まだ暗いうちに目が覚める。まだ寝ていられるので目をつぶると寝落ちたようだ。気が付いたら5時半になっている。外が明るくなった。
昨日は何もせずに寝落ちたので、シャワーを浴びたり、歯を磨いたり、何だかんだと身支度。
窓を開ける。今日の部屋は2階。何時になく低いがチェックイン時にはアップグレードと言われた部屋だ。確かに普段より広かったような気はするけど。
窓外から見える通りにはクルマやスクーターの姿がまだ見えない。高雄の朝、まだ明けたばかり。
今日は7時に母と合流。朝食を食べに行く。ホテルに朝食は付いているのだけど、台湾は朝食店が美味しい。母の口に合うか不安はあるが、やはり外に食べに行きたい。
7時を過ぎてほてるからちょっと歩いた所にある人気の朝食店まで赴く。この時間、通勤が始まっていて、1時間前と打って変わってクルマ、それ以上にスクーターが数多く行き交う。
市議会の駅からちょっと入ったところにある朝食激戦区。興隆居と果貿来来豆漿。妻と二人であれば両方を梯子するところだが、今日は高齢の母が一緒。さすがに1店に絞り込む。結局、よりあっさり目な果貿来来豆漿の方が良かろうとそちらに足を運ぶ。
湯包を一人一つずつ。鹹豆漿や豆乳を。ちょっと心配した口に合うか問題も大丈夫。むしろ日本の物より美味しいと好評を得る。そして母が食べたいと指名した大葱餅。葱パンと言えば良いのだろうか。これも美味しいそうだ。全部は食べきれず持ち帰りになったけど、台湾のパン、というか小麦製品全般、日本のものより美味しいとの事。
食事の後は少し歩く。愛河ぐらいまで行くのが手頃かと思い、少々。
その愛河の河岸。遠目にも目立つ樹があって、近寄ってみる。
真っ赤な大振りな花が鮮やかに咲いている。後で調べてみるとホウオウボクというらしい。
先にこの花を撮っていた台湾人と思しき男性に声を掛けられる。片言の英語と日本語でやり取り。こっちの方が綺麗に撮れるよ、なんて教えて貰ったり。
愛河の河岸を少し歩いてからホテルに戻る。朝食と合わせて小一時間の散歩道。朝食は食べてきたが今日のホテルは朝食付き。コーヒーと果物だけ頂く。
落ち着いた所でもう少し出掛ける。自分としては今日のメインイベント。ホテルから美麗島の駅まで歩く。
いつ見ても見事なステンドグラスを見て今日は橙線に乗る。台湾で使える交通系ICカード、台北の悠遊卡と高雄の一卡通を両方持っているので、母に貸与。小銭を扱わなくて良いのは台湾ドルに慣れない外国人にこそ、利点が多いと思う。
橙線で1駅、信義国小駅で降りる。向かった先は、観光客には縁遠そうな場所。
高雄市新興区行政中心。日本語で言うと区役所だろうか。この2階にある
高雄市新興区戸政事務所が今日の訪問先。先日来、取得を目論んで来た、祖父母というか、母というか、その戸籍に関する資料を取得するためにやってきた。日本統治下の台湾での戸籍謄本は今も台湾で管理されていて、本人や直系血族であれば申請すれば取得できる。
母の産まれは高雄では無く、台湾東部、今でいう花蓮県玉里鎮という所。しあkし台湾の戸籍情報はオンライン化されていて、全国どこの戸政事務所でも申請が出来るそうだ。そんな訳で順路にあり、かつ、戸政事務所のWebサイトに問い合わせ用のメールアドレスが記載されていた、高雄市新興区の戸政事務所に連絡を取っていた次第。メールのやり取りで本人、つまり母親が申請するのであれば
・本人的護照 (本人のパスポート)
・日本戶籍謄本,需經我國駐外館處驗證 (日本の戸籍謄本 台湾の在外公館による文書認証をうけたもの)
があれば良いと確認している。ちなみに直系血族である自分で申請する場合は、
・您的護照影本(經我國駐外單位驗證並加註與正本相符)
と返事が来ていて、パスポートのコピーを在外公館で文書認証受けないといけないらしい。
戸政事務所は空いていた。受付に歳の行った案内係がいて、用事を聞かれる。「申請日據時期戶口調查簿謄本」と書いたスマートフォンの画面を見せると分かったような分からないような反応で受付カードをくれる。
順番が来て要件を伝える。何度かメールのやり取りをしていて、5月3日に伺うと言う事も伝えていたけど、最初は意図が通じない。台湾の身分証明書はあるか?と言う事を聞かれる。勿論台湾人ではないから、そんなものは有していない。妻の片言中国語と自分の片言英語で応戦。次に日本戶籍謄本の中国語訳があるかと聞かれる。これも困ったが、メールのやり取りの最初に必要な所を翻訳サイトを通して訳していたことを思い出す。
戶籍記載的人
名
出生日期
父親
母親
關係
狀態資訊 出生
出生日期
出生地 玉里鎮 花蓮港庁 花蓮縣 台灣(台湾花蓮郡花蓮港庁玉里郡)
通知日期
日本の戸籍謄本には出生地として台湾花蓮郡花蓮港庁玉里郡としか書かれていない。日本で言ったら「秋田県秋田市」で済まされているようなものである。
一人で対応していた係員が3人がかりになり、メールのやり取りに思い至った人がいたのか、意図が通じたようで、パソコンの画面で何やら調べ物を始める。そして、3人が笑顔になる。こちらも手応えを感じる。そして何やらプリントアウトされて、A3用紙1枚を渡される。祖父が世帯主として記載されている。どうやら住民票のようだ。交付代金はメールに記されていた通り15NTD。湯包1個が17NTDだから、それよりも安価。
住民票によると「寄留」とある。本籍を秋田に残したまま、台湾に赴任していたと分かる。祖父が一人、台湾に赴任したのが昭和11年。その後、住所は玉里の中で2度変わっていて、昭和14年に祖母が寄留とあり、この時が結婚した時と思われる。この辺は本籍の謄本を見れば分かるのだろう。その後は住所が変わっておらず、母の口から聴いたことがある玉里の生家はこの書類の中に記載されている住所で間違いないと思われる。
一仕事を終えて胸をなでおろす。一時はどうなるかと思ったけど、何とかやり切れた。初めて生まれた地の住所をしっかり字面で見た母は感無量という感じ。
戸政事務所をお暇すると10時半だった。随分と時間が掛かった気がしたが、まだ10時半だった。案外と時間が経っていない。戸政事務所の近くに気になる観光施設があり、見てみる。
逍遙園とある施設。近付いてみると
そこには日本家屋がある。1940年に建てられた、というので母と同い年である。見学したいところだが、開園は11時。まだ時間があり、11時までは待てなかった。
ホテルに戻るべく、地下鉄に乗る。
最寄駅の信義国小駅にこんな広告。大阪・京都・滋賀とあり、滋賀の景色は京津線、浜大津のカーブ。この写真、高雄の人に訴えるものがあるんかしら。
地下鉄。橙線に乗り一駅、美麗島に戻る。先程の戸政事務所のやり取りですっかり喉が渇いてしまった。
老江紅茶牛奶でミルクティーを頂く。普段は飲まない甘ったるいミルクティーが何だか嬉しい。
ホテルに戻ると荷物を括る。高雄のホテル、今日でチェックアウト。移動する。前回の台湾訪問で慌ただしい移動の繰り返しを反省した記憶があるが、今度は高齢の母親を連れて、似たようなことをやる。反省が足りないようだ。
ホテルをチェックアウトして美麗島の駅から地下鉄、紅線で1駅。
高雄車站まで来る。ここで母のリクエストが一つ。古い駅舎を見たいという。高雄車站の旧駅舎、記念館になっている。以前、見学をした際に案内係の台湾人に「ありがとう」と言われた覚えがある。
台鐵の地下化工事は一段落ついているが、高雄車站の再開発はまだまだ続いている様子。
母が見たいと言ってた高雄車站の旧駅舎も工事中のエリアに入っていた。囲いの外から外観だけを見る事になる。改めて現在の車站に戻ると移動。駅構内へ進む。
前回の高雄滞在時は確か12:45の自強に乗って台中に向かった。今日乗るのは12:53の431次。南廻線 樹林ゆきとある自強。ホームに降りて大人しく列車を待つ。
先発の区間車がやって来る。区間車も10年の間に代替わりが進んで、高雄あたりでも真新しい列車が来るようになった。
次に来るのが今日の乗車列車。EMU3000型の新自強。やって来た電車を撮り損ねたのでこの時点では写真無し。車内へ進む。今回は、というか今回も折角なので上級クラス、騰雲座艙に乗る。切符はネットで予約したものを先程、高雄の窓口で引き換えている。間もなく出発。すぐに係員が廻って来る。騰雲座艙の軽食サービスである。山側の2人掛けに座る自分と妻には多分、中国語で対応してきて、何となくそれっぽく受け答えをしておく。海側の1人掛けに座る母は日本語で通していると、係の方が日本人の方ですか、と日本語で話を始める。
いずれにせよ、予約時に指定ていたお弁当で台湾2食目のお昼ご飯とする。
【今日の駅弁 番外編】EMU3000 台鐵弁当 高雄供餐站
騰雲座艙の限定で提供される台鐵弁当。真ん中に排骨が構える台鉄弁当らしい内容。そのほか、南瓜の煮物や練り物があったりするのは通常の品と違う。ワカメの炒め物というのも珍しい。ちなみに
妻が予約していたのは同じ台鉄弁当の素食というもの。つまり菜食弁当。見た目には排骨に見える真ん中のものは何か分からないが似せた練り物。海老に見えるものも海老では無く、素食が徹底している。
列車は高雄市内の地下線を出て高雄郊外、地上線を走る。窓外の景色は既に出穂した水田が見えたり
何か良く分からない作物が植えられた畑地が車窓を流れてゆく。時々街が現れ速度が緩むと停車。概ね10分毎に停車する。西部幹線の列車が終着となる潮州に着く。コロナ前に乗った時はここから先、非電化区間だったが、南廻線も電化されて、電車が台湾を一周できるようになっている。新自強、EMU3000型も躊躇なく東への道を辿る。
その潮州を過ぎると景色が鄙びて来る。田園が多い所なので水っぽい景色が流れるが、その中で目立つのが
鰻の養殖池。7月の出荷に向けてまん丸に太らせている所なんだろう。
こちらは何かの果樹。一つ一つ大事に紙袋を掛けられている。余程高価なものに違いないのだが、何か分からない。気にしてみていたら、紙袋が掛かっていないものにちらっと見えてマンゴーと知れる。5月以降に収穫期を迎えるのだそうだ。台湾南部では台南の郊外、玉井がマンゴー産地として有名だが、枋寮でも採れるのか、と思い巡らし、そういえばと思い出す。
10年前の6月、枋寮の食堂でマンゴーをサービスして貰った。
列車はその枋寮を出発。南廻線へと入り込んでゆく。右手には海が見えて来て、左手は険しい山。台湾島の脊梁山脈を越える鉄路を進む。この先、人煙稀なるエリアで、列車は1時間弱、停まらない。とは言え、実際には列車のすれ違いで時々、運転停車で道を譲る、
海が離れてい行くと山越えの区間。
山間の景色が広がると少々眠くなる。せいぜい15分ぐらいだと思うが、うとうとする。その間に脊梁山脈をトンネルで越えて太平洋側に出たようだ。
列車は石ころだらけの川を渡り、駅に到着する。ドアが開いて大武車站と知る。ちょっと停まるようだ。
出発時間が分からないからデッキからホームの様子を見る。しばらく停まった後、南行の列車がやって来る。新自強が通過していったが、後で時刻表と突き合わせると台東から新左営に向かう314次らしい。まもなくこちらも出発する。
間もなく母が座る海側の座席、太平洋が広がるようになる。青空の下に青い海。既に夏のような景色。そういえば台湾南部は北回帰線よりも緯度が低い。
反対側の山の景色が曇りがち。台湾の脊梁山地はいつも天気が悪いような印象を受ける。
そして川はなぜか石ころだらけ。枯れ川ばかりが目立つ。そういえば母の口から何度か聞いた台湾での話に、「山から下りて来た蛮人」という言い回しがあった事を思い出す。戦争末期か終戦後か、台湾山岳部に住む原住民が食糧と衣類の物々交換をするために日本人の住む家に来るのだけど、裸足でやってきて、玄関先にある靴を履いて帰ってしまうので「蛮人が来たよ」という声が聞こえると玄関先の靴を隠して迎えるのだそうだ。その蛮人が来る山というのは今見えている山々何だろうなぁと思う。思ったのだが、今、新自強の車内で「蛮人」という言葉を発するのは憚られる。日本語が分からない人が多いに違いないだろうが、万が一はある。はて、と思い、母に声を掛ける。「山から下りて来た人が住んでいる山って、あんな感じの山?」と。「山から下りて来た人」我ながら良い言い換えだ。
列車は知本に到着。高名な温泉がある街で、高雄から乗って来た人、割と降りてゆく。そんな様子を見ていると、隣のホームに列車がやって来る。
あらっ、普快車。
2014年の南廻線で乗った普快車。
2020年のコロナ禍中、南廻線の電化により廃止になったのだが、その後、観光列車、藍皮解憂號として復活している。
こちらの列車が発車する。
隣の列車も転換クロスシートが並ぶ、かつての優等列車が如き雰囲気。過去と現代が一瞬、交錯する。
人煙稀なる、というエリアを抜けて、431次新自強は台東へと向かう。平地が広がるようになり、再びマンゴー畑をみつつ、少々。街は無いが大きな駅が現れて台東到着となる。台東は街と駅が離れている。
高雄からのお客さんがだいぶ降りて、代わりのお客さんが乗って来る。乗務員も交代のようだ。15:17の出発まで5分停まるのでホームに降りてみる。
高雄の駅で写真を撮り損ねたのでようやく乗って来た列車を撮る事になる。隣にも同じEMU3000型、新自強。時刻表を見ると樹林発新左営ゆきの422次。今乗っている431次と対になる列車。駅の隅には台東始発の新左営ゆき、莒光708次も姿を見せている。
構内には日本では見かけなくなった黒々とした貨車も姿を見せている。