うるわしの宵の月/〜6巻
「この年になってなぜ高校生の恋バナにこんな」と自分で思うくらいにはハマってます。悪口を聞くと機嫌が悪くなる程度にはぞっこんですw。
イマドキの漫画の傾向として、若干コマ割りが大き過ぎるのはあるんだけど、この漫画にはすげーあってると思う。とにかく主人公と相手が美男美女で画面が美しいことが、このふたりが魅力的な人間であることの圧倒的な説得力になってるもん。
いやあのね。人の美醜はともかくとして、見ていたいと思うほどの魅力って、造作だけでは生まれないと思うんですよ。宵ちゃんの良いところは、圧倒的に性格が良くて市村先輩が好きだけど、好かれるために先輩に媚びないところだと思う。その媚びなさってそれはそれで宵ちゃんの自信のなさの裏返しなんだろうけど、恋をして、自分の知らなかった自分に出会っていく、というのはすごく美しい思春期の成長物語なんじゃないだろうか。
というわけで、7巻の発売が待ち遠しいです。待ちきれなくてつらい。
近況報告。
ふと思い立って昔好きだったバンドの名前を検索したら、「ファンなんだろうけど、熱心に追いかけてたわけじゃないんだろうな」みたいなテキストを見つけ、「なにも知らないくせに」みたいな気分の勢いで、昔のライブを聴くために中古のMDプレーヤーまで買ってしまった。
いや私だってなにも知らないけど。
ライブ写真を撮るとか録音するとかうるさくなくて、顔の繋がったバンドにライブをダビングしてあげるなんて全然普通の時代だったのだ。
誰かを好きになれば、「ああ。この人って私の知らない人なんだ」と思い知らされる瞬間は普通にある。
直接触れるわけでないファンの立場であればなおさら、半端なルートから入ってくる“裏情報”で、自分以外のなにかを知った気になるなんて、ちゃんちゃらおかしい。
去年はそういうことを思い知らされることの多い年だった。
どんなに好きでも、人生を私に捧げてくれという権利は私にないし、それを言う立場にないことも分かっている。
でもそれを好きだった気持ちは私のもので、その気持ちを的外れに推し量られるのは不愉快なんだよね。
自分がそのバンドの“ファン代表”のつもりはないし、あきらかな事実誤認につっこみも入らないほど、忘れ去られたバンドだってはなしなんだけどさw。
どうしても聞きたかったライブのMDを探すために、部屋を借りてから数えるほどしか帰っていない家に帰った。
そこそこあると思ったライブは1本しかなかったけど、個人的にスペシャルな思い出のライブだったので良いと思う。こんなことでもなければもう一生聞かなかったと思うし。
LPモードで録った音はボコボコだったけど、ライブでの動きとか、メンバー紹介の時のその人の表情とか、その時の自分の気持ちとか不思議なほど覚えていた。
あんなに誰かを好きになることはもうないだろうな、とあらためて。
ところでなぜ今頃そのバンドを思い出したかというと、その人を好きになったきっかけが、テレビに出たその人を見て「この人森田剛に似てる」と思ったからで、最近剛ちゃんの退所がニュースになっているからなんだよね。←昔からあの手の顔が好きw。
それで見に行ったライブではまって、相乗効果で森田剛も大好きになったという。脱退の傷心を、「学校へ行こう!」にはずいぶん癒してもらったもんですw。
んでこのテキストを打ってる横で、日テレの番組で若かりしV6が歌っているという。
とりとめがないけど、支えてもらった思い出は、時間がたっても綺麗だね、っていうことで。←そうなん?
ヤクザと家族 The Family
監督・脚本:藤井道人
見ていてすごくすごくすごくイヤな気持ちになった(w。
なんで見に行ったかと言うならもちろん綾野君の評判が良かったからで、でも「綾野君でヤクザ?」とは思ってたんだよね。だって綾野君てヤクザっぽくないじゃん。←ヤクザにうるさい(w。
見たらやっぱ綾野君はヤクザっぽくはなくて、でもこの役はヤクザっぽくはない綾野君だから良かったんだと思う。
ヤクザって、チームプレーだと思うのよ。
でも山本賢治(綾野剛)ってのはハンパなカリスマで、鼻っぱしらの強さでヤンチャしていても、モノホンのヤクザに拉致られてしまえば友達まで巻き添えにボコボコにされて、臓器売られて終わる程度のチンピラなんだよね。
それは6年後のシーンでも変わらなくって、まあこの映画の場合対立組織の侠葉会があまりにも非道で普通の落とし所が探せないっていうのはあるんだけど、やっぱ組の盃もらった人間が、相手の幹部ボコったらマズイに決まってるじゃん。
その結果ああいうことになって、でも賢治があれをやったのは大原(二ノ宮隆太郎)を殺されたからで、柴咲(舘ひろし)のタマを軽んじられたことが許せなかった中村(北村有起哉)とは動機から違うよね。
その辺り、この映画が「ヤクザと家族」なのがヤだなあ、って。
山本って、要は父親に見捨てられたことに拗ねてたんだよね。
第一章のエンディングがすごい良いんだけど、あのシーンっておいたが過ぎて怖い目にあった19才児が、親のところに帰って泣きじゃくるシーンだと思うんだ。
結局山本にとって重要なのは柴咲って“親父”ができたことで、他の組員は“家族”だったわけでもないんじゃないかなあ。
そういうところでなにやっても可愛がられる山本が銃を使う前にヤッパを使う中村が、「なんか愛玩子と搾取子って感じ^^;w」とは思ったw。
最終章がタルいって感想結構見たけど、基本的には最終章だけで良い映画だと思うんだよね。先の2章はその関係性を描く前提で、描きたいことは全部最終章にあるんだと思う。
そこでヤクザがあまりにも無力だから、見てていやーな気分になるんだけどさ。
ゆか(尾野真知子)が「あんたなんか好きにならなければ」って言ってたけど、それは山本だっておんなじで、山本がゆかを捜さずにいられなかったのは、山本がゆかを好きでどうしても会いたかったからだと思うんだ。まあ多分できた子どもを始末できなかったのも、ゆかが山本を好きだったからなんだろうけどさ。
でもそれって細野(市原隼人)にとってもおんなじで、細野こそ山本に出逢わなければヤクザにもならなかっただろうし、再会した山本とのかかわりを断てなかったのは、再会がうれしかったんだろうなって思うよ。だとしたらラストのあれって、ゆかがやっても不思議じゃないんだよね。
ヤクザという生き方が非難されるのは当然として、その生き方を捨てることすら許されないのなら、どうやって生きろって言うのよねー。
綾野君が疎外感キャラだっていうのは散々言ってきたことだけど、「ヤクザと家族」はどこにも居場所を作れない人間が、かりそめの居場所を求めてあがくおはなしでした。そのあがきこそ切なかったよ。
あ。翼の磯村勇斗はめっちゃ良かったです。その存在こそ手向けの花束であるような役でした。