帰国後つれづれ

日本に帰ってきて4ヶ月余りが経過。友人の言うとおり、初めて海外から帰国したときほどの衝撃や違和感はないものですね。しかし、日本語の出てこないっぷりは著しく、しばらくは会議において日本語で発言するのが苦痛(単語が出てこないので)なくらいでしたが、いまや英語で話すほうが苦痛(単語が出てこない)。あーあ。


突然ですが、役所で仕事していて、私があまり好きでないタイプの人が二通りあります。役所の仕事では、問題把握(現状認識)→対応策の検討→対応策の実施→結果の評価→(最初に戻る)といったプロセスが一般的です。このうち問題把握(現状認識)は、これがきちんとできれば8割方目的は達成したと言っても過言でないくらい、重要なステップです。この問題把握を、自前でがりがり調べるのか、請負業者に委託しつつ調査するのか、検討会などを立ち上げて第三者を含めて検討するのか、やり方はいろいろです。


そこで第一のタイプは、こういう発言をします。
「問題を把握する上では、こんなことやあんなことも分かってないと検討できないよ」

もちろん、私が気づいていない視点を指摘してくれたりして、結果として全体像の把握が進展することも多々あるのですが、私の苦手なタイプの場合には、枝葉を詰めているだけで根本的解決の道筋に近づいていないばかりか、あれもこれもやったほうがいいと言って、対策を先延ばしにしている印象すら受けるのです。やりたくないことをやらないための口実に使っている場合もあります。


第二のタイプは、逆に、こう言います。
「で、最終的なアウトプットはどうするの。具体的なイメージも持たずにやってもできっこないよ」

こちらも、一般的には正論でしょう。「できる管理職」ぶりたい人が良く言う発言でもあります。この発言が適切なケースも多くありますが、一方で、現時点での問題把握が十分でないときに、全体の見通しが見えていない状態で性急に結論を求めるのは、適切ではありません。ある程度、出口を決めうちせずに調べながら、時間をかけて真摯に考える姿勢も大切だと思います。


互いに矛盾するような二つのタイプを考えたときに、結局のところ、問題の全体像(overall picture)をどこまで相手と共有できているか、ということかもしれません。私にとってある程度全体像がクリアで、相手にとってはクリアでなければ、不安感からもっと調べろ、ということになるでしょう。逆もしかりです。


と思うと、まずはoverall pictureを共有する努力をせよ、ということですかね。それって結構なかなか大変なのですが。


そういう努力の結果、overall pictureがある程度共有された上でも、分かってない部分をどれだけ不安に思うか、現状把握を終えて判断するフェーズに移れるか、というのは個人差があると思います。そこは相手に起因するので、どうこうしがたい部分でもあります。その際には、どれだけのスピード感でもって対応するかという時間的制約の要素が入って、ある程度のところで落ち着く訳ですが、役所だとその時間的制約の感覚が甘いことと、心配性(リスク回避型)の人が多いことから、「そこまでやらんでええやろ」ということをそういう相手に説得するのは難しい。


また、「これはさして問題ではないな」と直感的に思うことについて、客観的かつ論理的にみても問題ないというためには、かなり膨大な情報収集と分析とプレゼンが必要なわけですが、対外的に説明するために、それをきちんとやるというのは役所の重要な仕事としてあります。ただ、「問題ない(=つまりあまり役所として取り上げなくていい)」ことを「問題ない」と言うために延々と仕事するというのは、なかなかにモチベーションの維持が大変だろうとも思ったりするわけです。


とまあ、つれづれ。

評価

Facebookじゃなくてこっちしか書けない話題がありました(笑)。


現在のマネジャー代理から「君がこの組織に残る意思があるならば、雇用継続に向けたアクションを取りますよ。すべては君次第だ。」と言われた。現在の組織や所属部署の苦しい台所事情を鑑みれば、大変ありがたい話である。


今回、帰国する決断をしたわけだが、悔しいことや歯がゆいことも多かったこの2年間の経験を経て、Environmental Specialistとしてこの組織に多少なりと貢献できたという自信のようなものが欲しかった私にとっては、本当に嬉しく、ありがたい話だった。とはいえ、組織からの評価と、開発途上国の環境問題にどれだけ寄与できたかはまた別の問題なのだけれど。


また、日を同じくして、どうもあまり噛み合わないと思っていた同僚から、高い評価のフィードバックをもらった。これに関して2つ思ったこと。


一つは、同僚や、特に部下へのこまめなフィードバックが与える効能を常に忘れないようにしたいということ。そんな定性的なフィードバックに大して根拠がないことは分かっていても、人間なんて単純なもので、純粋に嬉しいし、モチベーションも上がる(特に自信がない状態の人ほど)。それが上司からならなおさらだ。おもしろいことに(or皮肉なことに)、この組織でぺーぺーとして働いたことで、上司やマネジメントに対する末端の者の気持ちを身にしみて感じる機会が得られた。役所でまた部下を持つ立場に戻ったときに、これを逆に当てはめて実践できるようにしたい。


二つ目は、常に評価にさらされる環境が組織のパフォーマンスに与える功罪だ。一例を挙げれば、国際機関のように、契約延長の度に(あるいは契約途中でも)自分の有効性を問われるような厳しさをそのまま導入することは出来ないにしても、評価するのが難しいものを扱っている業界なりに、今よりさらに明確な業績評価の仕組みを役所でも追求するべきだと思う。

母校

最近、一言二言のつぶやきなら、即時反応性の高いFacebookのほうにする(Twitterは使ってない)ので、自分にとってのブログの意義が薄くなってきた気がします…。もう少し長い思考はブログが適しているのですが、そこまで書く余裕がなかなか最近なく。


今日は、DCに住む、母校卒業生の集まりなるものにお邪魔してきました。場所は、こちらで特許で当てたとかで大富豪になられた方の邸宅です。そのご夫婦を始めとするDC在住同窓生の寄付によって今年から試行的に始まったという、国際機関や海外でのキャリアに興味のある大学の学生さんをDCに招待して、様々な機関を訪問し、意見交換を通じて多様な職場環境や文化に触れてもらうというプログラムがあるそうです。で、その10倍の難関を突破して選ばれた6名の学生さんの歓迎会でした。


昔、ケニアに日本の別の大学のプログラムで訪問してきた学生さんたち(留学生たちで日本人ではなかったが)はなんだか主体性も覇気もない印象でちょっとがっかりだったので、今回はどんなだろう〜と思っていたのですが、さすが難関を勝ち抜いただけある?、しっかりしていて、なおかつうちの大学らしい気の抜けたというかなめた感じを併せ持つ、いい雰囲気でした。思えば、ケニアに「自ら選んで」来た学生さんたちは、たくましくて頼もしかったし、そういう人たちが元気をなくしてしまわない社会にしたいものです。

アップダウン

久しぶりに「これは欲しい!」というものに出会って、店頭でサイズがなかったのでオンラインで購入しようとして、喜び勇んで購入ボタンを押したらThis item is currently out of stock. Your request has been deleted.


あああああーー。この盛り上がった気持ちをどうしてくれようー。欲しいよーう。在庫入れてくれーー。

読み書き

2-3枚の概念ペーパーでも、章立てのあるレポートでもそうなのだが、何かを「書く」ためには、「読む」という作業が自分の頭の中である程度のレベルに達しないと書けない。という当たり前のことを改めて認識。


幾つもの関連文献を読むことで、世界の潮流の中での自らの立ち位置が見え、問題意識が明確になってこないと、自信を持って自分の言葉を紡ぐことはできない。このため、結局、複数の文献のつぎはぎのような文章が出来上がる。


本を読むスピードが人の数倍遅い自分にとっては、人の数倍時間をかけないとこのレベルに達しない。先月配属になって一週間で、包括的な文書をまとめないといけない仕事があり、最善は尽くしたものの、精神的に非常に居心地が悪かった。でも結局のところ、本質となる部分は、最初の直感からあまり大きくは変わらなくて、言葉遣いや論理構成がこなれる、というだけのことかもしれないが。でもその後者が、というかその土台となる自信と信念みたいなのが、人に説明して共感してもらうために重要なんだよね。


ケニアの現地事務所にいた頃は、day-to-day operationsなので、こういった思考体操よりも、また別のスキルが要求された。うちの組織の言葉でいうと、リージョン(=オペレーション)とアンカー(=ナレッジ提供)を行き来することで、知的インプットとアウトプットの良いバランスが取れるという同僚の言葉を実感。今は、文献を読むことを求められる環境に感謝しつつ。

公現祭

1月6日は東方の三博士が、誕生したばかりのイエス様を訪問・礼拝した日だとかで、フランスではケーキを食べてお祝いするらしい。他の国では子供の日のようになっているところもあるとか。


そんなわけで、階上に住むフランス人の同僚がフレンチパティスリーで買ったというケーキをくれた。うまし。

はな

今日初めてDCの日本食材店に行ってみたら、品揃えの豊かさにびびった。歩いて行ける距離のとても小さなお店だが、所狭しとかゆいところに手が届くものたちがずらり。ナイロビとは比べものにならないその品数に目をみはった。表題はお店の名前。


NYにいたときはもっと豊富にあったんだろうけど、それに対してそれほどの喜びを感じていなかった(いや、すげー便利だったけど)。人間、比較でしか気づけないものがたくさんある。持てる者も持たざる者も、それが当たり前なのであって、比較がなければ幸せも不幸もない。意欲も含めて、欲とは相対的だなと改めて。


ともあれ、ナイロビにいたときは、ないのが普通だからこそ、日本に帰ったときに食べるものすべてにいちいち感動できたし、日本からいただくお土産に心温まったりして、あれはあれで幸せであった。