神の発見


2005年8月刊  著者:五木寛之,森一弘  出版社:平凡社  \1,470(税込)  257P


神の発見


最近の五木寛之は、百寺巡礼をしてみたり、『何のために生きるのか』や『仏教のこころ』を出版してみたり、読者と共に「生きる道を探す」活動を続けています。
本書では、その五木氏が「カトリック司教」という高い位の聖職者と対談しています。


対談の相手である森一弘氏は、仏教の寺で修行したこともあるというユニークな経歴を持っておられ、カトリックの偉いさんがこんなこと言っていいの? と戸惑うような発言もたくさんしておられます。
かたや親鸞への共感を公言する五木氏も、
   与えられた教義や信仰を、そのままに受け入れるのではなく、
   自分なりに咀嚼し、自分にあった、自分だけの信仰をつくる
   ことが、いちばん大切ではないかと思っている
という宗教観の持ち主ですから、二人の対話は宗教・宗派の枠に無頓着に展開されました。


本書ではじめて知ったのは、カトリックで一番偉い教皇ヨハネパウロ二世(今年亡くなった?)が、教会の過去の過ちを謝罪していた、ということです。
十字軍、異端審問、高位聖職者たちの腐敗堕落、中南米やアフリカへの植民地主義と結びついた宣教活動。ほかにも、ガリレオ・ガリレイの宗教裁判に象徴される自然科学への弾圧、ナチのユダヤ人弾圧に対して沈黙したことを謝罪したとのこと。キリスト教、特にカトリックは、未だに進化論を迫害するような「謝らない体質」を持っていると思っていましたから、話題がキリスト教だけに「目からウロコ」です。


もうひとつ、五木氏が紹介した「仏教の坊さんがお布施の額を聞きあうときの符牒」には笑っちゃいました。
一はテンムダイ(天という字から、ムは無、大という字を取ると一になる)、二はテンムジン(天から人を取ると二になる)、五はワレムコウ(吾という字から口を取る)、というように数字を暗号にしてしまい、それでお布施の額を伝えていたとのこと。芸能人が「イーマン」だの「ゲーマン」だの符牒を使っていることを連想して、ちょっと笑っちゃいました。


最後に、五木氏が「森さんが、ああ、神はいらっしゃるんだ、という実感をもたれた瞬間はいつですか」と質問しました。対談の結びとして用意していた質問なのかもしれませんが、読んでいて唐突に感じました。こういう信仰の根幹に関わる内容を尋ねるほど五木氏は「信心深く」ありません。森氏は誠実に答えていましたが、「こんなヤツにそこまで答えなくていいよ」というのが正直な感想です。
誠実な対話、というのは難しいものですね。