Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「得体の知れない」人と物語~濱口竜介監督『悪は存在しない』×『寝ても覚めても』

『悪は存在しない』


もともと楽しみにしていた映画ではあったが、『オッペンハイマー』を爆睡してしまう「事件」のあとだったので、同様の失敗を恐れ、「眠気は存在しない」「眠気は存在しない」と唱えるようにして座席についた。

冒頭に、そんな自分を試すかのように、林の中から空を見上げた映像がひたすら4~5分間続き、すでに敗戦か、と思いきや、グランピング施設の説明会シーン以降は、登場人物たちから目が離せない映画体験となった。



まず演技。
え?棒読み過ぎないか?と最初は驚いた。
が、『偶然と想像』評の中で、台詞への感情の込め方について濱口監督独特の演出を行っているという話を思い出した。
特に、高橋と黛については、車の中での会話シーンが比較的スムーズであることから、説明会での棒読みが故意であることがわかる。ただ、匠は分からない。この人の場合、演技云々ではなくて「こういう話し方」の人ではないかと思えてくる。これによって、良くも悪くも、観客は匠を「正体不明者」として扱うことに繋がっていると思う。
なお、車の中での会話以降の黛さんのぶっちゃけがチャーミングでとても良い。と思ったが、映画全体を振り返ると、高橋もちょっと変わっているし、水挽町の人たちは総じて正体不明感があり、会社の人は下種な人たちばかり、ということで、かろうじて黛さんがこの作品のオアシスになっているのだろう。


さて、本作のラスト。

  • 花は手負いの鹿と遭遇して襲われる。(ここがクライマックスか!?)
  • そこに高橋と匠が到着する。(お!どうなる?)
  • それを見た匠は、鹿には手を出さないよう、高橋にチョークスリーパーをかける。(え??)
  • そのあと、高橋は一人起き上がって倒れる(え?え?え?)
  • 匠は花を抱えて走る(???)
  • そのあと、匠は???している???(?!)
  • おわり(??????????)

これは驚いた。
ざっくり言えば観客に解釈をゆだねるオープンエンドということになるだろう。
ただ、普通のオープンエンドは90%は示した上で残り10%は見せないくらいの配分(たとえば『怪物』)なのに対して、今回は60%見せて20%曖昧にして20%見せない、みたいな配分。(全13回の連ドラで残り3話を残して急に終わった感じ)


ここまで分からないと、解釈のしようがないので、せめて80%まで示してくれよ、とお願いしたくなる。
しかも、この映画の一番の魅力は、『悪は存在しない』という謎かけのようなタイトル。どの観客も、その意味を知りたいと思って観に来て、最後に足元を掬われていないだろうか。
もともと「悪は存在しない」ということは、「みんないいこ」ということか?と思っていたが、映画を観終えると、「悪」は色々あったじゃないか。

  • 「凡庸な悪」ということかもしれないが、怪しいコンサルも事務所の社長も「悪」じゃないのか?
  • 人間VS自然というテーマであれば、その中での人間は「悪」なのではないのか?
  • 逆に、人間を襲う動物を「悪」と考えれば、通常は鹿は人間を襲わない。つまり、「悪は存在しない」というのは、匠の自然観で、「鹿は人を襲ったりしない=悪は存在しないのだ!」と証拠隠滅のために、花を事故死に見せかけようと奔走しているのだろうか?


…と、色々な考え方は出来るかもしれないが、タイトルに惹かれて観に行ったにもかかわらず、何が問われているのか、何が委ねられているかもよくわからない終わり方にはどうしても不満が残る。
映画を観終えてから、パンフレットは勿論、映画評も色々と読んだりしたが、しっくりくるものは無く、このラストへの不満から、どうしても映画の総合評価としては低くなってしまう。アトロクなどでは、ほとんどの人が高評価としていることに、何だか疎外感を感じてしまう。

寝ても覚めても

そこで、同じ濱口竜介監督の『寝ても覚めても』を観てみた。
Amazonプライム見放題に昔から入っていて、原作を読んでから見ようとずっと寝かせていたが、今が見るタイミングのはずだ。
下世話な興味としては、この映画をきっかけとして主演2人の人生が変わった(東出昌大は杏と離婚し、唐田えりかは干された状態になった)作品なので、その2人を観てみたかった。


実際に見た感想としては、「傑作の部類なのでは?」。

まず、伊藤沙里、瀬戸康史渡辺大知など今をときめく俳優陣が脇を固めてそれが楽しい。渡辺大知は、今までで一番印象に残った作品かもしれない。
終わり方はスッキリとは言わないが、『悪は存在しない』のようなモヤモヤラストではないので、観客は迷わない。


というより、終盤の展開(朝子が麦=悪の東出を選んで亮平=善の東出に愛想を尽かされる)がぶっ飛び過ぎていて、観ている側は、突然一気にいたたまれない気持ちに追い込まれる。ラストよりもこのインパクトが大きい。
そして、この変な展開をすんなり受け入れられてしまうくらい、2人の演技に説得力があるのがすごい。
いや、唐田えりかは演技ではなく、あれが「素」な気がするが、フワフワしていて、『悪は存在しない』の匠(と花)と同様に「得体のしれない」感じ。完全には信頼できない感じがずっとしているから、この人なら「あんな選択」もしかねない、と納得してしまう。(匠のラストも「この人ならやりかねない」感じ。)
そして東出昌大。『寝ても覚めても』では、東出昌大のフェロモンを150%出し切った「悪の東出」と、20%に抑えた「善の東出」の二役を完璧に演じ切る。
悪の東出に対して、伊藤沙莉が「あれはやめた方がいい。あとで絶対に後悔するから!」と何度も唐田えりかに警告する場面は、いろいろ現実との境目が曖昧になっていくトリップ感も含めて大好き。
また、前半の瀬戸康史の、何で今そんなこと言う?明らかに言い過ぎじゃないか?という逆切れ演技も、やはり観ている側はいたたまれない気持ちになる。全体的に観客を不安定な場所にとどめ続ける作品と言えるのかもしれない。

まとめ

2つの作品の共通点は、物語終盤の急展開と「得体のしれない」主要登場人物。
寝ても覚めても』は原作小説があるとはいえ、急展開があるタイプの作品を濱口竜介がセレクトするのかもしれない。(同じく原作小説のある『ドライブ・マイ・カー』も観てみたい)
そして、「得体のしれない」登場人物は、たとえフィクションのキャラクターだと言っても、「人間を分かりきることなんてできない」という主張が見え、これは「フィクションだからと言って、ストーリーを簡単にわからせない」ということにも繋がるのかもしれない。
いや、でも、あの終わり方は…。



想像力を鍛えて「関心領域」を拡げたい~『マリウポリの20日間』×門脇小学校で感じたこと

先日聴いたラジオで、社会福祉は「私たち」をどこまで認めるかで決まってくる、という話があった。一次大戦と強く結びついた「国民国家」意識の話から、最近の移民問題まで、「私たち」の線引きが明確で納得度が高ければ良いが、実際にはそううまくは行かず、小さすぎる線引きや、線引きの曖昧さは、差別の問題にもつながりやすい。


『親ガチャの哲学』でも、本の結論の大きな柱に「私たちを拡げる」=「他人の苦しみを最大限の想像力を持って想像し、そして連帯する努力をする」ことが肝要というものがあり、非常に腑に落ちた。
pocari.hatenablog.com


想像力こそが重要だ。


その通りだと強く同意する。
同意はするが、むしろ「力」だから限界がある。
ブレイディみかこの著作では必ず触れられる「エンパシー」や「他者の靴を履く」という言葉も、つまりは「想像力」の話だが、そこでは「エンパシー」は一種の「能力」であると書かれている。
「能力」がある人であれば、新聞記事を読んで、その悲惨さを感じることが出来るかもしれないが、多くの人にとって、戦争や虐殺という、これ以上ない理不尽な出来事ですら、スルーできてしまう話題だ。
であれば、どうすればいいのか、という課題に対して、「想像力をどう鍛えるか」を考えてみた。

マリウポリ20日間』


もちろんロシアとウクライナの戦争に関するドキュメンタリーということは知っていたが、映画を観ると、戦地の悲惨さやロシアの攻撃の理不尽だけでなく、戦場のジャーナリストの重要性が本当によくわかった。
かつ、(不謹慎ではあるが)映画としても、とても見やすく息をつく暇もないほど面白い。
映像として映される場所は、(当初は安全な場所としての意味もあった)病院が多いため、映画の中だけでも何十人という負傷者、死者、そして近親者の死を嘆く人が出てくる。
実際、もう見たくない、と目を瞑りたくなるくらい。
負傷者が次から次に運ばれてくる病院での悲惨な映像以上に辛い映像もあった。
数が多すぎるので、掘った穴に袋ごとドカドカ捨てまくる遺体処理のシーンには唖然とした。


しかし、辛い場面がある程度続くと、そこから逃れるように、別の面から戦争の現実を映すような出来事がクローズアップされる。
特に、爆撃による被害を受けたスーパーでの盗難シーンは、店主に直接やめてくれと言われて初めて(不満そうに)商品を置いて逃げる住人たちの様子も映っており、住民同士の分断、という、やるせない現実を見せつけられる。
また、現地の映像を何とか送り、それがテレビで放送され、ジャーナリズムの力が示されたところで、ロシアによる情報操作(この映像はフェイクで、病院の患者たちは役者だ)が始まる。
確かに自分自身もニュースで辿ってきたはずだが、実際に映画の中で(フェイク動画ではありえない)一連の映像として観て、ロシア側の言い分を聞くと、驚くだけでなく、怒りが湧いて来る。



そして後半の展開。
映画冒頭にも映るが、病院の周囲にZのついた戦車が迫るシーン。ここからの脱出は、パンフレットでも書かれていたが、まさにFPSのゲームのよう。臨場感あふれる映像の一方で、何人もの兵士が、「ここで起きていることを世界に発信してほしい」と、記者たちの逃亡を助けてくれるのも感動を誘う。
結局記者たちは、偶然、侵略初日に現地入りし、20日間の戦地取材を経て脱出することになったが、脱出の1か月後にマリウポリはロシアの占領下に入った。
ロシアの侵略当初で最も報道を目にしていたはずなのに、深く考えていなかった。
それが、今回映画を観ることで、マリウポリの様子だけでなく、現代における「戦争」のイメージを、より具体化することが出来た。
すでにロシア領になってしまったマリウポリでは、ロシア化が進められているという。映画の中で、ロシアに呪詛の言葉を吐いていたウクライナの人たち。彼らは一掃されてロシア人がそれこそ「入植」してきているのかもしれない。
遠くの世界で起きている出来事も、知識を得た上でそこに住んでいる人たちのことを思い浮かべれば、他人事と切り捨てられなくなる。それこそ「関心領域」の範囲を広げていける。
そのためには、ドキュメンタリー映画というのは、今の自分にとってとてもとっつき易い入口として機能している。

震災遺構 門脇小学校

5/12に仙台ハーフマラソンに出場したが、大会前日は観光がてら石巻に泊まって、駅周辺を散策した。
もともとの目当ては、仙台に住んでいた頃にも何度か行ったことのある石ノ森萬画館とみやぎ東日本大震災津波伝承館。石巻駅から伝承館まで歩いて行ったのだが、途中の丘を登り終えたあたりで、GoogleMapに「石巻市震災遺構 門脇小学校」の文字を見つけてその存在を初めて知った。
先に訪れた伝承館は、建物がカッコ良く綺麗で、イベントスペースもある。自分の行ったときも語り部さんがコミュニティづくりの話をしていて興味深く聞いた。

ただ、紹介されている展示物は、役所のロビーに貼ってあるパネル展示と変わりばえせず、興味を惹かれない。津波に関するニュース、写真、映像とも何度も見ているので、差し迫った怖さも感じない。むしろ自分の想像力の無さにガッカリする体験だった。


その後、伝承館から近くにある門脇小学校を訪れた。
建物を外から眺められるだけかと思ったら、展示施設もあるということだったので、中に入ってみた。

その印象は、伝承館で感じたものと全く違った。
津波火災で焼け焦げた教室は、見るだけで胸に迫るものがある。
その後、当時の小学校教師や生徒が、10年以上経ってから当時を振り返る内容のビデオを観たが、当時のギリギリの判断の状況もよくわかった。校舎の屋上からの当時の津波の映像は、そこに映るのはちょうど今まで歩いてきた場所、かつ、今その建物にいる、ということもあり、これまでにない恐怖を感じた。


それだけではない。
震災で校舎が焼け、学びの場を門脇中学校に移して続いていた門脇小は、2015年に廃校になってしまう。その事実をもとに、飾られた図画工作の作品を見て泣いてしまった。
そんな気持ちになるとは来る前には全く思っていなかった。


考えてみると、災害について想像を働かせるには、地図や単なる写真では足りないのだろう。自分にとっては、そこにいた「人」を想像できる材料が揃わないと、想像力は駆動しない。
マリウポリの件もそうだ。戦争の現場を想像するのに必要なのは、犠牲者の人数ではなく、そこに住む人たちの生活の様子だ。
逆に言えば、だから、人間を映すドキュメンタリーは面白い。また、(自分の趣味である)街歩きも、生活する人を思い浮かべるから面白いという面が大きい。


実際には、事実を正確に把握するためには、歴史や世界情勢など、知識が非常に重要になるのだが、知識を支えるのは想像力だと思う。
健康で心に余裕がなければ、それどころではないが、余裕があるときには、できるだけドキュメンタリー映画を観たり、色々な場所を訪れ、その上で本を読み知識も身につけ、想像力を鍛えていきたい。


あまりにも石原さとみの映画~吉田恵輔監督『ミッシング』

石原さとみ以外

あまりにも石原さとみの映画だったので、まず石原さとみ以外についてメモを残す。


石原さとみを除くと、今回、最も衝撃を受けたのは、沙緒里(石原さとみ)の弟・圭吾役の森優作。
有名な作品にも多く出演されているが、自分にとっては初めての俳優だったので、その、初登場時からオーラ全開の、あまりにも怪し過ぎる風貌には驚いた。
スーパーの前で、不良男女に襲われるシーン、終盤の、不法侵入がバレて逃げるシーンが典型だが、その動作、表情すべてが怪しい。
「何でウチの住所知ってるんですか!」と(一度取材に来ている)砂田たちに怒るシーンも、笑えるが怖さを感じてしまうシーンで、とても印象的だ。


実際、映画も圭吾を怪しい人物と思わせるように作られ、観客はそのように仕向けられていたのだ、とは思う。例えば、自動車整備工場で、偶然、圭吾に会った豊(沙緒里の夫)が、「(テレビのインタビューを見て)俺もちょっと不信感持っちゃったもんな」と、思わず口にしてしまうシーンは典型的。
全く似ていない姉・沙緒里との対照的な外見もそうだが、明らかに外見で人を判断してしまうように仕組まれている。だからこそ、終盤、圭吾が「怪しい人物」を見つけたとき、そこに(圭吾が美羽を見つければ、彼を怪しいと決めつけていた罪悪感が清算されるという)観客にとっても救いの光を見てしまう。(だが救われない)


その後ラストの車中での姉弟対決へ。観客は、ここで初めて、圭吾もちゃんと信じていい人間だったのだと安心し、気持ちは晴れる。
そう考えていくと、圭吾の外見に翻弄される映画だったということも言えるかもしれない。


なお、それ以外の主要人物を思い返すと、豊(青山崇高)は泣き崩れるラスト(そして、ラストまで泣かない、それ以外のシーン)が良かった。砂田(中村倫也)は、これというシーンは無いが、最も共感しやすいキャラクターを(沙緒里に飲まれずに)共感しやすいテンションで演じたのが良かった。

石原さとみの映画

この映画は、結局良くも悪くも石原さとみの映画だったと思う。
例えば、沙緒里が(吉田恵輔監督作の前作『神は見返りを求める』の主演)岸井ゆきのだったら、石原さとみ以上に上手に、そして、「それを誰が演じているか」をあまり気にさせないように演じるだろう。
石原さとみは、顔の力が強過ぎるので、観ている方は「沙緒里」の向こう側にどうしても「石原さとみ」を見てしまう。
そして、唇がガサガサだったり、肌の調子が悪かったり髪がぼさぼさだったとしても、やはり石原さとみは美醜で言うと「美」。圭吾との対比を「残酷」と感じてしまうほどに「美」。
いくら化粧っけの無い顔にGパンにフーディーでも、隠しきれないほどの美しさがあり、だからこそ、尋常ではない悲しみ方も、彼女が演じると大袈裟には見えない(華やかさとバランスが取れている)のだと思う。


一方で、劇中ずっと続くイライラや情緒不安定は、大袈裟だからこそ、居た堪れず、観ていて苦しかった。
蒲郡に行く行かないの豊との口論と、レストランでの奇行。イライラの原因となっているにもかかわらずネットの悪口をどうしても読んでしまう不安定な感じ。
そして、弟の圭吾に対する酷い悪態。特に、2度目のテレビ出演のために沙緒里が圭吾宅を訪れ、ドア越しに大声での会話が飛び交うシーンは、本当に2人とも怖い。


パンフレットを見ると、監督は、ピークに向けて感情の演技の強度をコントロールしていたようだが、そのピークは、美羽が警察に保護されたとの電話を受けて警察に向かったシーンだろう。
失禁してしまったのも無理ないと思わせるほどの絶望、慟哭、混乱。
今考えると、それを、冷静な砂田(中村倫也)が見ているという構図があって、何とか観客としても引いた視線で観ることが出来たのかもしれない。


そんな石原さとみの演技は、嘘っぽく見えてしまうこともあり、だからこそ終盤のインタビュー撮影での「虎舞竜」にはびっくりした。あの場面では、彼女の演技のつくりものっぽさが、番組制作側の「やらせ」で増幅して、観客側としても何となく突っ込みたい気持ちになる。
まさにそのタイミングで、作中の人物が本当に突っ込みをいれてしまうので、心が読まれているのかと思った。

実際の事件

予告編を見たとき、山梨キャンプ場女児失踪事件に着想を得た映画なのか、と思ったが、実際に観てみると、あまりに石原さとみ映画過ぎて、実際の事件は頭から吹き飛んでしまっていた。
しかし、長期間に及んだ捜索活動と、それに対するバッシングは実際にあったことだし、これからも同様のことが起きる可能性が高い。
その点では、バッシングを受ける家族の心情を長時間にわたって映し出すことで、映画を観た人は(何の事件、ゴシップであれ)ネット上の誹謗中傷を控えるかもしれない、という点で教育的な映画だったとも言える。
そして、実際の事件と類似点が多いからこそ、安易なハッピーエンドになるわけがない。予想通り映画『missing』は、-ingのままで終わった。
しかし、ささやかだけれど前向きになれる展開に救われた。


なお、失踪した女児の母親に対するインタビューが収録されている本を過去に読んだことがあるが、そのときは家族で最もダメージが大きいのは、兄弟姉妹であると感じた。
沙緒里と豊の家のように両親2人の問題でクローズできる場合は、傷が浅いのかもしれない。
いや、やはりそこは当人たちにしかわからない部分だ。

まとめ

何度も繰り返すが、石原さとみの映画だった。
ただ、作品としては、古田新太主演の『空白』(2021)があって生まれた映画のようで、こちらも観たいし、『ヒメアノ~ル』(2016)も『BLUE/ブルー』(2019)など吉田恵輔監督の映画は、観たいものばかりなので、これらを見て他の吉田監督映画における俳優の演出方法も確認してみたいと思った。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com
⇒『母は死ねない』の中に、山梨キャンプ場女児失踪事件の母親(小倉とも子さん)や、池田小事件の被害者の母親(本郷由美子さん)のインタビューが収録されており、とても興味深い内容だった。


「驚かせ方」は、まだある、と感じた2冊~似鳥鶏『叙述トリック短編集』×杉井光『世界でいちばん透きとおった物語』

今回はミステリ2冊の感想です。
2冊目の『世界でいちばん透きとおった物語』の感想は、後半部でネタバレしていますのでご注意ください。

似鳥鶏叙述トリック短編集』

ビブリオバトルで紹介しにくい本のジャンルに「ミステリ」がある。
5分間を使ってその本を読みたくなるような説明をする、というのがビブリオバトルだが、あらすじを話すとネタバレに繋がりやすいからだ。
そもそもが、ミステリが好きな人であればあるほど細かいネタバレでも嫌がるので、ビブリオバトルではなくても、人に薦めるのが難しいジャンルとも言える。


そして、ミステリの中でもさらに紹介しにくいサブジャンルが「叙述トリック」ものだ。この場合、たった一言でネタバレになることもあり、取扱には相当な注意を要する。
叙述トリックというのは、ストーリーというより、「書き方」で騙してくるトリックのことで、 代表的なのは「信頼できない語り手」もの(物語のガイド役が犯人、一時点と見せかけて、現在、過去の2つの時系列が並行で語られる、等)ということになる。

しかし、書店では、隠さない売り方をしている場合もあり、POPに「ラスト一行で世界は反転する」みたいな「ラスト1行」シリーズ、もしくは「映像化不可能」と書いているものは、叙述トリックである可能性が高く、興醒め。
叙述トリックは、知らずに読むからより強く驚けるのだから、伏せておいてほしい、というのが書店および出版社への願いです。


そんな中、異色なのが「叙述トリック」をタイトルに冠したこの本。
「タイトルで完全にネタバレしているのに、これで読者を騙せるのか?」という興味で、手に取った。



さて、実際に読んでみてどうか、と言われると、はじめは「なんか違う」感があった。つまり、通常出会う叙述トリックは常に最後の大ネタで登場するのに対して、くすくす笑うような細かいネタに仕込まれている叙述トリックは初体験なので混乱するのだ。
でも、短編を2つ、3つと読み進めると慣れてくる。


そして、読み終えてみると、これは、いわゆる『六枚のとんかつ』のような「バカミス」として読むべき短編集だということがよくわかった。しかも、短編同士に繋がりのある、いわゆる連作短編集で最後に大ネタが控えているお決まりの構成だが、大ネタも含めてよく出来ている。
中でも好きなのは学生寮で盗まれた食べ物をめぐって犯人探しが繰り広げられる「貧乏荘の怪事件」。自分の中で最大限の褒め言葉だが、『六枚のとんかつ』収録の「しおかぜ17号四十九分の壁」級の衝撃だった。*1


なお、表紙は短編集『外天楼』が素晴らし過ぎた漫画家の石黒正数
この本の帯は特殊なつくりになっていて、とても楽しいので、是非買って確認することをオススメします。


あと、Amazonで「叙述トリック短編集」と検索窓に入れると、叙述トリックっぽい作品がずらっと並んでしまうので、ネタバレを踏みたくない人は少し注意した方が良いです。

杉井光『世界でいちばん透きとおった物語』

叙述トリック短編集』を読んで、以前買って放置したままになっていた本を思い出した。
帯に「衝撃のラスト」「ネタバレ厳禁」「電子書籍化絶対不可能」と書いてあって、これは、明らかに叙述トリックものではないか?
(でも「映像化」不可能ではなく、「電子書籍化」不可能ってどういうことだ?とも思った...)


さて、読んでみると、これが、叙述トリックではなかった。
全然違うタイプのトリックだった。
でも、ものすごい本だった。


この衝撃自体は忘れがたいが、驚くまでの過程は忘れてしまうと思うので示しておきたい。
(ここからネタバレになる)










最初は、「久しぶりにスッキリ驚ける叙述トリックの本を!」という気持ちで読み始めた。
また、新潮文庫nexラノベジャンルっぽいレーベルだし、タイトルから言っても恋愛小説だろう、という予想は外れ、そもそもミステリとしても惹かれる設定。

―――【あらすじ】―――
 大御所ミステリ作家の宮内彰吾が、癌の闘病を経て61歳で死去した。
 女癖が悪かった宮内は、妻帯者でありながら多くの女性と交際しており、そのうちの一人とは子供までつくっていた。それが僕だ。

 宮内の死後、彼の長男から僕に連絡が入る。
「親父は『世界でいちばん透きとおった物語』というタイトルの小説を死ぬ間際に書いていたらしい。遺作として出版したいが、原稿が見つからない。なにか知らないか」

 奇妙な成り行きから僕は、一度も会ったことがない父の遺稿を探すことになる。知り合いの文芸編集者・霧子さんの力も借りて、業界関係者や父の愛人たちに調べを入れていくうちに、僕は父の複雑な人物像を知っていく。
 やがて父の遺稿を狙う別の何者かの妨害も始まり、ついに僕は『世界でいちばん透きとおった物語』に隠された衝撃の真実にたどり着く――。
――――――――――――

父親の人物像が徐々に明らかになっていく流れは面白い。
しかし、予想に反して肝心の遺稿探しが進まない。
それどころか、ついに内容を確認できる、というタイミングで原稿を焼失してしまう。


第12章になり、遺稿が無くなって、ここから推理も何もないだろうというところから、編集者の霧子さんが謎解きを始める。さまざまな謎が明らかになり、カタルシスはある。
このあたり、わざわざ実在のミステリ作家の名前(京極夏彦)を引いて、本のレイアウトの話をさせたり、主人公のかなり特殊な目の疾患について説明があり、なぜこんな設定?という強引さを感じつつも、文章が巧いのかすんなり読んでいける。
ただ、ストーリーにばかり目が行っていて肝心なことに気づかない。
読み返して思ったが、この小説のすごいところは、最大のトリックに対する「気づきポイント」(誰もがこの1行でハッと気がつくポイント)がないことだ。



おそらく(ストーリーに準じた)最短では、主人公の燈真と同じタイミング(p209)で気がつく人が多いのかもしれない。

「燈真さんのための一冊を書きたい。それがずっと心残りだったのだと思います」(略)
「やり方は二つありました。一つ目は『春琴抄』と同じようにページを文字で埋めて空白をなくす。でもこれは(略)
「燈真さんに読んでもらえなければ本末転倒です。だから宮内先生が選んだのは二つ目のやり方でした。空白部分の裏、そして次のページ、ここに文字がなければいいわけですから、すべての見開きの文章レイアウトをまったく同じ左右対称形にするんです。重ねられたページのどの箇所でも、文字の裏には必ず文字が、空白の裏には必ず空白があるようにする。そうすれば透けて見えなくなります」


だが、自分は主人公の燈真に感情移入し過ぎて、父・朋晃がどのような原稿を書いたのかを思い浮かべることに必死で、ここでは全く気がつかない。
おそらく気づいたのは、13章に入って、燈真が小説を書く立場になり、繰り返し左右対称のレイアウトの制作過程や、その大変さを繰り返し描写するところ。

まず、いちばん大切な場面の中のいちばん大切な1ページを決めて、最初に書いた。 
この時点で既に制約が必要だった。
『透きとお』らせるためには、そのページの文の形を左右反転させなければいけない。
反転させてもちゃんとした文章が書ける形状というのは、実はかなり限られている。
全編の雛形となるレイアウトがそこで決定されるのだ。慎重に慎重を期した。途中で行き詰まったら全部棄ててやり直さなきゃいけない。 

(略)
自分はいったいなにをやっているんだろう――と途方に暮れることも頻繁にあった。
考えてみれば、書き上げたところで一文にもならないのだ。僕は宮内彰吾ではないし宮内彰吾の名前で出版社に持ち込むわけにもいかない。かといって、趣味ですらない。
楽しい瞬間なんて一度もなかった。
ただ、書き続けた。一ヶ月かけて見開き一枚しか進まないことだってあったけれど、とにかく砂を掘るように書いた。
小説を書くという事は祈りに似ていた。そして他のどんな営みにも似ていなかった。
言葉や想いを届ける相手を選べない。届くかどうかもわからない。
それでもどうしようもなく、書き続けてしまう。 (p221-223)


このあたりでようやく、書かれていることが、まさにこの本で実践されていることに気が付いたときは驚き過ぎて笑ってしまった。
逆に、今読み返すと、よくここまで気がつかなかったんだろう、と思ってしまうけれど。


最後の1ページもよくできていて感動したが、その制作の大変さを考えれば、やはり、この異常な本を実際に作ってしまう作者には尊敬を通り越して崇拝の念を抱いてしまうくらいのインパクトがあった。
本自体の仕掛けを売りにする古典的なミステリ*2もあるが、この本は、読む前は絶対に気がつかないどころか、未読の人にすごさを説明しづらいほど、ネタバレ厳禁の「ネタ」は地味だ。
だからこそ、読んだ人はこの本のファンになってしまうし、色んな人に薦めたくなるのだろう。
いい本を読んだ。
ただ、未だに、どうやったらこんな本が書けるのか不思議でならない。


あれ?タイトルのひらがなの開き方、少し気になっていましたが、よく見ると

世界

いちばん

きとおっ

物語

左右対称になっているのでしょうか?


*1:こういう風にミステリの感想で、具体的なことを書かないと、あとから読み返して全く思い出せないのがデフォルトなのだが、この2作は忘れない

*2:巻末で謝辞を送っている「A先生」が、まさにその代表的な作家ということになるが、A先生の名前を出して売り出すことがそもそもネタバレになる、という配慮から、謝辞でも「A先生」表記になっている

現在起きているのは「漸進的なジェノサイド」の総決算~岡真理『ガザとは何か』

地獄とは、人々が苦しんでいるところのことではない。
人が苦しんでいるのを誰も見ようとしないところのことだ。
マンスール・アル=ハッラージュ)
p102

「GWに積読本を消化しないと!」という、小さな気持ちから読み始めた本だったが、強烈な読書体験だった。
本は、10/7の奇襲攻撃に端を発するイスラエルのガザへの攻撃を受けて行われた、京都大学(10/20)、早稲田大学(10/23)での緊急講演を2部構成で納めたもの。
パレスチナ関連については、基本知識は色々なところで目にし耳にし、それなりに把握していると思っていたが、この本を読んで、やっとそれらが有機的に繋がった感じがした。目から鱗とはこのことだ。


自分にとっての「鱗」ポイントは3つある。

(1)ガザの完全封鎖

この本で繰り返され、最も印象的だった歴史的事実は、2007年から始まったガザに対する完全封鎖の状況。
本文から長めに引用するが、ここだけ読んでも辛くなる。自分が何を見過ごしていたのかを突きつけられて愕然とする。

完全封鎖されたガザは「世界最大の野外監獄」と言われます。完全封鎖というのは、単に物が入ってこなくて物不足になるとかいう、そんなレベルの話ではありません。占領者が自らの都合のいいように、なんでも自分たちの意のままに決めているということです。
230万の人間が、占領者に服従しなければならない、そういう状況に生まれてからずっと置かれている。今、この講演会場には大学生の方々がたくさんおられますが、ガザの同じ年代の若者たちは物心ついてから、ずっとガザに閉じ込められているんです。それを世界はこの16年見捨てているわけです。この世界最大の野外監獄の中で、パレスチナ人が「生き地獄」と言われるような状況の中で苦しんでいても、世界は痛くも痒くもない。ずっと放置している。何か凄まじい攻撃が起きた時だけ話題にして、停戦したら、もう忘れる。その繰り返しです。そこでイスラエルによる戦争犯罪が行われても、問題にしない
p84

  • 電気の使用も制限
  • 水道水は飲料に不適
  • 乳幼児の過半数が栄養失調
  • 失業率は46%(世界最高)
  • 排水ポンプも稼働できず、冬季は毎年洪水が起きる

これらの状況が、イスラエルによる完全封鎖によって生じている。
しかもそれが2007年から16年以上もの間、続いている。今回、物資不足が問題になって、「栄養失調が起きているなんてひどい!」と思ったが、何のことはない。物資の搬出入の制限は16年続いていることで、今回これまでよりも入口を絞っただけのことだったのだ。


また、理解が進み、衝撃を受けたのは「封鎖」に至る経緯。

  • 2007年の完全封鎖まで
    • 2005年:ガザからイスラエルの全入植地が撤退
    • 2006年:パレスチナ立法評議会選挙でハマースが勝利
    • アメリカ(やEU)はファタハをけしかけてクーデターを画策させるが、内戦はハマースが勝利
    • 内戦での分裂により、ガザはハマース政権、西岸はファタハ政権という二重政権に

そして、アメリカやイスラエルがテロ組織とみなすハマースを政権与党に選んだパレスチナ人に対する集団懲罰として、2007年、ガザに対する完全封鎖が始まります。p76

この流れは、ファタハとハマースの位置づけがよくわかる出来事であり、特にアメリカや国際社会の関わり方にはとてもショックを受けた。
完全封鎖を生み出したのは、思い通りに行かなかった選挙結果に対する「懲罰」なのだと読める。(なお、「集団懲罰」は国際法違反)
抜粋して書き出しながら、「おかし過ぎるだろう…」と驚愕している。

(2)占領と民族浄化

それでは2007年の完全封鎖前はどうだったのか。この本では、封鎖前の2005年に、ガザの政治経済の研究者であるサラ・ロイさん(ユダヤアメリカ人)によって書かれたエッセイが引用されている。

過去35年のあいだ占領が意味してきたのは、追放と離散でした。家族の分断、軍の統制によって組織的に否定される人権、市民権、法的・政治的・経済的権利でした。何千人もの人々に対する拷問、何万エーカーもの土地の収用、7000以上におよぶパレスチナ人の家の破壊、パレスチナ人の土地に不法なイスラエル人の入植地を建設し、過去10年間に入植者の人口が倍増したこと、パレスチナ人の経済をまず切り崩し、そして今は破壊していること、封鎖、外出禁止、地理的に分断し住民を孤立させること、集団懲罰などでした。(略)

占領とはひとつの民族が他の民族によって支配され、剥奪されるということです。彼らの財産が破壊され、彼らの魂が破壊されるということなのです。占領がその核心において目指すのは、パレスチナ人が自分たちの存在を決定する権利、自分自身の家で日常生活を送る権利を否定することで、彼らの人間性をも否定し去ることです。占領とは辱めです。絶望です。
p154


京都大学での講演(第1部)では、京都在住のパレスチナ人の方も話をしており、この中で、占領下の生活についても触れられている。

十年前に日本に来る前はヨルダン川西岸に住んでいました。生まれた時からずっと軍事占領下で生きてきました。(略)
検問所を通らねばならないため、車で20分しかかからない大学までの道のりを2時間かけて通い、毎日毎日、人間性を否定され、顔の前に銃を突きつけられ、「名前は? なぜここに来た?」と問いただされました。ただ私がパレスチナで生まれ、私の家族がパレスチナ人だからという、ただそれだけの理由で。子供の頃からずっとそうでした。
p104

占領というのは、つまりこういうことなのだ、と、自分の認識を改めた。
かつて日本も他国を占領下に置いており、ガザに比べれば短い期間ではあるが、同様の状態を強いていたのだろう、ということも含め。


そして民族浄化
1948年に、イスラエルパレスチナ人に対して意図的な、組織的かつ計画的な民族浄化を行った。(「ナクバ」と呼ばれる)
ただ、それは75年も前のことで、ジェノサイドや民族浄化は、現代ではもはや起き得ないものと思っていた。しかし、今回のような事態*1が生じてしまうと、イスラエルは、政府高官自らが公言する通り「第二のナクバ」を行おうとしていると理解するしかない。


占領下の地域を完全封鎖した上で、抵抗が生じたら、それを口実に民族浄化としか言えない無差別攻撃を進める状況。これは「戦争」とはとても言えない。

(3)ガザとは実験場

本の中では、タイトルの質問「ガザとは何か」に対して複数の回答が出されている。
その中でも一番心に響いたのは早稲田大学講義(第2章)でのこの言葉だ。

ガザは実験場です
2007年当時で150万人以上の人間を狭い場所に閉じ込めて、経済基盤を破壊して、ライフラインは最低限しか供給せず、命を繋ぐのがやっとという状況にとどめおいて、何年かに一度大規模に殺戮し、社会インフラを破壊し、そういうことを16年間続けた時、世界はこれに対してどうするのかという実験です。
そして、分かったこと---世界は何もしない
ガザでパレスチナ人が生きようが死のうが、世界は何の痛痒も感じない。彼らが殺されている時だけ顔をしかめてみせるだけ。だから、なるべく攻撃が世界のニュースにならないように、できるだけ短期間におさめるのが得策ということになる。
p142

著者の岡さんの専門は文学で、自ら「今、私たちが何よりも必要としているのは、”文学”の言葉ではないかと思います」(p144)という通り、「実験場」というのは文学的表現であり、中立的な言葉ではないかもしれない。しかし、ここまでのガザの歴史を改めて振り返ると、むしろ状況を正確に表している表現と感じられる。
実験というのは実験する者が外側に存在し、実験状況は、外側の人の匙加減だということ。実験場の中の住人に責任を求めること自体が誤りだろう。


もちろん報道の問題も大きい。さも問題の本質を語っているように、「暴力の連鎖」「憎しみの連鎖」「テロと報復の連鎖」という言葉でまとめる報道は目くらましだ、ということがよくわかった。
今起きているのは、もちろん「戦争」では全くない。75年前からじわじわと続く「漸進的なジェノサイド」の総決算のようなもの(p102)なのだ。

国際社会は何をすべきか。私たちは何をすべきか。

国際社会は何をすべきかについて、この本では「人道支援ではなく、政治的解決を」と繰り返す。日本は、今回も15億円の人道支援をすぐに表明したが、これに対して「私たちは怒らなければならない」という。

もちろん、今生きていくためにはそうした人道支援は不可欠です。でも、封鎖や占領という政治的問題に取り組まずに、パレスチナ人が違法な占領や封鎖のもとでなんとか死なずに生きていけるように人道支援をするというのは、これは、封鎖や占領と共犯することです。だから、政治的な解決をしなければいけないんです。
p180

これまで、パレスチナ問題は、その歴史の長さから、難しく、すぐに答えが出せないものと思っていた。しかし、それは「憎しみの連鎖」という常套句に惑わされていたに過ぎず、すぐに行わなくてはならないことは、ある程度明確だ。
イスラエル国際法にしたがわせること。それが出来ないなら、国際法の意味がないし、ウクライナの戦争など、他の国際問題の対処にも影響する。


ちょうどアメリカでは反イスラエルのデモが拡大しているが、この本を読んで、その気持ちがとてもよくわかったし、親イスラエルの代表的な国での抗議活動には勇気づけられる。
なお、自分も何か連帯できる部分はないかと、登戸で開催されている「パレスチナ あたたかい家」展(Palestine,Our Warm House)にも参加して少しですがグッズを買ったりお金を落としてきた。
早い時間から人が絶えず、少しでも何かできないかと思いを同じくする人がたくさんいることに、ここでも勇気づけられた。
(犬はきなこさんというそうです。↓)


本の最後に質疑応答が収められており、その中で「私たちにできることは何か」という質問がある。
これに対して岡さんは「何ができるかというより、何をしなければならないか」だと少し修正した上で、たくさんあるが、最も基本的なことは正しく知ること、としている。
今回、『ガザとは何か』を読んで、パレスチナを読み解くための強固な視点を得ることができた。これをもとに、改めて他の本を読み勉強しておきたい。そして、色々な形で支援もしていきたい。


*1:南に逃げろと呼びかけながら避難ルートを攻撃。さらにはラファに集めてラファを爆撃。

期待膨らむ大河ドラマの副読本~川村裕子『平安のステキな!女性作家たち』


大河ドラマ『光る君へ』の副読本として、信頼のブランドである岩波ジュニア新書のこちらを読んだ。


ちょうど先日もドラマの中で、藤原道綱母紫式部(まひろ)が対面して『蜻蛉日記』について語り合う場面があったが、この本で取り上げられる5人、紫式部清少納言和泉式部藤原道綱母菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)は、ほぼ同時代を生きた人たち(菅原孝標女のみは少し後の時代)。

よく対比される紫式部清少納言については、同時代という印象が前からあったが、それ以外は、これまで国語(古典)のテストで、作品名と作者を線で結ぶためだけに記憶した知識で、あまり人間同士の結びつきを意識したことが無かった。

だから、大河ドラマで何度か『蜻蛉日記』が話題に出て来て、しかもその作者である藤原道綱母財前直見)と、「登場人物」である兼家(段田安則)と道綱(上地雄輔)を見ると、ああ、国語資料集にしか存在しない架空単語なのではなく、実際にその時代に存在した人たちについての本(日記)なのだな、と変な感慨が湧く。


この本でも、大河ドラマの登場人物のエピソードがいくつも取り上げられ、『光る君へ』の今後の展開の予習という意味でもとても有用だったが、一番気になったのは和泉式部

和泉式部は彰子に仕えたというから、完全に紫式部の同僚で、『光る君へ』で触れないはずはないのだが、いまだにキャストの発表がない。

紫式部日記』では、年も近い(5歳年下)和泉式部に対しては、知識や理論面で浅いところがある、道徳的に問題がある(略奪愛)とけなしつつも、歌人としての才能は認めざるを得ない、と白旗状態のようだ。(勅撰歌集に247首採られているのは女性歌人でトップ)

この本では「平安の超モテ歌人」「恋愛体質」と評される和泉式部を演じるとしたら誰なのか?というのは確かに気になるところで、ドラマの今後に期待したい。


なお、「平安の萌え系文学少女」と紹介されている菅原孝標女は、 紫式部より35歳年下なので、ドラマには出てこなさそうだが、源氏物語における彼女の「推し」は夕顔と浮舟とのこと。浮舟については山崎ナオコーラさんの『ミライの源氏物語』でも一番気になったキャラクター。
ドラマではもう少し進んでから、源氏物語の執筆が始まるはずなので、それまでに何とかつまみ食いでも源氏物語本編を読みたいなあ。

「親ガチャ」的ニヒリズムを乗り越える~戸谷洋志『親ガチャの哲学』

先日『おわりのそこみえ』という本を読んでショックを受けた。
20代女性が主人公の小説だが、彼女は買い物依存で衝動的に欲しいものを買って借金し、借金を返すために働く生活を送っている。
彼女は社会には期待していないし、自分も努力したくない。未来を信じておらず、いつ死んでもいいやと思っている。
学生時代から付き合いのある友人は、裕福な家庭でお金に困らない生活を送っているが、それに対する嫉妬もなく、ひたすら諦めている。この諦めは、もはや「無敵」状態。


この本を読んで、自分には、とても共感しにくい主人公だけれど、もしかしたら、「こういう気持ちわかる」と思って読む若い人が多いんじゃないか、と不安に思った。

というのも、最近、「親ガチャ」や「ギフテッド」など、「生まれたときから人生は決まっているので努力は無意味…」というニヒリズムをはらんだ言葉を聞くことが多いと感じていたからだ。

また、それと合わせて、もしそんな風に考えて、人生に後ろ向きな人が身の回りにいたら、どう付き合えばよいのかと考えてしまった。


『親ガチャの哲学』は、そういう自分にとってピッタリの本だった。以下、内容について簡単に整理し、自分には何ができるのかを考えてみたい。


「親ガチャ的厭世観」にハマってしまうのはなぜか?

親ガチャというのは、どんな親の元に生まれてくるのかは、自分で選べないガチャガチャのようなもので、当たり外れの差が大きいという比喩表現だ。
基本的には、この本は、タイトル通り、哲学的な視点から、つまり、どう生きるか、という視点から、親ガチャ的な考え方を捉え直す。


苦境に陥っている人は、「親ガチャ」的な思考方法で、「辛いのは自分のせいじゃない」と、安心感を得る。つまり、一種の対処方法ではある。
一方で、その考えにハマると、どんなに努力しても自分の人生を変えることができない、という無力感を引き起こし、自分をさらに苦しくしてしまう。(本書では、これを「親ガチャ的厭世観」と呼ぶ)
こういった自暴自棄がひどくなると、秋葉原通り魔事件を起こした加藤智大のような、いわゆる「無敵の人」にも繋がってしまう。


そこで、「親ガチャ的厭世観」に囚われた人が、どのようにしてそこから抜け出せるのか、その哲学的な支援が、この本の書かれた意図と言える。
本の中盤では、そこから抜け出すために(もしくは子ども世代が親ガチャで苦しまないようにするために)、飛びついてしまいやすい2つの考え方をとりあげる。(3章、4章)

  • そもそも生まれて来なければ良かった、という「反出生主義」
  • ガチャではなく、デザインされて生まれてくれば、という「遺伝子操作」

しかし、そもそも、親ガチャ的厭世観が苦悩をさらに深めるのは「自分の人生を自分のものとして受け入れることができない」からである。上記2つの考え方では、それを解決できない。
特に、遺伝子操作については、遺伝子操作により最強のポケモンとして生まれたミュウツーを使った説明がわかりやすい。彼は生い立ちに苦悩し、自分を生み出した世界への怒りを募らせる。これは「親ガチャ的厭世観」の根本にある苦悩と変わらない、という説明だ。


つまり、結局、そこから抜け出すためには「自分の人生を自分で引き受ける」覚悟が必要だ、というのが、この本の最終的な結論だ。
しかし、そもそも辛い状況から逃げ出して来たのに、自分自身で責任を取れ、と「自己責任論」的なアドバイスは簡単には受け入れられない。
(「自己責任論」の押し付けにならないように、結論を受け入れてもらうにはどうすればよいか、というのは、この本全体から感じる最も大きなテーマで、その試行錯誤がところどころに見られる。)
そこで、「自分自身の人生を引き受ける」という「説得」のために、5章では、ハイデガーを引き合いに、決定論と責任について説明する。この章が一番哲学的で、一番難しいのだが、よく読めば「説得された感」はある。
それに対して、最終章の6章冒頭では、以下のようにシモーヌ・ヴェイユ『工場日記』を引用しながら、改めて、自分の人生に向き合う難しさを説く。これでは議論は行ったり来たりだ。(自分の人生を自分で引き受けることが必要[5章]→いや、やはりそれは難しい[6章])

あるとき彼女は、生まれつき身体が弱いにもかかわらず、当時の社会問題となってい た過酷な労働を体験するために、工場に勤務しました。その記録が、『工場日記』という本のなかに残されています。彼女は、その現場から洞察した、苦境に陥った人間のあり方を次のように描いています。
ひどい疲れのために、わたしがなぜこうして工場の中に身をおいているのかという本当の理由をつい忘れてしまうことがある。こういう生活がもたらすもっともつよい誘惑に、わたしもまた、ほとんどうちかつことができないようになった。それは、もはや考えることをしないという誘惑である。それだけが苦しまずにすむ、ただ一つの、唯一の方法なのだ。
p178

この本は、同じ説明を表現を変えて繰り返す場面が多く、丁寧ではあるがまどろっこしいのが短所で、この部分も行きつ戻りつ、なかなか進まない。

しかし、その後の論理の展開が自分にとっては非常にドラマチックだった。

私たちには何ができるのか

6章は、「親ガチャ的厭世観」に囚われている人が、そこから抜け出すのを、周囲の人はどう支援していけばよいのか、について書かれている。これこそ、自分が読みたかった内容だ。
こういった「私たちが解決するべき課題」について、戸谷さんは、鷲田清一の言葉にヒントを見出している。

哲学者の鷲田清一は、対話のなかで相手の言葉を「聴くこと」のうちに、その鍵を見いだします。
聴くこと、それは文字通り、相手の言葉に耳を傾けることです。ただしそれは、相手に同意したり、相手の意見を支持したりすることを意味するわけではありません。鷲田によれば、そうしたことは問題ではありません。重要なのは、「私はあなたの声を聴いている」ということ、「あなたの声がきちんと私には届いているよ」ということを、相手に伝えることです。
自分の言葉が他者に届いているという感覚、他者が自分の声を待ち、それを迎え入れてくれるという感覚、そうした感覚は、苦境に陥っている人に不思議な力を与えます。一人ぼっちでは自分自身について考えることができないかも知れないけれど、自分の言葉を誰かが聴いてくれる、それも、どんなことを言おうとも、内容に関わりなく、それを聴いてくれるという確信を持てるなら、自分自身を語ることを通じて、自分と向かい合うことができる---鷲田はそう主張します。  
p180

このあたりから、どんな立場の読者も、この話題は、親ガチャに限った話ではない、と感じられるようになってくる(誰にとっても、自分の意見を聞いてもらえることは嬉しく、心の支えになる)
ただ、ここでも、論理の展開は非常に慎重だ。

  • 他人が自分の声を聴いてくれることへの信頼は、現代日本ではどんどん失われている。
  • かつて存在した地縁と呼ばれるコミュニティは、もはや存在せず、あったとしても信頼感はない。
  • このような中間共同体のない社会では、「保育園落ちた日本死ね!」のように、家庭がダメなら国家に助けを求めるしかない(と思ってしまう)
  • だから地縁社会を復活させる、というのではなく、人為的に対話の場を創出しよう、というのが戸谷さんの考え。(ここで例として挙がるのは「哲学対話」)
  • しかし、苦境に陥っている人ほど、そうした対話の場に赴く余裕(時間的な余裕、経済的な余裕)がない、という大きな問題がある
  • 国民に保障される「健康で文化的な最低限度の生活」に、対話にアクセスできる権利を組み込むべき。

さて、読み返してみると、6章は、共同体について2つの提言が並行して進み、読者を混乱させているように感じる。戸谷さん自身も、それを懸念してか、これまでの議論の整理を繰り返し行うが、それがさらに議論が進んでいない印象を与えて混乱を深める。
自分なりに整理すると、ここでは、親ガチャ的厭世観から距離のある「私たち」が、どのように「共同体」と関わるべきかについて2つのことが書かれている。

  • 対話の場となる共同体を創出し、もしくはそこに参加し、相手の言葉に耳を傾ける
  • 国家共同体による社会保障を充実させるために(もしくはもっと狭い共同体による包摂性を担保するために)、想像力を働かせて、連帯の輪を拡げていく

実際には切り分けることのできない部分もあるが、後者のアプローチに重きを置いているのが6章ラストの文章で、前者のアプローチに重きを置いているのが終章ラストの文章だろう。

親ガチャ的厭世観を乗り越えるためには、社会による連帯が必要です。しかしその連帯は、決して、出生の偶然性を否定するものではありません。むしろ、私たちが、自分の選んだ人生を歩めないからこそ、私たちは連帯できるのです。
いずれにせよ、親ガチャ的厭世観に苛まれ、「無敵の人」になりかけている人に対して、責任の主体であることを要求するなら、私たちはそうした人の苦しみを最大限の想像力を持って想像し、そして連帯する努力をするべきです。努力なしに、他者に対して責任の主体であることを求めるのは、許されない暴力と言わざるをえないでしょう。
(p206:6章ラスト)

最後に、改めて、筆者の立場を明確にしておきたいと思います。
自分自身を引き受けるということは、対話の空間に参入できるということを、可能性の条件としています。私たちが現代社会のニヒリズムに抗うために、まず変えていくべきことは、そうした対話の場を少しでも社会のなかに創出していくということであって、決して、親ガチャ的厭世観に苦しんでいる人に対して、価値観の変更を迫ることではありません。その条件が成立していない限り、価値観の変更などできるはずがないからです。そうした要求をすることは、結局、自己責任論を押し付けることになり、さらなる苦しみを生み出すだけになります。(略)
私たちは、自分のできる場所で、自分のできる範囲で、他者と対話する機会を、この世界に創り出していくべきです。そこで何が語られるかは重要ではありません。ただ、誰かに話すことが許されること、誰かが自分の話を聴いてくれることを信じられること――それが、現代社会のニヒリズムへの、根本的な抵抗なのではないでしょうか。
(p220:終章ラスト)

前者の「想像力」について、戸谷さんは、ローティの言葉を引き、「私」の目に見えないところ、知らないところで、人々が傷ついているのではないか、苦しんでいるのではないか、と思いを馳せること、そして、そうした人々が自分の仲間であると感じること、そうした感性を育むことが欠かせない、と説明している。
個人的には、そういった感性を育むためには、読書が効果的なのだろうが、最近は、ドキュメンタリー映画を観る頻度を増やしたいと思っている。単なる「知識」よりも「人物」や「物語」への感情移入の方が自分にとって強度が大きいからだ。


後者の「対話の場」については新たに「創出」するのはハードルが高いが、場に参加して他者の言葉に耳を傾けるということ自体は、ビブリオバトルで定期的・継続的に実践しており、馴染みがある。なお、まさに、この本をビブリオバトルで紹介したら、他の参加者から、戸谷さんは、一時期ビブリオバトル界隈でもよく姿を見せていたという話が出てきて驚いた*1。もしかしたら「対話」の一形態として想定されているのかもしれない。
また、この本の中で挙がっている「哲学対話」については、永井玲衣さんがラジオで行っているのを聴いたことがあり、参加できる場があれば顔を出してみたい。
もちろん、「人の話を聞くこと」自体は、その効果も意識しながら、家族や身の回りの人に積極的に行っていけるだろう。


ということで、何となく、モヤモヤしていた「親ガチャ」に代表されるニヒリズムへの対抗手段について探ることが出来た、良い本でした。戸谷さんは、他の本も面白そうなものが多く、読んでみたいです。

*1:お会いしたこともあるかもしれない、というか、お会いしている可能性が高い