暁のかたる・しす

文筆家/編集者・中川大地のはてなダイアリー移行ブログです。

『パシフィック・リム』が更新する太平洋戦争後の怪獣映画像

辛抱たまらず、隙をついて『パシフィック・リム』みちゃいました。諸々の造形や動かし方のフェティッシュに関する「わかってる」感やおれたちの感性との通じ度がどれだけ凄いか、あるいは物足りないかについては、今更こちとらごときが世評に付け加えることはないけれども…。

個人的に最も感嘆したのは、こういう映画に「パシフィック・リム(太平洋沿岸)」なんてタイトルが与えられてることのとてつもない批評性ですね。つまり日本的な怪獣特撮&ロボットアニメとハリウッドVFXの想像力の融合を核に、これをローカルな文脈性を超えた環太平洋の感性だと豪語してみせた点。

国内的な特撮評論の文脈だと、どうしても怪獣なるものに対しては、太平洋を挟んだ敗戦のトラウマ意識に結びついたワビサビを解するか否かを評価軸とするハリウッド的な野蛮への屈折した見下しが先立ちがち。けど本作は、基本的にはその怨念を受け止めた上で、非常に自覚的に普遍化しようとしてる印象です。

本作での怪獣の描き方を、造形面や演出面の達成を認めつつも、人類の「外敵」としてアッケラカンと排除対象にしてる点に浅薄さを感じ、「所詮ハリウッドか」と残念視する見方もあるだろう。
けど実はこれは逆で、戦後の非対称な史的因縁を乗り越えうる人類側の結束の供儀として人類内の怨念を外側に括り出し、これを叩くことで内的な対称性を取り戻さんとする世界大の藁人形として、怪獣なるものが捉え直されている。異界への道が宇宙ではなく海の底だという世界観からも明らかですが。

執拗に強調される原子力や被曝のモチーフは『ゴジラ』直系の歴史性を受け継ぎつつ、原爆を落とした側と落とされた側の別のない人類共通の課題として、コントロール困難だけど飼い慣らすべき必要悪という描き方がなされてる。このへん完全に戦後型から3.11後型の描写になってますね。。

本作がそういう視点を獲得したのは、ギレルモ監督がアメリカ人でも日本人でもなく、メキシコ人という調停的な立場にあったことも小さくない気がします。さて、ここまでされてしまうと、おれたち日本人はこの先どんな普遍の表現を打ち返していけばいいか。真剣に考えないといけない宿題になりましたね…。

【仕事告知】大修館PR誌『辞書のほん』に掌編小説掲載

ちょっと異色の仕事です。
奇妙な縁あって、大修館書店(『明鏡国語辞典』『ジーニアス英和辞典』などの版元)が発行している季刊PR誌『辞書のほん』2013年春号のシリーズ連載「辞書、のような物語。」にて、掌編小説「レキシカントは言霊生命の夢を見るか?」を書かせていただきました。下記リンク先の書店で無料配布中のようです。

⇒目次 http://www.taishukan.co.jp/item/jishonohon/9.html
⇒取扱店舗 http://www.taishukan.co.jp/item/jishonohon/ichiran.pdf

これは放送作家藤井青銅さんや小説家の森山東さんなど、様々なジャンルの言葉のプロが毎号二人ずつ「辞書」を題材にした掌編を寄せていくというオムニバス企画なんですが、これまで書かれた10編をまとめた単行本が4/20に発売されるとのこと。辞書つながりで、ちょうど『舟を編む』の映画公開に合ったタイミングなのがナイスですね。

http://www.amazon.co.jp/dp/4469291005/

この所収に間に合わなかったのが大変残念ながら(笑)、今回の拙作では言語心理学認知心理学で人間の言語能力の根幹にあるとされている「心的辞書(メンタル・レキシコン)」の概念を外挿した近未来SF的な世界観を膨らませてみました。
で、お話としては、手垢つきすぎもいいところのベタな本歌取りタイトルの通り、Google日本語入力やボカロ文化を通過した現代日本の情報環境の水準から、ディック以来のお約束の主題をアップデートしたらどうなるか…という今時ありえないほどストレートな思考実験をしています。
『電気羊』だけでなく『ブレラン』『攻殻』、あと『初音ミクの消失』なんかもこっそり踏襲する感じで…

ただ、それだけだと辞書のテーマを抽象方向にズラしてお茶濁した感じになってしまうのがイヤだったので、もしかしたら紙の辞書の最後の存在意義になるかもしれない言語ゲームたほいや」を重要なギミックとして絡め、お題の正面突破を図ってみたのが自分的なポイントです。はたして成否やいかに…。

というわけで、久々に実作脳を使えた楽しい仕事でした。
機会あればご笑覧ください!

『東京スカイツリー論』絡みの露出いくつか

東京スカイツリー論』刊行後の主要な関連露出をアーカイブしておきます。

【その1】
「SYNODOS JOURNAL」7/10のエントリにて、論考「東京スカイツリーから展望する人口減少時代の「未来都市」像 ――〈タワー的公共性〉と〈ショッピングモール的公共性〉の交錯として」を執筆しました。
http://synodos.livedoor.biz/archives/1952654.html

スカイツリータウン開業後に実際に現地を歩いてみての印象とともに、本書では紙幅と構成の関係で展開し損ねた、大阪万博太陽の塔」と「お祭り広場」の葛藤構造が、いかにスカイツリー(“高さ”の論理=キャラクター的象徴性=〈タワー的公共性〉)とソラマチ(“広さ”の論理=シェルター的実用性=〈ショッピングモール的公共性〉)の関係に引き継がれているかをまとめています。

【その2】
朝日新聞夕刊8/21付の「文芸/批評」欄にて、論考「スカイツリーに見る文明の芽生え 〜都市を森に 欲望と共存〜」を執筆しました。
http://digital.asahi.com/20120822/pages/entertainment_ev.html

論点が多岐にわたってしまったために「スカイツリーについて何を言いたいのかわからない」という反応も散見される本書のメッセージ部分をシンプルに圧縮した記事でしたが、これ自体に「やっぱりわかんないよ!」という反響も結構あって頭を抱えたりとかも…。

その適度なわからなさ故か、なんと本原稿が某有名予備校の模試での国語の読解問題に使われるという怪我の功名もあったりしました…(苦笑)

【その3】
TOKYO FMの番組「未来授業」9/17〜20の放送にて、本書の内容を元にしたレクチャー(?)をさせていただきました。現在はPodcastでお聴きいただけます。
http://www.tfm.co.jp/podcasts/future/?ym=201209

また、概要は下記サイトでテキスト化されています。
http://www.blwisdom.com/future/22/

【その4】
「週刊 教育資料」(日本教育新聞社)11月12日号「自著を語る」にて、拙著の執筆背景に関するインタビューを受けさせていただきました。
http://www.kyoiku-press.co.jp/epo/index.html

教育現場向けの媒体ということで、特に修学旅行コースとしてのスカイツリーについて訊かれ、「東京タワー先輩とディズニーランドさんを敬いつつ、それぞれの時代背景を比較させるといいぜよ」などと応えています(笑)。スカイツリーへのツンデレ心を率直に喋った楽しいインタビューでした。

【その5】
11月22日創刊の建築・まちづくり情報誌「LIXIL eye」(LIXIL)特集3「東京スカイツリーと変貌する下町」にて、コラム「スカイツリーから考えてゆく都市の“やさしい未来”」を執筆しました。
http://newsrelease.lixil.co.jp/news/2012/070_company_1122_01.html

建築関係のPR誌ということで、中川がスカイツリーについて言及した文章では、なんと初めて「東京スカイツリー」にマルRがついた記事に…w
そしてクライアント指示により、元原稿にあった「ハコモノ」云々という行政批判の文言が残念ながら削除の憂き目に遭ったりもしたのだけど、まあ仕方ありますまい…。

ただ、「すみだタワー(仮)構想を考えてゆく住民の会」をやってきた立場での墨田の今後の像を、とご依頼いただいたお仕事だったので、僕らの活動的にはエポックとなる記事となりました。これを機に、住民の会の方でも「スカイツリー後の下町を考えてゆく住民の会」なんて会名とスタンスを改めたりして。

ここで初めて、スカイツリー開業後の構想として「考えてゆく会」で温めてきた、都市を〈森〉化するための具体的方策についての我々の次なる提言「東京スカイフォレスト」構想について披露しました…!
この構想については、今後いろいろなチャンネルを通じて実現に向けたアクションを仕掛け、世に問うていきたいと思っています。

あんな塔を立てられちまった、おれたちのポジティブ・リベンジはこれからなのだ…!

【関連イベント告知】5/19(土)「ザ・タワーマニアサミット2012」に出演します

 発売後初のイベントとして、以前に「東京スカイ夏まツリー」でもお世話になった東京カルチャーカルチャーさんでの下記イベントに出演することになりました。並みいるタワーマニアたちの中ではかなりタイプの違う筆者ですが、第2章で展開した「世界タワーの進化・分類とその中でのスカイツリーのキャラ立ち」みたいな話をしようと思います。けっこうトリビア的な驚きのある話題に仕立てあげられると思うので、たぶん浮かずに済むハズ……!?
 ぜひふるってお越しください!!

2012 05 19 [Sat]
東京スカイツリー開業直前企画!日本最強タワーマニア奇跡の全員集合タワー総括イベント!
ザ・タワーマニアサミット2012
Open 12:00 Start 12:30 End 15:00 (予定)
前売券2,000円・当日券2,500円(飲食代別途必要・ビール600円・ソフトドリンク390円〜など)


スカイツリー開業直前企画!!史上初(!?)日本最強のタワーマニア奇跡の全員集合でおくるタワーマニア達によるタワーマニアの為のイベント遂に開催!!
スカイツリーネタはもちろん、日本中の魅力的・特徴的な面白すぎる様々なタワーネタ、知られざる超絶な世界中の驚愕タワー、超高層ビル超高層マンションネタ、そして出演者全員の様々な超絶タワー写真、動画、グッズ公開にいたるまで、この世のタワーのすべてをこの日楽しくプレゼンし尽くします!!
集まったお客さん全員参加での楽しい「タワー検定」もあり!!
東京スカイツリー開業という歴史的瞬間直前にタワーマニア、タワー好きが一堂に会するこのタワーイベント!全タワー好きは絶対全員必見!!


【出演】
・BLUE STYLE COM中谷幸司(「超高層ビビル1〜3」著者「超高層ビビル」著者、東京スカイツリー定点観測所管理人)、
・TOWER FANTASIA豊科穂(「LOVE TOWER!ニッポンのタワー」著者)、
スカイツリーToday日高彰(同人誌「スカイツリーReport」制作者)、
・中川大地(文筆家・編集者 『東京スカイツリー論』著者)
・収集官(「タワー収集機構」管理人、世界のタワーミニチュアコレクター)
・元祖タワー巡りサイト「タワフル」元管理人

【勝負仕事告知】『東京スカイツリー論』(光文社新書)で描いたもの

 校了直後から別仕事で忙殺されロクに内容の告知をする間もありませんでしたが、初めての単著となる『東京スカイツリー論』が発売されました。遅ればせながらですが、ご検討の参考に目次に即して本書の概要を紹介します。

 

東京スカイツリー論 (光文社新書)

東京スカイツリー論 (光文社新書)

 テレビとネットの関係をめぐる情報インフラ政策の大いなる“失敗”の徒花として、ついに開業してしまう東京スカイツリー。3・11後に顕在化した「絆」にはほど遠い日本社会の分断と出口なしの閉塞状況の中で生み出された“本当は要らない子”としての新タワーを、私たちはいかに捉え直し、活用していけばいいのか。
 スカイツリーをめぐる多くの報道や言説が、そうした本質に目を覆って事業者広報の追従ばかりを垂れ流す礼賛や空虚な景気づけか、その単なる裏返しとしてとうの昔にわかりきっている電波利権の指摘を中心にした“他人事”目線での非建設的な批判や揶揄に終始する中、“自分事”として「スカイツリーのできてしまった現実」を引き受けながら、これからの東京と日本の行く先をあらゆる切り口から徹底的に考察。

 明治〜大正の凌雲閣(浅草十二階)が象徴した「文明開化」(前期近代)、戦後昭和〜冷戦後平成の東京タワーが象徴した「高度成長」(モダニズム/後期近代)までの日本近代を更新する、東京スカイツリーが体現する新たな文明パラダイム〈拡張近代〉(オーグメンテッド・モダニティ)とは何か。
 生家からわずか400メートルの場所にスカイツリーを建てられてしまった墨田区向島出身の筆者が、誘致決定以来の7年間のコミット活動をベースに、メディア論、社会政策、建築史、日本史、都市論、地域社会論、人類学などの垣根を超え、ミクロとマクロの視点を往還しながら全方位仕様で展開する、地道かつ壮大な思想/実践書!


【目次】
序章 坂の上のスカイツリー
第1章 インフラ編/東京スカイツリーに背負わされたもの

第2章 タワー編/世界タワー史のなかのスカイツリー

第3章 タウン編/都市と日本史を駆動する「Rising East」

  • 3-1 浅草・日本橋――江戸に受け継がれた史的地層
  • 3-2 銀座・九段坂上――近代建設期における帝都のコスモロジー変動
  • 3-3 新宿・渋谷――昭和に穿たれた葛藤軸
  • 3-4 秋葉原・お台場――「趣都」と「ファスト風土」への二極化
  • 3-5 〈ショッピングモール的公共性〉は〝東〟を再興しうるか

第4章 コミュニケーション編/地元ムーブメントはいかにスカイツリーを〝拡張〟したか

  • 4-1 建設開始までの住民たちのコミット運動(2005〜2007年)
  • 4-2 スカイツリーウォッチャーたちの祝祭(2007〜2010年)
  • 4-3 祭の終わりと街のこれから(2011年〜2012年)

第5章 ビジョン編/スカイツリーから構想する〈拡張近代〉(オーグメンテッド・モダニティ)の暁

  • 5-1 東京スカイツリーがもたらす「建築の大転換」
  • 5-2 〈拡張近代〉型都市へのビジョン 「天空の巨木」から「拡張された森林」へ

 …とまあ、目次を眺めていただければわかる人にはわかるように、各章ごとに異なる文脈の議論の蓄積を土台にした本です。
 序章は、3・11の日の個人的な体験から説き起こし、本書全体の伏線を張り巡らせています。そこでどのようにスカイツリーが立ち現れるのか、ぜひご堪能ください。ちなみにこの章を送付したとき、光文社新書の担当編集である森岡編集長が「バルトの『エッフェル塔』のように、一過性のものではなく、ずっと読み継がれていくようになれば」「編集者としての勘ですが、これは大きな話題を呼びますよ」という感想をくれたのですが、さて、どうなることやら。

 つづく第1章「インフラ編」は、そもそもなぜ東京スカイツリーというテレビ電波塔が建てられたのか、計画の基本的な背景と具体的な経緯を解説。そこから、放送と通信の在り方をめぐる我が国のメディアインフラ行政の問題点を浮き彫りにし、スカイツリーがどのような可能性と不可能性を背負っているかを、社会政策的な観点から明らかにしています。
 ここでは主に鬼木甫氏や池田信夫氏の電波行政論や、さらには村上憲郎氏らの提唱するスマート社会に関する議論のフレームを踏襲していて、脱原発・エネルギー政策にも話が及びました。

 第2章「タワー編」では、エッフェル塔や東京タワーをはじめとする歴代の超高層タワーを追う中で、スカイツリーが何を象徴するのかを建築史的な観点から明らかにする系譜学を展開。本書で最も時間と労力をかけたメインブロックです。
ロラン・バルト『エッフェル塔』を機に築かれていった松浦寿輝氏や細馬宏通氏、酒井隆史氏らのタワー論の脈絡に多くを負いながら、それらを〈タワー的公共性〉という概念によって統一的に把捉する史観を提起しました。
 本章の執筆途中で江戸東京博物館「ザ・タワー〜都市と塔のものがたり〜」展が開催されて、取り扱う話題の被り具合に冷や汗をかいたりしましたが、どうにかその先にいく論を展開できたのではないかと思います。(特にカナダのCNタワーのすごさについて、ここまでアツく語った日本語の文章はないはず…!)

 第3章「タウン編」では、江戸から東京に至る都市開発の歴史的文脈の中で、「Rising East プロジェクト」と名づけられたスカイツリー周辺施設の開発計画がいかなるポテンシャルを抱いているのかを都市論的な観点から探っています。タワー本体について論じた第2章と対をなすもうひとつのメインブロックで、書き進めていくうちに事前にはまったく予期していなかった概念的枠組みが膨らんでいった、自分的な発見の多かった章。
 基本的には吉見俊哉氏の『都市のドラマトゥルギー』以来、北田暁大氏や森川嘉一郎氏、三浦展氏らの積み重ねてきた社会学的な都市論・東京論の系譜をもとに、速水健朗氏らのショッピングモール論を援用して東京スカイツリータウンが押上・業平の都市形成に資するポテンシャルを〈ショッピングモール的公共性〉として吟味しました。が、どちらかというとその前段として展開した日本史的なパースペクティブの方が、本郷和人氏や與那覇潤氏などの史観とも期せずして呼応するかたちになったので、読者に意外な驚きを与える部分になるのではないかというパートです。

 第4章「コミュニケーション編」は、新タワー計画の誘致時点からの住民運動や、スカイツリー建設開始後の祝祭的なファン活動のネットワークなど、事業者外の主体が押し進めた地域ムーブメントの推移を、日本におけるソーシャルメディアの発展と絡めて詳述。筆者自身を含む建設事業主以外の地元の当事者たちが、津田大介氏言うところの「動員の革命」の一種として、いかにスカイツリーをハッキングしていったかを、初めてまとまったかたちで知らしめるルポルタージュです。
 アクティビストとしての私たちが何をどこまでなしえたのかの判断は読者と今後の歴史に委ねたいところですが、墨田区のこれからのコミュニティ再生や他地区の地域活性化に活かしうるケーススタディとして、この章の存在によって本書が放つ異彩にさらに輪がかかったことは、間違いないでしょう。

 第5章「ビジョン編」では、以上すべての現状分析や問題提起を元に、東京スカイツリーの理念性をさらに掘り下げ、日本の未来像をいかに構想すべきかの思想的模索を行っています。ここでは、筆者がかつて『思想地図 vol.4』に寄せた「生命化するトランスモダン」のコア思想を、馴染みの宇野常寛君の用語を拝借してさらに〈拡張近代〉(オーグメンテッド・モダニティ)として発展させ、その道具立てによって新たな思潮の契機としてのスカイツリーのポテンシャルを考えうるかぎり最大限に引き出しました。(いわば、ウルトラマン仮面ライダーを世界各地のタワーに置き換えた、中川版の『リトピー』実践編とでも言うべき感じか?)
 なお、ここでは議論の踏み台として『アースダイバー』や『対称性人類学』、伊東豊雄氏との近著『建築の大転換』など本書の思考法の多くを依拠している中沢新一氏のある残念な言説を僭越ながら批判しつつ、ちょうど同い年の大田俊寛氏などとは多分まるで異なる角度からその超克を試みるものに、結果的になっているはず。

 ともあれ全体として、「スカイツリー論」というタイトルから普通に想定される内容とはまったく別次元の広がりをもった総合性のある本になったのではないかと自負しています。現在の筆者にしかなしえないすべてを込めた処女作として、悔いなく世に問えるものとなりました。
 ご笑覧いただけたら幸いです!

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』感想

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

ご恵贈いただいていた國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』をようやく読めた。過去2回ほどお話しさせていただいた機会に感じていた主張信条の共通性がはっきりとわかって、同じ山に別ルートから上ろうとしている感覚に、通読中ずっと勇気づけられ通しでした。

特に、狩猟採集の遊動生活が生物としての人間のプリセット状態だったという人類学の知見に立脚しつつ「暇と退屈の系譜学」的説明を試みる第二章の世界観は、元より共通認識なので激しく同意というほかない。ただ、そこからの論構築展開というか「わかり方」の作法の違いが、さらに刺激的。
自分なんかが慣れてる思考法だと、では住革命後の人々は暇を処理するためにどんな生活様式や文化産物を生まれたのか、そこに貫かれる機能的本質は…というかたちで、アウトプットを経由しての説明原理を求めるのだけど、あくまで内的省察を突き詰めていく哲学の接近法の凄みを、改めて思い知らされた。

第三章「経済史」から第四章「疎外論」にかけての展開も、いちいち膝を打ちつつ、自然状態論の理解の仕方に蒙を啓かれる。なるほど、ルソー〜マルクスが到底実態に即しているとは思えない人間の「自然状態」をあんなふうに仮構したのは、恣意的な「本来性」への執着を廃するためだったのか……と。
このへん僕自身の問題意識としては、そんな観念的な「自然状態」の考え方は不自然だから、むしろ実証的な人類学や生物学の知見によって更新することによって、西洋近代がしばしばムチャな理想主義的状態を「本来」だと錯覚するのを正すべきだろうという思い方をしていた。その理路の違いが面白かった。

そして「本来性なき疎外論」の正統に立ち戻れという立場から、本書の後半ではユクスキュルの「環世界」概念に立ち戻ることによってハイデッガーの退屈論を批判的に乗り越えて「第二形式の退屈」を、あくまで生物の延長としての人間らしい生のデフォルト状態として再発見する論理の見事さ。
あくまでも西洋哲学プロパーの正統な思考法に立脚しながら、どこかで人間を特権化する思考が、最後の最後でいつも人々を不幸にする結論を招いてしまう西洋哲学の習い性的な態度をキッチリ炙り出して明快に批判し、小気味良くタンカを切りながら塗り替えていくキレの良さが痛快。
 若い日にコロラドで「自分のフィロソフィーをつくってるところだ」とホームステイ先のクリスチャンに言ったという著者が、「人間は考えてばかりでは生きていけない」と、伝統的なフィロソフィア(知を愛する)の態度の特権化を「倫理学」として相対化する地点に辿り着いたことは非常に重要だと思う。

あと伝わってくるのは、そうした根底的な西洋哲学批判・人間中心主義批判のコンセプトが、いつの間にか消費社会の現状肯定として受容されていったニューアカから近年のオタク論やクールジャパン論に至る日本の「現代思想」の轍をいかに踏まないようにするかという意志性。
その点は特に著者が本書を含め普段から強調している「消費」と「浪費」の峻別という、ボードリヤールの本義に戻れという主張に集約されるのだけど、本書の問題意識で言及されてもおかしくなかったバタイユの蕩尽論やホイジンガ、カイヨワの遊戯論が選択されなかったことにも結構意味を感じる。
あのあたりの祝祭や遊戯を消費社会に結びつけて持ち出す手つきの安易さから、1980年代くささというか、日本的「現代思想」の頽廃が始まっちゃった感があるので…。そのあたり、こちらもゲーム論やる上で、ゆめゆめ気をつけねばと思わされもしたのでした。

おそらくそこは、こちらが相互補完的にリニューアルを図らなければならないところなのだろうと、決意を新たにしますた。

【仕事?告知】3/6・13「村上隆のエフエム芸術道場」に出ます…

先の、超個人的目論見からの森ガール論がtwitter上でずいぶんと物議をかもして盛り上がってしまいまして、なんかまとめログ(http://togetter.com/li/7983)まで作っていただくような有り様になったそんな折りですが(^_^;)、明日6日と来週13日土曜の深夜27:00〜28:00にTOKYO FMで放送される現代美術家村上隆さんの冠番組村上隆のエフエム芸術道場」に、批評家の宇野常寛くんの友達枠で呼んでいただいて出演します。
http://www.kaikaikiki.co.jp/news/list/tfm_un/

ちょうど、前々回ゲストが黒瀬陽平くん&濱野智史くん、前回ゲストが東浩紀さんという、『思想地図』つながりの批評家/思想家ゲスト並びの、たぶんトリになる流れですね。
トーク的には、ほとんどマシンガンでコンテンツ業界の病理やらゼロ年代論壇への何やらをピー音炸裂でメッタ斬る宇野くんの相槌役やらいじられ役やらといった感じですが、「なぜ中川的に森ガールなのか」の極私的ルーツを高校時代に遡るエピソードから妙なテンションで語り起こしたりしてる点とかが、僕視点でのハイライトですかね(笑)。

しかしさらに個人的なPR点としては、トーク内容よりも2週つづけてのリクエスト曲にぜひ注目! 僕からのリクエスト枠では、久々にDJ魂を発揮して遊佐未森をはじめ、80〜00年代までの「幻想浮遊系ファンタズマル系」ナンバーを超気合を入れて厳選してクロニクル的に選曲させていただきました…!!
まあ、何曲かかるかはわかりませんが、宇野くんの方は例によって「平成ライダー」主題歌特集になるとのことなので、実は密かに楽曲を通じたサブカルチャー史観対決になっているのやもしれませんw

というわけで、幻想浮遊系ミュージックファンの方(どんだけいるんだよ…)も、ぜひご期待ください!