Johnson and Johnson の秘密

ジョンソン・エンド・ジョンソンって医療・薬品メーカーの会社ありますよね。バンドエイドとか作ってる。その社名に隠された謎について小一時間ほど妻と盛り上がったので、その話について。
もともと、欧米の会社って創業者二人の名前をとって「○○&○○」みたいな社名にするとこが多いよね、て話を妻としてたところ、じゃあジョンソン・エンド・ジョンソンってジョンソンさんとジョンソンさんが創業したの? っつうもっともな疑問が出てきました。そこで Wikipedia のエントリ を見たら、ジョンソン三兄弟が創業、と書いてある。ああ兄弟だったらジョンソンさんとジョンソンさんだからそうだよね、と一旦は納得したんですが、待てよ、三兄弟だったらジョンソン・エンド・ジョンソン・エンド・ジョンソンになるべきでは? なぜ二人だけ?
そこでさらに Wikipedia 英語版 を見てみます。Robert Wood Johnson, James Wood Johnson, Edward Mead Johnson の三人が創業したそうな。そして初代社長を長兄 Robert が、二代目社長を次男 James が、三代目社長を Robert の息子の Robert 2世が務めたと。む、末弟 Edward は社長になれんかったのか? よく見てみると Edward だけミドルネームが違うけど、その辺もなんかあったのか? (腹違いとか) てな具合でいろいろ空想が広がる。Johnson and Johnson 本社の社史ページ見ても詳しいこと書いてないし、「ひょっとしてこれは触れてはいけない秘密だったんでわ」「もうすぐ黒服にサングラスの男達がここにやってくるかも」などと妻と会話。
最終的には Robert Wood Johnson の Wikipedia エントリ を読むことで解決しました。もともと Robert は George J. Seabury つう人と Johnson and Seabury つう会社を興すつもりだった。一方 James と Edward もそれとは別の会社 Johnson and Johnson を興すつもりだった。ところが弟達の会社は資金不足で立ち往生。一方兄の方も Seabury が「やっぱやめる」と言い出してありゃまあどうしようかと。それで兄が、自分の会社起こすつもりだった資金を持って、弟達の会社に合流した。もともと Johnson and Johnson は弟たち二人を表すはずだったんだけど、資金力のある兄が株式の50%を握ることになって、社長も兄が執ることに。でも社名は設立準備中だった Johnson and Johson のままで行ったと。
そういう事情ぢゃったんやねー。でも結局社長になれんかった末弟涙目かい。

日本語に求められる機能

id:michikaifu さんの言ってることは全く正しいと思う。しかしその前に「日本語は何のために存在しているのか」という根源的な問いを考え直してみた方がいい。実際のところ、 日本語は、意思や情報を伝達するコミュニケーションのために存在しているわけではない。日本人が日本語に期待している役割はそれ以外の部分にある、と考えた方が日本語の現状を機能主義的立場からよく説明できる。

国家生き残り戦略としての日本語リストラ (id:michikaifu)
そこでつらつら考えるに、ニッポンの「国語なんたら審議会」には刺客を送り込まれ、全国の国語の先生たちからはカミソリを送られてきそうなことなのだが、「国家百年の計」を考えると、ここでおもいっきり、日本語の言語体系を大幅リストラして簡素化することが、国家戦略として正しいんじゃないかと思えてきた。

たとえば duke が昔書いた 日本人の国語力 って話があって、こんな感じ。

日本人の国語力 (Rauru Blog)
どうやら日本人にとって国語とは「人前で恥ずかしい思いをしないような言葉の使い方」であるらしい。「何かを伝えるための手段」では無いし、「言語によって論理的に思考するための方法」でも無い。
言葉を替えると、「自分が集団の一員であることを示し、仲間外れを防ぐための手段」ということになるだろうか。学校の国語教育がそれを目指すのも当然と言えば当然だし、コミュニケーションや論理的思考の方法を国語の時間に全く教えないのも致し方無いことなのだろう。文芸観賞に流れがちなのも、「大人になって恥ずかしい思いをしないように」文芸作品を教養として知っておかせたいという配慮が遠因にあると見る。

つまり、日本人が日本語を学ぶ主要な目的の一つに「恥ずかしい思いをしない、仲間はずれになりたくない」というものがある。逆に言えば、「相手に恥ずかしい思いをさせる、仲間はずれを作り出す」ということが日本語の主要な機能として日本人から求められている、と言えるんじゃないか。ネット上で「日本語でおk」などと相手の日本語のおかしさを揶揄する悪口が溢れているのを見てもそれがわかる。
日本人は相手に恥ずかしい思いをさせたり仲間はずれを作ったりするのが大好きで、日本語はそういったいじめの切っ掛けを多数作り出せるように意図的に難しく作られている。私はそう考えておるのだけれど、どうぢゃろう。
なかなか「文化の日」っぽいエントリになったんぢゃないかと自画自賛しておるんぢゃがー。

猫のいるカフェ

ポン・ヌフを渡って、H&M で冬服を買うなどしつつ(パリが予想外に寒かったので急遽買うことにした)、La Crêperie Saint-Honoré という名前のカフェで昼食。ここに猫がいて、しかもすげー人懐こくて私の膝に乗ってきた!


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セーヌ河

バスティーユからアンリ四世通りを歩いてセーヌ河を渡り、サン・ルイ島へ。シュリー橋を渡るところで、なんかフランス警察らしき人が潜水服着て河を泳いでるのが見えました。何してたんだろう…