どがん・すか?スザンヌ・ヴェガ?

数年前に自転車で遠出をしていた時,偶然すれ違い,親切にもおまんじゅうまでおごってくださった60歳代の男性と年賀状のやりとりをしていたものの,あちらも忙しくこちらも忙しい身(特に夫の人)で,自転車でどこか行こうねという話はどこへやらアンドロメダ星雲の彼方,ラブレター・フロム・彼方,もとい,カナダになっていたのですが,ついこの間,奥様とうちまで挨拶に来られてこらまたびっくり。奥様も最近自転車を始められたということで,双方の都合がついたら一緒に乗りに行きましょうと,このコースでこの距離なら走られるよね,とか,ここまでのって後は私が車で乗せちゃうから,とかすでにあれこれ案を考えて頂いていたようで恐縮しきり。というわけで,いろこっさんと電話番号を交換して,わたくしめレナータは,フェイス・ブックでもラインでもなくショート・メール・メッセージのメル友ができました。メル友ってもうなんかしょっぱくて恥ずかしい感も致しますが,くくく。で,私はメールに絵文字等を全く使わぬ種族なのでありまするが,いろこっさんは普段からそうなのか,こちらを察してか,どうなのかなんなのか,絵文字を使われているのでこれまたくくく。ちなみに高校選抜野球で第一日目の試合だった小山台高校の出身だそうで,試合の結果は残念だったけれど,2回で流れる小山台高校の校歌が,ともすると軍歌の雰囲気漂うような校歌も多い中,凛として爽やかでこれまた女性の合唱というの相乗効果でとても美しい曲であるなあと思ったのでした。

カーリー神

べべべんべんべんべんべんべんべんべん



祇園精舎の伽哩の音
諸行無常のヒリリ有り
娑婆ソースの鍋の音
盛者必垂の理をあらはす



べんべんべんべんべんべんべんべん



奢れるものも久しからず
唯腹を空かすが如し
猛きものもつひには涎ぬ
偏に"ヨシ"のまえの犬に同じ



べべべんべんべんべんべんべんべんべん



der Geister oder Naturkraefte als Goetter

神様と神様2011を読む。久しぶりに川上弘美を読む。

もしあなたが山でクマに遭ってしまったら驚きのあまり雄叫びを上げることもできずヒィという言葉をゴクリと飲み込んでしまい腰を抜かし遭ったクマもクマでクマった!とばかりに驚いて爪を伸ばした手をガスっとあなたに向けるであろうそしてあなたはクマからしてみると大したことはしていないはずなのにあなたにとっては命に関わるケガをするのかもしれない。が、ここではクマに会い、クマとともにハイキングに出かける、のである。川辺につくとクマは北海道の木彫りの熊の格好よろしく、あなたに対してではなくて、川の中の魚に対して牙を向ける。水しぶきが太陽の光を受け目を細めてしまうくらいに光り魚は宙を舞う。クマとの一日。クマと一日を過ごすという非日常がまるで日常であるかのごとく。ところ神様が2011年版となると日常は一変。クマと一日を過ごすという非日常以上の非日常がどろりとやってきて、過去から観測すると全てが非日常ということばかりが起きているのであるが、悲しいけれど怒り狂いたいけれどもそのことすらも日常となってく。ヒトは放射性同位体という未知のモノに遭遇し、それを利用するために分裂させたり、出会わせたりし、今度は全てのものに対し恐ろしいことに遭遇させてしまった。さようであるならばしかたない、さようなら、ちゃんちゃん、とすませることはできない。この非日常的日常を日常として受け入れて何十年も何百年それ以上かかるかもしれないけれども、全てのものに対する怒りを、そしてこの原子炉を、どう鎮めていかなければならないかというのを、もううんざりという方もいらっしゃるかもしれないが、やはりやはり科学を使って考えてゆかなければならないと思う。
ヒトは科学の発展と共に生きてきたのであるからそれをハムスターのカラカラ車のようにその場に停滞させてはならぬ、毒を食らわば皿までよ、ヒトと科学のタンデムでどろどろとどっぷり血みどろになるまでいこうではないか。それもまた責任のひとつではあると思うよ。ヒトよ。

「今日はほんとうに楽しかったです。遠くへ旅行して帰ってきたような気持ちです。熊の神様のお恵があなたの上にも降り注ぎますように。それから干し魚はあまりもちませんから、めしあがらないなら明日中に捨てるほうがいいと思います。」
 部屋に戻って干し魚をくつ入れの上に飾り、シャワーを浴びて丁寧に身体と髪をすすぎ、眠る前に少し日記を書き、最後に、いつものように総被曝線量を計算した。今日の推定外部被曝線量・30μSv、内部被曝線量・19μSv、年頭から今日までの推定累積外部被曝線量・2900μSv、推定累計内部被曝線量・1780μSv。熊の神とはどのようなものか、想像してみたが、見当が就かなかった。悪くない一日だった。

Ich hoffe, Sie nie ueber mich gehen zu lassen denken!!

君の名は、、、、、さておき、わたしの名は、、ロマネス子。ジャッポーンでは「こ」を「娘。」と表記したりもするらしいけれど、わたしはどうみても「ブヒ」られる対象ではないので、昔のジャッポーンの名前で使われる「子」を使うわ。一番しっくりくるの。ロマネス子という名から想像できる通り私はオイローパからやってきたのよ。なんの因果か極東の地に舞い降り、後でそれが、カンジ、ヒラガナ、カタカナというのがわかるんだけど、まるでそれ自体が絵のような(事実それは絵だったのよね!)文字、フニャッとした文字とフニャッとの別表記であるカクカクした文字ばかりで表記されてる看板ばかりを見ているとマンマ・ミーアとめまいさえ起こしそうで、ロポンギルズのコンクリート・ジャングルをウロウロしていた私をタカハシの旦那が、同情してくれたのか、なんだったのか、こりゃいい商売になると思ったのかしら、恐る恐る拾ってくれたの。それから、トキオーンのロポンギルズ離れて、カカ殿下とカラ風の双方が強いこの地で今も変わらずタカハシの旦那にお世話になっているわ。最初は湿度に寒暖差の激しさに耐えられるかしらと思ったんだけれど、意外に大丈夫だったわ。わたし、ロマネス子も環境適応ができるのねと思ったわ。でもね、やっぱりこのへんではなかなか人気がでないの。ほら、ジャッポーンの西の方の言葉で、私達を表現する的確な言葉があるわよね、けったいな、ってやつ。え?なぜジャッポーンの西の方の言葉を知り得たのかって?えへん。私達ロマネス子も自分たちの通信回路を持っているのよ、通称ロマネッコ。それで全世界に散らばったロマネス子たちとやり取りできるの、便利になったわ。で、けったいな、という話に戻るわ。外見だけじゃ判断しちゃダメっていうのはよく言われることだけれど、やっぱり第一印象というものは重要なのよね。自分で言うのもなんだけれども、並んでいる他の子と比べるとやっぱりけったいな見た目なのよ。滅多にロマネス子を指名してくれないの。けれどわたしのけったいな見た目は数学的にはフラクタルっていう構造をしているのよ。意外や意外ね。巻貝それ自体に黄金比を持っているアンモナイトちゃんたちと仲良くなりたい気分だわ。ちなみに、ロマネス子はカリフラワーとブロッコリーの親戚よ。扱い方はカリフラワーとだいたい一緒で味はだいたいブロッコリーなの。オーブンで焼くと香ばしい匂いがするので、サラダなんかにしてもいいわよ。カレーに入れてモロモロとなってカレーと一体化になってもそれはそれでおいしいのよ。だから、けったいな見た目で判断しないでね。欧州を遠く離れちょっと寂しい気もするけれど、タカハシの旦那の所で安住の地を得たいと思っているの。ローマは一日にして成らず(Non uno die Roma aedificata est.)というからには、ロマネス子も長々とやっていくわよ。さ、今日も働くわ。
This text is dedicated to "キマイラの新しい城"

der Unterstuetzungssong

昨日のNHKラジオ・セパ対抗プロ野球ソング三昧は、元阪神のオマリーの六甲おろしが流れるまでハラハラし、それが流れてしまったからは、この破壊力が凄まじい歌を脳内から取り除かれることなく終わった。日本語の歌詞でタイガースというところはちゃんとカタカナ発音で、英語の歌詞でのタイガースは「ガー」の部分をちゃんと巻いているという細かい芸があるにも関わらず、日本語でも下手、英語では更に下手という恐ろしい結果である。さあさ、よってらっしゃいみてらっしゃい、腹が捩れるまで、地の果てまで、堪能しようではないか。


Wie ist der Normale?

川沿いを散歩の途中、向こうから、この辺りにおいてはよく見かける、よって何ら疑問すら起こらなくなった乗り方の、限りなく股を開いて自転車を漕いでいるおじさんが見え、ゆうに2メートルはあろうかという幅の道を、わざわざ、わざわざわたしの方にじりじりじりと寄ってきて、じっと見ながらそして再び反対側に戻っていくという、一人正弦曲線を成しているこのこと自体は未だ謎である。さらに、首タオル、黒いジャンパーにひげの男性が近づいてきて、かなりの明確な発音で話しかけられる。が、しかし、単語そのものはわかる、至極まっとうな単語を使われていたけれども、よくよく聞くと全体の文章としては、破綻していて意味を成していなかった。私達が、「すみません、よくわかりません。」と言って去っていくと、次は信号停止している車の運転手に大声で話しかけていた。その文章自体が意味をなしていないのに、堂々たる話し方をする人の脳味噌の機能というのは一体どうなっているのか、と思う。はたまた、私が理解できないがゆえにダメなのか、とさえ思う。普通であるとはどういうことであろうか。自分が普通であるとはこれっぽっちも思ったことはないので、常に匍匐前進、手探り状態。そして、意思疎通というのげに難しきことである。人はサーカスの綱渡りのように、恐ろしくも微妙な線の上で、ぐらぐらしながら生きているのであるなと思うのでR。ちゃんちゃん。