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2006/11/09

ガリレイの生涯」を読んで

何よりもまず、この「ガリレイの生涯」はすでに絶版であり入手がとても困難であった。大手本屋にも無く、4軒目の本屋でようやく発見した為にこの本を読む喜びは一塩であった事を述べておきたい。
その読み終えた本編だが、ガリレオの地動説に対する執着心、そして教会との対立がほとんど会話文によって話が進められているために、あたかも自分がガリレオのすぐ傍で見守っている感じで読み進む事ができ、大変楽しかった。ガリレオの研究は歴史的見解では偉大な発見として位置づけられるだけだが、地道な研究と確かな研究成果、またそれを発表するには幼すぎた時代であったのにも関わらず、己の辿り着いた真実を告白する勇気があったことを思い知らされた。だが一方、それだけの偉大な人物であったのにも関わらず、サルティのおかみさんのように一般人との壁を感じないことに別の驚きがあった。サルティのおかみさんもまさかガリレオが世界的に有名になって、その伝記に自分が出演するとは夢にも思わなかっただろう。
本編で特に関心を抱いた箇所は、ガリレオの最大の障害と言っても過言では無いだろう、教会とのやりとりである。教会と言えば神聖であり、神々しくあり、その核心には一般人が到底踏み込めないほどの偉大な機関というイメージがあった。しかし、かの有名な「ダヴィンチコード」によってそのイメージが払拭された人は多いだろう。教会は聖書のみが真実とし、それを信仰の核としていたため、それを間違いと唱える者には厳しい罰が与えられる。勿論、ガリレオの地動説の主張もそれにあてはまる。これによって人類の文明の進化が遅れた事は間違いないだろう。
そう考えると教会なんてものは権力を振るうだけで邪魔なだけの存在ではないか、という考えが私の中にはあった。だが、その考えは完全に正しいとは言えないと思わせる章があり、この本で一番胸に残った。それは第8章のひとりの若い修道士がローマのフィレンツェ公使邸にガリレオに会いに来る場面である。真実はただ公表すればそれが正義であり、皆が幸せになれるわけではないと知った。真実は時として知れば残酷であるという事だろう。
若い修道士は悩んでいた。自分が見た木星の衛星と、自分が今朝読んだ教令の矛盾についてだ。若い修道士は自分の知った真実によって教令を自信を持って読む事ができなくなってしまったのだ。それで若い修道士は天文学をやめる決心をした。ガリレオも「そんな動機は重々承知している。」と応えた。しかし、若い修道士には他の悩みがあったのだ。それはオリーブ畑で働く家族を例に、教会がどれほど人々の安定した生活のために役立っているかを説き、今更になって実は聖書は間違いだったとは言えないというのだ。この若い修道者の考えに私は深く感動した。だが、ガリレオはその言葉を「慈悲の心か!」と一喝するのだ。教会が考える農民の必然性の美徳など、牡蠣が異物を取り除こうと死んでまで
つくりだす真珠の美しさと変わらないとガリレオは言う。ここにガリレオの偉大さを感じずにはいられない。ガリレオの確固たる真実に対する意思と、教会の矛盾を見事に言ってのけたと箇所であると思う。
 このようにガリレイは偉大な発見を教会という巨大組織と対立しながら世の中に「それでも地球は回っている」という名句を残した。だが、このブレヒトの書き方は望遠鏡をヴェネチア共和国に有利に売りつけるなどのあまり偉業者とは思えない部分も書いている。あとがきにも書いてあったが、ブレヒトはまずガリレイのヒーロー像を打ち破る意思があったようだ。それは先入観を持たないためだと述べられているが、私はそのおかげでガリレオをより身近な人として感じられた。これもブレヒトの狙いだったのかもしれない。