隠し味と卓上調味料の一般理論――五味調和思想から

いまひとつ味がまとまらない、皿になにを添えて出せばいいのか分からない。

そういったときに隠し味と卓上調味料についての理論があると迷わずに済む。

ここでは中華料理で理想とされる五味調和思想を参考に隠し味と卓上調味料の攻略方法について考えたい。

五味調和とは五味(「酸」「苦」「甘」「辛」「鹹」)を調和させることが皿の完成とみなす中華料理の思想だ(「」はかんと読み、塩気を現す))。この五味は五行説と密接に結びついている(詳細はこちら)。この五味はそれぞれ「火」「土」「金」「水」「木」と対応している(それぞれの要素の食材とその効用についてはこちらが詳しい)。

そして重要なのは五味の相互関係だ。まず、「水ポケモンは火ポケモンに強い」という関係は『相克の関係』と呼ばれる。対して、「水ポケモンは木ポケモンを癒やす」という関係は『相生の関係』と呼ばれる。

私は、『相克の関係』は卓上調味料に、『相生の関係』は隠し味にするとよいと考えている。

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五味調和の関係図

こちらが五味の関係図だ。

『相克の関係』は、例えば、唐揚げの卓上調味料のレモンを考えてほしい。これは油の「甘」をレモンの「酸」が相克している。

『相生の関係』は、例えば、カレーの隠し味のはちみつを考えてほしい。これはカレーの「辛」をはちみつの「甘」が相生している。

私はキッチンにこの図を貼って、味がいまひとつ決まらないときにこれを眺めて、なにを足せばいいのか考えている。最近は和食に煎茶の苦味を足すという方法を思いついた。先日、「炙り白菜と煎茶のつみれ汁」という料理を考えた。

cookpad.com

陰陽五行説ではが重要で、外丹術、内丹術、房中術など気の養い方が色々考えられている。また陰陽という要素もどう料理に取り入れられるのか。考えていきたい。

統計学と生権力――≪足し合わせの暴力≫について

 自殺とは、ある人の究極の行動の1つである。それにも関わらず、集計された自殺者数は毎年似たパターンに従う。これはなぜか。

 私はここに数値化の暴力(数え上げの暴力)のさらに背後に潜む≪足し合わせの暴力≫の存在を主張したい。これを考えるために、統計そして統計学とはなにかという根本問題から話を始めたい。

平均値は現象の世界の概念であり、期待値はイデア界の概念である

 平均という概念は数え上げenumerationによって生まれた(※ 詳細はイアン・ハッキング著『偶然を飼いならす』木鐸社、1999年にある)。平均は現在観察可能な数値の要約でしかないのに対し、期待値は観察不可能な理想的なもので、イデア界に存する。サイコロの期待値は3.5だが、何度サイコロを振ってもその平均は3.5に漸近できるが、3.5には到達し得ない。同様に、「サイコロの目の1が出る確率は1/6」ということは観察可能な現象からは到達できない。

統計学では観察可能な現象(現象の世界)の背後に、現象生成装置(イデア界)を考える。

 この現象生成装置の1つが正規分布である。正規分布とは、釣り鐘状の形状をした確率分布であり、正規分布は期待値と偶然の大きさ(分散)という2つのパラメータによって変化する。ここで、正規分布はそもそもガウスによる天体の測定誤差の研究から生まれたという話をしたい。天体の測定には、測定器の性能に起因するズレが毎回生じてしまうため、天体の位置を知るためには誤差がどのように分布するのかについての知識が必要だったのだ。

 誤差にはプラスマイナス均等に生じる誤差(偶然誤差random error)とどちらかに偏った誤差(系統誤差systematic error)とがある。系統誤差は、それが生じる原因(測定器の故障など)を特定できれば解消できるのに対して、偶然誤差には私たちには対処する術がない。また、誤差は多段階構造によって生まれる。すなわち、誤差は複数のステップが重なっていくことによって生じるのだ。測定器のある箇所ではプラス方向の動きが加えられ、次の箇所ではマイナス方向、その次の箇所ではまたマイナス方向・・・といったように誤差は多段階構造になっている。これらのプラス方向とマイナス方向の動きが同数であるときには、それは結果的には偶然誤差となって立ち現れる。

 この誤差の性質からガウスが導き出したものが正規分布であり、それは偶然のモデル化であり、偶然を飼いならすための最強のツールなのである。

一人ひとりの自殺は一回きりのものであり、平均という概念の範疇外である

 平均という概念は、数え上げられた「群れ」に対してのみ意味を持つ。そして、この群れをどのように管理するのかという問題を扱うのが生権力である。統計学では群れの平均と分散(詳細は省くが、正確には不偏分散を用いる)から正規分布のパラメータ(期待値と分散)を推定する。そして、ある年の自殺者数はこの正規分布という現象生成装置から生成されると考えるのが統計学の発想となっている。ここで、自殺者「数」という数え上げられた数値は現象生成装置から生成されるが、一人ひとりの自殺という行動はこの装置から生成されたものではない。

では、一人ひとりの自殺という行動と、この現象生成装置との間との関係はなんだろうか。

 ここには数え上げと足し合わせという2つの魔力が潜んでいる。ここで、ある人が自殺に至るまでの道のりとして、「自殺する/自殺しない」という2種類の行動を繰り返すと想定しよう。ここは乱暴な話になってしまい、この話の不完全なところであるが、ある人の自殺しやすさは0以上1未満の数値で表せると仮定する。下図はパラレルワールドが1000個あると考えたときに、ある人が自殺に至るまでの道のりの長さを表した確率分布(幾何分布)である(※ 統計学では当たり前のようにパラレルワールドを想定する。例えば、毎日私たちが接している降水確率もパラレルワールドを前提とした数値である)。

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 左上から時計回りに、自殺しやすさが0.2の人、0.4の人、0.6の人、0.8の人となっている。自殺しやすさが0.2の人は1回目で自殺してしまう可能性もあるが、10回、20回とかかる可能性もある。対して、自殺しやすさが0.8の人は1回目、2回目でほとんど自殺してしまう。このように、自殺しやすい人と自殺しにくい人とがいるときに、その人々の間では自殺という行動をとるまでの道のりが大きく異なる。このような一人ひとりで傾向が異なる現象については一括した管理が難しい。しかし、この難しさを乗り越えるための定理を統計学は発明してしまっている。それが中心極限定理である。

中心極限定理は、世界のあらゆる場所に偶然現象を発見する。

 一人ひとりは異なったとしても、先の分布を大量に足し合わせるとそれぞれの人の固有性(偏り)が相殺されて左右対称の分布(正規分布)が生まれてしまうのだ。下図は100,000人の分布を足し合わせたもので、先に見た一人ひとりの分布よりもずっと左右対称の形状になっていることが分かる。

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 中心極限定理によれば、足し合わせる人数を増やしていけば、どのような分布であっても正規分布が生まれるのだ。一人ひとりの固有性は足し合わされることでただの偶然へと成り下がるのである。これは≪足し合わせの暴力≫と言っていいだろう。そして、一人ひとりの自殺という行動は期待値と分散というたった2つのパラメータから生成される偶然現象となってしまうのだ。また、先に述べた現象の世界の概念である平均値から、イデア界の概念である期待値を推定するときにもこの中心極限定理が登場する。中心極限定理は現象の世界とイデア界を繋ぐ通路となっているのだ。

 これが一人の自殺と群れの自殺者数の関係であり、この2つのパラメータに介入する権力が生権力であると私は考える。

結論

  • 一人の自殺は≪足し合わされる≫ことで群れの自殺者数となる
  • 統計学には、数え上げの暴力だけでなく、≪足し合わせの暴力≫がある
  • 足し合わされた群れの数値は偶然現象となる
  • 生権力は偶然現象生成装置のパラメータ(期待値と分散)に介入する
  • 一人ひとりのパラメータ(ここでは自殺しやすさ)は生権力の領分ではない

エーリッヒ・フロム「第4章 愛の修練」(『愛するということ』所収)

本章では、愛する能力はどのようにしたら育めるのかが述べられている。最初に、この修練には規律・忍耐・集中が必要であると述べられ、面食らってしまった。しかしながら、集中できるということについての次の記述にはぐっとくるものがあった。

実際、集中できるということは、一人きりでいられるということであり、一人でいられるようになることは、愛することができるようになるための一つの必須条件である。もし、自分の足で立てないという理由で、誰か他人にしがみつくとしたら、その相手は命の恩人にはなりうるかもしれないが、二人の関係は愛の関係ではない。(167) 

 私は一人でいることが得意ではない。その割に、平日の多くの時間を一人で過ごしている。寂しいと頻繁に思う。その度に友達に連絡をとったりするが、それはしがみついているだけかもしれないと思った。どうしたらそこから抜け出せるのか。この続きを読むのに期待を持った。

相手のイメージは多かれ少なかれナルシシズムによって歪められている…中略…人を愛するためには、ある程度ナルシシズムから抜け出ていることが必要であるから、謙虚さと客観性を理性を育てなければいけない。(178,9) 

 相手そのものを見れていないように感じた。不安感が強いために、悪い可能性を過大評価してしまう。それは相手のイメージを歪めているのに過ぎなくて、実際はそんなことはないのは分かってはいる。どうしたらナルシシズムから抜け出せるのか。

愛の技術の修練には、「信じる」ことの修練が必要である。(180)

他人を「信じる」ということは、その人の根本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものだと確信することである。(182,3) 

自分自身を「信じている」者だけが、他人にたいして誠実になれる。(183)

 「信じる」ということ。愛の問題はここに帰着すると私は思う。他人を信じるためには私自身を信じられなくてはならない。「自分の中に、一つの自己、いわば芯のようなものがあることを確信する」(183)にはどうしたらよいのか。ここで、約束するということへの言及があった。

約束できるということが人間の最大の特徴であるから、信念は人間が生きてゆくための前提条件の一つである。(184) 

 体調がものすごく悪かったころ、友人と約束をすることができなかったのを思い出した。約束をして、その日時場所にちゃんと行けるということ、それだけでとても嬉しかったのを覚えている。これが可能になるためには、自分自身が数日後も自分自身であって、約束を果たすだけの体調が整っていると信じられること、すなわち、未来を信じられることが必要だからだ。ここから話は勇気という主題に移る。

信念をもつには勇気がいる。勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。(187)

安全と安定こそが人生の第一条件だという人は、信念をもつことができない。(187)

苦痛や失望をも受け入れる覚悟が自分には足りないとはっきり思う。安全と安定がほしいあまりに、自分への否定的な評価に心が乱されることから逃げ続けていた。でも、勇気がなければ変化は生まれないのであって、変化し続けなければ愛は長続きしないだろう。

愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。 (190)

 この勇気が自分には足りない。この勇気の書くときには、日常生活の些細な場面に目を向けろと書いてある。「自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているかを詳しく調べること」(189)が修練の第一歩だという。自分はどんなときにそうしているだろうか。どんなときに愛されることではなく、「愛することを恐れている」(189,90)だろうか。

愛の修練の方法として、もうひとつ、「退屈したり退屈させたりしないこと…中略…たんに時間を浪費するといった内的な怠慢を避けること」(191)が挙げられている。退屈は長続きするつながりの敵である。長続きするつながりにはノイズを呼び込む余地が必要だ。ノイズに身を晒す勇気、安定と安全がゆらぐところで、新たな関係を取り結ぶこと。そうした不確実な状況においても相手と自分を「信じる」ということを修練していきたい。

ベイトソン著/佐藤良明訳(2000)「サイバネティクスの説明法」(『精神の生態学』所収)

ベイトソンの『精神の生態学』は当時の私には安くない本で、「大学の卒業記念に」と大型書店で購入したのを覚えている。もう10年以上昔のことになってしまった。

「イルカはどのようにして新しい芸を学ぶのか?」という話(「ダブルバインド1969」)を囚われるように学部の後半に読んでいた。20代初頭の私の頭にベイトソンの話は刷り込まれていて、私の知の地層を一番下で支えている。

この度、そのベイトソンを研究で使おうと目論んでいる。長続きするつながりとはなにか?を明らかにしたい私の研究で、彼の議論は大きなヒントをたくさんくれるのだ。

この論文ではサイバネティクスによって現実の現象を説明するための道具を用意してくれている。

まずは「コンテクスト」だ。「地域のコンテクスト」などと言われて「?」となった記憶がたくさんある。

ひとつの音素は、単語を構成する他の音素との組み合わせにおいてのみ、音素として機能する。このとき、単語が音素の「コンテクスト」になっている。しかし単語は「発話」という、より大きなコンテクストの中でしか単語としての「意味」を持たない。そして発話もまた、当事者間の関係性の中でしか意味を持たない。(536)

 コンテクストとは、包含する事物や出来事に意味を与えるものなのだ。だから、

コンテクストがコミュニケーションを支える。コンテクストがなければ、コミュニケーションが成り立たないのである。(536,7)

ということが言える。

サイバネティクスの視点はマクロだ。だから、「現象界の全体を、因果関係とエネルギー授受関係のネットワークとして想起する(538)」。

このとき、個々の事物がどのように動きうるかという選択肢を考える。そのときに、「どのようにその選択肢は狭められているのか」という拘束という視点から考えると、

  • 確率の経済からくる拘束
  • フィードバックに関連する拘束
  • 冗長性に関連する拘束

という3つの拘束がある。

第一の確率の経済からくる拘束はこう説明されている。

ふつうは“エネルギー切れ”になるだいぶ以前の段階で、“経済的”な限界というべきものが訪れる。すなわち、反応者が物理的に動けなくなるのではなく、対処すべき行動の選択肢が使い果たされて反応がストップするのだ。(538) 

 第二のフィードバックによる拘束については、こんな例が示されている。

回路の任意の地点にある変数を考え、この変数の値が(回路外の出来事の衝撃などによる)ランダムな変化によって上下すると仮定する。そして、このランダムな変化が一定時間後、因果の連鎖を一周して元の地点に戻ってきたときに、当の変数値にどう作用するかを考える。その作用は明らかに系の特性にしたがったものになるはずだ。すなわち、ランダムなものにはなりえない。

因果の循環系にランダムな出来事が生じた場合、その出来事が起こったその地点でランダムでない反応が生み出されるのである。 

 たとえば、私とあなたの関係という因果循環において、第三者からよく分からないことを言われたとして、私とあなたの間で話し合ううちに、よく分からないことが分かることに変換されていっているということだろうか。

私とあなたの安定した関係という確率的にきわめて稀な事態が観察された場合、どんな拘束のはたらきでその稀な状態がつくりだされているのかを示すのが、サイバネティクスの説明法なのだそうだ。

第三に、冗長性による拘束だ。

まずは、冗長性の定義が確認される。たとえば「ありが うございます」という文章をみたときに「と」が抜けていることをランダム以上の確率で推論できるのは、そこにくる文字の可能性を絞り込むパターン化の作用があるからだ。文章は冗長性を生むのだ。

ベイトソンは、パターンと冗長性をこう定義する。

パターンとは、全体が観察できないときに、遮蔽された向こう側に何があるか推測することを許すものごとの集合である。(542,3)

こうした「パターンの卓越の程度」、言いかえれば「出来事の集団の中である特定の出来事が起こる予測の容易さの度」が、「冗長性」の名で呼ばれるものである。(541) 

以上が3種類の拘束の内容である。なにか稀なこと(仲の良い二人が仲良くいつづけるとか)が起きているときには、この3つの拘束が働いているはずなのだ。これから考えてみたい。

ここでベイトソンは突然、コミュニケーションの本質について語りだす。 

パターン化を強め、予測可能性を増すことこそがコミュニケーションの本質であり、その存在理由であって、何の手かがりにも付き添われない文字が、最大の情報量を持って、一個ポツンとそこにあるというのは、珍妙で特殊なケースだとも考えられるのである。 (541,2)

 さらに、

実際、コミュニケートするとは、冗長性とパターンを産み出すことと同義ではないだろうか。(542) 

これが本当だとしたら、私たちが日々仲良くなろうと続けるコミュニケーションの果てには新奇な風の吹かない冗長性とパターンに満ちた退屈しかなくなってしまう。そんなのは嫌だ。

ベイトソンの胸中にもそんな思いがあったのかもしれない。この論文は最後にとても意味深なセンテンスで閉じられている。

情報でなく、冗長性でなく、かたちでもなく、拘束でもないものは、すべてノイズである。 ノイズこそが新しいパターンの唯一の発生源である。(546)

「新しい」という言葉が出現している。冗長性に満ちた世界が理想なのであれば、新しさなどは敵でしかない。コミュニケーションは冗長性を産み出すものだとしたら、私たちには、コミュニケーション以外のつながり方が必要なのだ。そのヒントを与えてくれるのが、新しいパターンの発生源であるノイズだ。

私は、あなたとのつながりはノイズと冗長性との間で揺れているからこそ楽しいのだと思う。

佐藤俊樹(2010)「第1章「情報化社会」とは何か」(『社会は情報化の夢を見る〔新世紀版〕』)

第1章で扱われている問題は「『情報化社会』とは何か」である。この問題に対して本書は、「情報化社会」は空虚な記号であり、技術予測の名を借りた未来社会への願望にほかならないと断じる。

 まずこれを示すために、「情報化社会」は実体が存在しない空虚な記号であるということの証拠として、(a)繰り返し何度も「情報化社会がやってくる」という言説が流行しては消えていくこと、及び、(b)主張に隔たりのある2つの「情報化社会」論が共存できていることという2点を挙げている。

 次に、「情報化社会」は実体がないのになぜ私たちにリアリティを感じさせてしまうのか、という問題を取り上げ、情報化社会論が技術予測に基づいて社会予測を行うという点に注目する。一般に、技術予測はニーズとその背後にある社会の仕組みという要因を無視することはできない。しかしながら情報化社会論は、「社会はこうなるはずだ」という未来社会のイメージを密輸入してきて、そのイメージにあわせて技術予測をやっていると指摘されている。

 そして、この未来社会のイメージを作り出すものとして「AI的アナロジー」を取り上げている。これは例えば、インターネットの「自立・分散・協調」という技術特性に未来社会のイメージを重ね合わせてしまうといったことを指している。このアナロジーは社会の仕組みも情報技術の仕組みも共に人間の神経系をモデルとしているという同形性から生じる。この同形性によって、あたかもテクノロジーが高度化すれば社会の仕組みも進化するように見えてしまうのである。また、システム社会論やメディア社会論もこのAI的アナロジーは罠に陥ってる議論であると指摘している。

 以上から本書は「情報化社会」について、こう結論付ける。

技術が社会の中でどう使われるかという視点もなければ未来社会イメージがどれだけ妥当なのかという視点もない。技術の使われ方の自由度という問題は未来社会イメージの心理的説得力によって隠蔽され、未来社会イメージの妥当性という問題は技術発展の必然性という装いによって隠蔽されている。社会の夢と夢の技術がお互いに支え合うことによって、お互いを何か確固としたものであるかのように錯覚させているのである(p.74)

この錯覚メカニズムから得られる教訓として、具体的な技術のみを扱い、社会的な文脈に注目し、理解可能な事柄に限定した議論をすべきであることを示している。

中井久夫(2004)「踏み越えについて」(『兆候・記憶・外傷』所収)

 ファーストキスから戦争まで——。

 一見無関係な両者に「踏み越え」という共通項を中井はみてとる。「踏み越え」とは広く思考や情動を実行に移すことであり、言語よりもイメージよりももう少し以前の《もの》に触れることで引き起こされる。この《もの》は、同時通訳で言葉から言葉に着替えする間にかいまみられる何ものかとも、私たちの意識下の生理的水準にある「イデア」とも表現されている。

 「踏み越え」にあっては、言語やイメージによる意識的な判断を経ることなく、イデアがいきなり行動化コースに入る。こう聞くとたいそうなことに聞こえるが、ファーストキスなどのエロス的行動化はこの経路が普通であり、むしろ言語化・イメージ化を経た意識的行動化にはウソくささすらあるという。イデアからイメージ、言語化を経て行動というコースが普通だというのは思い込みにすぎず、行動化が先行して後に、イメージ、言語化コースに移ることは珍しくない。それどころか、多くの人生決定がこの形でなされ、理由づけ(合理化)・追想・後悔が後を追うとまで書かれている。

 「踏み越え」が起きる直前には「もういっそ始まって欲しい、今の状態には耐えられない、蛇の生殺しである」という感覚が生まれるというのはとてもよく分かる。愛するくらいなら壊してしまいたいという希いのことだろう。一度始めてしまえば、少なくともその最中は私の世界の因果関係による統一感、能動感、単一感、唯一無二感が手に入り、矛盾や葛藤を棚上げすることができるのだから。問題解決の選択肢が少なくイメージ化がうまくできないことや「いい子」の抑圧しつづけてきた自己破壊衝動はこの「踏み越え」をやさしくする。

 私は常日頃「いっそ踏み越えてしまいたい」と希っているのだろう。しかし、「戦争、不幸、悪、病い、踏み越えは、強烈な輪郭とストーリーを持ち、印象を残し、個人史を変える行動化で、それ以前に戻ることは困難である。規範の侵犯でなくとも、性的体験、労働体験、結婚、育児、離婚などは、心理的にそれ以前に戻ることがほとんど不可能な重要な踏み越えである」(321)とあるように、取り返しがつかないという大きな恐れがあるから踏みとどまっている。いつからこんなに臆病になったのだろう。しかしせめて、日常生活にゆらぎを求めたい。だから人に会いに行くし、勉強をするのだろう。

 一方で中井は精神科医らしく、いかに踏みとどまることができるのかを考察する。それは第一に「自己コントロール」とそれによる自尊心の増進と情緒的な満足、好意的なまなざしの感受、社会評価の高まりであり、さらには、それを包むゆとり、情緒的なゆるめ感、独りではないという感覚、信頼できる友情、個を超えたつながりの感覚およびこれらを可能にするものとしての文化の重要性を指摘する。そしておそらく、言語が文化を成り立たせている。行為はすべて因果的・整合的なナラティブで終わらなければならないという社会的合意によって文化は成り立っている。フロイトが言うように「文化とは欲動断念」なのだ。言語は一般にイメージを悪夢化から救い、貧困化し透明化する。その一方で、欲動を断念させ、私たちを現実原則に従わせることで「踏み越え」を思いとどまらせている。この文化の機能に対してフロイトは居心地の悪さないしは不満を表明している。精神の病には踏みとどまりのほうが近くにあるように思う。かといって、「踏み越え」によって精神の病が軽くなるのだろうか?たしかに、「踏み越え」によって得られる能動感や統一感はいっときの鎮静剤にはなりそうである。

 私の「踏み越え」を思い返してみると、最も強烈だったものは大学一年生の春に應援部へ入部したことだった。梶井基次郎の『檸檬』になぞらえて、應援部という檸檬爆弾によってそれまでの私を爆破したいとしきりに言っていたのを覚えている。では、應援部のなににそこまで心惹かれたのか。もともと應援部というものへの憧れは持っていた。欠落していた男性性への憧れだったのだろうか。舞台上のリーダーの力強さ、自分を無根拠に全力で肯定しているさまが心に触れたのを覚えている。まさに、イメージ化・言語化以前のものがそこにはあった。さらに、男性性と女性性を超えたリーダーとチアの渾然一体感に驚いた。それまでは知らなかった親密感というもの、フラジャイルな強さがそこにはあった。そういう仲間が欲しかったのだった。あの頃はいつも「イデア」に触れることができた。手押し車で登山をするような苛烈な練習のあとは深い充実感があった。毎日が祝祭だった。「私」は自然と手放され、境界があいまいになり、渾然一体となった強いエネルギーが爆発していた。あの頃から、「『踏み越え』の嗜癖化」とでもいうべきものが生じているのかもしれない。いつも、こちら側からあちら側に行きたがっている。境界があるならば、それを飛び越えてしまいたいと思いがちである。

 いま境界といったが、一体境界とはいつどのようにして引かれてしまうものなのだろう。家族の境界はどこにあるのかと問うたときに、答えるのは実は難しい。友達と友達でないひとの境界は、浮気と浮気でないの境界はどこだろう。それが恣意的なものであることは分かる。しかしどう恣意的なのか。ただの私たちの誤作動なのか。わざわざ「踏み越え」なくても境界を揺るがせるのならばそれに越したことはないだろう。

アリソン・ゴプニック(2010)「第一章 可能世界」(『哲学する赤ちゃん』所収)

母が学芸大修士課程で発達臨床心理学を学んでいた頃に薦めてもらった本だ。

ある詩からの印象深い引用がある。

人が口にしたり書いたりするなかで、いちばん悲しい言葉、それは《かもれなかったのに》(35,6) 

 私は何度もこの言葉を吐いてきた。辞めざるをえなかった部活のステージを見に行ったとき。体調が整わず、大学に居残ることを決め、社会へと羽ばたく同級生を見送ったとき。「あそこに自分がいたかもしれなかったのに」と悔やまずにはいられなかった。

後悔の原因には色々あるだろう。私の場合は病気というのっぴきならない事情だったが、努力不足、衝動的に投げつけた言葉、すれ違い・・・。いずれにせよ、実現しなかった過去の可能性にこれほどまでに私たちが拘るのには理由がある。

理由は進化の観点から説明できます。反実仮想が重要なのは、それが世界に働きかける手がかりになるからです。「かもしれなかったのに」と悔やむから、わたしたちは新たな可能性を求め世界に介入することができるのです。(36) 

 新たな可能性を求めるということは、過去の後悔を未来に生かすということで、過去の反実仮想と後悔は、未来に向けた反実仮想の代価なのかもしれない。

わたしたちは未来に責任をもつからこそ過去のことに罪悪感をもち、希望を抱くからこそ過去を悔やみ、計画を立てるからこそ失望を味わうというわけです。実現しなかった過去を悔やむことは、豊かな未来を思い描けることとセットになっているのです。(36,7) 

 知ることとは基本的に「時既に遅し」であることが多い。「愛している」ことを知れなかったひとが破局の後に「愛していた」ことを知るということはよくありそうなことだ。では、もう失ってしまったひとのことを愛していたと知るとき、その知は私たちになにを可能にしてくれるのだろうか。失恋の先に、豊かな未来を思い描けるようになるとでもいうのだろうか。後悔と未来の間にはやはり大きな断絶がある。

「あのときああしていなかったら、こうはならなかった」と悔やむこと。それはひとつの因果関係の発見であって、次に似た状況に遭遇したとき、違う結果をもたらすことができる。その時に、あのとき後悔していたからこそ、今回はよい結果を得ることができた、と考えろということか。

失恋から豊かな未来を思い描くことまでの間には長い距離はあれ、道は繋がっているように思える。ひとつひとつの後悔から、そこにあった因果関係を導いて、別の選択肢を見つけて実行する。その繰り返しの果てに、今とは違う未来が開けているかも知れない。

東浩紀(2019)「東浩紀がいま考えていることーー『テーマパーク化する地球』刊行記念」

東浩紀の発言のうち、気になったものを私の主観でまとめた形を載せる。

「哲学は概念の発明だ」 by ドゥルーズガタリ
引用と参考文献の世界ではなにも言えない。発明なんてできない。
デモに行くときは発明なんていらない。発明の場所はなくなってしまった。

文章には飛躍が必要。その飛躍を人々に受け入れさせるにはどうしたらいいか。
「実際にそこに行ってみた」に人々は弱い。

いまみると、周辺(ゲンロンβ)に押しやったもののほうが魅力的

観客的公共性/観光客的公共性
能動的な観客をどうしたら作れるか、そこから立ち上がる二次創作的公共性

固有名は定義に分解できないから謎めいている
人文科学は固有名詞でできているが、自然科学は普通名詞でできている
多くの言葉(「正義」や「法」も)は定義できていない。また、定義が変わっていく
遡行的に定義が変わることがあるのが固有名の謎

ジェンダー」や「ハラスメント」の定義が遡行的に変わり、これまでハラスメントではなかったものがハラスメントになっていく
集団も同様に、フットサルサークルがアニメサークルになっていくこともありうる
メンバーシップが遡行的にゆるゆる変わっていくという特徴がないと集団は続かない

アレクサンダー大王の定義をいくら積み重ねてもアレクサンダー大王にはたどり着けない
固有名には定義に回収できない謎のXがあるという否定神学的固有名の議論がある
一方で東は郵便的固有名として「訂正可能性」だけがあると主張する
我々は常に間違うから、それを訂正するプロセスで遡行的に定義を変え続ける
これが人間の言語に対する根本的な態度

これを集団の話に応用すると、「集団としての根拠のない集団が一番力がある」(《反安倍》で連帯する野党)という否定神学的集団がまずある
これに対して、固有名論は集団論に応用可能なので、「訂正可能性に基づいて固有名をつくるように広がる集団」が考えられないか

このメンバーシップを修正しながら広がっていくような集団を家族の拡張性と類比させて「家族的」と呼びたい
郵便的集団は家族的類似性によって拡張する

共通の祖先をオリジナルと考えると、私達(親のコピー)は二次創作軍団のようなもの
しかし東は、全員オリジナルだと言いたい
二次創作的な議論を入れるとオリジナルとコピーの関係を変えられる
コピーであることをもっとポジティブに作り変える思想を作りたい

経験的超越論的二重制(オブジェクトレベルとメタレベルの二重性を持つのが人間)
「お前の意見には反対だが(オブジェクレベル)、お前がそうに言う自由は認めよう(メタレベル)」
この「人間」はメディア環境と結びついていて、インターネットの出現によって人間はオブジェクトレベルだけの存在(経験的存在)になった

統計の予測(統計的に見てこの地域には2000人反政府活動家がいる)に実際の人を合わせるためにスターリニズムでは虐殺が起きた
数字でしかないので、この加害には意味がない
意味のない加害は記憶されないが、被害者は意味を探したがる
しかし、意味を見つけると、本当の残酷さ(無意味)は消えてしまう

感想はいずれ追記したい。

千葉雅也(2018)「意味がない無意味――あるいは自明性の過剰」(『意味がない無意味』所収)

考えすぎる人は何もできない。頭を空っぽにしなければ、行為できない。(35) 

 本論の中心的な命題だ。千葉は続ける。

 考えすぎるというのは、無限の多義性に溺れるということだ。ものごとを多面的に考えるほど、我々は行為に躊躇するだろう。多義性は、行為をストップさせる。反対に、行為は、身体によって実現される。無限に降り続く意味の雨を、身体が撥ね返すのである。(35,6)

 ここでいう身体とは《モノ》のことだ。思考に対立する。《モノ》――本論の例ではトマト――は潜在的には私達に無限の解釈を許すが、この降り注ぐ意味の雨を止ませなければ、私達はトマトを使ってなにかをしはじめることはできない。この意味の雨を撥ね返す石のようなものが《モノ》の持つ〈意味のない無意味〉という側面だ。〈意味のない無意味〉は石のようにじっと耐えている。

身体は私達の一番身近にある《モノ》である。それは時としてままならないものだ。病とは身体のままならなさに翻弄されることであると同時に、病んだ身体という〈意味のない無意味〉によって、あらゆる思考が切断されることだ。意外にも、病のときのほうが私達は行為をしやすい。無限に溢れ出す意味に溺れることがない。病院に行ってお粥を食べて眠るだけだ。

《モノ》は両義的だ。それは意味の雨を降らせる源泉であると同時に、その雨を撥ね返す石でもある。私の関心は後者にある。頭を空っぽにさせるような石とはなにか。

無限の解釈を許す《モノ》は同時に、その解釈を無化するブラックホールでもある。ブラックホールの過剰な引力が無限の解釈にストップをかける。私達は《モノ》に惹かれている。同じ《モノ》の周りをぐるぐると回っている。

共通理解はなぜ可能なのか。《モノ》が無限の解釈を許してしまうだけのものであったら、そこに共通理解は生まれない。私達がある《モノ》についての理解を共有しあえるのは、《モノ》がただそこにあるというあまりに自明なことの揺らぎなさによっている。〈意味のない無意味〉としての《モノ》は意味を切断する。無限の解釈が切断されて有限化されるから、私達は分かり合うことができる。

《モノ》の両義性については今後も考えていきたい。

浜田明範(2018)「アクターネットワーク理論」(『21世紀の文化人類学』所収)

前々回スマホを持たないときに不安を感じるのだとしたら、スマホによって私達の身体は変容しはじめているという話を載せた。《モノ》は「人間による働きかけや意味づけを待っているだけの受動的な存在ではなく、人間の行為や認識を方向づける力を持ちうる(103)」のだ。私達はスマホとつながっている。また、スマホは充電器や中継局とつながっている。人間・非人間からなる多様な「アクター」の織りなすネットワークがここに形成されているのだ。現象を理解するにはこうしたネットワークへの理解が欠かせないというのがアクターネットワーク理論(ANT)の特徴的な主張だ。技術決定論でも社会構築主義でもない新しい立場といえる。

人間と非人間、《モノ》を同列のアクターとして扱う発想には面食らうかもしれない。それは、私達が人間/非人間、社会/自然という区分を疑うことなく受け容れているからであって、ANTはこうしたカテゴリーの分け方を再検討しようとしている。異なるカテゴリーは別々に存在しているのではなく、相互に絡み合ったネットワークを形成して、特定の現象を可能にしているのだ。

ネットワークは形状を変える。カテゴリーの独立性と自明性は揺らぐ。《モノ》は受動的に意味を与えられているのではない。「ANTでは、アクターのネットワークがそのような意味の体系を変容させる状況を説明できる(106)」のだ。これは大変魅力的な特徴だ。

ところで私は、バウンダリーオブジェクトという《モノ》の研究をしている(詳細はこちら)。これまでの私は、人間のコミュニケーションありきでこの話を考えていたことに気付かされた。オブジェクトは人間の意味付けを待っているだけの受動的な存在だと考えていた。違うのだ。オブジェクトは私達を作り変えるのだ。しかも、オブジェクトと私達の関係は並列的な同じ地平にあるネットワークになっている。

例えば、プレゼンで使用されるグラフはバウンダリーオブジェクトの一例だ。グラフが説明難しい動きをしているとき、参加者たちのあいだでディスカッションが起こり、これまでになかった関係性が生まれる、といった説明がなされている。このとき、私達とグラフは同列のアクターであると考えるとどう現象を説明できるだろうか。これまでの説明とは違う斬新な視点が得られるだろうか。

バウンダリーオブジェクトには、特定の1つの解釈を与えることが難しいという特徴がある。このあいまいさによって、個々人が自分の文脈に引きつけて解釈を行うから議論が生まれるわけだ。ここでオブジェクトの能動性を強調して、『あいまいさは関係を組み替えるパワーを持っている』と考えてみてはどうか。安定したネットワークは、オブジェクトの持つあいまいさというパワーによって動揺する。変容の契機が生まれる。

例えば、友達以上恋人未満の二人の間で突然に花束が贈られたとしよう。この花束というオブジェクトがなにを意味しているのかを一意に定めることは非常に難しい。この花束はあいまいさのパワーを持っている。贈られた方だけでなく、贈った方も動揺する。《私―あなた》という二者関係は、《私―花束―あなた》という三者関係に移ることで、もう以前とは同じではいられなくなる。動揺と変容。なにかが始まるかもしれない、終わるのかもしれない。

終わらせないためにはどうしたらいいのか?これがバウンダリーオブジェクトのもう一つの議論だ。関係の変容を促すオブジェクトは、しかしながら同時に、関係をゆるく繋ぎ止めなくてはならない。元の論文には「オブジェクトは頑健性を持っている」と書いてあるが、私にはその意味がよくわからなかった。きっと、バウンダリーオブジェクトはあいまいさのパワーだけでなく、頑健さのパワーも持っているということなのだろう。ネットワークを頑健なものにするパワー。

ネットワークの頑健さは冗長性によって保たれている。鉄道ネットワークは迂回路がたくさんあるという冗長性を持つから、一つの路線が止まってもだいたいの場合目的地にたどり着ける。迂回路。《私》から《あなた》に至る別の経路、迂回路。例えば、先のネットワークに《誕生日》というアクターがあったらどうだろうか。《私―花束―あなた》という経路は、《私―誕生日―あなた》としても理解可能だ。この迂回路があれば、『ああ、誕生日の花束なのね』と動揺を鎮めることもできるはずだ。花束によって確かに関係のネットワークは変容する。しかしこの迂回路があることで、このネットワークが散り散りになることは避けられる。

ではこの《誕生日》というアクターはなにものなのか。誕生日はどういうもので、どういうことがなされやすいのかということは非常にパターン化されている。みんなで祝い、ケーキの火を消し、プレゼントが贈られる。ここで、パターンと冗長性が同義であることに注目すれば、《誕生日》とはネットワークに高い冗長性を与えるアクターなのだ。優秀な迂回路というわけだ。

ここまで、ANTの発想を私の研究に繋げる試みをしてみた。思考の出発点としては悪くない。このたとえ話を使って、いろいろなひとと議論していきたい。

アート系トーク番組 art air(2017)「ブルーノ・ラトゥール 人類学を震源とした新たな動き 人類学の存在論的転回」

youtu.be

この動画を見ながら科学人類学者であるブルーノ・ラトゥールのアクターネットワークセオリー(ANT)について学んだので、少しメモを残したい。

『法が作られているとき』では、フランスの行政裁判所でどのように法(フランス行政法)が解釈され作られているのかを人類学的に考察した。慣習法であるフランス行政法は、一見合理的に見えるが、実は人間関係や阿吽の呼吸といった非合理的なものから構成されていることを明らかにしている。真理体系は人の構成が変わると変わってくるアドホックなものである。例えば、「判例があったけどみつからなかった」ということが体系に影響を与える。法律は文章からなるが、同じことであっても書く人が異なれば文脈が違い、意味が変わってくる。しかもそれは、人だけでなく《モノ》からも影響を受けると考えるのがANTの特徴だ。

理解のためのキーワードは《存在論的転回》である。関係性に対して、いままでは関係自体に問題意識があったが、《モノ》そのものに焦点を当てようという動きだ。《モノ》=《存在》をどう分析していこうかという動きである。この動きは《多自然主義》と合わさって哲学の主流を形成しつつある。多自然主義多文化主義と対立した考えであり、単一の自然がある上に多数の文化があるというのではなく、自然の多様なアクター(モノや非人間)が私達と切り離せることなくあり、それらとのパースペクティブの転換が不安定に生じるという立場だ。

実在的なものを切り離して主観で考えることを体系化したカントに対して、人間以外の《モノ》に目を向けようとしているのが《存在論的展開》の特徴だ。天動説と地動説の対立に見るように、科学はカントとは反対の方向(「私達のほうが動いている」)に向かっている。しかし、科学も客観性があるのではなく、一つのパースペクティブにすぎないことには留意が必要だ。科学的事実は発見されるものではなく、作られるものなのだ。

この意味で、ラトゥールは《対照性》という概念を持ち出して「近代化などしていない」と言う。シャーマンと近代の科学や医療とは機能は変わらない。親族や呪術、妖術は現代社会でなにに対応するのかを考えるのだ。結局、近代的にみえるものは、その中身はいわゆる前近代の社会と変わらないと分析する。近年言われる《再魔術化》は起きていなく、もともと近代でもはじめから魔術は魔術のままだったのだ。

山崎吾郎(2019)「技術と環境 人はどうやって世界をつくり、みずからをつくりだすのか」(『文化人類学的の思考法』所収)

私達の《あたりまえ》を揺るがすような印象的だった一節から書き始めたい。

自然と不自然、本物と偽物のあいだには、ちょうど、眼鏡とサイボーグのあいだにあるのと同じ差異が感じとられている(30) 

 技術は人間や自然の本性を変化させると考えられている。遺伝子組換え食品は《自然の》種ではないし、能力を高める薬を飲んで受けた試験の結果は《本当の》能力ではない、そう考える人は多いだろう。しかし、眼鏡をかけている人は依然《自然な》人であると思う。眼鏡という技術でエクステンドされた人は《不自然な》サイボーグとはみなされない。「技術の問題には、世界へのかかわり方にまつわるこうした緊張感(30)」があるのだ。

技術の特性についてマルセル・モースは《相互的因果》という概念を提起している。

人は、ある動作や技法の延長線上に技術を作るだけでなく、作り出された技術によってみずからが影響を被るという、反対方向の関係性に同時にまきこまれているということだ。(32,3)

たとえば、先の尖った石器(尖頭器)は、大型の動物を仕留めるために用いられた旧石器時代の代表的な道具であるが、同時にそれは、狩猟という社会的行為を可能にし、狩猟社会が成立するための物理的な条件ともなった。(33) 

 この概念は、人は「技術との関係にまきこまれた具体的な生のあり方(33)」をしているという理解を促す。「技術によって人の生活が成り立っており、同時に、人の生活のなかからその必要に応じて技術が作り出されている。この相互的因果を考えることは、人と世界のかかわりを考えることにほかならない(34)」のだ。

この概念を理解するにはユクスキュルの《環世界》――身体の延長上に、身体と互いにかかわりあって現れる世界――の考え方が示唆に富む。マダニは眼も耳も味覚もない生物で、光角を使って低木を登り、嗅覚を使って酪酸を発する温血動物に飛び乗る。人の環世界とマダニの環世界とでは酪酸の果たす役割は大きく異なる。私達は同じ自然の中を生きているようでいて、しかしながら、マダニの環世界を生きることはできない。誰も《自然そのもの》や《世界そのもの》を知覚できていないのだ。

人にとっての世界とは、人が知覚することができ、また人に作用することができる世界のことである。私たちは、みずからの身体と技術をとおしてなんらかの関係性をつくりだせる世界を生きることしかできない。(36) 

 ここで、ラディカルな視点の転換が行われる。私達は《自然な》環境を技術によって切り開いてきたのではない。環境そのものを技術によってつくりだし、《技術的環世界》を生きてきたのだ。《自然そのもの》は不可知で、私達が知れるのは技術を通して関わることのできる範囲、私達にとっての環境だけなのだ。この複雑な絡み合いを生きるということは、社会に独自の領域があるとかそういう議論を無効にする。科学技術社会論を研究するラトゥールは以下のような批判を掲げ、自然と社会は互いに独立した領域ではないと主張する。

近代社会を対象とした人類学が見いだしたのは、社会とは、じっさいには人間と非人間をさまざまに関係づける実践の連鎖の中でしかとらえられないネットワーク状の構成体だということだ。 (39)

 病院という特殊な環世界について考えてみよう。顕微鏡という技術を通して医者が見ている患部と、痛みを感じている患者とでは、知覚されている世界が異なる。ワクチン接種のリスクが数値で示されるとき、患者の《統計的に構成された身体》だけが問題となっている。技術と社会は複雑に絡み合い、私達の権利という領域にまでそれは及んでいる。ウクライナ原発事故では、「社会保障を受ける権利は、みずからの身体がどのような状態にあるかを科学的に説明できることで初めて正当化される(40)」のだ。

最後に、私達の身近な世界にあるこの問題について引用して締めくくりたい。

スマホを手放すことであなたが不安を感じるのだとしたら、それは、スマホがあなたの日常を構成する環世界の一部となり、あなた自身の生を規定しはじめているということだ。つまり、あなたの身体は、スマホをつうじて変容しはじめていることになる。(42) 

 

千葉雅也・二村ヒトシ・柴田英里(2018)『欲望会議 「超」ポリコレ宣言』

本書は哲学者の千葉雅也とAV監督の二村ヒトシ、現代彫刻家でフェミニストの柴田英里による性的欲望の問題を中心とした結構過激な鼎談だ。はやく読みたすぎて発売日の深夜にKindle版を購入して読んだ。なので、引用の括弧内はページではなくKindleの位置ナンバーだ。

性的欲望に何か特別なところがある(食欲などとは異なり、性について語ることには特別な恥ずかしさがあるでしょ(75)

性について語るときの特別な恥ずかしさはなにに由来しているのか?この性的欲望とは私達が生きるにあたってどう機能しているのか?

欲望とは、積極性です。積極性とは、言い換えれば「肯定」です。欲望とは、肯定することです。肯定的生、肯定的性。それはしかし、逆説的に思えるかもしれませんが、何らかの「否定性」としぶとく付き合い続けることを含意している(113)

 性について語ることになんらかの抑圧を感じるのはこの「否定性」故だろう。自分からは言い出せなくても、話を振られたらちょっと喜んでしまうという受動性がある。「〜してはいけない」という否定性、秘密の存在が心の中で蠢く積極性を支えている。性的な交わりには受動性というか、主体的な積極性が溶けていくモーメントがある。「セックスには中動態的なものがある。責任帰属が問えない状態のまま、あるエロティックな状況が起動して、その中で主客がよくわからなくなっていく(1019)」とあるように、主体の否定というネガティブな側面が性の本質なのだ。

この主客の溶け合いは性だけでなく、日常のコミュニケーションのいたるところに現れれている。しかしながら近年は主客を明確に分離しようという圧が社会で高まっていると述べられている。この帰結のひとつがTwitterでよくみられるような「正義の怒り」だ。

被害者感情による攻撃性を社会正義として肯定する女性には、その被害者として傷ついている自分に気持ち良くなっている部分もあります。[...] 敵を発見してキーッてなる、怒りにとらわれることはオーガズムです。(795)

 否定性や受動性というとネガティブなイメージがあるかもしれないが、人は主体であるよりは客体でありたいと願っている面があって「気持ちよくさせてもらいたい」と思っている。怒りをぶちまけるとすっきりするのは積極性ではなくて受動性なのだ。Twitterを探索して怒りのネタを探すのことには気持ちよくさせてもらいたいという欲望がきっとある。「自分たちがどれだけ攻撃的に出ても、それを乗り越えて受容されること、圧倒的に満たされることが、ネットで怒っているような人たちの欲望(1719)」と分析されている。

ところで、被害者意識には偶然性の問題が絡んでいる。

自分の傷には誰か原因となる加害者がいた、この件にも悪者がいるはずだ、この件もあの件も人災だって認知すると、自分への加害者の存在を思い出せて、また怒ることができる。(1032)

できれば、ほとんど人災だったことにしたい。偶然性の否認だよね。偶然性というのは、合理性のまったき否定ですから、理性的動物としての人間には耐えられないわけです。だから必死になって、どんな災難にもそれなりの理由があったと思いたい(1036)

これは鬱病にも言える。鬱状態において、なぜ自分はこんなに苦しんでいるのかということには根源的な理由はない。だから理由を探す。しかし、そこに理由はないのだと偶然性を受け入れることでしか鬱を乗り越えることはできない。「あまりに単純すぎるがゆえに、なにか物語がないと耐えられない(1744)」のだ。

精神病といえば、「なぜそれが病気なのか」ということは社会の趨勢によって決まるところがある。たとえば、「コミュ力の価値が上がることで、そこからこぼれるあり方、発達障害というカテゴリーが注目されるようになった。昔だったら、「ちょっと変わった人」ぐらいで済まされていた人を、病理化してカテゴリーを作って、どんどん取り込んでいっている(1915)」といった具合だ。

病だけでなく、なにかの被害を受けたときに生まれる傷はその人に固有のものだ。しかし、#MeTooなどの運動は「あなたの傷は私の傷でもある」と言って、その固有性を否定する。これを共感と言えば聞こえがいいかもしれない。しかし私達はあまりに共感を理想化しすぎている。共感とは固有の感情を交換可能なものに貶めてしまうという側面がある。

傷の価値、値段が下落したからこそ、傷を交換することがポピュラーになり、そのポピュラーな行為が、コミュニケーションとして優位なものになっていると考えています。(3004)

私がたとえ傷ついたとしても、それは私固有のもののはずなのに、それをSNS上で交換することで、特定の表象を、何か普遍的な女性という概念に対する犯罪にしたいんじゃないか。私は、それは女性性の一元化・本質主義化にすごく近い(3007)

 共感は多様な固有性を喪失させる。それは人間の固有性の毀損だ。違和感のある意見にも聞こえるが、共感による結びつきのポジティブな面だけを見ていると、道を誤りかねない。

私が他ならぬ私であるためには、性と生の積極性を支える否定性・偶然性を受け入れることが必要だ。交換不可能な私、私だけの傷。ネガティブなものが私が私である積極性を作り上げているのだ。この逆説を生きることをこの本は勧めているのだと私は受け取った。

Star & Griesemer (1989) “ Institutional Ecology, 'Translations' and Boundary Objects: Amateurs and Professionals in Berkeley's Museum of Vertebrate Zoology, 1907-39”

私の博論の中で最も重要な論文の感想を書きたい。異なる関心を持つ人々がどのようにしたら協働できるようになるのか、というテーマの論文だけれども、Abstractを読んでみると協働のうちでも特定のものに焦点が当たっていることがわかる。


Scientific work is heterogeneous, requiring many different actors and viewpoints. It also requires cooperation. The two create tension between divergent viewpoints and the need for generalizable findings. We present a model of how one group of actors managed this tension. (387)

この論文は科学の営みという協働についてのもので、研究には多様な視点が必要であるとともに、結果を一般化しなければならないという緊張関係をマネジメントする方法をみつけようというものなのだった。これは博論にとってはありがたい話だ。

新しい科学的知識の創造には新しい発見だけでなく、コミュニケーションが必須だ。なぜならば、新しく発見されたモノや方法の意味というのはまだ1つに収斂していなくて、研究者ごとに異なる意味を持ってしまっているから、協働するためには意味の調整作業としてのコミュニケーションが必要なのだ。“how can findings which incorporate radically different meanings become coherent?”(392)という問いが掲げられる。「根本的に異なる意味を取り入れた発見はどのようにしたら一貫性のあるものになるのか?」という問いだ。

このコミュニケーションを促進させるツールとして、手法の標準化とバウンダリーオブジェクトの開発という2つの方法が提案される。手法の標準化の方はわざわざ定義を確認するまでもないが、後者についてはそれが必要だろう。この論文で最も引用されている箇所をここでも引用する。

Boundary objects are objects which are both plastic enough to adapt to local needs and the constraints of the several parties employing them, yet robust enough to maintain a common identity across sites. They are weakly structured in common use, and become strongly structured in individual site use. These objects may be abstract or concrete. They have different meanings in different social worlds but their structure is common enough to more than one world to make them recognizable, a means of translation. The creation and management of boundary objects is a key process in developing and maintaining coherence across intersecting social worlds. (393)

バウンダリーオブジェクトとは、可塑的(plastic)かつ頑健(robust)なモノで、このマネジメントが一貫性の形成・維持には必要であるというのだ。可塑性というのは、オブジェクトを利用する人々の個々の必要や成約に適応できるということ。対して頑健さというのは、別々の人々に利用されたとしてもそこに共通するアイデンティティを保てるということだ。こうした特徴を備えるためには、共通して利用される部分についてはゆるく構造化されている一方で、個々の場面で利用される場合には強く構造化されるようになることが必要である。すなわち、異なる意味を持つが翻訳可能な程度には共通の構造をしているのだ。

 自然史博物館には、科学者とアマチュアパトロン、経営者、大学といった多様な主体が関わっており、彼らのダイバーシティと協調をどのように管理することができるのかを説明するためにバウンダリーオブジェクト理論が導入された。

この博物館に携わる主体は以下に挙げるようにそれぞれ異なる意図を持っていた。まず、科学者は、ダーウィンの自然選択理論の背後にある環境の影響を明らかにするために標本の収集を行いたいという意図があり、そのためには標本についての詳細な情報が必要であった。一方で、パトロンと管理者は、カリフォルニアの消滅しつつある自然を保存したいという意図を持っていた。アマチュアのコレクターはプロフェッショナルの科学的探求に対して役割を果たすことで、彼らの収集の努力を正当化したいという欲求があった。また、狩猟者の関心は、採集した動植物から金銭を得ることにあった。最後に、大学にとっては、地域のカルチャーセンターとして大学の目的に見合うものにしたいという意図があった。

これらの異なる関心を持った集団を協調させるための翻訳活動には2つのものがある。1つは、明確な標準化された手法を開発、教授、施行し、コレクターと狩猟者を訓練することである。ここで重要なのは、「どのように」収集するのかという点は標準化するが、「なぜ」収集するのかという点は個々人に委ねるという戦略である。もう1つは、集団間の自立性とコミュニケーションを最大化できるバウンダリーオブジェクト(e.g. 標本、フィールドノート、ミュージアム、地図など)を生成することで、個々人に委ねられた「なぜ」が発散してしまうのを防ぐことが目されている。

バウンダリーオブジェクトには、レポジトリと理念型、一致した境界、標準化されたフォームという4つの排他的でない類型が示されている。これらは異なった解釈を許すことで個々人の自律性を高めると同時に、共通のゴールと共通理解に向かわせるアンカーとなる役割を持っている。言い換えれば、発散と収束という両義性があるということだ。それぞれの類型について詳述する。

まず、レポジトリとは、標準化された仕方でインデックスされたオブジェクトの秩序だった集積物である。これは、分析単位の差異によって引き起こされる異質性の問題を解決するために構築される。図書館やミュージアムがその例であり、モジュラリティの強みがある。異なる個人は直接に差異について交渉することなしに、彼らの目的のために集積物を使ったり借りたりすることができる。

次に、理念型とは図表やアトラスのようなモノを詳細まで正確に記述しないもののことである。どの個々人からも等しく抽象的なために、誰にとっても平等にあいまいである。このあいまいさゆえに個々の目的のために適切に適応可能であるという性質から、象徴的なコミュニケーションと協働が可能になる。「種」というコンセプトはその一例で、「種」は具体的な標本を記述しないが、具体的または理論的なデータを取り入れることで両者のコミュニケーションを可能にする。

そして、一致した境界とは、同じ境界を有しながら、異なる内容を持つ共通したオブジェクトである。これは、データ収集の方法が異なるとき、または、作業が地理的に分散して行われるときに生じる。個々人の自律性を保ちながら、彼らに共通の参照点を共有させることができる。カリフォルニアそれ自体がこのバウンダリーオブジェクトの一例である。アマチュアとプロフェッショナルではカリフォルニアの地図の内容は異なるが、地理的な境界は共有している。

最後に、標準化されたフォームとは、すでに述べたような分散した個々人の間で共有される手法のことである。この論文の中で、標準化とバウンダリーオブジェクトは並置されていたが、この箇所ではバウンダリーオブジェクトの一種とみなされている。私見では、標準化については、発散と収束のうち後者の機能しかもたないので、バウンダリーオブジェクトとは言えないのではないかと考えている。

以上、抽象的な説明ではあるが、元の論文にできるだけ近い形で四類型の概要を示した。この発散と収束の両義性という機能は、以降の研究では十分に理解されているとは言い難く、前者、解釈の多数性という側面ばかりが強調されているきらいがある。解釈の多数性を許すだけでは協調は発散してしまい、共通のゴールへと向かうことはできないにもかかわらず、どのようにこの共通理解を形成するかという論点は見過ごされがちである。

土居健郎(1971)『「甘え」の構造』

「甘え」とは何か。まずはその定義から確認したい。

「甘え」は親しい二者関係を前提にするとのべた。一方が相手は自分に対し好意を持っていることがわかっていて、それにふさわしく振舞うことが「甘える」ことなのである。(3,4) 

 土居はこの「甘え」という概念を引っさげて、日本語という言語とその言語のつくりだす日本社会、ひいては私達の心理にいかに「甘え」が潜んでいるのかを明らかにしようとする。

「甘え」にとって肝心なのは相手の好意が分かっていることであって、相手に受け容れられないのではないかという恐怖がある場合にはうまく「甘え」ることができない。第一章の「甘えの語彙」の節では「気がね」という言葉について「『気がね』は通常相手に遠慮する気持をあらわすが、それは相手がこちらの甘えをすんなりと受け容れてくれるかどうかわからないという不安があるから」(48,9)と分析される。他にもいくつかの語彙を検討した末に、土居は「人間関係を現わす多くの日本語がすべて先に述べたように、甘えの心理を含んでいる」(53)と結論づけているが早急なのではないか。1971年に書かれた本なので、「自由と独立と己れに充ちた現代」(197)においては事情が異なるのかもしれない。一方、義理と人情の時代には、甘えによる依存は社会生活を円滑にすることができた。

人情を強調することは、甘えを肯定することであり、相手の甘えに対する感受性を奨励することである。これにひきかえ義理を強調することは、甘えによって結ばれた人間関係の維持を賞揚することである。[...]人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛る。(56) 

 現代では、依存性というとネガティブな意味で使われる。「甘え」も同様だ。土居も「自由と独立と己れに充ちた現代」においては事情が異なるという趣旨のことを書いている。

甘えの挫折ないし葛藤は種々の精神的障害を引き起こす。仮に、甘えが恋愛・友情もしくは師弟愛という形で満足されたとしても安心はできない。満足は一時のことで必ず幻滅に終るであろう。なぜなら、「自由と独立と己れに充ちた現代」において、甘えによる連帯感は所詮蜃気楼に過ぎないからである。かくしてこの二人とも、もしわれわれが幻滅に悩みたくないならば、自己についての真実と孤独の淋しみに堪える覚悟がなければならない(196,7) 

 なんという手のひら返しだろう。日本文化には随所に「甘え」が潜んでいて、それが社会を回していたという「甘え」万能論を提示したのにもかかわらず、このでの主張は「孤独に耐えろ」だというのだ。なんと救いのないことを言うのだ。私達が知りたいことは、「適切な甘え」とはなにかということなのだから。

「甘え」の連帯感が蜃気楼などとは思いたくない。その反面、依存し合うことによる危険性は嫌というほど知っている。どうすればいいのか。あまり知りたいことは知ることができなかった。