味方につけるために、安倍ネガティブキャンペーンに走る。もはや政治理念はよくわからん。

キミの見ている赤とボクの見ている赤は同じか

pikarrr2018-09-20

赤とは赤に関する言葉の用法の束だ。人々は同じように赤ついて語る、用法を使うことで、赤の意味を共有している。実際、キミの見ている赤とボクの見ている赤が同じかどうかなんて関係ないし、問題もない。意味ではなく、用法である。「規則」ではなく、「規則に従う」だ。

規則の或る把握があるが、それは、規則の解釈ではなく、規則のその都度の適用において我々が「規則に従う」と言い「規則反する」と言う事の中に現れるものである。(201)したがって、「規則に従う」という事は、解釈ではなく実践なのである。(202)

「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いではないならば、この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい:「私は当にそのように行為するのである」 


『哲学的探求』読解 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン (ISBN:4782801076

たとえば光学的に言えば、色は光の波長により無限にある。赤も無限にある。しかしそれまでの訓練されたパターンでしか認識されない。だから正確には、見え方は人によって違う。色に関する仕事についていれば、より多様な色を経験して学ぶ。普通の人が赤として認識する赤も、より細分化して視ることができる。「赤の概念」が赤を視るまえにあるわけではない。

たとえば盲人でも赤を認識する。なぜなら生活の中で人々が赤を実践することを真似ることで習得する。たとえば日常で赤い服を着るのは派手すぎて目立つからやめた方が良いということを学び、盲人もまた赤い服を着ることを避けることを実践する。そのような実践の積み重ねから赤を認識する。それは目が見える人と何ら変わらない。

たとえば科学的にも赤を視るとは光の波長が目で感受して、というような光学的なものではないことがわかっている。赤を視るとは、基本的は入力される光学的な情報とは相関なく、自己産出オートポイエーシスされる。自らの中で作り出される。いかに作り出されるかは、それまで赤を視ることを見よう見まねで訓練した方法で視る。

かつてアリストテレスが名指しされた。名「アリストテレス」は、そこからさまざまな経路を通り伝達される。それゆえ名「アリストテレス」はいまや、複数の経路を通過してきた複数の名の集合体である。・・・名「アリストテレス」にはつねに訂正可能性が取り憑く。固有名の単独性を構成し、かつ同時に脅かすその訂正可能性を、・・・「幽霊」と呼ぶことができるだろう。名「アリストテレス」はつねに幽霊に、つまり配達過程で行方不明になってしまった諸々の「アリストテレス」に取り憑かれている。・・・その経路を抹消して主体の前にある(=現前)固有名から思考するときにこそ、ひとは固有名の剰余、単独性を見いだす。すなわち単独性は幽霊たちを転倒することで仮構される。


存在論的、郵便的」 東浩紀 (ISBN:4104262013

アリストテレスという名は様々な状況で語られてきた。すなわち実践されてきた。それを、真似られて伝達されてきた。それはそこにはさまざまな意味があり、ときに、意味もなく、とにかく語られてきた。それをデリダは散種と呼ぶ。なのに、現代はコンスタティブな意味を持つ。それをデリダは多義性と呼ぶ。

現代では最初から、アリストテレスにコンスタティブな意味、多義性があったように錯覚されている。様々な名の使われ方、散種は失われて幽霊になって。これが「散種から多義性への形而上学的転倒」。多くのただの見よう見まねによる誤配、幽霊、差延により、あたかも最初から意味、概念が明確にあったように、形而上学的に転倒される。それの結果がコンスタティブな意味、論理だ。

「数の概念」を知らなくても、誰かがりんごを5個まで数えているのを見よう見まねで覚えて、りんごを5個まで数えることを実践してみる。その時にはその人は「リンゴを5個まで数えること」を覚えただけで、りんごを6個まで数えることを覚えたわけではないし、人も同様に5人まで数えられることを覚えたわけではない。

ラカンの「シニフィエに対するシニフィアンの優位」も同様に理解するべきだ。シニフィエ意味より、シニフィアンという発話用法が先にある。ラカンシニフィアン大文字の他者という。大文字の他者とは簡単には社会の慣習だ。社会的な経験により自らの中に大文字の他者を獲得する。それを去勢というが、ひとは去勢されて、社会的な存在となり、無意識は言語活動のように構造化される。人は訓練されたシニフィアン言葉の使い方で話すわけで、言いたいことシニフィエがあり、それを伝えるために発話するのではない。シニフィエ意味は発話の後に事後的に現れるにすぎない。

このようなことは日本人の生活ではあたり前かもしれない。この世界は、何ものもそれそのもので成立するものはなく、関係しあって成立している。すなわち縁起。また空。空とは有と無、生と死、我と他、赤と青の向こう。日本人の文化は大乗仏教を基盤とすることで空観に慣れ親しんでいる。ウィトの「私は当にそのように行為するのである」は空観であり、デリダの「散種から多義性への形而上学的転倒」からのリバース、すなわち脱構築もまた空観。日本人は、西洋人から曖昧、裏表があるなどと言われるが、それは日本人が知らず知らずに見よう見まねで身につけた空観だ。

とにかく、第一段階として、もろもろの存在は相依って、相互限定によって成立しているものであるから、法有の立場において主張するようなそれ自体(自性)を想定することはできないということが説かれ、次いで第二段階としてそれ自体(自性)が無いからもろもろの存在は空でなければならぬといわれる。この論理的基礎づけの順序は一方的であり、可逆的ではない。
このような縁起・無自性・空の三概念は同義であるけれども、その中で縁起が根本であり、他の二つは縁起から論理的に導き出されるものであるから「中論」が空および無自性を説くにもかかわらず、ナーガールジュナが「中論」の帰敬偈において「縁起を説く」と宣言したのもおのずから明らかであり、そうして「中論」の中心思想は縁起であるという主張がいよいよもって確かめられることになる。P243


「龍樹」 中村元 講談社学術文庫 ISBN:4061595482

(画像元 http://blog.livedoor.jp/sikisainooto/archives/1823188.html