見知らぬ人が怖い 見知った人も怖い


 そんなに忙しくもない仕事だったのに今週はやたら疲れてぐったりしていて、iPodCajun Dance Partyを聴くことにより無理矢理テンションを上げて山手線に乗った。このバンドのことはあまりよく知らないのだけども、2曲目がいい。Colorful Lifeの。The Raceというシングルカットされた曲らしい。へえ。話をきくところによると彼らはまだ高校生だそうで、自分が高校生のころ、若さを過大評価する大人は醜い、と思っていたのだけれど、いざ自分が大人になると挨拶変わりに言ってしまいますね。「若いのにすごいね」。べつに若さなんて関係ないってわかってるくせに。

 そんなことをぼんやり考えており新宿に着いたところ、気づけば7、8人の中国人に取り囲まれ「再見!」「再見!」と連呼される。とくに彼らと再見するつもりもないわたしはおそろしくて身を引いてしまったのだけれど、よく見たらべつにわたしに対して言っているわけじゃなかった。わたしの周りにいた7、8人がたまたま全員友達同士の中国人、ということであり、つまりそんなところにいたわたしが悪い。わたしの背中から肩から、みなさんやりづらそうに握手をしあってらっしゃいました。ごめんなさい。

 友達っていいなあ。わたしにも何人か友達はいるのだけど、友達の集団、というものをあまり体験したことがない。どんなグループにいても、大抵そこから外れた数人と仲良くなってしまう。だからお誕生日会とか、パーティとか、そういう行事に巡り合わない。いいなあ、パーティ。人間嫌いだし人見知りだしディスコミュニケーションなのだけれど、友達はいっぱい欲しい。とりあえず「こないだ友達とね」「友達の友達が○○で」といった科白をたくさん吐きたい。こういう、大人とは思えない軽薄なエゴが、わたしをパーティから遠ざけているのか。でもなあ、おめかしとかして行きたいよなあ、パーティ。なるべくならばホームパーティ。

わたしは学生時代部長としてチームを全国大会優勝に導きました


 学生のときもわからなくて今もわからないことがあるんだけど、あの、面接での「わたしはこんなすごいことやりました自慢」ってみんな本気で考えて本気で聞いているのだろうか。だってとくに転職の場合、「○○の責任者として○日で○○万円の売り上げを達成しました。その際の工夫としては〜」ってそれその人の功績がどうかなんてわからないじゃん。いや、嘘がつけるって意味じゃなく本人にも周囲の人間にも実はわからないじゃん。そんなこと。実は毎朝お茶くみをしてくれている事務のよしこさん(32)のおかげでモチベーションが上がっているのかもしれなかったりするわけじゃん。

 それとも、そういう場で、自分がやり遂げたかもしれない成功に関してハキハキと喋れる明朗さが求められているのでしょうか。というか、苦肉の策でそうなっているのでしょうか。嘘でもなんでも、言われないと、何もわからないし?

 わかってて聞いているしわかってて対策をするという面接の不毛さに、なんかもう21世紀だしほかにすてきな方法とかあるんじゃないのという気がしてしまう。ああ、そのうち転職市場にもなんらかの効率的な方法でインターンシップ的なものが取り入れられますように。

R25世代と相対性理論「ハイファイ新書」


 相対性理論、というバンドのことは以前から知っていて、京都や高円寺によくいそうなひねくれた名前の人たちだなあ、たぶん同い年くらいなのだろうなあ、と思っていた。バンド名というのはとても大切で、わたしの定義によれば素直すぎてもひねくれすぎてもいけない。たとえば、「ミュージック・オブ・ラブ」みたいなバンド名はとてもいけない。壮大すぎて底の浅い人たちのように思われてしまう。かと言って、「個人的経験と思索に基づいた五線譜の調べ及び日常的な断片の数々」といったバンド名だと、今度は売れる気がないやつらだと思われすぎて困る。

 そういう意味で、「相対性理論」というバンド名はとてもいいなあと思っていた。「シフォン主義」「ハイファイ新書」というアルバムタイトルもいい。尖り、世の中を馬鹿にしているように見せかけておいて、その実しなやかさがある。良くも悪くも小賢しく、確信犯的で、何かを問われれば「何も考えていませんよ」とさらっと流してしまいそうな得体の知れなさがある。そして、視聴した音もそんなふうに聴こえた。

 チャットモンチーにしろ、9mmにしろ、最近売れているバンドを聴いて思うのは、彼らは(彼女らは)紛れもなくスーパーカーや、ナンバーガールや、くるりと聴いて育ったのだろうということだ。熱心に聴いていたかどうかは問題ではなく、そういう音が溢れるなかで育ってきた。R25世代であり、わたしの、わたしたちの世代のバンドだということだ。

 スーパーカーナンバーガールは、そういった名前に代表されるすこし上の世代のバンドたちは、ロックやポップスという枠を柔軟に行き来する日本の、日本ならではの現代的な音楽を確立させた。ジャズもテクノもパンクもクラシックも、ジャンルの区分にもはや重要性は残されていない。何よりもかっこいいのはそういうものをすべて網羅するような姿勢であり、良いものはすべて自分の意思で取り入れることであり、必然的に、わたしたちの世代の“音楽好き”は、“音楽マニア”であるか、もしくは“好きなものしか聴かない=好きなものならジャンルを問わず聴く”という先天的な柔軟性をもっていた。ロックファン、パンクファン、といった言葉は、上の世代ほどには意味をなしていなかったし、意味がなくて当然だと思われていたような気がする。

 相対性理論は、たぶんベースとドラムが音楽マニアなのだと思う。上の世代から自分たちの好きなエッセンスを取り出し、技巧的に練り上げていくオタク的感性がある。ボーカルの女の子はどちらなのかまだよくわからない。天然の素材をリズム隊が見出したのかもしれないし、ある程度確信犯的にああいうことをしているのかもしれない。でも、彼女の声や、歌はとても“萌え”だし、サブカル的だ。Perfumeと同じライン上に位置する、オタクのなかで輝くアイドルだ。それは、すでに、バンドがモテる外交的な趣味ではなく、内向きに進化しきってしまったこと(もしくは、内向きに進化する人たちが上の世代にくらべて圧倒的に多いという“相対性”)を意味する。相対性理論は、こうした文脈のなかで圧倒的な完成度を誇る、世代を代表するバンドなのだと思う。

 上の世代にユニコーンがいたように、くるりがいたように、わたしたちの世代には相対性理論がいる。でも、このバンドが好きだというのはわたしたちよりもうすこし下の世代だろう。高校生かもしれないし、中学生かもしれない。文化の同時代性は、むしろ低年齢層にこそ共感される。きっと今後、全国のいろんなところでコピーバンドが生まれ、「あたしがやくしまるえつこをやるわ!」「いいえあたしよ!」というような争いが繰りひろげられたり、ボーカルとベースとドラムで三角関係(ボーカルはおれの彼女なのにドラムのやつとも寝たなんて!)が巻き起こったりするのだと思う。わたしたちがスーパーカーナンバーガールでそうしてきたように。

 相対性理論が世に出てしまったことで、もう出られなくなってしまった同世代のバンドもたくさんいるんだろうなあと思う。実際に、わたしは、同じようなことを低いクオリティで奏でているバンドをいくつか見てきた。だからこそ、世代を代表するバンドなのだとも思う。もちろん、まだまだ未熟なところはあって、期待されるのはおそらくこれからの活躍なので、妊娠したり解散したりしないで頑張ってほしい。女の子がいると、なんだか、いろいろめんどくさいことになったりするしね。

ハイファイ新書

ハイファイ新書

ロックンロール★スター

 居酒屋でごはんを食べていたら、隣に居るひとが「バンドをやりたい」というので、「それはいいのではないか」という話をした。バンド。わたしもできればバンドをやりたかった。慣れない楽器をもち、学生のころ、多少その真似ごとをしたことはあったけれど、その結果わかったのは「わたしは音楽を奏でる人間じゃないのだなあ」ということだった。

 Emのかたちに指を置けばEmの音は流れるのだけども、わたしにはそのEmを使ってやりたいことがない。たいせつなことは音に載る前に言葉になって漏れてしまう。つまりわたしはとてもおしゃべりなのだった。

 中学生のとき、買ったばかりのMDプレイヤーをチャリのカゴに乗せて、ニルヴァーナの音を耳につっこんだ。ニルヴァーナがどこのどういうバンドなのかはよく知らなかったけど、カート・コバーンは自殺しているのでとてもロックだと思った。あと、ギターの音がやたら大きくて激しいのもロックのような気がした。わたしはロックスターになりたかった。まあ、言ってしまえば、ロックスターの女というポジションでもよかったのだけれども、とにかく薄暗い部屋でガンガンに音を篭らせて、もくもくした煙の中で悪い言葉をささやくような、そういう生活がしたかった。だけどもうちの周りにあるのは川と田んぼだし、寄り道できるようなところは駄菓子屋とホームセンターしかないし、アルコールに溺れるアンニュイな女を演出しようと試みるも耐性がなくてすぐ酔っぱらい気持ちよくなってしまうし、勢いで買ったドクロ模様のパーカーを羽織ったまま、わたしは「東京に行かないとロックじゃないのかなあ」というようなことを考えていた。川べりの土手はあちこちに雑草が生えていてとても寒かった。

 わたしはいま東京にいるのだけども、あんまりロックじゃない。というか、ぜんぜんロックじゃない。宇田川町あたりのおしゃれなレコード屋スウェーデンあたりのおしゃれな音を聴きかじり、「なんだかドラムが技巧的ね」というようなことを口走る、ひじょうに“そこそこ”な大人になった。小心者なので悪いこともあんまりしない。ちゃんと言うと、ちょっとだけしかしない。

 それでも、ひと月に一度くらい、無性にロックンロールなものが聴きたくなる。もうちょっと破天荒になりたいなーと思いながら、止めている煙草を一本吸う。パジャマになったドクロ模様のパーカーを着て、よく眠り、目を覚まし、低血圧による寝起きの悪さは、ちょっとロックかなあ、と思う。

『チェ 28歳の革命』


監督/スティーヴン・ソダーバーグ
2008年スペイン・フランス・アメリ


 モノクロの室内。ゆっくりと立ち上っていく葉巻の煙。

「革命家はやめられないと?」

 インタビュアーが放った言葉の先にはチェ・ゲバラ。20世紀最大の革命を成し遂げた男。

 「チェ・ゲバラをTシャツでしか知らないあなた!」というおすぎの叫びを聞いて、「えへへすみません」と降伏して観に行ったものの、思っていた以上に自分がゲバラのことを知らなくてびっくりしました。おそらく、余程のマニア(もしくは元・革命戦士)でもない限り、観に行った人の大半はそう感じたのだろうと思う。上映前のご親切な「チェ・ゲバラとは?」という数分間のフィルムも虚しく、カメラは意図的にゲバラの“人となり”を削ぎ落として回る。『モーターサイクルダイアリーズ』の中で描かれたようなゲバラの青春、妻と娘のこと、アルゼンチン人がキューバまでやってきた理由、そういうものは既に自明のこととされ、スクリーンに映るのは森。森。海。銃声。銃声。血と汗。緑。混乱の中でも不思議と情にあつく信頼関係で結ばれた、一種理想的なゲリラ戦線。

 わたしは申し訳ないことに外国人の顔の区別がつきづらいので、始まって1時間くらい経つまで、ゲバラ以外は誰が誰やらわかりませんでした。たいへん正直に申し上げると、ゲバラすら30分くらいわからなかった。髭を生やしているとみんな同じ顔に見える。ぜんぜん見えるね。 反乱軍の主要人物が頭の中で個別化され、ベニチオ・デル・トロの立ち居振る舞いが悉く格好良く見え始めたあたりから、映画も段々面白くなるという。そのくらい、ヒーロー物としては異質な感情移入の排され方なのだけれども、それはつまり、ゲバラをヒーロー視する無責任な目線を排除している、という気もします。

 映画は『39歳 別れの手紙』できちんとしたクライマックスを迎える(たぶん)ので今の時点では何もいえないのだけれど、革命。革命という言葉がこんなにも、きちんと、社会の中で生きていた時代があったのだ、ということに、80年代生まれのわたしは驚きます。やっぱり。「かつて、本気で世界を変えようとした男がいた」というキャッチコピーは大袈裟でも何でもなく、これはそういう男の話であり、そういう男がいた時代の話でもある。世界が変わることが大衆によって信じられ、実際に変わった時代。ゲバラが国連総会で行う演説は、そのまま現代にも通用するのだけど(というか、それを意図してこのシーンは作られているのだろうけど)、その背景が圧倒的に異なることを思い知らされます。

 21世紀、チェ・ゲバラを呼び表すには“テロリスト”という言葉しかない。飛行機を乗っ取った人たちとゲバラとの間にどんな違いがあるのか、ないのか、わたしたちはたぶん、もう一度よく振り返ってみる必要がある。

 サルトルも、ジョン・レノンも憧れた男。ベニチオ・デル・トロはとにかくなりきっていて、ちょーかっこよかったです。観終わったあと無性に葉巻が吸いたくなった。

re:

 驚くほど下らない切欠で足元が揺らぐことがある。
 
 帰り道、目の前を歩く人たちを見て、あーちくしょーちょう邪魔。あのスカート可愛いけど。けらけら笑って楽しそうじゃんか。楽しいのか? そして何故そんなに楽しいのか? わたしは一向に楽しくない。楽しくないのだ。シャンプーを買って帰らないといけない。肌を冷たい風が刺すので頬が強張ってもう笑えない。いや、べつに、笑う必要もないんだけどね。

 家に帰ってベッドに寝転ぶ。そこには天井がある。が、天井があるだけだ。私はこの光景を何度も見ているし、何度も見る必要に晒されている。テレビを点けても静かすぎて耳鳴りがする。

 ベッドの上から手を伸ばして、昨日食べ残したチョコレートを一つ口へ放り込む。だらだら溶けて甘い。ごろり、と寝返りを打ちながら、今日あの娘にちょっときつく言い過ぎたこと、名刺交換のとき上手に喋れなかったこと、お昼に食べたサンドイッチの海老が生臭かったこと、等をひとつひとつ反芻する。止まればまた一人。

 大人ってすごいな、と思う。

 こんな日々の揺らぎを一日、一日、握り潰し、少なくとも傍から見えない程度の範囲で誤魔化していく。わたしもそうしている。大人だから。何も哀しくないのにときどき死にたくなったり、人恋しいのに誰も許すことができなかったり、あ、もう、何もしたくないかも。そういう夜と朝を見ないようにして内臓の奥へ溜め込んでいく。翻ってまた一人。

 ふとテレビに目をやると、20代独身OLの婚活、というような企画が流れていて、馬鹿馬鹿しい。わたしは、わたし自身の孤独すら独り占めすることができない。それは既にアイコン化され、当たり前のものとして消費され続けている。

 振り返ると灯りの気配。どうかわたしに、わたしだけに朝陽が降り注ぎますようにと傲慢な祈りを抱いて眠る。そうして僅かなセンチメンタルを親指でゆっくりと潰す。