ある日
急に寒くなった11月のある日。
遠くの街に子供を連れて長い線路で帰ってきた。
言葉に対する感性が鈍ってきたのを感じる。
まず初めに意味に頭がいって言葉の響きや
表す世界観を味わうという感覚が無い。
これは言い訳か?
振り返り
目が覚めたら夜だった。
まだ夜は続いていて朝まで遠い。
昔のことが頭に蘇ってきて、
随分と違う自分になったな、と思う。
それは内面というよりは外部の環境の違いが大きい。
時間の過ごし方が違う。
昔はやることが決まっていなくて、やりたいことを探していた時間。
今はやることが決まっていて、やりたいことを探している時間。
どちらも目標とする所とのギャップはあって、
ただ満足しているような感覚ではない。
昔当たり前にしていたことが今は簡単にはできなくなったな。
昔は運動や遊びや仲間との時間があった。
今は仕事の時間が大きい。
挑戦するっていうのが仕事っていう名目でしかできなくなってる。
そうすれば、大義名分が立つって感じ。
もっと自由でいいんだろうけど、今が間違ってる訳ではない、という感覚もある。
少し大人になれたのかも知れない。
日記
改めて、このブログを閲覧している人はもういないが、自分だけがたまに覗きにきて、何かを書いて残しいく日記のような物だと思う。
結構前の記憶や今ふいにまとまりかけた考えが忘れられてしまう前にそっと書き留めておくような場所。
出来事を人に伝わるように丁寧に説明するのって結構難しくて面倒なことだと思う。煩わしくて、抽象的な描写に逃げてきたような気がする。ただ自分だけが思い返せれば良いか、て程の取るに足らない感じ。
学生時代は、詩を書いたり、それに曲をつけてギターとともに歌うことを繰り返しても飽きなかった。次はこうしてみようとか思いついたことを自由に出来て、それが一つの形としてまとまっていく所が面白く、それを発表することも楽しかった。
恋が一つのテーマであって、今思えばそれはほとんど欲望と違わない物だったけど、自分の思い通りに周りがなっていかない事とどう消化して、どう対峙していくのか、ということを考えていた。”憧れ”って言ったりして、答えの知れない事に立ち向かう意気地の無い自分とただただ向き合うことに満足していた。
自分が求められる場所や活躍できる場面というのはそれほど多くあるわけではない。そのことに気づくのは、実際そういった経験を積み重ねてから。
自分を分かった上で、何ができるかとか、何が効果的かとか、客観的に見れた方が良い。流されて生きるのではなく、日々の着実な目標を持って時間を進めていくのが良い。
次は目標について考えてみたい。
週末
土日とも休みだった。
土曜は近くの川沿いの道を遠くまで歩いた。
実家近くの河川敷とも似ていて、中々綺麗に造られた空間であると感じた。
今ここで仕事をして暮らしていく。
それが何に繋がっているか、は少し気になるけど。
日曜は比較的大きなショッピングモールへと出かけた。
ご飯を注文するのに現金を使うのはかなり珍しいらしいが対応はしてくれた。
何かが起こりそうな気配は随分前になくなって
ただ当たり前のような日常が横たわっている。
気体
心が渇いていた
自分は何者でどこへ行きたいのか。
風にさらされて
幻想の感情の気体に溺れて
本当の気持ちを忘れてしまう
休息
なりたい自分になろう。
なりたい自分にならなれる。
悲しみは愛情の裏返し
幸せは日常の中に
Drive a car
ふと、運転の拍子に
視界を広げてみた
行き先に焦点を合わせていたのが
ぼんやり斜め上の景色まで見えるように
もっと自由に
もっともっと自由に
何にも縛られない世界なら
心のままに暮らしていける
憧れて焦がれて新しい世界を夢想する
本当は今がちょっと窮屈なだけ
飲み込んだ言葉お腹の中で溶けないで
日常の渦の中に沈み込んでいく