第21回日本ビザンツ学会参加記

4月2日更新

この春は、研究会であちこち動き回る日々です。今回は、岡山大学で行われた日本ビザンツ学会の第21回大会に参加しました。それも、青春18切符を使って、新快速を乗り継いでの岡山入りです。会場でこの話をすると他の参加者に唖然とされたものですが、実は乗り継ぎさえ上手くいけば、京都駅から3時間強で岡山駅に着くのです。

姫路と相生で乗り継ぎのためにダッシュする必要がありますが。

ビザンツ、分野違いませんか・・・?」

会場では、開催校・岡山大学の仲田さんをはじめとする参加者の皆様が驚くやら呆れるやらといった反応でした。しかし、岡山にはこの3年ほど

「行く行く詐欺」

を連発していたという不義理がありますので、この機会にそれを解消したという次第です。

さて、研究会の日程および報告題目は以下の通りです。

3月28日

記念講演

自由論題報告

3月29日

自由論題報告

  • 南雲泰輔(山口大学)「410年のローマ市劫略をめぐって」
  • 貝原哲生(大阪公立大学)「7-8世紀エジプトにおける修道院とその社会的機能に関する一考察―上エジプトの事例から」
  • 清水悠佑(早稲田大学)「ラヴラ・レクショナリーの聖者暦研究」
  • 小田昭善(大阪府立学校)「中期ビザンツにおける司法官クリテースの成長と変化(仮)」
  • 福田耕佑(大阪大学)「中世ギリシア口語詩『エロトペグニア』における恋の戯れ-現代ギリシア文学史の 関係と作品の分析を中心に(仮)」

報告者・内容とも、非常に充実した研究会でした。

ちなみに岡山訪問の目的は、学会参加もさることながら、今回の事務局担当の仲田さんと、オリエント美術館学芸員のS氏(ササン朝ガラス専門)を引きあわせ、ことのついでにビザンツ研究者の皆様と知り合いになっていただくというのがひとつ。もうひとつは、岡山大で教鞭を執るご・・・旧友のF女史に会うというものでした。さまざまな記録をあたってみると、F女史に最後に会ったのは2017年の夏、どういうわけかこの7年の間に彼女の御父君と知り合いになる機会も得ました。29日には、そんな四方山話に花を咲かせながら昼食をともにしたのでした。一応、両件ともに所定の目的を果たしたことで、この3年の不義理を関係各位にはご容赦いただけるもの・・・と願いたいところです。

Dr.関塾桂校閉校慰労会

非常勤講師として教壇に立つことになった2016年は、個別指導塾のアルバイト講師としての仕事を始めた年でもありました。大学と中高生相手の授業を同時にやるということは、必然的に双方を比較しながら教育ということを考えることにつながります。

長く続けていると、かつての教え子と同僚になるということもありますし、あるいは大学構内で遭遇するということだってあります。今年の箱根駅伝では、教え子が走るということまで目にしました。義理人情もあります。そんなこともあって、非常勤講師稼業が軌道に乗ってきた後も塾講師を辞める気分になかなかなれず、8年が経過していました。

この2年ほどは塾が本格的に不安定でしたが、本年度に入ってから塾を閉める話が本格化しだし、昨年末にその方向が決定しました。私の最後の授業は2月16日、今回のヨーロッパ行に出発する4日前でした。最後に受け持った子の一人が、親御さんと一緒に大学の合格報告に来てくれました。そして今日、古参の講師4人で最後の慰労会となった次第です。

私に多角的な視座を与えてくれた皆様、ありがとうございました。これから桂に行くことも少なくなるのだろうなぁ。

 

第29回ヘレニズム~イスラーム考古学研究会参加記

3月30日更新

旅から帰ってすぐ、今度は金沢です。もともと今回のヨーロッパへの春旅の日程は、このヘレニズム~イスラーム考古学研究会の日程が明らかになってから決めたのですが、報告者の名前が一向に増えないので、

「12月に行った報告と同内容であれば、できます」

と申し出たところ、帰国直後の報告が決まりました。

さて、帰国したのは3月8日、一度帰宅した後、その日のうちに金沢に向かいました。青春18切符でいったのですが、なかなか金沢が遠かった。乗り継ぎが上手くいかず、近江塩津で30分近く列車待ちをしたのが・・・他の駅ならいざ知らず、近江塩津は何もないのです。金沢に着いたのは十時近くでした。

開けて3月9日、今回の会場である、石川県文教会館に向かいます。帰国して驚いたのは、フランスやスコットランドより日本の方が寒かったことです。とくに金沢は、到着と同時に雪が降りだし、この日は溶けかけた雪の上を歩いていくことになりました。会場に着くと、世話人の金沢大学・足立先生以外に、準備に携わる人員がいないという、何とも寂しい状況でした。慌てて準備をお手伝いしていたら、なんと本日の研究会で使用するPCとして私のPCを提供することに。時期が悪かったのかなぁ。

さて、本日の報告題目と報告者は、以下の通り↓

  • 柴田広志 「秘境」サウジのナバテア岩窟墓群~マダーイン・サーリフおよびサウジアラビアの最新情報~」Nabataeans' stone-carved tombs in Saudi Arabia and the latest information for Saudi Visitors
  • 田辺勝美 「カニシュカ1世銅貨の弥勒仏坐像考:ガンダーラ弥勒菩薩像は存在したか?」Maitreya Buddha on Kanishka I’s bronze coins revisited—Did the Image of Bodhisattva Maitreya exist in Gandhāra?—
  • 田辺美江「胴部に仏像がついた青銅の壺」A Bronze Vessel with Buddha images on the body
  • 井上 豪「キジル第38窟『バルコニーの奏楽天人』の図像について」About the iconography of Qizyl Cave 38 “the Muses on the Balcony”    
  • 丸小野壮太・佐藤育子「パブリックヒストリーから考える開かれた古代地中海世界史研究:市民協働型の歴史実践」“Open Studies on the Ancient Mediterranean World History” from public history: a citizen-collaborative historical practice
  • 佐藤育子・丸小野壮太「アッシリア史とフェニキアカルタゴ史から考える開かれた古代地中海世界史研究」Open studies on the Ancient Mediterranean World History in the view point of Assyrian History and Phoenician-Punic History
  • 榮谷温子「現在の高校の社会科でイスラームはどのように教えられているか」(仮題)How is Islam currently taught in high school social studies?

なんと私が先頭打者です(苦笑)。報告前日に道中つらつら考えてふと気がついたのは

「マダーイン・サリーフは、西洋古代史・古典学の人にとっては『秘境』だが、考古学の人にとっては秘境ではない」

ということでした。サウジが行きにくいのは、私のような個人旅行者にとっての話です。現地で発掘調査に参加している日本人考古学研究者は、必ずしも珍しくはないのです。聴衆の少なさ(参加者は報告者+主催者くらいでした)も手伝ってか、12月の古代史研究会の時に比べると落ち着いた雰囲気の中での報告でした。そのぶん私も、報告をしながら聴衆に向かって質問を投げかけるなど、肩肘の力を抜いて話すことができたと思います。まぁ、私と続くお三方の発表時間が押してしまって、最後の3本は端折りながらの報告となってしまって、大変に申し訳なかったと反省しております。

研究会の後は、懇親会でした。この「当たり前の構成」が、なんと嬉しいことか。特に最終報告者のはるこ先生とお会いするのは2019年以来、ましてや懇親会の場で盃を酌み交わすのが初めてでもあり、大変に楽しいひとときでした。

2024春旅の記録⑤仏独国境~サイゴン~日本

4月21日更新

3月4日、遂にストラスブール出発です。ストラスブール欧州議会の開催時期に入ると宿が取りにくくなると事前に教えていただいていたこともあり、会期始まりのこの日、朝8時のバスで出発しました。バスは河向こうのケール始発、バス車内は小学校高学年くらいの年頃の子供たちで一杯でした。どうも合宿か遠足の御一行様のようですが、貸し切りではないんだなぁ、と興味深い一幕でした。

フランスに行ったのにTGVも使わず(この旅程では結局、一度もTGVに乗りませんでした)バスにした理由は、せっかく仏独国境にいる状況を活かして、ドイツ側にある古都トリーアを訪問するためです。世界史に詳しい人ならおわかりいただけると思いますが、ここはローマ帝国末期、ディオクレティアヌス帝に始まる「四分統治」(テトラルキア)期に副帝(のち正帝)コンスタンティウス1世―あのコンスタンティヌス大帝の父親―が根拠地を置いたところです。今回の旅程は、徹頭徹尾、自分の研究分野と関連したところばかり回る羽目になってしまいました。趣味か業務か、その2つが完全に結合した旅路です。ここまで両者が一致するのは珍しい。

トリーア到着は11時20分、定刻通りでした。駅のコインロッカーに荷物を預け(€3.5/24時間)、駅前から真っ直ぐに伸びる大路を歩くと、十分ほどでポルタ・ニグラに着きました。2000年のユーラシア横断の最終盤に、列車の乗り継ぎで少し時間があったときにこの門も見たのですが、12月の夕刻のヨーロッパはあまりに暗く、その名の通り黒い門は夜景に溶け込んでいました。

トリーアのツーリスト・インフォメーションは、このポルタ・ニグラに隣接しています。この日は月曜日だったために、博物館やコンスタンティヌス帝のバシリカは閉館日でした。ガッカリしましたが、これが幸いするのだから解りません。つまり、博物館に割く時間を開館中のローマ遺跡に割り当てることができたのです。そのおかげで、めぼしい見所はだいたい訪問できたと思います。今回訪問したのは①ポルタ・ニグラ、②大聖堂、③皇帝浴場、④円形闘技場です。どれも保存状態がかなり良いのですが、ポルタ・ニグラは中世~近代に教会として、皇帝浴場は城門として使用されていたとのことで、長期にわたって維持のための補修が為されていたようです。裏を返せば、修理さえ怠らなければローマ時代の建造物は1500年を超える使用に耐えたと云うことです。ちなみにトリーアはマルクスの出身地で、マルクス博物館だけは月曜日にも開いているとのことですが、残念ながら見学の時間はありませんでした。

左から順番に①ポルタ・ニグラ、②大聖堂、③コンスタンティヌス帝宮殿、④皇帝浴場、⑤円形闘技場

訪問の目的は充分に果たしたところで、円形闘技場では閉門時間を過ぎ(入り口が閉まって無人状態になったところを見たときには冷や汗をかきました)、24時間見学OKのバルバラ浴場を見たところで日没となりました。トリーア発のバスは午前1時発予定、夕食を食べてから居酒屋で時間を潰すか、と開いたタブレット

「バス、すごく遅れます。代替便への変更推奨」

という恐ろしい通知が来ていました。見てみると、私のバスは始発が朝7時頃のポーランドで、そこからドイツを横断しながらトリーアに来るようで、・・・そりゃ遅れるでしょう。しかしながら、このトリーアからパリへの代わりの手段などないのです。かくして、腹をくくってバスの到着を待ちました。幸い、ポルタ・ニグラから徒歩五分ほどのところに午前3時まで開店の(実際には、もっと遅くまで開いていたようですが)居酒屋があったので助かりました。結局バスがトリーア駅に着いたのは、なんと午前4時、ここでの乗客は、私以外には女性がひとりだけでした。そして、出発がこんなに遅れたら、到着も遅れます。パリのベルシー・バスターミナルへの到着は、当初予定の7時45分から遅れて10時過ぎでした。

パリの東を走る路面電車の路線にほど近い宿に荷物を預け、先ず向かったのは凱旋門でした。巨大な凱旋門は、周辺より高いところにあって、そこから放射状に道路が延びています。門の足元には19世紀以降のフランスの関与した戦争での戦死者を追悼するプレートが埋められています。一番最初に私の目にとまったのは、第1次大戦後のアルザス・ロレーヌ復帰を祝うものでした。この凱旋門からセーヌ河方面を見下ろすと、そこにはアンヴァリッドが見えます。なるほど、ナポレオンの戦功記念と墓所が向き合うような都市計画のもとにパリは整備されたのであると得心しました。この両地点を結ぶ大通りが、かのシャンゼリゼというわけです。

で、「オーシャンゼリゼ」と歌いながら大通りを下っていったわけですが、だんだんと余裕がなくなっていきました。どの店を覗いても、公衆便所がないのです。グラン・パレからセーヌ河沿いにコンコルド広場・チュイルリー公園と歩いて行って、地下鉄に乗って、・・・けっきょくトイレに入れたのは、シテ島ノートルダム・ド・パリの聖堂前公園でした。このノートルダムは、2019年に屋根が焼け落ちてしまい、現在は足場をがっちり組んでの再建工事中です。今年の12月に完成見込みとのことで、どうも夏のオリンピックには間に合わないようです。まぁ、私がオリンピックを観戦することは、たとえ中継であっても、金輪際ありませんが。それにしても今回は、パリだけ天気に恵まれず。といいますか、パリの天気の変化が激しすぎ。シャンゼリゼを歩いていたときは良かったのですが、シテ島でも未だ大丈夫でしたが、最後にバスティーユ広場をチラリと見たときには雨に祟られました。

左から①宿の周辺②凱旋門③再建途上のノートルダム・ド・パリバスティーユ広場

翌朝、遂にパリを離れる日です。朝はゆっくりしすぎたのか、ヴェトナム航空のカウンターには長蛇の列ができていました。2時間半前には着いたんだがなぁ(汗)。チェックインの手際が異常に悪く、CDGを堪能する間もなくファイナルコールで呼び出しを受けました・・・

さて、東へ向かう機内では、どういうわけかあまり眠気を覚えず。結局、睡眠時間1時間ほどでサイゴンのタンソンニャット空港に着きました。入国カウンターをくぐったのは午前8時過ぎ、・・・というところでハタと困りました。サイゴンには何度か来ておりますが、思えばここに来るときには必ず、T倉君夫妻という最高の道案内人が連れ回してくれるので、私はガイドブックもろくに開いたことが無いのです。独りで回った分、首都のハノイの方が土地勘があるくらいです。ましてや今回はガイドブックもなし。さてどうしようかな・・・という不安は、幸い、杞憂に終わりました。

「まずはファングーラオ」

と市内行きのバス(5000ドン)でファングーラオに出ると、そこにはツーリストインフォメーションがあって、懇切丁寧な説明と地図をくれたのです。おかげで、ベンタイン市場に中央郵便局、歴史博物館としっかり見て回ることができました。郵便局目の前のサイゴン大教会は工事中で立ち入りできませんでしたが。あとはファングーラオ周辺の旅人街にあるバーのテラス席で、道行く人を見ながら、最近定年退職したというオーストラリア人と雑談にふけりながら、ビールを飲んで日没を待ちます。19時頃にはそこを発って、タンソンニャットに戻りました。こういうときに、市街地から至近のこの空港は本当に有り難い。そしてラウンジで時間を潰し、さて待合室へ・・・というところで、非常勤先のひとつ・R大学のK先生にお会いしてお互い唖然。旅は道連れといいますが、世界の狭さを感じながら、飛行機で日本へと戻ったのでした。

①まずはフォー②市場③中央郵便局外観④郵便局内⑤郵便局周辺の書籍街にて⑥歴史博物館

2024年春旅の記録④~ストラスブールでの小島剛一氏との再会~

4月1日更新

アヴィニョンからのバスは、到着時点で15分遅れでした。乗車すると満席だったのですが、始発はどうやらマルセイユだったようです。主にマルセイユからリヨンに客を運ぶ路線のようで、深夜1時半頃にリヨンに着くと多くの客が下車し、3月2日の朝8時過ぎ、ストラスブールに到着する頃にはガラガラになっていました。

ストラスブールは、そびえたつ朱い砂岩作りの大聖堂を中心とする、旧市街が大変に美しい街です。とくに、木組みの家並みが美しい「プティト・フランス」は、ガイドブックでもウェブサイトでも必ず紹介されるところです。

また、20世紀に歴史学の一大潮流となった「アナール学派」は、この街のストラスブール大学から始まりました。同じく歴史学徒として見逃せないのは、フランスとドイツの間で長く争奪の対象となってきたところであることです。私の指導教員である渡邊伸先生は、この地域が神聖ローマ帝国領内であった頃の宗教改革を主題とした著作を出版されています。それから第2次大戦後まで、その帰属を追うだけでも息が切れてしまうほどです。こうした状況を踏まえてのことでしょう、現在この街はEUの核である「欧州評議会」が置かれ、「欧州議会」が開催される

EUの首都」

としての位置づけを持っています。

大聖堂(左)とプティト・フランス

前の記事でも触れましたが、「フランスに行くときには、絶対にこの街に行く!」と決めていました。その最大の理由は、『トルコのもう一つの顔』の著者として名高い、小島剛一氏とお会いするためです。実は、氏とは2020年3月にストラスブールでお会いするはずでした。それが出発直前の渡航キャンセルのために果たせず、再会は昨夏8月に遍路道を同道した時まで延びてしまいました。それだけに、遍路道を歩きながら

「次の春は、フランスに、そしてストラスブールに!」

と心に誓ったのです。

小島さんと宿で合流したのは、到着した3月2日の15時を15分ほど過ぎてからのこと。日本で会う機会は幾度かありましたが、遂にストラスブールで・・・握手を交わしたときには、思わず感慨に浸ってしまいました。感慨に浸りながら、大聖堂まで歩きました。正面入り口の彫刻を見上げた後、市内を一緒に散策しました。河沿いの道を歩いた後、路面電車の線路沿いに歩いてストラスブール大学の正面に出ます。学舎を見上げると、壁面にストラスブール大学で教えた学者たちに在籍した有名人たちの名前が刻まれています。大学の植物園を散歩した後、小島さんお勧めのアルザス料理を出すお店へ。ちょうどHappy Hourということで、ビールも料理も割引価格になっていました。勧めていただいた料理ーシュークルート(Choucroute)というのだそうです―は、実に美味でした。

シュークルートと、プティト・フランス夜景

次の日は、大学の前で集合し、ライン河の「両岸公園」を経由して、ライン河対岸のケールまで歩きました。普通の旅行者は路面電車を使うそうですが、我々二人は徒歩です。途中、大学のすぐ近くのロシア総領事館を紹介されました。・・・といって日曜なので、中には入れません(用もありません)。建物前の緑地に、つい最近獄死した、反プーチン派の政治家ナヴァリヌイ氏の写真と献花がありました。緑地帯はストラスブール市の公有地なので、こうした行為にロシア領事館は抗議ができないわけです。

さらに歩いて両岸公園に着くと、ライン河に橋が3本4本架かっていました。ここでみるライン河は、さんざん「大河」として学校で叩き込まれた印象からはほど遠い、泳いで渡れそうな細い河です。そこに架かる橋の一本、歩行者専用の橋を歩いて河を渡ります。この橋へ向かう歩道から橋に向かって表示が色々かかっているのですが、フランス側からみるとドイツ語が表示され、反対側すなわちドイツ側から歩くとフランス語の説明書きを読むという構成になっています。

現在、この橋を含め、ライン河をわたる際の検問はありません。この状態が当たり前になったのは、EU統合のおかげです。しかしそれ以前、すなわち小島さんが留学生としてストラスブールに初めて来た50年以上前には検問が存在していたとのことですが、その段階でも行き来は盛んだったため、検問で顔を覚えられてしまうと、その後は顔パスになってしまったとのことです。第2SARS(SARS-Covid-2)の2020年には国境の検問が復活したといいますから、その衝撃は相当なものであったのでしょう。

そんなことを考えつつ、橋をのんびり歩いて国境を越えてドイツ側のケールKehlに着くと、いきなり道路標識がドイツ語になります。パスポートチェックという儀式を経ていない身では心構えが全くできておらず、虚を突かれてしまいました。今回は歩いてきたので使わなかった路面電車は、最初の路線は終点がケールで、ユーロ導入前にはフランス・フランで運賃を支払うことができたということです。何度か国境を越えてきた身ではありますが、実に心揺さぶられる体験でした。

ライン河と橋、そしてドイツ側国境のケール

ちょうどこのあたりでお昼時になり、両岸公園のドイツ側で、ライン河を眺めながらの昼食です。小島さんの好意で、用意してくださったものをいただきました。市場で買ったばかりの新鮮な野菜にスウェーデンの「パン」*1、そしてチーズが色とりどり、という組み合わせでした。とても美味しかったのですが、困ったことが1つ。美味しいチーズを食べるとワインがどうしても飲みたくなるのです。これを押さえつけなければいけないことだけは、困りました。飲兵衛であることの、まことに困った副産物です*2

酒を飲まなかったおかげではないでしょうが、散歩する人たちの声がよく聞こえました。聞くと話に聞こえてくる会話が、フランス語やドイツ語だけではなく、スラブ系の言葉を話す人もいました。このようなとき、小島さんと一緒にいると「いまのは○○語」と教えていただけるのは、何とも贅沢でした。

もと来た橋を渡り、別の道からストラスブール市内に入って、運河沿いの道を歩きました。この運河には、かつては水上交通で稼働していた船がいくつも浮かんでいます。現在は廃業してしまった船主たちが、改装して自宅にしているということです。「かつて運搬船、いまはカフェ」という船は、旧市街に面する河の上でよく見るのですが、街外れだとそうでもありません。考えてみれば、河川や運河の上だと土地税もかからないので、住処にしやすいと云うことでしょうか。

市街地に戻り、オランジュリー公園で一休みした後、公園を抜けて欧州評議会の建物を見ます。英国のユニオンジャックは、ありませんでした*3。コンタッド公園の一角を占める、巨大なシナゴーグにも案内してもらいました。かつて私が訪問したシナゴーグは出入り自由なところが多かったのですが、このシナゴーグは入り口のフェンスが固く閉じられ、入ることができませんでした。以前は出入り自由だったが、昨年のイスラエル軍のガザ侵攻以降は襲撃を警戒しているようだ、とのことでした。

そして、前日と同じところで夕食となりました。前日の若い男性の給仕はアルザス語を解しなかったので小島さんは驚いていたのですが。この日に対応した若い女性の給仕はアルザス出身のようで、小島さんと話し始めると、パッと笑顔を弾けさせたのが印象的でした。後で教えていただいたところでは、このときにアルザス語に会話を切り替えたのだということ。劇的というのがふさわしい、鮮やかな変化でした。

夕食後は夜景を眺めて旧市街を歩き、そして宿の近くで、再会を約束してお別れしました。記憶に残る、とてもとても贅沢な2日間でした。

※小島さんも、ご自身のブログで私の訪問を紹介してくださっています。実に5本にわたっています。こちらから各記事をご覧ください。

※4月2日追記:小島剛一さんから、私の記憶違いを2か所、教えていただきました。ご指摘ありがとうございます。色と字の太さを変えて修正しましたので、何処を変えたのか、ご確認ください。

ryokojin.co.jp

小島剛一氏の、2010年の著作です。発行元の「旅行人」は、私が青春の全ての期間でお世話になった旅の猛者の集いの場は、昨年をもって紙の本の取り扱いを終了しました。Amazon経由であれば、未だ紙の本は入手可能のようです。

www.kyoto-up.or.jp

指導教員・渡邊伸先生の御著書です。・・・しかし版元在庫切れか・・・

*1:私の感覚では、クラッカーと思えるものでした。見た目も食感も。

*2:「饅頭怖い」の類いの戯言です。

*3:これは嫌味です(笑)

2024年春旅の記録③~南仏3都市巡り

3月25日更新

今回の春旅では、当初はロンドンからバスでベルギーに抜けるという(残念ながら流れてしまった)2020年の計画を踏襲するつもりでした。それを練り直したのは、ガイドブックを見ている間に

「南仏のローマ遺跡を回りたい!」

と思い始めたためです。そうなると、フランス再入国前に英国から直接飛んだ方が良いだろう、と判断しました。それに合致する便が、ロンドン8:40発、ただしガトウィック発のEasyjetでした。ガトウィックですから、ロンドン市内からだと2時間近くの所要時間を見ておく必要があります。そうすると、一番都合が良いのはヴィクトリアを3時半に出るバスでした。これに間に合わせようと思えば、必然的に睡眠時間を削るしかなくなるわけです。結局、ロンドンの宿では2時間ほど眠っただけでした。

Easyjetに乗る際には(LCCでは)初めて機内預けを利用したのですが、なんとこれが、自分でやる方式です。つまり、自動端末があり、そこにバーコードを読み込ませて、出てきたタグを自分で付ける・・・という方式です。普段、目の前でみているはずの手続きも、いざ自分でやるとなると途端に手順があやふやになってしまいます、面食らうやら戸惑うやら、という一幕がありました。

マルセイユ空港から市内にはバスで駅まで出て、宿に荷を預けてから市内観光に。流石港町だけあって、サン・シャルル駅から海岸まで、それほど離れていません。お目当てのヨーロッパ地中海文明博物館は結局見学できず、代わりに博物館複合体となっている旧慈善院を見学しました。ここに入っている地中海考古学博物館は、エジプトおよびローマ関連の収蔵品と展示が大変に充実しています。また、同じ敷地内のアフリカ・オセアニアアメリカ先住民美術館は、民具の展示が圧巻です。

ヴィエイユ・シャリテ(旧慈善院)と地中海考古学博物館の展示

大都市だけあって、教会も巨大なモノがあります。行ったのは二箇所、港に面して建つサント・マリー・マジョール大聖堂と、旧港を見下ろす丘の上のノートルダム・ド・ラ・ギャルド・バシリカ聖堂です。前者は外も内も新しい教会でした。後者に行くには、旧港に沿って走るバスに乗って丘を上っていくので、港町の風情を感じることができます。内装も綺麗ですが、なんといっても外の眺望が素晴らしい聖堂でした。

マルセイユ旧港とノートルダム・ド・ラ・ギャルド・バシリカ聖堂

次の日には、早くもマルセイユを発ってアヴィニョンへ。宿はTGVの駅の近くだったので、市街地からやや離れたところにあります。アヴィニョンは14世紀にローマ教皇が居を構えたところで、その時代の教皇宮殿があります。「ローマ教皇のバビロン捕囚」などとも呼ばれ、フランス王の強権とローマ教皇の権威失墜の象徴などと世界史では習ったモノですが、その時代のフランス王はイングランドとの百年戦争の真っ最中で、強権発動などの時期ではなかったはず。実際、宮殿内の展示を見ると、教皇が両国の調停を図ったとする説明もあります。なにより、教皇庁が堅牢な城塞の体を為していて、ヴァティカンと比べると自衛に力を注いだ作りになっています。「教皇アヴィニョン捕囚」の実態は、始まりはいざ知らず、教皇庁がローマから避難したというのが実態のようです。現在は、その方向で研究が進んでいるようです。

アヴィニョン教皇庁(左2枚)、旧市街、サン・ベネゼ橋

アヴィニョンを起点として、近くのオランジュを訪れました。この2都市、距離は近いのですが、鉄道では接続が非常に悪い。1時間半から2時間に1本しか便がないのです。いったん乗ってしまえば所要時間は15分なのですが、とても不便です。一方、中央駅の脇にあるバスセンターからオランジュにはバスが30分に一本出ています。ただしこれが、オランジュの中心部までは行きません。また、停車場所が非常に多いため、1時間以上かかってしまいます。そんなわけで、行きは中央駅から列車(€7.60)、戻りはバス(€2.10)を利用しました。

そのオランジュは、ローマ時代の円形劇場跡が綺麗に保存されているところです。舞台の後ろにそびえる壁が、実に綺麗に残っています。また、ここは現役の劇場でもあるために照明道具が舞台上にも客席にも設置されています。劇場から少し離れたところには、凱旋門があります。風化は否めないものの、表面の浮き彫りもかなり残っています。交通量の少ない通りのロータリーに、存在感を発揮していました。

オランジュの円形劇場と凱旋門

アヴィニョンからは、夜にバスで発ちました。といっても、バスの発着所は郊外にあり、待合所もありません。近くのトルコ人経営の料理屋でコーヒーをすすりながら時間を潰していると、店の親爺さんがフライドポテトをオマケしてくれた上に、支払いは要らないというのです。

「旅人は助けるというのが、俺たちの流儀だからさ」

思わずホロホロとなりながら、定時の22時半から15分ほど遅れて到着したバスに乗り込みました。

2024年春旅の記録②エディンバラ~ロンドン

3月20日更新

今回の旅程で、一番苦慮したのはエディンバラに飛ぶ時期をどこで持ってくるか、ということでした。これは、

  1. ストラスブール訪問
  2. 南仏のローマ遺跡とアヴィニョン教皇庁訪問

という2点を至上命題として旅程に組み込んだことによります。ここで厄介になってくるのは、フランスという国が、交通政策において、極端に中央集権的であることです。つまり、パリ起点であれば何処に行くにも都合がよいのですが、パリ以外のある地点から別の場所に行くとき、鉄道でも、場合によっては飛行機でさえ、パリを経由することになってしまうのです。今回であれば、南仏~仏独国境地帯を直線でつなぐ路線はなく、例えばマルセイユからパリを経由しなければストラスブールには行けません。これでは、せっかくTGVを使っても6時間はかかってしまうのです。

ならばバスで、ということになりますが、これが意外に難儀しました。ヨーロッパ各地をつなぐFlixbusの予約と発券が、Microsoft Edgeで上手くいってくれないのです。サウジ旅行の悪夢再びです。で、Google Cromeに切り替えて、なんとか上手くいきました。

これに併せて、フランスから英国に、どの時点で立ち寄るかも決まりました。まさかパリ入国の次の日の夜に出国するとは、パリ行きの航空券を買ったときには想定していませんでしたが・・・

閑話休題

かくして、シャルル・ド・ゴールの入国ゲートをくぐった次の日に早くも出国し、5年ぶりのエディンバラへの「里帰り」、今回は夜景を空から眺めつつ着陸することになりました。で、とりもなおさず、これはBrexit後は初の英国入りです。それを実感したのは、入国審査の時に乗客全員がパスポート提出を求められたことです。前回、2019年までであればEU市民は身分証の提示だけで良かったのです。それが今回は、EU市民もパスポートの提示を指示されていました。英国が本当にEUから外れたんだなぁ、と実感した瞬間でした。遅い時間でしたので、今回は空港からトラムで出ることができず、終夜運行のエアリンクのバスでエディンバラ市街地入りしました。今回の宿も、前回同様のロイヤル・マイル終点付近のキャッスル・ロックホステルです。

翌朝、最初に向かったのはウェイバリー駅にあるウェイバリー・モールです。目的は、5年間の不在期間中に新しい札に切り替わったUKポンドの旧札を、新しいお札に替えることでした。中央郵便局に行って首尾良く新札を手にした私は、デザインを確かめて呆然とたたずむ事態に陥りました。入手した新札のほとんどが、ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド発行のスコットランド・ポンドだったのです。

「イギリス」訪問経験がある人のうち、このことを実感している人は多くないのではないでしょうか、英国には(少なくとも)バンク・オブ・イングランド発行のイングランド・ポンドと、上記スコットランド・ポンドが併存しています。もちろん等価の通貨なのですが、

という不均等が、厳然として存在するのです。2009年にエディンバラの中央郵便局で日本円から両替したときには、すべてイングランド・ポンドで受け取りました。だから今回も・・・と思っていたら、当てが外れたわけです。その場でイングランド・ポンドへの交換を要求するも撥ね付けられ、ならばとRBSで要求したら「口座所有者にのみ対応」という具合で、途方に暮れてしまいました。幸い、昼にお会いしたエディンバラ大学日本学科の先生に相談したところ、首尾良く(その先生が口座を持っているRBSで)イングランド・ポンドに替えてもらえたので、事なきを得たのですが。なお、これは紙幣の話です。旧の1ポンド硬貨については、何処でも替えてくれませんでした。それどころか、

「スーパーで買い物をするときに使うんだね」

と宣う始末。ロンドンで実際にやってみたら、使えませんでした。自国の通貨に対する英国のこの無責任は一体何なのか、こんな姿勢でBrexit後の情勢に対処できると思っているのか・・・と思ってしまいました。*1 余談ですが、Brexitに際して明らかになったのは、イングランドスコットランドの巨大な亀裂でした。EU残留・離脱で激しい罵り合いを展開していたのはイングランドの話で、スコットランドの多数派は、あの時点でも今でも変わらず、EU残留支持です。といっても、スコットランドは全体の人口がロンドンにも及ばないので、その民意が英国の国政に反映されがたい。しかし、なかなか日本ではなじみのない話だわなぁ・・・

そういった事情を引きずりつつ、エディンバラは勝手知ったる街です。知己と久闊を叙することで、あっという間に時は過ぎ去っていきました。特に、23日に指導教員のアンドリュー・アースキン先生と再び面談できたのは、とても嬉しいことでした。私が現在取り組んでいるペルガモンの研究は、実はエディンバラ大の修論執筆の際に、アースキン先生から研究を提案されたものでした。その成果として論文をひとまず一本出せたのは、やはり先生の指導のおかげです。その他の友人たちも、会わない間に親になっていたり子供が増えたり・・・そのような子育ての話を聞いたり、外出禁止時期のこと、オンライン授業の時の状況などの情報交換は、印象深いものでした。

珍しく晴天の下のエディンバラ城(左)と市街

エディンバラ滞在中に「ここは行っておこう」と事前に定めていたのは、ディーン・ヴィレッジでした。市街地北方のグラントン方面にホームステイしていた2009年には、市街地に入る際に必ずディーン・ブリッジを渡ったのですが、その下の集落には足を向けたことがありませんでした。・・・まぁ、正確には行く気にならなかったのです。そこがかなりきれいなところだというのでInstagramなどでよく紹介されており、訪問したわけです。たしかに、品の良い集落でした。

ディーン・ヴィレッジとディーン・ブリッジ

長らく不在だったホームズ氏@ヨーク・プレイス*2

エディンバラからロンドンへは夜行バスで出ました。途中まではスイスイだったのですが、ロンドンが近くなると大渋滞に捕まり、ヴィクトリア・コーチステーション到着は当初予定から1時間ほど遅れました。到着翌日の早朝には空港に移動するため、宿はヴィクトリア近くに取りました。やはりこのあたりは、物価の高いところですねぇ。フィッシュ&チップスにビール一杯で£30いきました(涙)。今回は、13年ぶりに大英博物館を見学しました。何回行っても、時間が本当に足りませんねぇ、ここは。昔の『地球の歩き方』だと「目安の見学時間:半日以上」とあって大笑いしたのですが、最近の版だとありません。復活してくれませんかねぇ。そんなこんなで、スコットランドイングランドの「首都をつなぐ旅」は慌ただしく終わりました。

ロゼッタストーンのレプリカと英国会議事堂

 

*1:現行の1ポンド硬貨は2017年2月発行ですが、2018年および2019年に渡英の際は、問題なく使えました。手持ちの旧1ポンドは2020年に渡航の際に銀行で新しいものに変えて貰おうと考えたのですが、同年の第2SARS流行に伴う渡英断念で、それは今回まで延び延びになっていました。今回挑戦してみたところ、敢えなく失敗したというわけです。こちらの記事とこちらの記事を参考にして試してみたんですがねぇ・・・「期限はない」って嘘でした。交換できなかったのもさることながら、銀行の窓口担当者の人をなめたような言い草に、腹が立ちました。

*2:2009年に訪問したときには、この写真とほぼ同じ場所に立っていましたが、2010年の再訪時にはいなくなっていました。