「よそいき」と「球形時間」

はじめまして。
このたび hatena に登録したのですが、私は、goo にメインブログを持っています。

カロンタンのいない部屋から』
http://blog.goo.ne.jp/quarante_ans/

しかし hatena のすばらしいリンク機能を使わない手はない。そう考えて、goo に書いた内容のうち、「読書」「音楽」「映画」の文化系記事本文のみを転載することにしました。日付は goo に書いた時点。基本的にそのまま転載していますが、リンク機能を有効に使うため一部固有名詞を直したものもあります。けっこう数があるのですぐに全部は持って来られませんが、ちょっとずつ作業を進めます。

そんなわけで、こちらのタイトルは『よそいきカロンタンの「球形時間」』。
『球形時間』は多和田葉子さんのすばらしい小説のタイトルで、その中に出てきた、ストーリーとはあまり関係のないろくでなし高校教師の言葉「おまえの好きな本や音楽の話を毎日誰か二人の人間にするんだ。それで生きてる意味はある」(記憶曖昧につき大意のみ)が、本家ブログを始めた動機の一つだったからです。なお、「カロンタン」については
http://blog.goo.ne.jp/quarante_ans/e/ea4f5abd00ab7d3b3a7bd0ca795e24a6
に。

本家 goo は開設1年で何でもあり状態となっており、ほかのカテゴリには「スポーツ」はじめ、「ねこ」「身のまわり」「週間日記」など身近な話題や、飼いねこその他の画像もあります。こちらにもぜひ、お立ち寄りください。
どうぞよろしくお願いします。
2006-09-30記 本記事はページトップになるよう日付は10年後にしました

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本日までの記事転載完了。
初期の記事は日付が同じものが多いため、変更した記事もあります。しかし少しして、必ずしも必要なことではなかったと気づいたのですがそのままにしました。また、当初は選りすぐって転載しようと思っていたのですが、結局全部の記事になっています。
今後とも、よろしくお願いします。
本家 goo の当日記事(http://blog.goo.ne.jp/quarante_ans/e/cad25f44c61567c3d0780de673e32852

2006-10-05

『麦の穂をゆらす風』―「しようがない」―連休前夜

いい天気だった連休前日。3回券が4月いっぱいなのと、ぜひみたかった作品だったことで、シネマテークたかさきに『麦の穂をゆらす風』をみに行きました。
起きてから仕事して、その後の予定から午後2時にシャワーを浴びてのスタート。仕事の電話をしながら高崎線に乗りますが、映画の内容からビールはやめようと思っていながら、あまりの天気のよさに、これでビールを飲まないのはばちがあたると黒ラベルを購入。幸田文を読みながら20分飲んで5分寝て起き、缶コーヒーを買って暗闇に入りました。

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もちろん本作の白眉が、うねり続ける物語であり、政治・思想・歴史にあることは承知しているが、ここでもいつもそうしているように、「映画を映画としてみる」ことを主眼を置いて書きたい。
ケン・ローチは現在、私にとってもっとも気になる映画人の一人である。何本かみた作品でその魅力は何かと考えると、「社会派」と形容される多くの作家と違って思想的には実に中立で、哀しい存在でしかない登場人物の誰もを温かい視線で見守りながら、職人的な映画づくりで実に“社会的”な問題を叩きつけることでみる者の世界に対する愛を再構築させる、そういう映画体験こそその真髄なのだという、ひとまずの結論に達する。たとえば、娘の洗礼の衣装代を稼ぐため愚かな罪に手を染めていく『レイニング・ストーン』、だめな母親の奇妙な愛を描くことで「親権」について考えさせられる『レディバードレディバード』。
演出的にはいつも、独特のタイム感にうならされる。例をあげれば、前向きに今後の方針を話し合っていたはずの集会が、いつしかとんでもない事態に発展する『大地と自由』、思ってもみない事件から主人公の哀れな姿が見える『マイ・ネーム・イズ・ジョー』といったところで、個人的にはこのタイム感はまったく作風の違った小津のそれを思い起こすのだ。
そんなケン・ローチが描くアイルランド独立運動は、中心人物たちの政治思想と身近な人たちへの思いが複雑な物語の糸を構成し、その美しさ、愚かさをこの上ない切実さをもってみる者に味わわせる。その切実さは、兄弟、幼なじみ、恋人、友人の親という、たとえば『日本の無思想』で加藤典洋が「エコノス」と呼んだ感情的な愛と、国家、社会主義への思想的なようでも実はエモーショナルな愛の間で引き裂かれる主人公たちの、悲しみとそして愚かさへの共感と驚きなのだ。だからみる者は、兄弟のいずれをとがめることはできないし、ダミアンの恋人がこぶしを振り上げるのをわがことのように感じられる。
つまり本作は、「しようがないことへの憤りと慈しみ、そしてそこからしか出発し得ない、状況をよくしようとするための問題提起」という、ケン・ローチが一貫して描いてきた作品の一にほかならない。キリアン・マーフィはじめ俳優陣はいずれもすばらしいが、ローチ作品ではあまりきっちりしてない印象の作風に関わらず役者はどうしても駒という感じが強く、またそれは悪いことではないだろう。緑の、そして荒れた大地、石づくりの民家、ツイードのジャケット、パブやホッケーといったアイルランド文化もまた重要なキャストだ。
ただ、本作でパルム・ドールを受賞というのは、『戦場のピアニスト』のポランスキー、アカデミー『ディパーテッド』のスコセッシと同じく、自身のキャリアとしてはどうか。テーマがテーマだけにしかたないとはいえ、この作品はローチらしいユーモアがなく、これだけで彼の作品が語られるのはもったいない。
個人的には初めてのケン・ローチなら、『レイニング・ストーン』や『マイ・ネーム・イズ・ジョー』をおすすめします。

4月27日 シネマテークたかさき

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と、熱くやるせない2時間を過ごし、気持ちのいい夕暮れの高崎の街へ。これでラーメン食べて行けば塾にちょうどいいと思ったところ、予定のM君母上から腰痛で部活早退のため休むとメールあり。目当てのラーメン屋も売り切れで、では新たな開拓をしようと決めました。
そこで駅本屋で情報収集。知らないラーメン屋もあり、高崎が日本有数のパスタの街というのも初めて知って興味を感じた店もあったけど、何となくソースカツ丼で知られる一二三食堂というのが気になってここに決定。少し歩くし近くに公園があるので、そこでビールでも飲んでから食べることにしました。
途中パスタ屋も確認しならが、元高崎城方面に歩行。駅周辺はやたらと開発が進み、地価の安さからかやたらと古着屋が多いなど平成以降文化優勢のこの街ですが、少し離れると昭和のにおい。揚げ物のおいしそうな何人か並んだ肉屋もありましたが、何といっても少し後にソースカツ丼のため自粛。すると20年前には全国によくあった、いい感じの文京堂という古本屋がありました。
表には『炎のランナー』あたりの中途半端な旧さのパンフレットが並び、奥まったところに昔の中高生にとって秘密の花園だったエロ雑誌が並ぶ、それでもきちんと骨太の文芸書や思想書が並ぶ、こういった古本屋が商売できるのは、もう都内や高崎級の主要地方都市だけです。
お決まりの枯れた老店主が物言わず見守るその店は、意外なほどよく本がまとめられていて好感。初めて知った本も含めていくつかの候補のうち、赤瀬川原平『純文学の素』300円と、吉田秀和『音楽――批評と展望1』200円の文庫2冊を購入。こういう店主によくあるように、意外な高い声でお礼をいいながら袋に包んでくれたその本の重みは、「あまった本ありましたら……」と変なイントネーションでいわれながら渡される黄色い袋、それはそれでありがたいけどおもしろくない、ああいうのとは違った大事な本という感じがします。きっとこの2冊を思う時、あの店主のかん高い声をいっしょに思い出すでしょう。
それか少し歩いてら一二三食堂を確認。予定通りにビールを買って公演で少し、これはさっき買った2冊を、最初のかたまりだけ、80年代と60年代に書かれた極上のテキストを薄暗く誰もいない公園で読みました。今の季節、本を読むのも戸外がいい。人も車も通り過ぎるだけで、見ているのは半分くらいの月だけです。
ほど酔いかげんで一二三食堂へ。これがまたすばらしい店でした。大きな鏡がある店内は、まさに昭和の、しかも地方都市のそれ。これはおそらく近い軽井沢喫茶店文化の影響でしょうが、訪問帖が置いてあり、多くはガイドブックを見て来たという若者の携帯メール文字が踊っています。不思議な風情の店内には、小学生と母親の一組だけ。「西武にはもういい選手が入らないんだよ」「お父さんはひとに自己紹介させるよね」という。やはりこんな店に来る小学生は自分を持っているんだなと思うと、割烹着の店のおばちゃんが「ぼく、お豆腐食べてえらいね」なんていっている。甘めのほうじ茶はすこぶるおいしく、そして出てきたのは巨大3枚入りのソースカツ丼で、ご飯にきざみ海苔が載っているのも、これはかわいらしい。たまに衣ははがれても、それもご愛嬌。香の物もベストで、「今日サービスです」という味噌汁のえのきは見事なぷりぷり感。さらに、「コーヒーと牛乳、どっちがいいでしょう」。これは母子にもきいていたが、そのオプションは意外だったので、何となく「では牛乳を」。早くもって来ちゃってすみませんと中背のグラスで来た牛乳は何だかおいしく、ではと遠い席からお盆に全部載せてお勘定に行くと、「ああ、どうもすみません、ありがとうございます」。これはいい店だ。店を出ると、母子の乗った軽自動車がブー。いつか話ができるといいな、すばらしき野球少年よ。
駅に行くと、おしゃれな今風高校生男子が5人くらい全員携帯を見ながら歩くのに混じり、20年前から迷い込んだような商業高校のネーム入りバッグを持った脚の太い女子高生が「あのセンパイねー」。
高崎はこうみるとやはり田舎の街で、帰りの電車で10分ばかり、快い眠りにも落ちられた。
「しようがない」は憤りと慈しみもあるけど、こんな幸福な時間もまた「しようがない」。

(BGMはアイルランド好きゆえ音源は多いが、ここはトラッドでなくヴァン・モリソンのベスト。おっとなんと今、雷が)

『オールタイム映画個人ベスト90』選出

風邪で苦しんでいた木曜。仕事もはかどらぬまま、ブログ映画レビューの一部を転載している「Yahoo Myムービー」をみていたところ、生涯1、2位、『気狂いピエロ』『ゴッドファーザー』だけになっていた「お気に入り作品」に何となく追加し始めたところ、熱っぽいからだとともにヒートアップし、ついフルの100のうち10を余して90作をいっぱいにしてしまいました。いや、これは楽しい作業です。

別にいわれたわけでもないのに「一監督一作品」のルールのもと、次々に追加していく。そう、『ミツバチのささやき』でも「ミツバチ」とだけ入力して検索すれば、あとはクリックするだけで次々に増えていく様子はほかにはない快適さでした。
セレクションは比較的ストレート。「ベタ」なんて言葉は使いません。木下恵介監督でいえば衝撃度なら『日本の悲劇』などが忘れられませんが、パワーとは背景とかを考えると『二十四の瞳』を選ばないわけにはいきません。でも、ポランスキーならアカデミーの『戦場のピアニスト』より『ローズマリーの赤ちゃん』『水の中のナイフ』『赤い航路』の方が全然いいよな、ってことでここはポランスキー以外に誰も描けないだろう『赤い航路』に決定、と、万事がこんな調子で、一時は50にしようと思っていたのがどんどん増えてあっという間に90近く。途中、抜けはないかと川本三郎氏の名編集『映画監督ベスト101』を取り出して、しまったダニエル・シュミットがないぞ、などと、本当に映画ファン至福の数時間でした。

こういう「ベスト〜」は、われわれの世代では学生の時にそういうのが好きなやつが集まって酔っ払ったりすると紙に書いて熱中することはしばしば。そういう時には決まって、「あ、おめえベスト盤入れてる。反則」などと勝手なルールのもといちゃもんをつけたりするやつがいるのも定番でした。
何にも知らないくせに、それが何かであると感じてわけのわからぬことをいう。そういう時間は貴重ですが、よく考えると実はあまり進歩していないかも知れません。ただ、学生の頃は知らなかった映画人を何人か知っただけのことで。

途中、並び替えができないことに気づき、ベスト10にも入るルイ・マルの傑作、ブリジット・バルドーではベスト、ジャンヌ・モローにとっては異色の『ビバ! マリア』を90番目のために温存し、少し入れ替えながらも90をセレクト。まあ満足いったのですが、すぐにしまった、あれがないと気づいたのでひまをみて更新します。
それにしても、いつも塾で若いやつらに、これがどうだ、ああだといっているような、そんな時間はあまり役に立たないけれどかけがえのない時間。幸福です。
おっと、ねこどもは映画あんまりみないよな、やつらがTVに映っていてほっとけないのはサッカーで、別にボールじゃなく関係ないところ走ってても手近な選手の、なぜか頭にタッチして人間には迷惑です。

以前、塾でおばあさんにも若い女性にも見えるような、いわゆる「だまし絵」を見せてていて、気に入ったか中学生だったA君がいった「もう、こういうのないんですか」思い出し、こうなったら音楽でも、小説でも、ラーメンでも野球選手でも、じゃんじゃんリストつくってやると意気込んで探したけれどそんな都合のいいものはなし。おおそうだ、確かアマゾンにはその名も「リストマニア」というのがあった、あれやってるやつはこの楽しさを知っているのか、さてと……。

リストは(http://my.movies.yahoo.co.jp/fv/mv/profile-CILIuXSYYzx4mg--

(BGMは確かユニオンで500円くらいだった『ビバ! マリア』のサントラを探すも出てこず。やむなくトリュフォー作品集で、トリュフォーは泣けた『野性の少年』も捨てがたいが、映画史的意味、作風の斬新さから『突然炎のごとく』)

高橋源一郎、エミール・シオランの夕〜Public Image Ltd. の夜

goo には昨日アップしたのですが、Hatena ログインできずで、初めてオペラを使ってみました。新鮮です。ですので、昨日金曜の話。

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今日はただの日記。ただし「文学」がテーマなので「読書」カテゴリ―に。

今週は風邪でふらふらしながらそれでもだいたい働いていて、たまに動かなくなってねこどもが上に乗っかる中で寝たり、要するに苦戦続きの中、今日は午前中から2日ぶりに風呂に入り、お午に同級生M君に誘われてすしランチに舌鼓を打ったまではよかったが、帰ると風邪薬もきいたかPC前で眠り、朦朧とした中で夕方に家を出て、昨日もそうだが風邪の時はニンニクだぜ明日は仕事もないから大丈夫だと進路をまあまあ餃子まるよしに取るも、近づくと何か腹が張ってまあいいやという気になり、そういえば、まずいずいぶん前に仕事の資料として借りたサッカー本10冊返してなかったと市立図書館に行ったら金曜は7時までらしくまだ開いているのが、すっかり暮れなずむ6時。

そして図書館は、からだの生き返るところだと知る。

スーパー袋に入れて10冊をカウンターに。実は返却ポストもあるのだが、約半年10冊借りっぱなしの非を詫びるには、やはりカウンターで職員と対面すべきであろう。
ああ、すみません、ずっと借りっぱなしで申し訳ありませんと平身低頭に出るが、クールな女子職員は動じることなく返却処理を済ませるのはきっと彼女の優しさなのだろう。ここではたまに行く国会図書館のプロフェッショナリズムあふれる闘士公務員と違い、利用者に静かに注意することもない。まあ、それはそれでいいのかも知れないと自由を得た非道利用者は、ふらふらと書架に近づく。
実は朝、J−WAVE茂木健一郎が出ることをファンのOB・I君に知らせるべくメールを送り、やつが今、荒川洋司を読んでいて、この間貸した本か保坂和志をおもしろいといっていたので、東京猫さんのブログ(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20061209#p1)で知った保坂と高橋源一郎の対談を読みたいと書き送っていたのだから、今回の図書館訪問は実は確信犯といえなくもない。しかし、そう思い込んでいた『新潮』にはその対談はなく、ぽろぽろといくつか拾い読みした後、最新刊の『文学界』を手に取って、手近な座り心地のいい一人いすに座った。

この1冊を抱えてのおそらく15分ほどは、小さな文字の中に体が溶け込んで、そして立て直されたような時間である。

まず、芥川賞青山七恵。この23歳は隣町熊谷出身とはきいていたが、インタビューを読むと、それは自宅にほど近い旧妻沼町だと知った。それはいいのだが、先週あたりか毎日の夕刊で読んだ受賞の弁、誰か雑誌で読んだというアーティストの言、実はたぶん自分もそれを読んだような気がする、「25歳は25歳の音楽をやらなければならない。28歳の音楽をやってもいいが、22歳の音楽をやっては絶対にいけない」というのを読み、何とりっぱな23歳だと思ったのと相似形に、「高校の頃好きだったアイスランド“というところの歌手”(強調筆者)ビョークが私の音楽が完成するのは60歳か70歳というのを読んで」と書いていたのにどどどどど。まったく己の23歳を考えて恥じ入った次第である。
ふーむと思って、次にずっと注目していたが未読の佐藤優の連載らしき『私のマルクス』。ロシア外交の裏を語って話題の元外交官作家の同志社大時代の学生闘争を描いた連載のようだが、何といっても神学生としての信仰を通低音に、革命闘争と時代論を交差させてとんでもない世界が語られていた。早くちゃんと著書を読もう。
そして高橋源一郎の連載評論『ニッポンの小説』。今回は川上弘美舞鶴』の読解だが、その文字一つひとつをかき分けて、語りえぬところまで読んでいく姿勢にはあっけにとられる。途中、「行間」に関して荒川洋司の名も出てきたが、たとえばジョイスを読むこういのようにテキストはつねに開かれていなければならず、文学といういとなみのふしぎさ、きみょうさをうみだしていくこのテキストは、きっとでぃいえぬえいのにじゅうらせんのようにしんぴてきなものなのだろう。
ここで『文学界』を置いて、この時間を小林秀雄ならどんな風にいうのだろうなどと考えながら書架の間を歩き、周りを取り囲んでいる異様な本たちにたじろいだ。

世の中にはこんなに大活字本というやつがあったのか。

大活字本といえば、たとえば森鴎外とか中勘助とか、つまり高齢者うけのいい本くらいだろうと思っていたらそんなことはない。最新ベストセラー作家、東野圭吾とか重松清か、何というかすべての本が大きくなっていて、いつの間にかこれはガリバーの国に来てしまったのではないかと思うほどだった。
とはいえサイズはまあ、最近の中学生の教科書くらい。ダウンサイジングがすべてでないと常に言い散らかしている私だが、いくらなんでも遠藤周作『沈黙』が3巻に分かれているのでは大変などと思いながら、何となく読んでみたかった島尾敏男『日の移ろい』を少し読む。字がでかくて少ないから、読み進むにはかなりのページをめくらねばならず、これはたとえば寒い夜に布団の中で読むのには向かないななどと思ったりもしたが、本来そういうシチュエーションで読むものではないだろう。
と、ここで巨人の本地帯を去り、ほとんど学校には行かなかったとはいえ元仏文学徒として、知らない本屋に行っても実力を探るためにまず立ってみるフランス文学コーナーへ行く。近年の不調から蔵書は少なくなり、卒論にしたヌーヴォーロマンの作家などはほとんど見かけないのはさびしいにしても、当然よく知る名は何人も目に入る。そんな中、一冊取り出したのはヴァレリー論に始まる松浦寿輝『謎・死・閾 』。

そうだ、こういう本は4400円くらいするんだ。これじゃちょっと買えないぞ。

だいたい松浦寿輝の本は文庫でも高いからなかなか買えないということを思い出し、その見事な文体の評論に読み入る。
数葉の写真におけるガストン・パシュラールの「手」の中に性愛とはまったく別の「官能性」を見出し、その分析をサルトルのそれと比較する。結局、その相違を両者の出自に求めるあたりがぞっとするくらいエレガントだ。
そして、こちらは名前すら初めて知ったエミール・シオランの『涙と聖者』論。これも今までにニーチェに関する本を何冊も読んできたけれども知らなかった「私は涙と音楽とを区別するすべを知らない」を絶妙のタイミングで引きながら、鮮やかにかつ美しく開帳する異端の思想家の思考は実に刺激的だった。金井裕、出口裕弘の名訳への賛辞も忘れないところも行き届いていて気持ちがいい。
と、ここまでで約50分。

美しいリズム、しなやかな思考に浴びるように触れていると、何だか風邪気味のからだがすっと軽くなった。

これら文学がニューロンにつくり出した、茂木健一郎のいうクオリアが肉体にも作用するのかも知れない。高橋源一郎が同じ評論中で、どうしようもなくなった時は本棚から何か取り出して読んでみるというようなことを書いていたが、そういうものだと思う。
毎日浴びるように酒を飲んだり、少しでもおいしいものを食べようとしていて、それはからだにいいと思うけど、奇妙なことに肉体とはあまり関係のなさそうなことがからだにいいことがあるみたいだ。

4400円を借りていってまたも半年くらい拉致するという手もあるが、それはやめておいた。ここにあって、パシュラールがシオランがまだそれを知らない誰かを刺激する方がずっといい。人口10万の街でこれを手にする人間が何人いるか知らぬが、家に持ち帰って可能性を狭めることは罪な、はしたない行為のように思われた。

クロージング音楽がかかる中、手ぶらで図書館を後にして、餃子はやめてまいどやでサンドウィッチと焼きそばロール、ごぼうパンを買い、「サンドウィッチすぐ食べなかったら冷蔵庫に入れてください」というお決まりのフレーズをきいて塾へ。中2M君と「結局、いえるかどうかがわかればいいんだから」などといいながら証明や、逆は真か、などの数学をやった。「証明」の是非はよく議論になるが、「いえるかどうか」がわかるということを学ぶことは悪いことではないとは思う。

しかし同時に思う、「わかる」ことは学ぶことのほんの一部でしかなく、それは「わからないこと」のおもしろさ、よろこびにくらべたらまったくちっぽけでしかない。わからない、知らないということに叩きのめされ、以前にインタビューしたある女性アナウンサーの言葉を借りれば「ポジティブにちっぽけな私」を感じることは、こんなにも楽しいことなんだ。
だけど「わからないのすばらしさ」を知らせるにはどうしたらいいか、それは「すばらしくわからない」から、今はその「わからなさ」を「わかる」ために、小さな「わかる」を積み上げるしかない。
それは“正しい”のだろうか。

(BGMは金曜夜の定番NHK−FM渋谷陽一。何と Public Image Ltd. がかかり渋谷氏も久しぶりにきいたといっていたが、やつらは仏文学徒時代の20歳の頃中野サンプラザでみたのを思い出し、このわからなさの前でたじろいでいた自分を思い出す。さて、勢いつけて仕事の原稿書かねば)

山田洋次『武士の一分』―個人的な感想・映画の不思議

……最初に断っておきますと、このレビューはまったく個人的な山田洋次監督作品論に始まっていますので、あまり他の人の参考にはならないと思いますのでご容赦のほどを……

そういう映画ファンが少なくないように、申し訳ないけれどこれまで山田洋次監督作品をそんなにおもしろいと思ったことはなかった。そんな人々の多くがそうであるように私が映画をみるのは、何らかの発見で自分の映画観、ひいては世界観を揺さぶってほしいからであり、何かに安心したいからではない。そんな種類の映画ファンにとって山田作はただ退屈なだけで、夜9時からのテレビで放送されているそのことだけが何かであるような、たとえていえば中島みゆき蕎麦屋』の中の「大相撲中継」のような“風景”、そんな映画でしかなかった。
『寅さん』にしても『幸福の黄色いハンカチ』にしても『たそがれ清兵衛』にしても、「下町情緒」とか「ひとを想う心」とか「家族と仕事」とかの、「定型」に寄りかかり過ぎている。そう思っていたのだ。

そんなわけだから稀代の人気タレント、木村拓哉を得て話題だったこの作品に期待することは多くなかった。それなのに、み終わって感想をきかれると誰もに、「いや、おもしろかった、よかったよ」と語っていた自分がいる。これはいったいどうしたことか。
何か新しい面があるのだろうか。
あえて探せすなら、黒澤明ばりの大げさな雨や風の演出、十分とはいえないまでもイーストウッド許されざる者』を思わせる報復劇のプロットも悪くない。
しかしそれは山田作として、今までみたことがなかっただけのこと。主演キムタクはテレビのCMでみている彼がちょんまげと無精ひげで出ていただけのことだし、全然知らなかった壇れいも笹野高史もこの上ない演技を見せているが、それは彼らの素材を引き出したに過ぎないだろう。

そうしてみると、本作はこれまでとまったく変わらない山田作品に思える。では、なぜこの作品にこれほどまでにひかれたのか。
思いつくのは、映画観賞者としての自分自身の小ささ。映画は何も特別なことをしなければならないということはなく、おもしろければそれはそれでいいのだ。そういうことを忘れて、映画についてあれこれ考えていた自分のおろかさに気づく。映画は不思議なものであり、そのおもしろさはわかりようもないものなのだ。

それでいながら、三部作が終わった山田作を楽しみにするということは今後もないだろうし、山田作にない“発見”をこそ探して私は映画の前に座るだろう。それがまた“映画の不思議”なのである。
最後に繰り返すが、10年前から時代劇を演じていたような佇まいの壇れい、作中人物にしか思えない笹野高史はすばらしい好演。

1月1日 伊勢崎MOVIX

(BGMはNHKライブビート、フラワーカンパニー。これも新たな発見はあまりないがごきげんなロックンロール)

野矢茂樹『入門! 論理学』―この世にあってもっとも美しいことの一つ

今年最初の本のレビューは、すばらしい論考にいつも勉強させていただいている tokyocat さんという方のブログ(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20061008)で興味を持った“難しそう”な論理学の本です。

テーマを「論理学」に絞った本を読んだのはおそらく初めてだ。大学の時に一般教養で「仏の……」と呼ばれた教授の「論理学」の本は買ったものの、一度も授業に出ないままぱらぱらと本をめくった程度で単位は取ったし、後は高校数学程度の知識で、「B型は自己中心的だ〜B君はB型だ〜だからB君は自己中心的だ」というのも、前提を認めれば結論も正しくなる不思議で、やや退屈な学問体系くらいにしか思っていなかった。
それを読んでみる気になったのは、「物語」と「論理」、そして「文法」をめぐる tokyocat さんとのコメントのやり取り(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20060909)から、自分がまったく論理というものをわかっていなかったからと思ったからである。そして読んでみて、「論理学」が少しわかったけれどそれ以上に自分のわからないこと考えたいことが増えるという、“つまり”理想的な読書体験になりました。

個人的なことからで申し訳ないが、私は学習塾を始めた頃、「書かなきゃおぼえられない」という神話を解体することをテーマの一つにしていた。最近はドリルがはやったこともあったが、写経のような漢字練習や単語練習というのはやはり学習の、最近覚えた経営学用語でいえば「対費用効果」が悪過ぎる。その全文書き取り的イデオロギーに対抗すべく私が中学生に吹き込んでいたのは、「『書かなきゃおぼえられない』というのは言語のレベルで間違っている」という、一見論理のように思えるアナザーストーリーだったのだ。
“つまり”、基本個人で進める私の塾で、やる気を見せて漢字練習などを始め、律儀にも一行ずつ書こうとする男子中1にこういう。「漢字なんてのは、もうわかっているのを書いてもしようがない。それは勉強ではなく作業だ」、「えー、でも書かなきゃおぼえられないんじゃないですか」、「いや、例えば『ドラゴンボール』の亀仙人を知っているだろう。でも、『かめせんにん』って書いておぼえたのか。書いてないだろう。だから書かなくてもおぼえられるんだよ」というわけである。
これで「なるほど、そうですね」となるのはいいが、さらに「書かないでおぼえる学習」を身につけさせるのが簡単ではないことはいうまでもない。それどころか年を重ねるとともにいろんな意味で寛容になって、律儀なお勉強をしていても、まあそれはそれで精神の安定などということではまあいいのかも知れないと考えるのは、果たして職業倫理的にはどうなのかと考えたりもしています。

そう、世の多くの人に「論理」なんていうといやな顔をされるのは、多分そこに「物語」が見えないからだろう。反対に論理学でいう「反例」一つあれば崩れ落ちるはずの「B型は自己中心的だ」や「書かなきゃおぼえられない」が熱い支持を集め続けるのは、そこに「わかりやすい物語」があるからに違いない。
と、ここで私の生涯テーマの一つである「わかる」の謎が頭をもたげる。わかるかわからないかについていえば、私には「書かなきゃおぼえられない」というのはまったく「わからない」のだ。
もちろんこの問題は、「論理」のわかり方と「物語」のわかり方の違いだろう。この二種類を同じ「わかる」というのはいささか乱暴に思われ、大体「論理」のわかり方でいえば、「君の気持ちはわかる」なんてのはまったく意味不明といえる。

ちょっと話はずれたが、しかしこの「わかる」ということを考えなきゃ「論理」についてはまったく考えられない。
tokyocat さんは「もうこれ以上理由を説明しようがない決まり事は、じゃあいったい何に由来しているのか」を知りたいと書かれていた。このことを考えると思い出す感動的な話がある。金子隆一『ファースト・コンタクト』で読んだ、19世紀の大数学者ガウスが提唱したという地球外知性体(ETI)に送るメッセージ、すなわちシベリアのタイガを切り開いてつくる巨大な三平方の定理だ。「望遠鏡で地球の地表を観察するほど文明の進んだETIなら、ピタゴラスの定理を知らないはずがない」という一種の「思い込み」が正しいかどうかはわからないが、その近代的信念に私は感動した。ETI存在の可能性を計算して絶賛された「ドレイク方程式」で知られるドレイクが採用し1974年のETIへのメッセージとして発信された「アレシボ・メッセージ」には、同様のアイディアに基づく2進法や原子番号、DNAなどが選ばれている。科学は宇宙共通だという力強い確信を感じさせて気持ちがいい。

しかし問題はETIではない。地球人、何よりよく知っているはずの自分の頭だ。
野矢さんのすばらしい構成で楽しく読み進み、途中の問題にも挑戦するが、うっかりラーメン屋で麺の茹で具合などに気を取られていると時々間違える。さらに飲んだ帰りの電車で読んでいると、いくつかは理解をこえてわからくなってしまう。
明確にできているはずの論理がある者にはわかり、ある者にはわからない。当たり前過ぎることだが、明確に正しいのならなぜそういうことが起こるのだろう。
誰もがたどり着けるはずの道なのに、実際はたどり着けるものは少ない。それは100メートルを10秒未満で走れる人間があまりいないのと同じなのか違うのか。

例えば中学生の数学レベルでは、私はその難度をビリヤードの「クッション」にたとえる。「ハードル」でもいい。それが多ければ多いほど正解にたどり着く生徒は少なくなるのだ。
そして本書の問題でわかりにくいものを考えると大雑把に2種類があり、1)曖昧なもの、2)入れ子構造、つまり複雑なもの、に分けられると思う。

と、ここで思い出したのは、こちらは「思考」について感動的な考察が山ほど書かれている長沼行太郎『思考のための文章読本』である。確か「単語の思考」から始まる分類が、最後に「入れ子の思考」に終わっていることを思い出したのだ。
幸いすぐ見つかったので、ページをめくってみる。すると3章に「曖昧さ」について書かれていそうな、デカルト懐疑論から始まる「確実の思考」が配置されていた。これはと思ってめくってみるとその多くを忘れていることに気づく。すると今度は章末に三木清アリストテレスの「エンチュメーマ(省略三段論法)」というのに触れながら長沼さんはその延長上に「換喩(メトニミー)」を置いているのが気になった。

おお「メトニミー」は「赤ずきん」か「焼き鳥」かどっちだったかなあと、、これも10年くらい前に読んだ瀬戸賢一『メタファー思考』を探すとこれもすぐに本棚から見つかる。どうやら「赤ずきん」の方らしい……。

ここまで読んでいただいた方、ありがとうございます。
こんなわけで、過去に読んだ本の内容をぜんぜんおぼえていないじゃねえかと気づいた今夜。こうなると、“つまり”やっぱり書かなきゃおぼえられねえんだよとかつての中学生にでもいわれそうですが、こうやって本から本へと遡っていくのも、読書生活の楽しみの一つだぞといいつつ、何も結論らしいものがなくて申し訳ありません。
でも、わからないことがわかるというのはこの世にあってもっとも美しいことの一つなのだ、そういえば「論理」っていうものもそんな美しいものの一つかも知れないなと、かつての中学生にきかれたら応えようと思ったところでここまでにします。
野矢さんの専門は哲学だそうなので、次はヴィトゲンシュタインの本かなんか読んでみましょう。

最後に、この本からわかったこととよかった点を。
1)わかったこと
・選言、全称、量化、完全などの論理学用語
・論理学用語と日常生活語の違い
・論理学全体のアウトライン
2)よかった点
・論理学の本では画期的という記号を使わない縦書きという試み。ただし、「ド・モルガンの法則」などは集合のベン図を使った方がわかりやすそうなので、むしろ野心的なしばりといえそうです
・不完全性理論や哲学との距離の取り方。ヒットアンドアウェーのジャブのように興味を残す記述は絶妙だと思います。そういえば、ブルーバックスの不完全性理論の本は、アウトラインであおっておいて何かが書いてなくてびっくりした記憶が。もっともそのサイズで語れるものじゃあないのでしょうけど。

なんていいつつ、そのうち忘れそう。

06年12月29日読了 アマゾンにて購入

(思ったより長くなり、BGM、NHK−FM近田春夫小室哲哉のJ−POP特集は、中学生の頃にオールナイトニッポンできいて衝撃を受けた近田さんの話が久しぶりにきけてよかったが、それも終わりOB・F君が置いていった SHARP MP3 で、自分で入れてやった音源をシャッフルで今はジョン・レノン「ビューティフル・ボーイ」から「オブラディ・オブラダ」になり、なんだなんだと次に送ると、ポーグス、ブラッド・スウェット&ティアーズ)

ドゥルッティ・コラム "keep beathing"―壊れそうということはそれだけで美しく力強い

三が日も終わり、そろそろ日常に戻る頃。日常からははるかに離れた佇まいが魅力の英国ポップのレビューです。

80年代に出てきたバンドなのだが、実はCDを買ったのは初めて。その頃は中古で安かった12インチシングルを1枚買ったけど、それほどきかずにしまったまただった。それがもう5年以上前かJ-WAVEでやっていたUAの番組できいてそのこの世のものとは思えないサウンドに魅了されて探し出してきいたのだが、曲目検索もできたはずなのにその曲がどれかわからず、HMVの店舗やアマゾンでもどれを買っていいかと悩んだまま買いそびれていた。今回ニューアルバムが発売されることを『ミュージックマガジン』で知り、ちょうどいい機会と購入したわけだが、慌しい年末のあれこれを即時に覆い隠してくれる霧のような浮遊感があまりに気持ちよく、年末から年始にかけて最もよくきいた一枚となった。

正体についてもまったく知らなかったのだが、もとは3人編成のバンドだったのが今は「痛々しいほど痩せた体躯にレスポールを引っさげ、それこそ鳥肌が立つほど美しい旋律をつま弾く」ヴィニ・ライリーなる人物のソロ・プロジェクトになっているらしい。意味不明のネーミングはスペイン市民戦争時のアナキストから取ったという。
サウンドはほぼ一貫してシンプルなリズムの上に霞がかかったようなエフェクトがきいた柔らかいギターと、多少の色づけとなるストリングスやホーン、サンプリング、それとこれまたふわふわとしたヴォーカルという成り立ち。だがそのいずれもが、ギターの美しい響きを引き立たせるためにだけちりばめられている、そんな気がする。
曲のアイディアはバラエティ豊かだ。スパニッシュ風、ノルディック風、フォーク風。さまざまな要素が混ざっているのにその全体的な印象が同じように感じられるのは、口ごもったようで荒削りに思える構成が実は周到に練られてまとめられたものだからだろう。
1曲をあげるのは迷うけど、流麗なインストゥルメンタルで最後まで通すM8「ランチ」に続くM9「ガン」。かきむしるようでいて静かなアコースティックのソロにトレモロ、ストリングスが静かに加わり、M8をきいた後だけにこのままインストゥルメンタル快楽が続くかと思っているとそんな思いを裏切るようにヴォーカルが乗り、絶妙のディレイとの追いかけっこが続く。そうかと思うと、飛び上がっていくような旋律に美しく歪んだエレキギターが破壊的にしかも静かに踊る。
こんな壊れそうで静かな音楽を奏でるライリーは、「ラジカルでアナーキーでありたい」と語っているそうだ。ラジカルとかアナーキーとかいうのは、実は声高に力一杯こぶしを振り上げることだけではなく、こんな美しいかたちでも実現されるものなのだろう。やっていることはまったく違っているが、たとえば弱さをそのままに叩きつける早川義夫の歌がこの上なくラジカルでアナーキーなのと同じように。
壊れそうということはそれだけで美しく力強い。

06年12月22日初聴 HMVでネット購入

(BGMはもちろん本作。MWAでアーティスト名、曲名が記録されないのはなぜだろう)