槇文彦

queple2006-07-28

1928年生まれ。
東京都出身。



幼少期、日本にモダニズム建築を紹介した建築家の一人であり、フランク・ロイド・ライトの弟子であった土浦亀城氏の自邸を建築家の村田政真氏と共に訪れて以来、土浦氏に強い感銘を受ける。
自身の通っていた小学校は当時の若手モダニスト建築家であった谷口吉郎によって手がけられたもので、幼少期から当時の最先端のモダニズム建築に生で抵触するする機会が多々あったことが建築家としての原点であった。



1952年、東京大学工学部建築学科卒業。
当時東京大学助教授で、広島ピースセンターの計画に取り組んでいた丹下健三の研究室で半年間、実務経験を積む。



翌年、渡米。
クランブルック・アカデミーオブアート、ハーバード大学大学院で建築とアーバンデザインを研究。
ホセ・ルイ・セルトのもとで学び、大学院修了後はワシントン大学ハーバード大学の準教授として教鞭を執った。
アメリカ滞在中、当時モダニズム第一世代としてヨーロッパからアメリカに移住してきたエーロ・サーリネン、ワルダー・グロピウスといった建築家からの影響も強く受けている。


幼少期からの日本モダニズムの体験とアメリカでの教育、またチーム・テンのメンバーとも接触があったという点から“生粋のモダニスト”とされる。


事実上の処女作品である「名古屋大学豊田講堂」は1960年、槇が31歳の時に竣工。
日本建築学会賞受賞作品となる。


周囲の期待を決して裏切らない、建築界への颯爽なデビューを飾る。


1965年、日本で本格的な設計をする為アメリカでの生活に区切りをつけ帰国。
同年、東京に槇総合計画事務所設立。



1967年、槇文彦の代表的な作品、「ヒルサイド・テラス」の第一期プロジェクトが始まる。
地主である朝倉家はこの土地に急速な開発を望まず、あくまで住居を核とした“快適な空間”を要求した。
それに対し槇はプライベートを最重視した快適さではなく、街の一部になりうる空間の創造を“リンケージ”を軸に構成するという形でこたえた。
それは人の動きを意図的に誘う仕掛け又は構成要素であり、大小異なる樹木・広場の設置やガラスによる街と建物の境界線、パブリックな通り抜け空間の設置などのディテールを通して、人々にオープンな空間の提供を目指した。
2年後に第一期「ヒルサイド・テラス」が竣工。
その後代官山は時代の移り変わりと共に第一期当時の緑の生い茂る、昔ながらの商店街が点在する地域からファッショナブルな街に一変した。
やはりその中心的存在は「ヒルサイド・テラス」であり、「ヒルサイド・ウェスト」を含むとおよそ30年にも及ぶ一連のプロジェクトの設計者、施主が変わることなく手がけられたのは非常に珍しいことである。
槇自身そのような機会に恵まれたことを光栄に感じていると述べている。




槇文彦の特徴として挙げられるのはモニュメンタルや威厳的、または象徴的な形態を避け、細部に至っては丁寧かつ多様性をはらんだ無装飾なデザインという点である。
また素材に至っては一つに限定せず、場所・用途・表情によって使い分ける。
名古屋大学豊田講堂」と「立正大学熊谷校舎」で打ち放しコンクリートが多用したことは本人も意図的な行為であったと認めているが、その後の経験からそれは環境や場所によっては耐候性の欠落につながるという結論に至る。
またモダニズム建築とそれ以前の様式を比較。
以前の建築様式が持っていた優れていた点で現代建築が持ち得ないもの、モダニズムの欠点を見出し、それを自身の設計において克服することによってより洗練された建築物の創造を目指している。




しかしそのような“槇文彦らしさ”を見事に裏切ったのが「藤沢市秋葉台文化体育館」であった。
それは槇の真骨頂である“繋ぎの空間”への新たな挑戦であったが、最大の特徴はその形態にある。
カブトを連想させるメインアリーナとUFOのような形のサブアリーナで構成され、その間を繋ぎの空間であるエントランス・ギャラリーが連結している。
これは完全なる構造表現主義の表れであり、それまで避けてきたはずの象徴的形態そのものである。
それに対し槇は「単純な四角い箱では、空間の大きさが要求するエネルギーを十分に充足できない。寸法によってかたちのあり方と包容性が変わる」と述べている。
意図的に形態を強調するのではなく、あくまで内部空間の快適さの追求の結果生まれた形態であった。
また1980年代はポスト・モダン最盛期であり、そのような時代背景も一つの要因であったと思われる。


 藤沢市秋葉台文化体育館(1984)   


 ヒルサイド・テラス(1967−1992) 
                         
                                   
                    

しかし槇は他の建築家達のようにポストモダニズムに傾倒することなく、その後も過剰な形態や装飾性を排除し続けた。
あくまでモダニズムを軸とし、「スパイラル」や「テピア」からも見受けられる一貫したコンセプトとして挙げられるのが内部空間からの発想、細やかなディテール、控えめな自己主張などである。


現在に至っても槇は衰えることなく力を発揮し続け、最近では「世界貿易センタービル・タワー4」の設計を担当することが決定している。



1993年プリツカー賞受賞。





 スパイラル(1985)



教育という媒体を通し日本とアメリカの最高標準の教育機関で学び、様々な人物から影響を受け自己のスタイルを模索、確立していった槇文彦氏。
エリート街道をひたすら進み、現在も衰えることなく実力を発揮し続けている天才肌の建築家だと思います。
尊敬すべきは設計によって人々の行動を無意識に決定させてしまう力だと思います。
ヒルサイド・テラス」の一連のプロジェクトでは建物の内部空間に限定せず、外部空間までをも取り巻く設計で結果的には代官山という一つの街をも形成してしまいました。
そのような点から考えると数々の建築家達が敗退した“都市計画”という分野で勝利を手にした数少ない建築家の一人だと思います。
また対極的な素材を意図的に組み合わせるという試みもまた槇建築の醍醐味の一つではないのでしょうか。
非常に奥の深い建築家だと感じました。

石山修武

queple2006-06-27

1944年生まれ。
岡山県出身。


1968年早稲田大学大学院修了。
同年、東京に設計事務所を開設。



槇文彦に「野武士」と称された建築家の一人。



石山が崇拝する川合健二の自邸「コルゲートパイプの家」に強い影響を受け、全く同じ素材を使い設計した自身の処女作「幻庵」は当時の建築界に衝撃を与えた。
安価な素材と明快な構造、また高度な技術を必要としないことを強調した住宅の実現化はセルフビルトの可能性を人々に投げかけた。
その後発表された「開拓者の家」や「神官の間」からも「幻庵」で表現された要素を垣間見ることができる。




これまで“住宅”を主なテーマに、自身の作品や著書を通して現代の住宅に対する自らの思想を開示してきた。



「明らかに現代の日本の住宅は世界最低水準だ」



工業化が進み商品化してしまった現代の日本の住宅を痛烈に批判すると共に、住宅本来の質に全く反映していない高価格を嘆いた。



自邸であり、自身の志向を具現化したのが「世田谷村」である。
これは石山が追求してきた“オープンテック・テクノロジー”具現化の第一号であった。
4本の鉄管支柱によって支えられた単純明快な構造と屋上に設置された菜園からは、師である川合健二が生涯のテーマにしていた“自給自足”の精神を具体化すると同時に、工業と自然という一見対極にある二つの要素を見事に融合させている。
「世田谷村」に用いられている部品の一部は、石山が実験的に開発したもので、それらは「世田谷村市場」にて直売されている。
かつてウイリアム・モリスが自身の作品を展示販売した「モリス商会」が石山の活動内容と似ていることから、しばしば自身とモリスの共通性について言及している。


職人意識が強く、現在に至っても前衛的な姿勢を崩すことなく活動している。


現在、早稲田大学理工学部建築学科にて教鞭を執っている。






                「幻庵」 


 「世田谷村」






大学時代は山登りに没頭し、1,2年次の授業にはほとんど出席しなかったというエピソードもありまずが、彼の思想から再び住宅について考えさせられました。
人生で一番高い買い物だということを誰もが承知しているにも関わらず、人々はそれについてあまりにも無知であり、それの発展や向上について無関心だなと痛感しました。
石山氏はかつて日本の住宅は世界最高標準にあったにも関わらず、60年代に始まった「住宅商品化」によって状況が豹変したと述べています。
彼のセルフビルトの思想からはバックミンスター・フラーの「フラードーム」などが連想されます。
今後の“オープンテック・テクノロジー”での新たな住宅のあり方の提案に期待したいです。

  

 師である川合健二の「コルゲートパイプの家」

磯崎新

queple2006-06-13

1931年生まれ。
大分県出身。


1954年東京大学工学部建築学科卒業。
丹下健三に師事し、1963年、磯崎新アトリエ設立。

紛れもなく世界で最も著名な日本人建築家の一人であり、欧米の建造物の設計も多く手掛けている。


メタボリズム・グループのメンバーではなかったが、丹下健三の下で「東京計画1960」に携わり、後に発表した「空中都市」が“新陳代謝”の可能性を含意していることからしばしば“メタボリスト”とされている。


1970年代初頭には、磯崎独特の“廃墟志向”とメタボリズム的要素を重ね合わせた「コンピューター・エイディッド・シティー」を発表するが、その後、90年代の<蜃楼都市>まで都市計画の分野から撤退してしまう。



それ以降はスタイルを変え、1983年竣工の「つくばセンタービル」で“ポストモダン建築の旗手”とされた。
同時にそれは廃墟志向の完全な表れでもあった。
磯崎は自身が設計した「つくばセンタービル」が廃墟になった姿の模型を製作した。
設計と同時に廃墟をも想像し模型化するなどという、全く前例にない行為を平然とやり遂げた磯崎はこれ以降より色濃い存在となった。


“アンビルト”作品が多い磯崎だが、その中で最も論議を呼び“傑作”と謳われたのが1986年の「東京都庁舎設計競技案」であった。
純粋にコンペの要項に従えば構造は必ず超高層になってしまうものだったが、磯崎の案はそれらを無視し、唯一の横長長方形の外観を特徴としたものだった。
磯崎はまず“シティホール”の定義を根本から見直し、多くの人々が集える大聖堂のような空間を提案した。
既存の概念に真っ向から挑む、落選覚悟で臨んだこのコンペで磯崎の案は非常に高い評価を受けたという。
丹下健三が一等当選を手にしたが、磯崎はこのコンペでの“勝利”を犠牲にしながらも“都庁舎とはどうあるべきか”という疑問を人々に投げかけた。
浅田彰は磯崎案の当選を再三説いたという。


 北九州市立美術館(1974)                                 


代表作に「つくばセンタービル」、「ロサンゼルス現代美術館」、「水戸芸術館現代美術センター」、「北九州市立美術館」、「京都コンサートホール」などがあるが、それらから共通するデザインの一貫性は見られない。
意図的な廃墟感が漂う、それらの建築物の共通点といえば“プラトン立体”や“キューブ”だけである。
それに対し磯崎は一つのスタイルを固定すること、建築様式を追求することを避け、常に変化する状況に自身を置きたいと述べている。
そのようなスタイルから<アーキテクチュア・ピカソ>とも称されている。


著作活動も活発に行い、多くの海外の思潮を著書を通して紹介している。建築という分野に限らず、政治や現代思想に関する著書もある。
近年、自身が設計した「水戸芸術館現代美術センター」で行われた「アーキグラム展」で当時の前衛建築家達の活躍が紹介されたが、彼らの存在をいち早く認識し、詳細に参照したのは磯崎だったという。


磯崎は他のどの建築家よりも政治・思想・社会・美術・デザイン・映画などにも深く抵触し、それらを建築でディスクロースしてきた。
また多くの設計競技の審査員を務め、多くの建築家達の考案の実現化に多大な支援を果たした。



         水戸芸術館現代美術センター(1990) 




磯崎はまた、大胆で強烈な批判をすることでも知られている。
東京国際フォーラム(ラファエル・ヴィニオリ)、東京都現代美術館柳沢孝彦)、江戸東京博物館菊竹清訓)、東京都庁丹下健三)、東京芸術劇場芦原義信)をバブルの後遺症でできた粗大ゴミだと述べたのは有名である。
会合の場で「住宅は芸術である」と述べる篠原一男に対し「住宅は建築ではない」と発言し、激怒させたというエピソードまである。


2001年にギャラリー間で開催された「アンビルト/反建築史」では多くの実現しなかった作品が展示された。
現実に建ったとしても数十年後には取り壊されている可能性のある現存する建築物に対し、磯崎の木製のアンビルト作品の模型は恐らく100年以上存在することが可能であろう。
写真よりもリアリティーがあり、後世の人々に思想を伝えるという点では「過去にあった建築物<アンビルトの模型」であることは間違いない。
磯崎はそのような先のことまで見据えていたのかもしれない。


 空中都市(1962)
 
東京都都庁舎案(1986) 




賛否両論の建築家ですが、“磯崎の影響なしに建築を学ぶことはありえない”との声もあるようです。
他の建築家と比較するのは難しい、次元が違う建築家だと思います。
ただ“廃墟思想”に関しては理解し難い部分も多く、「つくばセンタービル」についてどうやら市民の皆さんはあまりいい印象を持っていないようです。
“建築家”というよりはもっと思想的、哲学的で様々な顔を持っている磯崎さんですが、自身では建築家を強く意識したことはないそうです。
彼の一連の作品、提案、言動を見て感じることは磯崎新が“建築家”ではなく“芸術家”であるということです。
同時に自身のエゴをあそこまで出しながらも建築家として認められているという点で単純に凄さを感じます。
最も興味のある、僕がもっと学ぶべき建築家の一人です。

アーキグラム

エレクトリック・トマト

1960年代、イギリスで活躍したアヴァンギャルド・建築家集団。

アーキグラム”とは彼らが出版していた雑誌のタイトルであり、それを通し数々の新たな建築・都市を提案した。

メンバーはピーター・クック、ウォーレン・チョーク、デニス・クロンプトン、マイケル・ウェブ、デヴィッド・グリーン、ロン・ヘロンの6人。


1961年の創刊当時、グループはクック、グリーン、ウェブの3人だった。

ビートルズが“Love Me Do”で彗星の如くデビューした1962年、「アーキグラム」第二号発行と共にチョーク、クロンプトン、ヘロンが加わる。

「リビング・シティー」でデビュー。
その後もハイセンスなグラフィックアート、コラージュやフォトモンタージュを駆使し高い思想力をビジュアル化し、新たな未来都市のあり方を誌上に掲載した。



<可動> 
<増殖>
<都市の変容>
<都市のネットワーク>
そのようなテーマを掲げ、新しいハイテクな未来都市・建築の登場を技術の向上と共に期待した。



同誌で紹介した数々のプランを彼らはあくまで“アンビルト”を前提としていたが、実際それらは実現する以上に世界を動かす影響力を持っていた。
彼らの一貫した姿勢は“ペーパー・アーキテクト”という新たな分野をも生み出し、その可能性を確立したという。


無論、「アーキグラム」上で発表された彼らの提案が実現されたことははない。


1974年の解散後、メンバー達がAAスクール、ロンドン大学バートレット校、ウエストミンスター大学といったイギリスの主要な大学で教鞭を執った事は非常に大きな意味を持っていた。
彼らの思想が多くの次世代の建築家達に強い影響を与えたいう。AAスクールで学んだレム・コールハウスもその一人である。
                
           
              「plug in city」 



しかし創刊当時、当然彼らのような前衛派建築家は批判の対象であり、ベテラン建築家達によって“学生レベルのただの冗談にすぎない”と罵声を浴びさせられた。
同時に彼らのようなアーティスト的建築家達の存在は多くの建築家にとって伝説的で憧れの存在であり、“建築界のビートルズ”とも謳われていたという。

                    「walking city」


                          

モジュールを追加することにより都市を形成してゆく「プラグイン・シティー」、住居者の希望によって移動を可能とした「ウォーキング・シティ」などの代表作に見られる彼らの思考は、“生きる都市・建築”という観点でメタボリスト達と共通するものがあったと思います。
あくまで紙の上だけでの具現化を前提として様々な提案をした背景には、1960年代という社会全体を建築によって変えられる可能性を秘めていたという事実もあったのでしょう。
イギリスという階級社会の中で上流階級にいた建築家。
職業上、保守的にならざるを得ない立場にいたはずの彼らが、何か既存のものを壊すかのように、知的にやりたいことを純粋に楽しみながら前衛的に行った提案の数々からは“余裕”や“遊び心”と同時に“彼らが社会に対してできること”に真剣に取り組む姿勢が感じられます。
メンバーの中心人物であったピーター・クックの事実上の処女作品である「クンストハウス・グラーツ」が2003年、世界文化遺産にも指定されたオーストリアの古都、グラーツに竣工しました。
是非一度訪れてみたいものです。

 ピーターの処女作、「クンストハウス・グラーツ」   

メタボリズム・グループ

今はなきエクスポタワー

1960年、日本で初めて開催された“世界デザイン会議”を契機に、評論家川添登菊竹清訓黒川紀章大高正人、槙文彦といった当時の若手建築家達によって結成。

“metabolism=新陳代謝”という定義からもわかるように、都市・建物の新陳代謝をテーマに数々の未来都市や建造物を提案した。


「都市・建物は新陳代謝を通して成長する有機体でなくてはならない」


それは建造物の永久不変を否定し、端的に言うとまず建物の構造を骨格部分(階段、廊下など)と可変部分(部屋、トイレなど)に明確に分けた。時代の変化に伴い起こりうる建物への新たな要求や老朽化などの問題を可変部分を取り替える事によって対応し、生き物のように成長し続けることができる事を建築要素をデザインの念頭に置く、日本初の国際的な建築・デザイン運動だった。

黒川紀章設計による「中銀カプセルタワー」、「ソニータワー」や菊竹清訓の「ホテルソフィテル東京」などが主なメタボリスト建築として知られ、それらは彼らの思想を具現化したものであった。
また大阪万博での菊竹清訓による、127メートルにも及ぶ「エキスポタワー」は、岡本太郎の「太陽の塔」と向かい合うように建設され、万博におけるメタボリズムの象徴であった。

メタボリズムが、当時若手の彼らにとって師匠格であった丹下健三にも影響を与えたということは「静岡新聞静岡放送東京支社」で顕著に窺うことができる。


ひたすら未来都市の理想を掲げるメタボリスト達だったが、実生活においては当時の生活水準からすると最低レベルのものだったという。彼らは現実に建てられる建築よりも、実現の当てもない実験的な計画にひたすら取り組んでいたという。
 ソニータワー(1976年竣工)

メタボリスト達は「海上都市」、「塔状都市」、「新宿ターミナル再開発計画」などの都市計画を提案するも、そのほとんどがアンビルトに終わっている。

そしてメタボリズムの存在は1960年代の終焉と共に次第に影を潜めてゆく。
皮肉にも彼らの思想は“行き過ぎた技術至上主義”と読み替えられ、都市ストックを否定するスクラップアンドビルトの志向だとされてしまったという。


現在にも残る“メタボリスト建築”の数々が、主要目的である“新陳代謝”を施される事はなく、代表作である「中銀カプセルタワー」が保存・取り壊しを巡って議論され、「ソニータワー」にいたってはすでに解体が決定しているという。

建物の“新陳代謝”の実現は難しく、結局“保存か解体か”となってしまうのが現実であろうか。
“日経アーキテクチュア”が述べていたように、現代は“メタボリズム受難の時代”なのだろうか。


大阪万博のシンボルでもあった「エキスポタワー」は老朽化と入場者数の減少から1990年に閉鎖。“原始”を含意した「太陽の塔」の永久保存が決定し大規模な修復作業が行われたのとは対照的に、“未来”がテーマだった「エキスポタワー」は1993年に解体が決定し、完全撤去された現在、その姿を見ることはできない。
それはメタボリズムの完全なる終焉を告げていたのかもしれない。
                  中銀カプセルタワー(1972年竣工) 



戦後の高度経済成長も落ち着きを見せ始めた1960年代、様々な都市計画の実現の可能性を秘めていた日本の成長期に丹下健三を追討するかのように独自の思想を掲げて登場したメタボリスト達。
もしかしたら彼らの思想自体が夢であったのかもしれません。
独創的過ぎる彼らの観念は世間からは受け入れ難く、実現したとしても様々な方面からの批判に曝されたと言います。
しかし影響力という観点からは紛れもなく強いものがあり、イギリスの建築家グループ、“アーキグラム”もその存在を認知していたそうです。
その存在自体がまさに賛否両論であったことには違いありません。

建物を見る限りでは確かに都市景観を乱していると言われても仕方のない、あまりに個性的すぎる外観を持っているメタボリスト建築。
しかし批判に曝される事を恐れず、自身の生活を犠牲にしてまで自我を通し戦い続ける、“強さ”を持っていたメタボリスト達は純粋に魅力的です。
利便性や快適性は抜きにして、何故、“真の建築物”であり世界的評価も高い、数少ないメタボリスト建築が解体の危機に曝されているのか自体、僕にとっては理解に苦しむものです。
“街の景観を乱している”とも言われているメタボリスト建築ですが、それらを解体し、“モダニズム”や“ブルータリズム”への中途半端な理解だけで、そこらの建築士たちによって設計された目先の利益しか考えていない流行りの“コンクリート打ち放し”建築や“デザイナーズマンション”が占領する、ただ単に“統一感”という美しさだけを求めた都市ほど味気のない、無機質なものはないと思います。

イギリスのニュースサイトが世界約100カ国の一万人を対象に行った「中銀カプセルタワー」の保存・解体についての調査では、95%が“保存”を支持したそうです。

それほど世界的に認知されている建造物の保存、もしくは“新陳代謝”を通しての成長を心から願うばかりです。

菊竹清訓

queple2006-05-31

1928年生まれ。
福岡県出身。

1950年早稲田大学理工学部建築学科卒業。


大学在籍時から頭角を現し、多数のコンペに参加。大学2年時、「商店建築懸賞競技」で初の一等入選。

菊竹の存在を世に知らしめたのは終戦直後の本格的なコンペであり、“歴史的スキャンダル”とも呼ばれている「広島世界平和記念聖堂設計競技」といわれている。
審査員である村野藤吾が“該当者なし”とし、自ら設計を手がけてしまったというものだった。
学部生として唯一、三等入選を果たした菊竹であったが、二等当選には丹下健三、三等には前川國男など当時の日本建築界の重鎮達が名を連ねていた。


大学卒業後、竹中工務店入社、その後村野・森建築設計事務所勤務を経て1953年、菊竹清訓建築設計事務所設立。25歳であった。


1958年、処女作で自邸でもある「スカイハウス」を実験住宅として設計。
翌年、「島根県立博物館」が竣工。
両作品とも代表作となる。
 スカイハウス

その後菊竹は「海上都市」や「搭状都市」の構想を掲げ、川添登黒川紀章らと“メタボリズム・グループ”を結成。
その大胆な発想の数々は建築界にとって大きな衝撃であり、それらは後に丹下健三が発表する「東京計画1960」にも影響を与えたといわれている。


菊竹の事務所では設計作業と同時に、実現の当てもない「海上都市」などの計画に取り組んでいたという。


1963年、“戦後の三大コンペ”の一つ、「国立京都国際会館設計競技」に参加。
第六次まで及んだ審査の結果、大谷幸夫に次ぎ優秀賞となる。
建物自体を持ち上げ、逆台形を構成とするその案に評論家川添登は「菊竹案こそ首席であるべきだ」とメディアを通して再三説いたという。
実現はしなかったものの、その斬新で大胆は提案は当時の建築界に強烈なインパクトを与えた。


同年、三段階デザイン方法論、「か、かた、かたち」を発表。
哲学的思考はルイス・カーンと共通点があり、世界デザイン会議でカーンが来日した際、自邸にてデザインについて熱く語り合ったという。



日本建築学会賞受賞(出雲大社庁の舎 1964) の他、多数賞を受賞。

伊東豊雄、大江匡は菊竹清訓設計事務所出身である。  
        島根県立博物館 
          

1960年代という最も日本がエネルギーに満ちていた時代、菊竹氏はメタボリストとして数々の都市計画の提案を試みましたが、そのほとんどがアンビルトに終わっています。
やはり時代背景というものがあったのでしょうか。
当時、国民の最大の関心は日常生活における経済的充実だったと言われ、直面する都市計画問題をメタボリズムという都市・建物の新陳代謝を中心に考えた菊竹氏を中心とするメタボリスト達の提案は、皮肉にも人々から“都市ストックを阻む、スクラップアンドビルトの志向主義”と間違った方向に理解されてしまったといわれています。
事実、1970年の大阪万博を最後に彼らの存在が第一線に取り上げられることはなくなってしまったそうです。
その後も“建物の新陳代謝”とテーマに「ホテル・ソフィテル東京」や「江戸東京博物館」を設計した菊竹氏でしたが、その独特で奇抜ともいえるデザインは都市景観を損ねているとの見解・批判もあるようです。
とはいえ、日本建築界に多大な影響を与えた人物には変わりなく、その絶対的な主張と実現を夢見て計画を進め続けたという半ば伝説のようなストーリーの数々にはただ圧倒されるばかりです。                   

ルイス・カーン

呼吸する天井を見つめるカーン

三大巨匠に次ぎ“20世紀最後の巨匠”と呼ばれる大建築家。


ユダヤ系の両親は迫害を逃れてカーンが5歳の時、エストニアから移住。
フィラデルフィアのスラム街で育ち、貧しかったが芸術的才能を認められ、奨学金を受け名門ペンシルヴェニア大学でボザール流の古典主義建築を学ぶ。


建築家としては遅咲きであり、自身初の文化施設設計である“イエール大学アートギャラリー”は50歳、世界的名声を確立した“リチャーズ医学生物学研究棟”は56歳で手がけたもの。

メディアなどに「それまでなにをしていたのか」と問われると決まって「スタディしていた」と述べたのは有名なエピソードである。

イタリアからギリシャ、エジプトを旅する“グランドツアー”を一つの糧とし、それを機に自身のスタイルを見出したとも言われている。

母校であるペンシルヴェニア大学で教鞭を執り、どんなに建築家として多忙であっても、レクチャーには遅れることなく欠かさず顔を出し、学生との対話の中でもまた建築の本質を追い求めた。

クライアントとのビジネスが成り立たなくとも、自腹を切ろうとも、一度受けた依頼は自身が納得するまで半端な仕事はしない完璧主義者としても知られている。


“レンガはアーチになりたい”

“太陽自身、建物の壁に当たるまで光の偉大さを知らない”

このような哲学的で難解、独特な言い回しの数々は学生や建築家達を惹きつけ、現在活躍している多くの建築家達に強い影響を与えたという。


美術館の最高傑作と評される“キンベル美術館”や空をも建築の一部とした“ソーク生物学研究所”、他界後に竣工した“バングラディッシュ国会議事堂”など一連の代表作品はブルータリズム建築、すなわちコンクリート打ち放しを軸とし、配管設備をなどを露出する建築様式を主に用い、幾何学的シェイプにより秩序立てられた、圧倒的な存在感とその精密さは、竣工から40年近く経った今なお、世界的重要建築物としてみなされている。


光や水といった素材を自在に操り、所々に使われる大理石や木材とコンクリート、ガラス、鉄とのバランスが心地よく、その美しさはまるで神殿のようである。



大建築家、ルイス・カーンが73年の生涯を閉じたのは1974年、インドからの帰途、突然の心臓発作に襲われ倒れたNYの地下鉄駅の便所の中だった。二日間も身元不明として死体置場に放置されてたという。

巨額の借金、未完の作品、そして神話が残された。



それまで培ってきたものを20年の間に全て出し尽くすが如く走り続け、最後まで建築に挑んだカーンにとっては、ミステリアスな最期も相応しかったのかもしれない。


 ソーク生物学研究所
                 
イエール大学アートギャラリー




「創造とは逆境の中でこそ見出されるもの」



安藤氏と同じく彼の言葉に強い感銘を受けています。
建築のことなど全くわからなかった僕にとっても強い衝撃を与え、惹きつける魅力がありました。
知れば知るほど奥が深く、それまでの建築家達とは一線を画す、巨匠と呼ぶに相応しい建築家だと信じています。
メディアなどを通して聞こえてくる様々な伝説に純粋に憧れを感じ、時に僕を励ましてくれる存在でもあります。