お知らせ

長らく放置してしまいましたが、ひとまず告知だけ。



2011/11/3の文学フリマ、私は参加できませんが、当日出る雑誌に掌編を寄稿させていただきました。
B-01 書肆べうから発行される、「文藝不一」第三号に載ります。
小説特集はテーマ「怪獣」。
そして「落語家の見た被災地」として、柳家初花師匠のロングインタビューが掲載されるそうです。
まだ自分の書いたもの以外見られていないんですが、読み応えありそうなので、文学フリマにお出かけの方は、思い出していただければ幸いです。



某小説新人賞に投稿して落ちたものを、pixivに上げました。
この物語をどこかの新人賞に投稿するつもりはもうないので、供養の気持ちも込めて。
ボーイ・ミーツ・ガールなエセエフです。少年が頑張る直球なラノベです。
お暇な方はよろしければ御覧ください。


「FLOWRISH ――逃げる地図屋とニセの娘――」
http://www.pixiv.net/series.php?id=66182



長編はpixivの方が投稿しやすいんですが、はてダにも愛着があるんで、ぼちぼちこちらもまた再開していこうと思います。
今後とも宜しくお願いします。

蓬莱島

 八鶴楼が陥落したという。
 李芝浜も耳を疑った。あれは城市心臓部に建つ摩天楼、確か階層は二百を超えていた。落ちた、とは、ほんの数階沈んだだけなのか。あるいは丸ごと地底に持っていかれたのか。
 海辺の低い望楼からでは、さすがに様子は伺えない。遥か島中心部の高楼群を振り仰げば、幽かに煙が上がっているようにも見える。が、霞に巻かれているようでもある。
「まあ、丸ごと落ちててもー、おかしくないんじゃなーい? 慎重に真下を掘ってけばー、ぼこーっと一気にいくこともあるっしょー」
 第一報を持ってきたその声は呂律が怪しく、芝浜は眉を寄せる。相手は海風に蓬髪を煽られ、麦藁帽子を押さえつけていた。
 線の細い端正な容姿。対して身なりは酷い。破れたジーンズに片方だけのサンダル、藍のシャツはボタンを掛け違えている。そして手には常にフラスクボトル。欄干に腰かけ、壜をあおっては光る水平線を眺めている。
 潮の香りに混じって酒臭い。
「……藍采和」
「フルネームで呼ぶなーい」
「養素」
 そう呼べというから芝浜も付き合うが、今どき字もくそもないだろう、とは思っている。
「お前、ひょっとして知っていたのか?」
 養素は黙って肩をすくめた。同時に吃逆。
「警告したところで、ねえ。先生の仕事が増えるんだしー、いいじゃない? 別に」
「仕事じゃない。鬼の侵出に歯止めがかけられれば、それに越したことはない」
 よく言うねー、と明らかに聞こえよがしに養素は言う。鬼払って飯食ってるくせになー。
 芝浜は無視する。飲まずにいられない奴にどうこう言われる筋合いはない。
「行くぞ」
「ええー、風が気持ちよくて、動きたくなー……」
 芝浜は容赦なく、養素の襟首を掴まえて立たせる。こいつがいなくては話にならない。
 欄干に足をかけ、無造作に跳ぶ。ひらりと降りれば隣の楼、屋根の鴟尾に取りついて、甍の波を見晴るかす。目的地までの道のりを確認。大丈夫、楼閣づたいに行けるだろう。
「あちー、屋根熱ちー、足の裏熱ちー」
 養素のぼやきを背に聞き、来ていることを確認する。足が熱いのは自業自得だ、早くまともな靴を履け、とは何度も言ってきた。
 芝浜の身は紙のように軽い。うまく風に乗れば、紫華楼よりも高く浮く。ここまで軽量化できた者はそういない。付き合えるのは神仙くらいだった。
 だからといって、相棒がアル中仙人なのもどうなのか。芝浜は常々思いつつ、これまで問題もないので、ずっと養素を使い倒している。報酬は安酒でよい、というのも助かる。
 吹き上げる海風を待ち、背に受けて舞い上がる。空気を孕む服が重い。くるりと回って減速し、黄色く照った瓦屋根へ。すぐさま蹴上がり次の楼、避雷針で向きを変え、鵠の群を跳び越える。
 楼閣が足場なら、城市はひとつの山、中心目指して跳ぶたびに、次第に高度を増していく。気がつけば雲の中、視界はぼんやり白い。八鶴楼のあった辺りは、土煙か火の煙か、とにかくきな臭いものが立ち込めている。程近い中堅楼の屋上で一旦留まり、状況を伺うことにする。
 覗き込んでみれば、予想以上に「抜けて」いた。
 この辺りの摩天楼は防衛のため、身を寄せ合うように密集し、廊で繋がり合っている。一棟だけを落とすのは困難だろう、と芝浜は思う。だが、沈めたというよりまるで摘み取ったかのように、八鶴楼だけが消え失せて、井戸の底のような闇が淀んでいる。
 隣接する楼閣から覗き込む人々。時折落ちて、悲鳴と共に消えていく。千切れた空中回廊が、根元からぼきりと折れて後を追う。
「行くかい、先生?」
 いつの間にか隣には養素が立ち、強風に帽子を押さえている。フラスクボトルは尻ポケットに。
 芝浜は眼鏡をかけ直し、ジャケットの内ポケットから革財布を取り出す。中身を無造作に掴む。手にしたのは紙幣ではなく、符。
「僕の身なりに文句つけるならー、自分のレトロ趣味も、どうにかした方がいいんじゃないのー? そんな、財布だの、眼鏡だのさー」
 黙殺し、財布をしまう。分かっている、拘るのもナンセンスだが、全てを最適化してしまっても自分というものが何も残らない気がして、削れないのだ。余計なモノを外してしまえば、更に身が軽くなるのは分かっているのだが。
 養素へ一瞥をくれ、芝浜は黙って坑へと跳び下りる。
 自由落下も速度は遅い。紙が舞うのと同様に、風を受けて浮いてしまう。周りの楼の欄干に窓に、見物人が鈴なりなのが見てとれる。囃し立てる声、ばらまかれる紙銭。時折爆竹も混じる。顔のすぐ傍で破裂して、芝浜は顔をしかめ悪態をつく。が、養素は笑顔で手を振り、声援に応えている。
「野次馬をかまっている場合か」
 言い放つと、芝浜は大きく蜻蛉を切り、突き出た廊の残骸に降り立つ。軋んで大きく揺れるが、崩れはしない。
 地面に程近いはずだが、下は黒々と闇に淀んでいる。件の八鶴楼が、丸ごと地底に引きずり込まれたことを示していた。楼の中にいた多くの人々も、そのまま持っていかれたはずだ。気の毒ではあるが、今ごろは本人もよく分からないまま、鬼に成り果てているだろう。
 人々は天こそ安住の地とばかりに、高く高く楼閣を築く。鬼はそれを引きずり込み、地下に国を作り上げる。おそらくは地上と同じくらいの規模の城市に成長しているだろう。
 際限がない、と芝浜は思う。天を仰ぐ。歪な円形に切り取られた空の小ささが、その距離を強調しているようで、気が遠くなる。
 だが、他に生き残る術がないのだ、この島では。
 地の底から生暖かい陰気を孕んだ風。苦力たちはまだか、とさらに頭上に注意を払う。だが紙銭の舞う様子しか見られない。――間に合わないだろう。しばらく相手をしなければ。
 と、不意の突風に足下をすくわれる。隣の楼に打ちつけられそうになり、どうにか立て直して壁を蹴る。手近な露台に取りついて、体勢を整え息をつく。
「先生ー、ぼーっとしてちゃだめだよー」
 同じ露台に養素が降りる。手すりの上に飄然と立ち、酔眼薄笑いで芝浜を見下ろした。
 くそったれ。口の中で毒づいて、芝浜は返事もしない。
 総毛立つほど陰気が濃くなる。来たな、と身構えるなり、姿を現す。闇の淵からのっそりと。皮膚が青黒く変色し、眼窩の落ち窪んだ鬼が――先ほどまで生きて八鶴楼で生活していた人の、成れの果てが浮いてくる。
 即座に符を切る。声なき呻きを引きずりながら、鬼は坑へと消えていく。だが入れ替わりに二体、三体、闇の中から姿を現す。生前のままの身なりで、女子供も多分に混じり。
 壁を蹴る、続けて符を切り、対岸に着く前に数体を帰す。だがその倍以上が浮かび上がり、遙か彼方の天を目指し、あるいは仲間を増やそうと、生きた人たちへ殺到する。芝浜にも寄ってくる。符を切る手が追いつかず、力任せに蹴り落とす。足場のない中、周囲の楼に取り付きながらの降魔は難しい。
 数も多すぎる、と芝浜は唇を噛む。落ちた楼の規模に比例して、現れる鬼も多くなる。
 悲鳴が響く。人間に取り憑いたのがいたようだ。声の主を捜しもせず、無言で眉を寄せる。どうせ今から行っても間に合わない。
 力不足だ、と自己嫌悪に囚われそうになる。人の身でやれることに限界が、とはいえ。
 場違いに脳天気な声が響く。
「はーい、いっくよー」
 見上げれば、養素が頭上を軽々と跳び、手にした帽子に片手を突っ込んでいた。
 掴み取ったのは花弁の塊。無造作にばらまけば、風に巻かれて四方に舞い散る。
 赤に朱に白に。毎度のことながら、芝浜はその鮮やかさに目を奪われそうになる。だが惚けている場合ではなかった。
 花弁を浴びた鬼が動きを止めている。その間にできる限り、地底に返さねば。
 養素は舞い降りて、鬼の額をそっと指で突く。それだけで相手は浮力を失い、闇の向こうへ落下していく。
 こいつがいれば十分じゃないか、と符を切りながら芝浜は思う。自分が拙い業で降魔などせずとも、仙人一人で片がついてしまう。
 そして、待ちかねた大音声が降ってきた。
 側面の楼に貼りつくように待避。苦力たちは口々に奇声を発し、坑の上から落ちてくる。手にはそれぞれ長い竹竿。打ち鳴らす小気味のいい音を響かせながら、見る間に格子状に組み上げ、底を塞いでしまう。
「よう、お疲れさん」
 傍にいる苦力の一人が、声をかけてよこす。あんたもな、と芝浜は応じる。――唐突に、全て終わった。
 竹の蓋の上を歩いて中央へ。頭上を塞がれた鬼たちが、下側に何体も取り付き、怨嗟の呻きを上げる。隙間から伸ばしてくる手を避けながら進む。
 符を一枚切り、蓋の表面に貼りつける。裏側の鬼たちは全て、闇の底へ落ちていった。
 しばらくすれば、役人たちが来るだろう。現場を検分し、芝浜と苦力に報酬を約束するだろう。そして数日後には穴が塞がれ、また新しい楼閣が建設されるのだろう。
 養素が傍に降り立ち、フラスクボトルを取り出すと、おつかれー、と掲げてみせた。



 いつもの海辺の高楼。芝浜からベルの壜を渡され、養素は嬉しそうに抱える。アル中仙人は、どんな安酒でも喜んで受け取った。
 だが、今日は改めて壜を眺め、首を傾げた。
「これも美味しいけどー、たまにはいいお酒も飲みたくなるよねー。ボウモアの十七年とかー、マッカランの十八年とかー」
 芝浜は眉をひそめる。何を言い出すか。
「贅沢を言うな。そんなもの、この島にはどこにもない」
 遙か遠くの島の酒だった。今時、手に入るはずもない。
「うーん。……なら、あっち行ってみようかなあ。正直、ここの生活も飽きてきたかなあ」
「……島を出て行くのか?」
「そうだねー、あっちに飽きたらまた戻ってくるかもしれないけどー」
 そうか、と小さく呟く。養素なら出て行ける。仙人だから。飛んでいける。
「先生も、一緒に来るー?」
「無茶を言うな」
 人間の身では、飛んで海は渡れない。どれだけ身を軽くして、高く跳べるようになっても。――この島で生きていくしかない。
「じゃあ、お別れかなー。今までお酒、ありがとねー」
 あまりにあっさりとした挨拶だった。
 返事に窮している間に、養素は帽子を取って、芝浜に押しつけてきた。
「そんじゃー、預けておくねー。先生が持ってても、花は出せないけどさー」
「……分かっている」
 代わりに芝浜は、符を入れている革財布を取り出し、養素に渡した。
「あれー、いいのー? 大事なお仕事道具なんじゃないのー?」
「いいんだ。……余計なものは持たないことにした。もっと身を軽くする必要がある」
 そっかー、と受け取りながら養素は応じた。大して興味もなさそうだった。
「じゃーねー」
 手を振って、養素は跳ぶ。そしてそのまま浮かび上がる。地平線の彼方、見えない島へ向かい、振り返りもせず飛んでいく。
 芝浜は黙って見送った。





初出:「文藝不一」第一号(書肆べう)2010.12.5刊
※落語「芝浜」と同じお題、「芝浜」「酔っ払い」「革財布」の三つで何か書け、という縛りでした。

無題(シイとアリス)

 散々だった。
 突然の大雨は、うんざりする間もくれずシイをずぶ濡れにし、下着も靴も等しく不快に貼りついて体温を奪った。顔を伝う水滴は鬱陶しく、銃把を握りしめた手はもう感覚がない。
 そりゃ雨だからって、索敵の精度は多分変わらないけどな。
 口の中で呟く。身体的なコンディションは、好いとはいえなかった。命中精度はガタ落ちだろう。冷たい雨はいよいよ強く、得物はおもちゃのようなポリマーフレームの小さいのが一挺、背の低い廃ビル屋上は半端な高さのある縁が邪魔で、下を狙うなら乗り出すように腕を伸ばさなければならない。
 それでもシイは凪のように落ち着いていた。全くの無音、何も聞こえない。機能が正常に動作している証拠だった。だから焦る必要はない。意識は指先と視覚にだけに集中される。
 地上、照星の先には豆粒みたいな人影が二つ。アサルトライフル武装している。シイの視力なら顔は夜目にもはっきり判別できる、見覚えはない、
 だから、敵だ。
 皆には連絡済み、二人だと言ったら詳細を説明するまでもなく「撃て」と言われて、無茶な、と思う。「撃て」ということは「どちらも戦闘不能にしろ」というのと同義だ。
 銃爪を引けば反動、鼻をつく硝煙の匂い、薬莢は下に消える。でも目標の人影は動揺を見せただけでどちらも立っている。外した!
 ああくそ、こんな仕事させるならもっとまともな武器くれればいいのに! 自身にも聞こえない悪態を吐いて、狙いもそこそこに撃つ。三発外してようやく一人が斃れる。
 直後、銃口が向けられ、シイのいるビルの少し下の壁が弾ける。
 気づかれた!
 怖くはない。雨は泣けるほど冷たいし、弾に当たれば痛いはず。でも。
 静寂の中で、シイは思う。
 何回か経験した銃撃戦で、恐怖を感じたことは一度もない。
 更に六発、残ったもう一方がやっと崩れ落ちる。どこに当たったのか、即死させるのは無理だったらしい。標的はしばらく水たまりでのたうち回っていたが、それきり立ち上がりはしなかった。
 たっぷり三分ほど地上の二人を観察し、再び動き出す様子がないことを確認してから、シイは銃口を逸らす。腕を屋上の縁から引き寄せる。途端に力が抜け、首が勝手にがくりと垂れる。同時に周囲に「音」が戻ってきた。屋上のコンクリートを打つ激しい雨と、意外に荒い自身の呼吸、そして、どこか遠くから届く銃声。 視覚に神経を集中するあまり、聴覚が麻痺する。正常な機能、いつものことだった。乾いていない傷に触れる冷気みたいに、一斉に回復した音たちが、シイの神経を叩く。痛いくらいに。
 煩い。そしてとにかく寒かった。膝を抱えて丸まってみても、自分の体温が感じられる箇所は身体中のどこにもないようだった。また見張りを続けなきゃな、とは思ったが、姿勢を変えることすら億劫だった。
 まったく、散々だ。早く皆引き上げてきてくれればいいのに。


 * * *


 私は何もかも分かっているもの。
 アリス自身はそう思っていた。事実、人より多くのものが視えている。今日、大雨が降ることだって知っていたし、ずっと先のことだって既に知っている。
 アリスは深窓の令嬢か姫君のように遇されていた。最近になってからの周囲の扱いの変化に少し戸惑いはしたが、仕方のないことだと納得はしていた。
 大切にされている、というよりもむしろ、覚悟と諦めを促す無言の圧力みたいなものよね。
 そんな皮肉混じりに肩を竦めて、すれ違うコロニー住人たちのぎこちのない会釈に、屈託のない笑顔で応える。作り笑顔ではない、つもりだった。
 でもいずれそんな余裕はなくなるかもしれない、とも予感していて、「その日」が来ることより、自分の心理状態が平静でなくなる日が来ることをこそ、怖れてもいた。
 それにしても作り物みたい。
 そう呟いて仰ぐその先には、石で組み上げられた建造物が高くそびえる。
 華奢な塔が左右翼端にそびえ、中央には伽藍を思わせる屋根の高い、そして入口の狭い巨大な広間、繊細な彫刻の施された化粧石で表面を覆われて、まるでかつて地球上に現れた仏教寺院のレプリカだった。後ろに小さな枯れた森を背負い、周囲では絶えることなく薪が焚かれ、昼の来ないこの「世界」で常にその偉容を人間たちに知らしめている。寄り添うように遠巻くように寺院の周囲には貧相なバラックの住居が連なって集落を形成している。正に古代のムラを再現したような、それがこのコロニーの姿だった。
 コロニー中央に位置するこの寺院がただの「レプリカ」でないことアリスは知っている。
 知っていた、のではなくここへ来て感じ取った。いつ、誰が建てたものかはもう定かではないらしいが、古びた様子からして既に数百年を閲しているように感じられる。そして古くから住む近隣の住民は、ここへの参拝を日課としている。呼吸をするように信心し、香を焚き、礼拝する。
 建造した「むかしの人」の意図が那辺にあったのかは不明だが、この伽藍は既に「レプリカ」ではない。アリスはそれを、コロニーに連れてこられた一年前のその日すぐに悟った。
 サンダル履きの素足は冷え切っていて、石畳の隙間から覗く草に触れて濡れる。それをむしろ心地よく感じている。十代半ばの細い身体に、伊達眼鏡と酔狂でまとっている白衣、その裾が先ほどまで降っていた雨の水分を重く含んだ冷気に煽られて、アリスはなんだか愉快になってきた。スキップでもしたい気分だった。古代の仏教寺院とその前に佇む似非科学者風の扮装をした女、随分と奇妙な絵に違いない、とそんな風に思っている。
 それは抵抗だった。自身への抵抗だった。旧住民たちの信心に呑まれてその気になってしまうことが、なんて滑稽で哀れだろうと思っていたから、まず衣装で意思表示をしてみた。そして、そんなことをして遊んでいられる間はまだ大丈夫だろう、とも思っていた。
 雨に濡れた石畳を軽い足取りで、正面の寺院入口へと向かう。篝火の下、衛兵のごとく物々しい銃器で武装した男たちの脇を抜け、ぽっかりと開いた扉をくぐれば、だだっ広い空間と、何を祀っているのかも分からない金鍍金の祭壇がある。この中にだけは「昼」がある。貴重な電力を照明に回して、頼りない白熱灯の力で、夜ばかりのこの場所に異世界を現出している。
 常に香でうっすらと煙る中、すり切れた絨毯を濡れたサンダルでぱたりぱたりと、点在する参拝者の間を横切っていく。頭を下げられ、低く何事かを唱えられるのを背後に感じ、アリスは廊下に出て知らず溜息をつく。香の匂いの移った長いブロンドを肩から払って。
 部屋は先日来この寺院の一室に移されたが、寝るときにしか戻らない。大抵は書庫にこもりっきりになる。それはアリスだからこそ許された特権であり、膨大な電力を気兼ねなく使うことが許されている。
 またぱたりぱたりと磨き上げられた石の廊下を進み、狭く急な階段を地下へと下り、重い鉄の扉を押し開ければ、そこが居場所だった。
 無造作に積み上げられた無数のサーバ、音を立てて動作中を示す何かの機器類、ファンの呻吟にオゾンの匂い、這い回るケーブル、照明は消されていても、その異様は灯るいくつのモニタが青白く浮かび上がらせている。
 書物などただの一冊もない、そこは書庫だった。
 安堵にアリスはまた息をつく。

被害、地図屋事務所

「……だ!」
 だ? と同僚の妙な声に首を傾げ、ファムは車を降りる。先に事務所へ向かったクオリーが、入口で固まっていた。
 事務所、といえば聞こえはいいが、要は地図屋のための飯場だった。事務員が常駐しているわけでもない。雨露をしのげればいい簡素な小屋に、机がいくつかと炊事施設、簡易寝台があるだけだ。地図屋が現地調査を行う乾季の間以外は、無人で放置される。「植生管理局 第五管区 足留埠頭出張所」の看板ばかりが仰々しい。
 その現地調査シーズン初めの日、ほぼ半年ぶりに開錠しに来て、いきなりクオリーの「だ!」だった。
 草生した敷地を横断し、立ち尽くしたままのクオリーの脇から中を覗き込む。外の明るさに慣らされた眼が、屋内の薄暗さに順応するまで数秒。
「……うっわ!」
 ファムは大差ない呻きを漏らす。
 内部は地震か嵐にでも見舞われたような有様だった。食器や食料の収まっていた大きな棚が倒れ、皿が盛大に割れて飛び散っていた。米や乾麺のパッケージが破れ、中身がぶちまけられて陶器の破片に混じる。それを覆い隠すかのように、無数の書類が散乱している。そして全てが土埃にまみれていた。
 足下の割れた鉢を蹴ってどかしながら、クオリーは足を踏み入れた。ファムはまだその決心がつかない。これは何事なのか?
 視線を巡らせれば、向かい側の窓の一枚が破れている。
「野犬、か何かですかね」
 思いついたのはせいぜいその程度だった。空き巣にしては、脈絡の無い荒らし方のように感じる。何らかの理由で窓が割れ、風雨が吹き込んだのだとしても、棚が倒れるようなことはないだろう。
「いや、悪くない線ではあるんだけど」
 クオリーはしゃがみ込み、四角く固められていたはずの乾麺の破片を手にとった。大きく半円に削り取られている。見るからに歯型だ。
「野犬のサイズじゃないよな。ここまで大きいと」
 そこで言葉を切ると、黙ってファムを見上げてきた。
「……虎?」
 誘導された返答に、クオリーは頷いてみせた。
「え? ……えええぇえっ? いやでもここはもう森の外ですよ? 奥の方の、それこそキャラバンの農場でも襲った方が沢山食料だってあるのに」
 声を上げ、ファムは背後を振り返る。来た道を少し戻れば、大きな通りに民家や商店もある。人々の生活はすぐそこだった。そんなところまで虎が出てきたというのか?
「農場もここ最近被害が多いからな。対策強化してるらしい。知ってるか? 今年に入って虎、三頭駆除されてる。もう四百頭余りしかいないのにな」
「…………」
 クオリーの話に、ファムは言葉を返せなかった。室内に足を進める。紙切れや陶器の破片を避け、ふと気がついてしゃがみ込んだ。積もった土埃に、うっすらと一つ、足跡が見て取れた。猫の手型をそのまま拡大したかのような、可愛らしいとすら思える跡だった。
「一番の被害者は、俺たち人間より虎の方なのかもしれませんね」
「ん?」
「〈大繁茂〉の」
「……ああ、そうだな」
 二十年前のプラーンコーン〈大繁茂〉以来、熱帯雨林はずたずたに掘り返され、今も巨大な人工植物に占拠され続けている。天地講の焼光テロで無残に焼かれ、キャラバンの大規模な入植で開墾され、原生のままだった森はわずか二十年ですっかり姿を変えた。その広大さ故に、小さな人間一人足を踏み入れても、さして影響は感じ取れないが、それでも虎は激減した。
 クオリーは首を振り、がらくたを避けながら冷蔵庫へと足を向けた。そちらに害はないようだった。確かに半年の間通電していない冷蔵庫に、食料は残っていない。
「なあファム、お前調査中に虎に遭ったことあるか?」
「遭った、っていうか。一度遠くの方にあの縞模様を見た気がする、ってくらいですけど」
「同じようなもんだな。俺は声を聞いたことがあるだけだ。本当に虎だったかどうかは確証がない。お前の伯父さんは? 聞いてる?」
 昨年亡くなったファムの伯父は、〈大繁茂〉直後から地図屋を続けていた、言わば最古参だった。
「何回遭ったかは知らないですけど。独りで三時間、睨み合った話とか聞いてます」
 うわ、とクオリーは心底嫌そうに呟く。
 ぞっとしないよな、とファムも思う。過去の地図屋たちや、農園の被害は散々聞かされている。寝ているところを襲われた、だの、腕をちぎられた、だの。それも生き残った人の話だ。
「まあ、来たのが何日か前でよかったんじゃないか? 鉢合わせにでもなったら洒落にならないし。他所に被害があった、って話は今のところ聞かないし。虎さん無事に森にお帰りになってくれたなら」
 肩を竦め、クオリーは手にした小さい瓶をあおった。
 あ、とファムは指を指す。どうやら冷蔵庫に放置されていたビールを見つけたらしい。
 どうせ今日は仕事にならないさ、との言い訳めいた反応に、確かにな、と頷く。いくらなんでも半年放置されていた生ぬるいビールを飲みたい気にはならなかったが。
「で、この後は? ……連維局に通報か? やっぱり」
「え? そうなるんですか? やっぱり」
「じゃないの? 虎の仕業に違いないにしても。一応。不法侵入があったかもしれない、ってことで」
 えええええ、とファムは呻く。連維局を相手にするのも、虎に遭うのとは違う意味で避けたかった。
 おもむろに冷蔵庫に歩み寄り、冷えていないビールを取り出す。どうせ今日は仕事にならない。
「それ開けたら通報して」
「いや、任せますよ。クオリーさんの方が肩書き上でしょう」




スマトラトラに敬意を表して。
http://www.yomiuri.co.jp/eco/news/20100102-OYT1T00908.htm?from=navlp

散華会(さんげえ)、猫眉河

 波間には色鮮やかな花紙が無数に浮かぶ。流し燈籠の炎が点々と揺れる。蓮の花を模した紙片が絶え間なく降り注ぐ。中には紙銭も混じる。火の着いた爆竹も。橋の上から、岸の巨大な集合住宅から、人々が歓声を上げながら、放つ。
 護岸ブロックに身を寄せるように、水上バスは停泊していた。添乗員席でアミは溜息をつく。塗装も剥げかけた年代物の船に、年越しにふさわしい装飾は何もない。そもそもこんなに遅くなるはずではなかったのだ。夕方には帰港し、今頃は自室でビール片手にカウントダウンを聞くか、女友達と連れ立って、外の人々と同じように散華会を見物に出るか、いずれにせよとっくに、野暮ったい水色の制服は脱いでいたはずなのに。
「連維局のくそったれが」
 掌で舵輪を叩き、操舵手のシンがぼやく。連合維持局の検問で長いこと停められた挙句、今度は御華船が通るから、と一時航行禁止、こんな場所で足留めを喰らった。乗客のいない回送の船でアミはやることがなく、操舵席のすぐ後ろで頬杖をついているだけだ。うんざりしてるのは私よりもシンの方かもね、とアミは思う。
「年、越しちゃうね。やだなー、仕事終わらないまま、あんたと二人でなんて」
 アミの軽口に、シンは振り返りもせず、面倒くさそうに応じた。
「うるせえ、お互い様だ。俺よりボー爺さんの方がよかったか」
「……うーん、どっちもどっちかなあ」
 七十歳の現役操舵手ボー老人は、とにかくおしゃべり好きで、業務中だろうと構わずに若い頃の武勇伝を語りたがる。操舵の腕にまだ不安はないが、アミは少々苦手にしていた。
 一際大きい歓声が上がり、爆竹が鳴り響く。外から煙が流れ込み、アミは咳き込んだ。
 遠くからの歪んだ鉦の音、太鼓の音。打ち鳴らされる鉄琴と、風に乗って揺れる御詠歌。桃色のレーザー光が夜空を貫いて踊る。アミは窓から身を乗り出した。河上からゆっくりと、一際派手に飾り立てられた船が下ってくるのが見えた。
「御華船、来たよ」
 不機嫌そうなシンも、首を巡らせて後方を見遣った。
 御華船の船首には露台が組まれ、大量の衣装と装飾品に埋れた幼女が座っている。「御華堂様」と呼ばれる七歳の少女は、化粧した顔に笑みを貼りつかせ、時々手を振り、時々籠に手を突っ込んでは、生花を河へ振りまいていた。船の両舷には木蘭色の法衣を纏った僧が居並び、盛大に生花を放っている。見物の小舟が群がり、我先にと網で花弁を掬い上げる。
 年越しの法会、「散華会」のクライマックスだった。昔は水をかけ合う行事だったらしいが、寺院が御華堂様を前面に出すようになってから、水ではなく生花を撒き散らすように変わったという。
「今日一日の為だけに、北辺からトン単位で輸入してるらしいぜ、あの花」
 現実的な話に、アミはシンの座る操舵席の背もたれを叩いた。
「ほんっと余計なこと言うわよね、あんた。折角綺麗なのに」
 シンは反論せず、黙って肩を竦めた。
 煙と花の甘ったるい匂い。胸焼けのような気分になって、アミは息をつき、座席に腰掛けた。
「……私ね、誕生日が七月二日なのよ」
「あ? 今から言われても、三ヶ月も先の話じゃ、確実に忘れるぜ」
「そうじゃなくて! 御華堂様が選ばれるのが七月七日でしょ。これだけ誕生日が近ければ、絶対なれると思ってたの。……結局、もっと近い娘がいたらしくて、私に御華堂様は回ってこなかったんだけど」
 御華船に乗っているのは、中央寺院が選出した御華堂様だった。それとは別に、各地区の寺院も地元の少女を召し上げる。
「ふぅん。お前、あんなのやりたかったのか?」
「小さい頃はね。あんな綺麗な着物来て、ちやほやされたかった」
 大人たちに傅かれ、有難がられる存在。御華堂様として召し上げられると、丸一年は親許を離れて寺院で生活しなければならないのだが、子供のころはそんな悪い要素までは意識できなかった。七歳の七月七日を指折り数えて楽しみにしていたが、寺院からの迎えはなく、よその知らない少女が御華堂様としてあの華やかな衣装を着ることとなった。
 やらなくてよかったのかな、と今となっては思う。寺院での一年間、何をやるのかは分からないが、七歳で親許から離れるのはやはり寂しそうだ。
 歓声が頂点に達する。花弁が音を立てて水面を打ち、目の前を今、御華船が過ぎていく。
 露台に座る少女の笑顔が向けられ、飾り気のない水上バス、制服姿のアミとシンの上を滑る。‐‐そして、固定される。
 何? とアミは口の中で呟く。御華堂様に見つめられてる? うちの船が? 私が? 何で?
「おい、アミ!」
 シンの鋭い声にアミは弾かれるように立ち上がる。示される方に視線を向ける。操舵席の無線機が、か細い少女の声を途切れ途切れに受信していた。
『……助けて。もういや。……おねがい、たすけ……』
「な、何? 救難信号?」
「違う。……多分、今の御華堂様からだ」
 視線を上げるが、御華船は過ぎたあとだった。船首の露台に衣装の塊が見えるばかりで、少女の顔はもう見えなかった。無線機もすぐに沈黙した。
「御華堂様が無線通信?」
「副脳化しているなら、あり得ない話じゃないだろ」
「あの歳で?」
 シンは返事の代わりに溜息をつき、また掌で舵輪を叩いた。

冬の文フリ8P本に使おうと思ったボツ長編断片

 そして朝になり、自分がどこに来たのかを知った。
 簡素な二階建ての宿舎のすぐ裏、というよりすぐ上には、一株のプラーンコーンが天高く育っていた。高さ約二〇〇メートル、茎の根本の直径は一五メートルほどになっているだろうか。はるか上空で、重たげな穂が音を立てて揺れていた。発芽して三年目といったところか。これだけ育てばもう葉の脅威は地上には至らない。周囲には立木が見られなかったが、これはプラーンコーンの葉がなぎ倒したから、というわけではなく、人間たちが伐採したためだろう。
 ここは農場だった。
 元は熱帯雨林の直中であるはずだったが、開墾され、青々とした作物の海が広がっている。遠い樹々の影の上から、今しがた朝日が斜めに差し込んできた。暑期終盤のまだまだ強烈な陽射しが、地表近くにたゆたう薄い霧を切り裂く。葉陰の合間で、ナスやトマト、オクラなどが色鮮やかに輝いた。見回せば、早朝だというのに、畑の中には点々と作業をしている人の姿が見られた。
 プラーンコーンの真下、葉に遮られて日当たりのよくない区域には、宿舎など人々の生活のための建物が連なっている。農作業や開墾作業に使う機械、ロボットの類が何台か静かに待機し、隅には家畜小屋らしきものも見られた。
 散歩がてら、畑を貫くまっすぐな農道をゆっくりと歩く。後ろから、農作業へ向かうのだろう、フローターに二人乗りした中年の男女が追い越していき、おはよー! と気さくに挨拶を残していった。
 ここしばらくうろついていた森の中とは明らかに違う、爽やかな風に思わず眼を細める。緑の匂いを吸いこみながら、ファムは〈ピー〉で地図を開き、現在位置を確認する。
 そういうことか、と思う。
 これは「キャラバン」の一つなのだ。
 農業は同じ場所で何年も続けられない。プラーンコーンの発芽で農地が破壊されるおそれがある。そのため、発芽して二年目以降の安定した株の周囲に、一時的に農地が切り開かれる。ある程度育ち、根を深く広く伸ばした株の近くには、新しい芽は生えてこないため、少なくとも枯れるまでの三、四年は安心して作物を育てられる。地図屋が収集した情報を元に、連合の植生管理局が策定した開墾計画に従って、キャラバンは数年ごとに点々としながら農業を行っている。
 確かにここは、昨年調査した覚えがあった。もちろん開墾される前、他と変わらない熱帯雨林の中で、プラーンコーンもまだ七、八〇メートルそこそこの高さだったはずだ。
 自分たちの調査結果をふまえて植生管理局がGOサインを出し、キャラバンの一つが入植して、たった一年でここまで立派な農場を作り上げたのだ。
「……すごい」
 思わず感嘆をもらす。技術だとか、キャラバンの人たちの情熱だとか、勤勉さだとか。これを成し遂げたベクトルの大きさのようなものに、素直に胸を打たれた。
 そして自分たちの仕事も、この成果の一端を担っているのだ。
 足を止め、朝日にガラス質の表皮を反射させている巨大なプラーンコーンを、ファムは振り仰ぐ。
 一年前の仕事をぼんやりと思い出す。確かここでも、自分の不注意で観測用カメラを一台壊し、伯父から叱られたのだ。
 目頭に熱いものを感じて眼を閉じる。
 そういえばまだ泣いてなかったな、と思う。
 我慢する必要はないはずだったが、今ここで泣くのには躊躇いがあり、ファムは〈ピー〉で表示したままだった地図へと意識を向ける。現在位置には「D―三五開拓地」と素っ気ない名前が記載されていた。そして誰が付けたのか、コメントが追記してある。――「ハヌマン・キャラバン参上! 得意技はトマトの糖度上げ!」
 口元が泣き笑いの妙な形になったのを、自分で感じ取った。
 ハヌマン・キャラバンか、と口の中で呟く。なんとなく、憶えておこうと思った。


 助手席には片手に載るほどの小さな箱。中には「伯父だった粉」と「伯父の中にあった副脳」の両方が入っている。ダッシュボードにしまった方が収まりはいいが、心情的に抵抗があった。
 これ、お土産、と運転席の窓から差し入れられたのは、一盛りの野菜の籠だった。一目で穫れたてと分かる、トマトの鮮やかな赤、茄子の紫紺、青い匂い。
「辛いだろうけど、美味しいもん食べて早く元気になるんだよ」
 割腹のいい中年女性は、今朝、おはよー! と声をかけてくれた人のようだった。ありがとうございます、と戸惑いながら受け取り、どこへ置こうと少し迷う。結局、とりあえず助手席に置き、伯父の箱は、ちょっと落ち着かないがその上に載せた。
「仕事、もし替えたくなったらこのキャラバンに来るといいわ。地図屋の経験者は重宝がられるわよ。プラーンコーンに寄生しているようなコニュニティだし、専門家がいてくれると助かるもの」
 中年女性の背後では、昨日とは一転して白衣姿のマ・レイが、ポケットに手を突っ込んで、そんなことを言う。
「もうしばらくは続けてみます。仕事を教えてくれた伯父さんのためにも」
「そう。ならいいわ」
 軽い口調だったが、ファムの選択を指示してくれるような響きが感じられた。
「それじゃ、お世話になりました」
 頭を下げると、見送りの人々が一斉に手を振ってくれた。名残惜しいな、と思いながら車を出す。もう何泊かして心身共に休養を取るべきだ、と勧められたが断った。母に訃報を伝えることを含め、やることはまだあったし、今から出れば夜遅くなる前に、猫眉河の足留桟橋に着けそうだった。
 森の中の悪路を二時間、南へ。空の端がまだ白っぽいうちに、一般道へ出られた。スピードの出ない旧いオフロード車は、ここでは鈍重な亀のようなものだった。端のレーンでゆっくり走り、最初に見えた商店の黄色い灯りに吸い寄せられるように停まる。
 軽食店とも雑貨店ともつかない、屋台に毛の生えたような店だった。買ったのは、焼飯と豚の串焼きを二本、香片茶を一瓶。あとはもらったトマトを一つ、車の中で平らげる。
 どうも計算が狂ったようだった。このペースだと、桟橋についても最終の船には間に合わないだろう。今日は桟橋で一泊するしかないか。今から行って、宿が取れるだろうか。
 ネットで確認してみればいいのだが、なぜか億劫でやる気が起きなかった。
 だめだったらまた車中泊でもいいか、と思う。
 諦めがついたら、急ぐ気も起こらなくなった。腹ごなしにもう少し休憩するつもりで、〈ピー〉へと意識を向ける。新しいアイコンがいくつか増えているのを確認して、伯父の仕事環境をもらってきたことを思い出した。


 副脳にね、疵がついているの、とマ・レイは言う。
 キャラバンの居住区の一角にある、診療所だった。白衣姿の女性レンジャーは、医師の席に違和感なく座り込み、足を組んでいる。向かいの円椅子に軽く腰かけたファムは、どうにも落ち着かない。昨日の活動的なレンジャーの制服姿とは、あまりにギャップがありすぎた。
 本来の職業は医師なのよ、と言うが、白衣を着て目の前にいても、まだぴんと来なかった。
「君の伯父さんの副脳を再起動していて気がついたんだけれど。伯父さん、若い頃に脳クラックされた形跡があったの」
「……脳クラック、ですか?」
 ファムは問い返して、眉をひそめる。詳しくはないが、副脳をクラックし「本物の脳」の記憶にまで干渉する技術があるらしい。もちろん犯罪行為だ。生前、仕事と日常生活の細々としたことくらいしか話すこともなく、軽口の一つも叩かない、真面目一辺倒の人だっただけに、そんな不穏な単語が出てくるとは思いもしなかった。
「時期的に、天地講のテロがもっとも過激だったころね。プラーンコーンをナパームで焼き払ったりしていたころ。地図屋さんも何人も巻き込まれて、誘拐されたり、殺された人もいたらしいわ」
 マ・レイは腕を無理に伸ばした体勢で、デスクの上にあるキーボードを叩く。大時代な代物だな、とファムは思うが、そういえばこの診療所にある設備は、どれも旧そうなものばかりだった。
「私の憶測だけど、多分、伯父さんもそういったことに遭遇したんじゃないかな。見てはいけないものを見て記憶を消された、とか。もちろん無事解放されて、そのあとずっと地図屋の仕事を続けてこられたわけだけれど。クラック痕は、歴戦の勇者の古傷、ってところかしらね。ひょっとしたらその時、フェイ・アンにも対面していたのかもしれないわね」
 半白の髪に皺の刻まれた、伯父の顔を思い出す。天地講など、生まれる前に存在して殲滅されたテロリスト集団だ。自分の中では歴史に分類される話で、実感としてイメージはできない。連合維持局などは未だに神経質になっていて、広報でフェイ・アンの顔を目にしたりもするが、あれが伯父には現実の脅威だったのだ。