お笑い「帝国」からの逃走もしくはノマド的笑いの可能性について

前回、折角頂いたpunch-lineさん、nishiさんのコメントにご返信が出来ておらず申し訳ありません。またこのブログ自体の更新も頻度が低くなっていました。諸々慌ただしかったのもありますが、どうもこの半年ほど、地上波の全国ネットで見るお笑いに新しさを見出すことが少なく、それがなんでなのか、あるいはもう少し違った見方は出来ないものかと考えてみていました。で、今回はその試論となります。

このブログを始めた最初の段階からの認識として、今の地上波・全国ネットのネタ番組は大きな構造を持っている、横に広がる量と縦に上昇する質の両面を兼ね備えて非常に安定的に発展していると書いたつもりで、だからこそ、ひとつの大きな影響力をもつ文化ジャンルとしてのお笑いについて語るべきだろうと考えていた。そしてその考えは根本的に変わっていないが、そのことをただ顕揚しても仕方がないのではないかと思い始めた。

お笑い帝国の形成と完成:
今、地上波を中心とするお笑い・ネタ番組の世界は大きく次のような構造を持っていると思う。

1)”すべらない話”を最高峰とし、M-1キングオブコント(+R-1)を中心とする縦の軸。このラインが現在のお笑いの”質”を形作っている。いわば、ここで評価された芸人が今のお笑いの”正解”を出したと言え
る。
2)”レッドカーペット”的な横の軸。これはいわば笑いの”登竜門”であり、若手からベテランまでが並列に並べられる。ここで評価されることは、いわばTV芸人として戦える資格を与えられることでもある。
3)”あらびき団”的なあらびき芸の紹介番組。あらびき団はもともと、”エンタの神様”への批判、パロディ的にはじまったが、現在は、”レッドカーペット”のカウンターとして機能している。かつ、重要なのは、この
  番組とレッドカーペットは互いの対する批判として機能しながら、互いを攻撃するものではなく、むしろ補完しあうことで構造を安定化させている。
4)”アメト−−ク”的な、お笑いを”メタ”なレベルで語る業界番組。これはいわば作品に対する批評であり、上記3)と同様、もしくは文芸に対する通常の文芸批評と同様、構造をより安定化する機能を持っている。

上記の特性は、1)が松本人志(すべらないは、千原ジュニアを番頭とする)、2)が今田耕治、3)が東野こうじ、4)が雨上がりと、すべていわば松本人志とその遺伝子を直接に引き継ぐメンバーが形作っている点だ。
一方、”レッドシアター”は内村光良をチェアマンとする本格的なネタ番組だが、そもそもウッチャンとは、”夢で逢えたら”以来、松本人志的な”ネタ”志向へのひとつのカウンターとしての意思を持ち続けながら、実はネタの強度ではなくポピュラリティーにおいてようやく対抗軸となりえた存在である。つまり、本人の意思にかかわらず、ウッチャン的な試みは結局上記の世界を壊すものではなく逆に補完する役割を持っているのであり、実際、レッドシアターメンバーはもともとレッドカーペットから登場した人材であり、最近ではキングオブコント、○○な話といった、1)のラインへの参入を開始している。

つまり、現在地上波・全国ネットで見ることのできるお笑い・ネタ番組とはほぼ松本人志を中心に縦横の構造、それを批判しつつ補完するカウンターから成り立っており、そのありかたは極めて安定的である。それはひとつの”エンタープライズ”とも言え、実際、その構造を熟知した機を見るに敏な芸人たちは、その中での”出世””処世”についてのマニュアルをネタのレベルにおいても習得している。あるいはその構造を、ひとつの産業として見ることもできるだろう。例えばファッション産業としてたとえれば、いわば”すべらない”とは各国の有名メゾンのオートクチュールが競い合いその年のファッション産業全体の方向性を指し示すコレクションと言え、”レッドカーペット”とはその磁力のもとで、工場で形作られるさまざまなファストファッションと言える(ベルトコンベアを流れていく芸人)。そして、もう言うまでもないことだが、地上波・ネタ番組をひとつの世界とするなら、現実の世界におけるアメリカと同様、その構造は、唯一の”帝国”として機能し、君臨しているのだ。

安定化した帝国。その見事さを顕揚することはたやすいし、そもそも、”面白いということはかっこいいんだ”と恐らくは日本で初めて明言した松本人志が、常に前線に立ちながら、ときには求道者のようにしてただひとりストイックに”ネタ”の本質を追求してきたことを考えれば、その大きな場所を築くことが彼にしか出来なかったことは当然のことのようにも思える(それに個人的なことを考えても、僕自身、関西に住んでいた子供時代にダウンタウンの衝撃を受けて以来、その影響下にあるわけで、自分自身お笑いのことを考える上でその磁力からはまったく自由ではないのだ)。

しかし、一方で思うのは、帝国は長らくその安定化を着実に進め、昨年のキングオブコントの成功(08年度は最初の模索だった)などによって、ほぼ完成されたのではないか、ということだ。それはすごいことだがしかし、このブログでも繰り返し書いてきたように、というか、このブログの主張が当初の考えに反していつのまにかほとんどその一点に絞られてしまいつつあるのかもしれないように、お笑いとは常に外に出るということであり、この地面の硬さを疑うものであり、言葉が人に通じるというこの目の前の自然さを覆すものであり、自分が今生きているこの世界を幻の中に一瞬にして消し去ってしまうものなのであってみれば、お笑い帝国とは、その帝王のまぎれもない良心と正しさにもかかわらず、その安定化、制度化によって、お笑いそのものが本質的に志向する自由と気ままさを自ら奪い去るべく機能し始めてしまうものではないか。いわば、帝国は自らを食いつぶしてしまうウロボロスの蛇と化してしまうのだ。

なんだか、力んだ書き方になってしまっていて、それはそれで、”お笑い”にかかわる文章としてどうかとも思うわけだけど、お笑いの本質的な自由さを思うときに、そろそろその豊かで、居心地のよい帝国を離れないといけないのではないかと思う。帝国を離れた、安住する場のない、ノマド的、遊牧民的な笑い。その可能性について、いまは語るべきなのではないか?

では、ノマド的な笑いとは何か?それについては、その定義も含めてもう少し考えてみないといけないけど、このブログではしばらく、全国区の地上波を離れた、お笑い、ネタについて見ていきたい。例えば、(東京では)テレビ東京で見れる、きらきらアフロ的なものや、モヤモヤさまあ〜ず2的なありかたは、まるで羊を追うようにネタ=事件の生成を見せるという意味で、ノマド的な笑いと言えるのではないか?MXTVのバナナ炎は、往年の”がきの使い”をほぼ踏襲しながら、その精神においてやはり自由を生きてはいないか?ゴットタンも帝国的な構成を離れたバラエティの新しい可能性を提示してはいないか?そもそも、僕のアンテナが低いだけで、テレビの中だけではない場所にこそ、帝国の磁力を離れた新しい笑いはあるのかもしれない。どこまでうまくやれるかわからないけど、しばらくこのブログでは、その方向での模索をしてみたいと思う。

M-1グランプリ2009

昨日行われたM-1グランプリ2009、順当な結果に終わったと思う。

1.点数と結果(並びは、出演順):
  
(第1回戦: ☆マーク−第2回戦進出コンビ)
1.ナイツ 635点
2.南海キャンディーズ 607点
3.東京ダイナマイト 614点
4.ハリセンボン 595点
5.笑い飯 668点 ☆
6.ハライチ 628点
7.モンスターエンジン 610点
8.パンクブーブー 651点 ☆
9.NON-STYLE 641点 (敗者復活から) ☆

(第2回戦)
1.Non-Style
2.パンクブーブー → 満場一致で優勝
3.笑い飯


2.所感:
パンクブーブーについては、昨年のM-1の際にこのブログで書いた通り、以前から決勝進出の実力があるコンビと捉えており、今回の出場もそういう意味では順当だと思っていた。そして、その上で、当日の相対的な”出来””ネタの並び”の中で評価すれば、満場一致での優勝もまた順当だったと思う。

決勝進出者が発表になってから、当日の大会開始前までで、僕が思っていたのは以下の2点だった。
1.決勝進出組については、実力的にはいずれも順当。新たに進出した、パンクブーブーは上記の通りだし、ハライチについても、その”偶然性”とか”一回性”を呼び込む形式が素晴らしいと考えており、決勝進出をうれしく思っていた。ただ、正直言って、決勝進出組の8組を見たときに、ある種の既視感とか”想定内”という感じを覚えたことは事実で、昨年感じたような新鮮さ、(驚きへの)期待感、というものが、個人的には少な  かった(なんだか、勝手な印象で、決勝進出という偉業を果たしたコンビ達に、基本的に失礼な話なんだけど・・・)。
その上で思っていたのは、
1)南海キャンディーズ東京ダイナマイトは、漫才を見るのが久し振りだが、以前とは違う新しいアプローチを見せてくれるか?
2)モンスターエンジンは、キングオブコントなどを経て、どれぐらい爆発力を発揮してくれるのか?
3)ナイツは昨年とは違う形式を用意しているのか?同じ形式で行くのか?
といったことで、つまりは、新しさ、驚きを、それでも期待していたということである。

2.今回の決勝戦には、以下のアングルが用意されていたように思う。
1)笑い飯が、最後のチャンス(実際には来年も出れるらしいけど)であり、とうとう優勝するのではないか?
2)NON−STYLEが、敗者復活で登場し、二年連続の優勝とはならないか?
3)キングコングなど、今年が最後のコンビ達が、敗者復活するか?

で、実際に決勝戦を見た感想としては、1.については、それぞれの点数や結果について何ら疑義は感じないし、非常に順当な形に収まったと思うが、やはり、当初、不安感(?)を持っていたとおり、驚きのようなものはなかった。それは、それぞれのパフォーマンスやネタに対しても、そうだ。全体としてのレベルは高かったし、ひとつひとつのネタもよく練られていて、そういう意味で素晴らしいということは言えるが、そこに、事前の期待の地平を越えて、事後的に”期待”という言葉を使えるような事件は起きなかった。2.については、それら、主催者側の用意したアングルをある意味で無化する結果になったが、それは、当日の審査員の評価が公正に働いていた結果だと思う。恐らく、今回の点数・結果については、ある程度お笑いを評価できる人間であれば、ほぼ納得するものなのではないか?

3.各論:
1.ナイツ:得意の”ヤホー”形式のアレンジであり、昨年度のネタからの差別化が図られていた。実際に面白かったが、基本的な構造に新味はなかった。
2.南海キャンディーズ:ネタもテンポもボケもツッコミも、数年前に決勝に出たときのものと、なんら変わらなかった。その変化のなさが、勝手に期待していただけに残念だった。
3.東京ダイナマイト:こなれたベテランの味。このコンビは、同じネタをもう何度見ても面白く感じられるようなステージに差し掛かっているように思う。しかしその分コンペではしんどいかもしれない。
4.ハリセンボン:前回出場のときよりもこなれていると感じたが、正直、大きくステージが変わったとは感じられなかった。
5.笑い飯:第一回戦のネタは、素晴らしかった。島田紳助の100点は、ひとつの伝説の演出に寄与することを狙ったものだと思うし、実際にそのように機能するものだと思う。優勝はしなかったが、M-1に9回連続で出場 し、100点がついた、というのはひとつの伝説として残るのであって、この時点で笑い飯M-1ストーリーはひとつの決着がついたように思う。第二回戦での”ちんポジ”ネタでの敗戦もまた、”無冠の帝王”としてのひとつの”笑い飯”神話の形成にこれ以上はないほど機能するはずである。来年も、主催者側のアングルとして”笑い飯とうとう優勝”という物語は語られるだろうが、むしろ今年で終わるほうが、今後に繋がる気がする。
6.ハライチ:さほど緊張していなかったように見せていたのはよかった。そういう意味では、”知ってる”ハライチを見れたが、それ以上でもそれ以下でもなかった。
7.モンスターエンジン:昨年度よりはコンビとしてのキャラクターを見ることが出来たように思うが、勝手に期待していたほどの爆発力はなかった。
8.パンクブーブー: ”知ってる”パンクブーブー。よかった。面白かった。そして、それは期待の想定内だった。
9.NON-STYLE:NON-STYLEのネタは、どうも昔から、覚えられない。よくできているが、ネタは小さいと思う。昨年優勝して今年オードリーに食われたのは、上沼恵美子が”フリートークがへた”と昨年言ったからだと思っ  ていたが(今年も、悪趣味なほど、言っていて、あれはあれでどうかと思うが)、むしろ、そのネタやキャラクターの”薄さ”の問題なのではないかと思い始めた。どうも、”覚えてられない”のである。

4.総論:
各論を書いていて、ひとつひとつ書いても仕方ない、というか、ほとんど同じことしか書いていない気がして詰らなくなってしまった。なんとか、大会全体を評価する方向に持っていきたい、ほめることこそが、”お笑い”ブログのあるべき姿だと思っていたのだけど、本音を言えば、今回の大会は全体としてレベルは高かったのでしょう、そして、結果も納得のいくものだったのでしょう、それについては、何ら疑義はないのだけど、でも、僕自身は、正直言って、事前から盛り上がるものも感じず、そして当日も、それをいい意味で裏切ってくれるものもなく、はっきり言ってあまり面白くなかった。実際に、あまり笑わなかった。広い意味で、キング・オブ・コントのときに感じたことに近いのだけど、僕自身がお笑いに対して常に期待しているのは、つまりは価値観の変動であって、面白くないものこそが面白いと、いつでも逆転してしまうそのダイナミズムなのであって、ひとつひとつのネタの”完成度”が高い低いというのは、詰るところどうでもいいのだ。その”完成度”という基準をいずれ無化する力こそが、究極的なお笑いの力だと思う。M-1はもともとオードソックスで完成度の高い笑いを評価する傾向にあると思うのだけど、その傾向は、さらに強くなっているように思う。それは、大会としての”形”が固まってきている証拠であって、ひとつひとつのネタは、その大会の”形”に準じていく(傾向と対策を練っていく)という意味で、それはそれで、”コンペ”のひとつの不可避的な方向ではあるのだけど、そうして完成に向かうことで、同時にこの大会は、お笑いのダイナミズムへのアクセスを失い、”完成度”という名の伝統芸能大会へと収束してしまうのではないか、という醒めた感想を持った。結局のところ、どういうメンバーがこの決勝に勝ち上がるか、逆に言えば、どういうメンバーを勝ち上がらせるのか、ということにかかっている訳だが、今回に関しては、選ばれたメンバー、そして、大会主催者側が用意したアングルなど、なんだか、硬直化の前触れを感じさせた(選ばれた芸人側が悪いわけでは、当然、ない)。M-1の権威とは、結局のところ、島田紳助松本人志という、”本物”のふたりが審査している、ということに尽きると思うのだけど、仮に、それが原因で大会の基準が硬直化してしまうのであれば、ふたりはそろそろ抜けたほうがいいのではないか、とすら思った。

僕は期待しすぎなのかもしれない。ただ、それでも、今個人が書いたような、”不満”や”醒めた見通し”を覆してしまうような逆転が起こるのがまた、お笑いの現場なのだとも思う。それこそが、”期待”という言葉が担う意味なのだと思うし、僕はその言葉をまだ信じてもいる。なんだか、”渋い”感想ですいません。

閑話休題 ヨコハマ国際映像祭2009 CREAMとピピロッティ・リストPEPPERMINTA

今年からスタートしたヨコハマ国際映像祭2009(通称:CREAM)。アート寄りの映像祭で期待通りに素晴らしかった。
僕は現代アートについて語る言葉を持たない。というか、ある作品の前に立って、

キングオブコント2009

今回の大会、一言で言えば、非常に充実した、見る側からしても大きな納得感とともに終えた大会となった。

1.結果:

            一回戦 二回戦 総合得点
1)サンドウィッチマン 878 865 1743
2)東京03      835 953 1788 →優勝
3)しずる       820 831 1651
4)ロッチ       807 804 1611
5)モンスターエンジン 771 855 1626
6)インパルス     767 868 1635
7)ジャルジャル    734 805 1539
8)天竺鼠       723 829 1552

  *第二回戦の出演順(昇順)=第一回戦の点数順

2.所感:

以前、このブログで、昨年のコングオブコントの審査方法への違和感について書いたことがある。決勝戦2回戦目で、1回戦で敗れた芸人たちが、記名性(というかその場で)どっちが良かったかを宣言しなければいけないという状況は、さすがに公平性を欠くだろう、その結果が、吉本のベテラン芸人であるバッファロー吾郎に有利に働いたことは否定できないだろう、という点についてである。
今回、その審査方法は改められていた。準決勝敗退者100組が、無記名で第一回戦、第二回戦に投票、総合得点の高い組が優勝、というルールとなっていた。これは大きな改善点だと言える。

その上で、個人的に、大会前に考えていた、というか思っていたことは、

1.今の実力派がきちんと駒を進めたことに対する、大会のレベルそのものへの大きな期待(個人的には、このメンバーに”ロバート”が入ればかなり完璧)
2.”爆笑レッドシアター”レギュラーが8組中3組入っている(しずる、ロッチ、ジャルジャル)。ファンとしてうれしいばかり。かつ、メンバーにも納得(はんにゃでも、フルポンでもなくこの3組が勝ち上がったというところに、この8組が決まるまでのある正常な審査制が機能していたことを感じさせる)。特に贔屓にしているジャルジャルには、この舞台で大きくなってほしい。しかし、若くしてレギュラー番組を持ち、局からも次代を担う若手として大切に育てられている彼らのことを、準決勝敗退組、つまり審査をする側の芸人たちが、果たして、冷静に公平にジャッジ出来るのだろうか、という不安もあり。生意気なジャルジャルなどは、必要以上に辛い点数を付けられてしまうのではないか?
3.モンエンは、神々、ピン芸もある程度一巡した中で、どういう新しいコントを見せてくれるのか。不安とともに期待。
4.インパルス、特に板倉は本領を発揮してもらいたい。はねトビメンバーは、ロバートもそうだし、インパルスもそうだけど、実力は間違いなく超一流なのに、人気先行になってしまったために、賞レースではあまり評価されてこなかった感がある。去年のロバートも惜しかったが、インパルスには頑張ってもらいたい。
5.天竺鼠: 川原は才能ある。どこでブレイクしてくれるのか?
6.サンドウィッチマン、東京03: 特に期待感なし。両者とも、安定感あることは知っていたが、なにかお笑いに新しい何かを付け加えるようなコンビなりトリオではないだろう、という印象。つまり、好みではなかった。一方、上記2、の裏腹で、投票する側の芸人達、特に吉本の中でしのぎを削っているメンバーにとってみれば、他の組に比べ、”脅威””ライバル”と映りにくいのではないか?そういう意味で、相対的に点数が甘くなる可能性があるのではないか?

なんてことを考えていて、まあ、点数だけ見れば、”やっぱり、サンドウィッチマン、東京03は高かった。ジャルジャルは低かった。審査方法に問題ないか?”ということも言えなくはないが、実感としてはそうではなかった。

個別のコンビ、トリオについての感想。

1)天竺鼠: 
第一回戦は、瀬下がはずれたマイク(?)をやたらと気にしていて集中力をなくしていた。その結果、どうもテンポの悪いかみ合わない出来になってしまった。ネタ自体も勢い重視のものであっただけに痛かった。第二回戦は、彼らの異端的なニュアンス、川原の異能を、きっちり見せつけることが出来たネタだったのではないかと思う。全国で売れる売れないは別として、彼らにしか出来ないものを感じさせたという意味で、よかった。バッファロー木村ではないが、”ナイス・ユーモア!”と言っておきたい。

2)ジャルジャル
正直言って、物足りなかった。これは、総論として言うべきかもしれないが、まわりのレベルの高い演者の中で、言ってみれば、何を持ってきても笑わせれば勝ち、というような猛者たちの中で、コンセプチュアルで且つ1ネタ1アイデアで突っ走る彼らのコントは、とても線の細いものに映った。かつて、若いころのダウンタウンも相当コンセプチュアルであったが、一方で、ごり押しででも笑わせるという野太さも同時に持っていた。ジャルジャルにはその野太さが足りないのだ。このレベルの高い大会で、その欠点が浮き彫りになったと言える。

3)インパルス:
第二回戦の警官ネタは、素晴らしかった。板倉もまた、”線の細いコンセプチュアルな天才”の系譜に入ると思うが(そういう意味で、個人的には一番好きな系譜なのだけど)、”警官が被害者の家に呼ばれる”=”女の子が男の家に呼ばれる”という(それ自体はさほど大した発想ではない)1アイデアを展開させていく力技に、彼らの”芸人”としての実力の深さを感じた。1アイデアのネタが大きく展開するときの、うねるようなグルーヴ。その瞬間を感じさせてくれたという意味で、見事だった。ジャルジャルが最も参考にすべき舞台だったのではないか?

4)モンスターエンジン
”競馬中継を長年やってたじいさん””戦で死んで槍が体に刺さったヘタレ守護霊”という、かなり斬新な設定を取りつつ、ベタでも何でも笑わしたる、という気概を感じさせた。才能もさることながら、その野太さにおいて、なんというか頼もしさというか、大きな可能性を感じた。期待と不安とともに見たが、期待以上だった。これもM−1といった大舞台で揉まれてきた結果だろうか?

5)ロッチ:
いつもと同じで、良かった。点数が、807、804、と高め安定というところもロッチらしい。1ネタ目の”かつ丼”はよいとして、2ネタ目の”巨乳”は、ネタのチョイスが惜しかったと思う。”UFOどこ?”はさすがにシンプルすぎるかもしれないが、”タトゥー(世界でひとつだけの花)””雨天中止を知らずに待ってる奴”でもいいし、もっとロッチの世界観を感じさせるようなネタをやってほしかった、と思うのは、ファン心理だろうか?しかし、まあ、その実力については、きっちりと分からしめたのではないだろうか?

6)しずる:
僕は、以前このブログで、”しずるは最近きびしい”というようなコメントを書き込んだことがあるが、ちょっとそれはあまりに短期的な見方だったと反省している。今回のふたつのネタにしてもそうだし、最近、レッドシアターやレッドカーペットでやっているネタにしてもそうだが、その練習量も含めて、鬼気迫るものすら感じる。ネタも磨きこまれた艶を持ち始めている。今回の2ネタ目。ネタとして決してよく編みこまれたものではないように思うが、そのテンポ、間、動き、せいふなどの総合力であるレベルを見せてくれた。それは、芸人としての”地力”とでもいうべきものだろう。

7)東京03:
とにかく、完成度がだんとつに高かった。設定をきっちりと積み上げ、その基盤の上で宙返りを打つような、基盤がきっちりできているから高く飛べるみたいな、感じ(?)。何言ってるんだ、僕は。
正直言って、やはり、お笑いという表現そもそのの外殻に触れるようなタイプではないと思うが、むしろ、表現としてのお笑いではなく、器械体操のような、競技としてのお笑いを突き詰めているトリオであるように感じた。端正で、美しいのである。

8)サンドウィッチマン
サンドウィッチマンが面白いことは間違いないが、M−1優勝のときから気になっていたが、彼らのボケとツッコミは、ひとつひとつがすごく小さいと思う(ボケのセンスがいいわけだが)。安定感というかバランス、松本人志も言っていたような”余裕”ぷりも大したもので、ボケとツッコミが小ぶりであろうが、トータル笑えればそれでいいわけではあるが、しかし、一方で、目指すべき地点の高さ、目線の高さ、お笑いというものを捉えるダイナミズム、のようなものをもっと見せて欲しいと思ってしまう。特にこのような大会においては。それは求めすぎなのだろうか?

3.総論:
コントというものが持つ特性にもよると思うが、今回ほどに、芸人としての地力、総合力、というものについて感じさせられた大会はなかった。そして、それは、ジャルジャルという(次代を担うはずの)才能ある若手が一皮むけるために、向き合わなくてはいけないテーマを浮き彫りにした大会、ということでもあった。今回の大会を見る限り、彼らは、その順位のとおり、同年代のモンスターエンジンやしずるに、いつのまにか水を開けられている。

東京03の優勝に関しては、審査員の芸人たちの心象とか言う以前に、納得できるものだった。芝居仕立ての組み立てで、その枠組みをきちんと立てている分、そこでのボケ、逸脱ぶりが弾けた。まさにお手本のようなコントだった。ただし、だからこそ言いたいのは、その完成度を崩してでも、どこかでお笑いの持つダイナミズム、逆説と向き合うことが、いずれ彼らのテーマになってくるのではないか、ということである。お笑いは不思議なもので、あるタイミングから、完成度が高まれば高まるほど、笑いから遠ざかっていくのだ。

審査方法については、総じて、今回もくろみの通りだったのではないかと思う。とにかく笑えるかどうかをリアルに捉えた芸人たちの審査はある意味きびしく、且つ的確だった。

 

『ふくらむスクラム!!』の可能性と芸人の格があがる瞬間

月曜深夜の「ふくらむスクラム!!」は、3月に終了した「新しい波16」からピックアップされた若手芸人たちがメインのコント番組。
公式HP上では、以下のように書かれている。

>2008年10月からスタートした『新しい波16』は、「お笑い界のビッグスターは8年ごとに誕生する」という8周年期説を信じて、次世代のスター候補を探すために始まりました。そして、2009年の4月からはその中で出会った>芸人たちと、8年周期説を実証するために、新たな番組『ふくらむスクラム!!』がスタートします。
>さまざまなキャラクターに扮したコントや、ロケ企画など楽しい内容盛りだくさんでお届けします。
>『新しい波』が『めちゃ×2イケてるッ!』『はねるのトびら』と進化したように、ゴールデンで看板を掲げられるような、新たなお笑い番組の誕生となるか!?
http://www.fujitv.co.jp/b_hp/scrum/index.html

僕は以前、「新しい波16」は、上記のような狙いを持ちつつも、なかなか苦戦している、という書き方をしたことがあり、「ふくらむスクラム!!」開始時も、大きな期待はしていなかった。
出演者は、

ひかりごけ
かまいたち
オレンジサンセット
少年少女
しゃもじ
ニッチェ

さすがに地味かな、と思っていたのだった(まあ、実際、相当、地味だけど・・・)。
ただ、実際にチェックしていくと、予想以上の楽しさを感じている。ひかりごけ自身は、昨年見たときから注目していたが、突破力ある。かまいたちは、中国人ネタのイメージが強かったのだけど、中堅らしい幅広い対応力を持っている。少年少女は言うまでもなく、素晴らしい。そういうわけで、自分の狭い了見を反省しながら、今では毎回楽しみに見ている。
なによりも良いのは、出ているメンバーが、何というか自分たちで楽しそうに見えるところだ。仲好さそうだし。「レッドシアター」の面々が、陽のあたる場所で、ある意味大きなプレッシャーの中で戦っているとしたら(お台場合衆国の応援大使をやって、歌まで歌うみたいだし)、「ふくらむスクラム!!」のメンバーは、月見草?みたいな感じで、その影でもう少し自由にやれてる雰囲気があり、それはそれで見ていて心地良いのだ。残念ながら、「めちゃイケ」、「はねトび」に次ぐスターは、「レッドシアター」のメンバーかもしれないけど、言うまでもなく、「めちゃイケ」的な方向性が、芸にとって必ずしもいいことではないわけで、新しい芸人の方向性というか、ポジショニングが、この番組から見えてくることに、密かに期待したい。

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ネタが見れる番組、ということで言えば、「リンカーン」の中で時々やる「芸人エレベーター」は要チェックだろう。個人的には、渡辺直美を最初に見たのは、これだった。その後、レッドカーペットに出て、ブレイクしたわけだが。三浦マイルドも、R-1サバイバルステージ前に出ていたと思う。既に有名な芸人が出る一方、「芸人エレベーター」でうまくいじってもらった無名芸人が、次に”レッドカーペット”などに出て売れていくという流れもある。”ゴー☆ジャス”なんて特に、この番組で松本人志が(本人の狙いと若干ずれたところで)面白がったことが、確実に今につながっている。

先週は「ものまね芸人タワー」。
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=KTmeVvnzsUo

圧巻だったのが(残念ながら、YOUTUBEではあがってなかったけど)、やっぱりエハラマサヒロだった。ドリフ大爆笑のオープニングでの、いかりやちょうすけと加藤茶の踊りの違い → 子供番組で歌うグッチ裕三 → スキャットマン漫談、の流れ。エレベーターを閉じてから、松本人志が、素直に「すごいな」と言っていたのが新鮮だった。キャイーン天野、宮迫も絶賛、というかとにかく感心していた。エハラマサヒロの格は、すごい勢いで上がっていると思う。
(同じように、レギュラーでないが、要チェックなのは、”がきの使い”の新年会での”山ー1グランプリ”もですよね。エハラさんも2年?前にこれに出ていた。笑わず嫌い王とかももちろんだけど・・)

大物芸人が「すごい」と言ったもうひとつの瞬間は、先週か先々週の「爆笑レッドシアター」での「ツッコミ選手権」。ジャルジャル福徳が、これも圧倒的なテクニックを見せて優勝したわけだが、それを見たうっちゃんが、コメントしようとして、思わず心の声が漏れた、という感じで、”すごい・・・”と呟いてしまったのだった。すぐに、”いや、地肩が強い”みたいな言い方にしていたが。ちなみに、うっちゃんはその後も”(福徳の突っ込みを見て)自分も勉強になりました”とコメントしていた。本当にすごいことだと思う。

そう言えば、先日の「SMAP×SMAP」で、SMAPのメンバーが福原愛たちと卓球対決をしていたのをたまたま見たとき、キムタクがロッチのフレーズ「UFOどこ!?」をいい場面で使っていた。


応援している芸人の格があがる瞬間に立ち会うことは、とてもうれしい。ものすごく普通の感想で恐縮ですが・・・。

閑話休題 多和田葉子と僕自身の貧しいツアリズム

(以前、前半だけアップしていたものの全文。個人的な文章)

数日間の駆け足で、急きょロンドンとパリに行かなければならなくなって、出発の前夜に荷物を詰めていると、飛行機ん中でこれ読んだらいいよ、とAが一冊のハードカバーを差し出してくる。多和田葉子の「溶ける街 透ける路」というエッセイ集。多和田葉子の本は僕が最初に好きになってAに紹介したが、今では彼女のほうが良い読者になっている。

この本は、作者が朗読会や大学の招待などで廻ったヨーロッパやアメリカのそれぞれの土地についての短いエッセイをまとめたもので、2006年に1年間、日経新聞土曜版に掲載されたいたものだ。

多和田葉子の小説には、なんというか、書かれている文字そのものが体温を持っていたり、体をくねらせたりするような不思議な体感があって、いつも驚嘆させられるけど、以前読んだ「エクソフォニー」もそうだったけど、エッセイも本当に素晴らしい。肉体感覚、と一言で言うとつまらないけど、体の感覚を全開にして街と向き合っているような、その肉体感覚というのが文字そのもののような、そしてその感覚を束の間共有させてもらっているような、幸せな時間を味わうことが出来た。

例えば、彼女がフランクフルトのブックフェアに出向いたとき、慌ただしく会場内を駆け回っている中で、ふいに、地面に鳥のヒナが落ちているのを見つける。彼女は考える間もなくヒナを手の平にすくいあげ、両手に包み持ったまま、インタビューの会場に向かう。

「インタビューの最中、手の中で鳥がもぞもぞと動き出した。「何もってるんですか」と訊かれて、「鳥です」と答えた。ドイツには「鳥を持っている」という慣用句があり、「ちょっとおかしい」という意味だ。わたしはこの日、文字どおり鳥を持っていたのだ。」

この文章は、その後、次のように続き、結ばれる。

「用事がすべて終わると会場を出てあてもなく町を歩いた。目の前にふいに木のうっそうと茂った公園が現れた。驚いてあたりを見回すと、わたしはそれまで知らなかった緑の町フランクフルトに囲まれていることに気がついた。ずっと手の中にいたせいか鳥の身体が暖かくなっている。手を開けて見ると、鳥と目が合った。風が吹いて、頭上で枝がざわざわと鳴った。その時、鳥はぶるっと身震いして、細い爪で強くわたしの手を蹴り、飛び立っていった。なんだ、飛べたんだ。わたしはだまされたような気持ちで、飛んでいく鳥の後ろ姿を見送っていた。」

すっと、町や目の前のものとすぐさま肉体的な交感をしてしまう、免疫不全のような感覚。感嘆しながら、しかし、実際に自分が海外に出たり、仕事をしている現場のことを思うと、脅えのような気持ちに捉えられる。そんな風に、自分を見知らぬ何かに対して開いてしまうことは、とても怖いことだ。

ロンドンには十数年ぶりに行ったが、飛行機が低空飛行になり、ロンドン郊外の農地を窓から見下ろして、なにか不穏な塞ぐような気分になった。忘れていたけど、それは十数年前にも感じた気分だった。緑の農地の中を、くねりながら道が網の目のように広がっていて、その道のところどころに、蜘蛛が繭をつくるように、赤い屋根で統一された小さな集落が張り付いている。整備されていない、中世の小さな豪族都市を連想させるような風景。それが、閉鎖性や無明性のイメージと繋がるのだろう。僕自身の貧しいイメージ、偏見の問題にすぎないが、その気分は町中に着いても消えなかった。

パリでトランジットがあったから、ほぼ一日かがりの移動にくたくたに疲れていて、そのまま眠ってしまいたかったが、翌日の仕事の場所を確かめつつ、夕食にファストフードでも買ってしまおうと思い、少し小雨の降る

町に出た。仕事の場所まではホテルから歩いて10分くらいのはずだったが、さんざんに迷い、体が冷えた。場所を確かめるために、背の高いビルを見上げているうちに、何年も前に、その町を同じように見上げたのかもしれない、もうひとつの視線のことがふいに意識にのぼり、さらにも気持ちが塞いだ。なんとか翌日の会場を見つけた後、マックでハンバーガーを買ってホテルの部屋で食べたが、何の味もしなかった。

ロンドンの二日間は、結局仕事場とホテルの往復で終わり、早朝にパリに移動した。ロンドンとは間逆に、飛行機からパリの町を見下ろすたびに、他愛もなく軽い気分になる。最近、読んでいた本のせいで、タクシーの窓から見知った町並みを眺めながら、この町でバルトは書いて交通事故で死んだ、ドゥルーズもここで書いて窓から飛び降りた、とひどく軽薄な感傷にひとしきり浸った。

午前の用事を済ませて、ジョルジュ・サンク近くのホテルにチェック・インすると、Kさんからメッセージが残されていた。Kさんは、幼少期と高校・大学時代をパリで過ごした女性で、たまたま同じタイミングでパリにいるから、夕食を一緒に取ろうという話をしていたのだった。

夕方、Kさんと連れだって、オデオンからサンジェルマン界隈をぶらついた後、彼女が子供の頃から通っているという、小さなビストロに入った。ビストロは地元の人でごった返していた。僕は子羊のローストを頼み、Kさんは、名前を覚えていないけど、ひき肉とポテトのマッシュのグラタンのようなものを頼んだ。ここではいつもこれを頼むのよ、とKさんは言った。一口食べさせてもらったが、素朴だけど、鮮やかな味で、絶品だった。

ワインを飲みながらあれこれ話をし、一瞬会話がと切れたときに、僕が、一度パリには住んでみたいですよ、と考えのないことを呟くと、Kさんは少し黙って、あなた、それは幻想よ、パリなんて経済も悪いし、少し場所をはずれれば貧しくて治安も悪いし、おすすめはしないわ、たまに遊びに来るくらいがちょうどいいのよ、と言う。僕は黙ってうなづくしかなかった。幻想。軽薄なイメージ。折り返されたオリエンタリズム・・・。

そうだよな、と思いながら、僕は酔った頭で脱線するのだった。ただ、そんな軽薄なイメージがそれでも人を突き動かすのだ。騎士道小説を読みすぎて風車に突撃したドン・キホーテや、ロマンスを読みすぎて不倫に走ったボヴァリー夫人の愚かさは、今もなお、続いている。ロンドンと結びついてしまった過去がまた瞬間目の前に浮かび、僕はしばらくの間、黙り込んでしまった。過去は、小説に書かれるように、線上の時間を遡行して追体験されるものではなく、それは磁力をもったひと固まりの実体のようなもので、ふいに目の前に現れ、今を脅かすのだ。

ふたりで赤ワインのボトルを1.5本飲み干し、なんでだか大笑いしながら、店の前でKさんと別れ、僕はタクシーに乗った。ホテルに帰る途中、セーヌ川沿いの道に出ると、川向うで、エッフェル塔が、白く瞬いている。ある特定の時間にはそうなるのだろうか、白金の花火を体中にまとわりつかせたように、冷たい光を放っているのだった。それは、クラピッシュの「PARIS」で、不治の病になったロマン・デュリスが、アパートから見下ろしたエッフェル塔だった。僕は、しばらくそれを眺めた後、写真を撮りたいと普段思わないことを思い、ポケットの中から携帯を取り出そうとしたが、手間取っているうちに車は市街地に入り、塔は見えなくなってしまった。

部屋に帰ってからも落ち着かなくて、僕はもう一度コートを手に持って、ホテルを出た。歩いてセーヌ川まで行き、対岸を見上げると、塔はいつもの夜と同じように、黄金色にライトアップされた静かな姿を見せている。特別な時間は終わったらしい。僕はそれでも、折角来たのだからと、携帯のカメラで塔を撮った。画面に収まった小さなエッフェル塔は、まるで絵葉書の絵柄そのもので、僕は軽い失望を感じた。星の最後の瞬きのように輝いていたそれは、結局、パリの観光名所を意味する貧しい記号として、僕の手元に残ったのだった。

その後、ホテルに帰るつもりで歩いているうちに、どこでどう間違えたのか、僕は別の道を歩いているらしい。酔いの名残りも手伝って、むしろ愉快な気持ちで知らない道を歩いていると、目の前にぼんやりと、凱旋門の巨大な影が見えた。大通りから眺める正面からの姿ではなくて、ななめ裏側から見上げることになった。予想外の場所に出て、僕はしばらくきょとんと、見なれたはずのその建造物の、案外憂いを帯びた様子を見上げていた。そして、それにしても、思ってもみなかったところで、パリの名所巡りをすることになったもんだ、とふいにおかしくなった。