誕生日

本日、たまたま会った人から、竹村和子さんが亡くなっていたことを知った。病気で入院中とお聞きしていたが、まさか、こんなに早く亡くなられるとは、夢にも思わなかった。

まあ私のように、友人がひとりもいなくて、どこでも完璧に孤立している人間、しかも関係者でもない私に、亡くなられたことを知らせてくれる者などないが、新聞に出ていたとのことで、見落としたことが何とも悔やまれる。

亡くなった人を悪く言うのは礼儀知らず、恥知らずの人間だが、友人もいなくて、どこでも完璧に孤立している私としては、恥知らずなことが平気で書ける。

こんなことを書くと竹村氏は嫌がるだろうが、竹村氏の周辺と言うか、関係者というか、そういう人たちの仕事は、面白くもなんともない凡庸なものがほとんどだが、竹村氏の書いたものだけは、魅力があり、限りなく刺激的なものだった。

ちなみにWikipediaによれば12月13日に亡くなられたことになっているが、誕生日が1954年とあるだけで、わからない。私の記憶が確かなら、竹村氏の誕生日は2月3日だったはずである。

ケイオス

テレビ朝日日曜洋画劇場」で『ゲットスマート』を放映。昔なつかしい『それゆけスマート』の映画版だが、Wikipediaによると

『それ行けスマート』(それゆけスマート、原題:Get Smart)は、アメリカ合衆国NBC系で1965年から1969年まで、CBS系で1969年から1970年まで放映された30分のテレビドラマシリーズ。スパイものをパロディにしたシチュエーション・コメディ。日本(関東地区)では1966年から1967年までNETテレビ(現:テレビ朝日)で、1968年から1969年まで東京12チャンネル(現:テレビ東京)で放映された。

あらすじ
アメリカの秘密諜報機関コントロール(CONTROL)のドジで間抜けなスパイ・エージェント86ことマクスウェル・スマート(ドン・アダムス)が、相棒のエージェント99(バーバラ・フェルドン)とともに、靴底の無線電話などといった変なスパイ道具を使いながら、世界征服をたくらむ秘密結社カオス(KAOS)と戦う。

子供の頃、テレビで見ていたから、よく覚えている。敵の秘密組織の名前は日本では「ケイオス」と呼んでいた。間違えるなWikipedia。 表記はChaosではなくKaosだが、発音は「ケイオス」。

ところで映画版のほうは、Wikipediaによれば

ゲット スマート』(Get Smart)は、2008年公開のアメリカ映画。日本公開は同年10月。製作はワーナー・ブラザーズ。スパイ・アクション要素のあるコメディ作品。原作は1960年代にアメリカで製作され日本でも放映された同名の人気テレビドラマ『それ行けスマート』。

映画版は、やはりアン・ハザウェイが魅力的で、このころから彼女は完全に初期のお姫様キャラを脱していて、人間的深みと存在感のある成熟した女優へと変貌していた。昨年の『アリス・イン・ワンダーランド』における白の女王の、怪しい清純さは記憶に新しい。実際、お姫様キャラから脱却するために、いろいろ汚れ役もしていたが、この『ゲット・スマート』では、成熟度合が完成の域に達している。アン・ハザウェイの映画は日本で公開されたものは全部見ているが、ファンかといわれると困る。シェイクスピアの奥さんと同じ名前(芸名ではなく本名)ということも気になるのだが、私と誕生日が同じなのですよね。

ちなみに映画版のあらすじについて、Wikipediaによれば

マックスウェル・スマート(スティーヴ・カレル)は米国の秘密諜報機関“コントロール”で敏腕分析官として働いていた。しかし、本人は地味なイメージの内勤ではなく、花形である現場エージェントとして活躍することを願い、テストにも合格。ところが上司(アラン・アーキン)にはその優れた分析能力を重要視されて、内勤を続けるよう命じられる。

そんな時、“コントロール”の本部が国際犯罪組織“カオス”の襲撃を受け、現場エージェント全員の個人情報が奪われてしまう。分析官の身分であるため情報が無事だった彼は急遽エージェント86となり、整形手術を受けたばかりで同じく”カオス”に顔が知られていないエージェント99(アン・ハサウェイ)と組んで、”カオス”を追うことになる。

カオスではなくて、ケイオスと表記してほしかった。テレビでも日本語吹き替えが「カオス」。「ケイオス」にしてほしかったぞ。

真実の瞬間 1

官僚とメディアの陰謀にはうんざりだ

中世のカトリック信仰においては、人間は死ぬと、天国と煉獄と地獄のどちらかに行くのだが、天国に行くのはごく少数の聖人君子のような人間であり、地獄に直行する極悪非道の人間もいるが、大多数の人間は、なにか悪いことをするし、かといって悪いことをしても根が善人だったりするわけで、天国でも地獄でもない煉獄に送られる。そこで煉獄の苦しみに耐えて、晴れて天国に召されることになる。ではどのくらい煉獄にいるのかというおと、平均的キリスト教徒の場合、1000年から2000年だという。50年生きて、その後、天国に召されるまで1000年も苦しみむのなら、死んだ方がましだが、もう死んでいる。

最近のメディア関係者(の全部ではないが、ほぼ全部の99パーセント)は死んだら地獄に直行してほしいし、万が一、煉獄に行くことがあっても、地球が滅びるまで煉獄で苦しんでほしい。そのくらい陰謀に無自覚だし、むしろ積極的に加担している。

田中聡前沖縄防衛局長の不適切発言につづいて、いま、一川保夫防衛大臣の辞任問題が世間をにぎわしているが、同じことを飽きもせず繰り返すものだと思う。不適切発言のことではない。でっちあげの不適切発言と、それにともなう辞任騒動のことである。

最近では鉢呂経済産業大臣の辞任が記憶に新しいが、「死の町」発言のどこが悪いのかと疑問に思ったジャーナリストも多いようだし、私も問題発言ではないと思う。「放射能つけちゃうぞ」発言は、いまではなかったというのが真相のようだ。だったらなぜ鉢呂大臣は辞任に追い込まれたのかといえば、鉢呂前大臣は、就任直後から、脱原発発言を繰り返していたからである。ほとぼりが冷めたら再び原発事業を再開しようもくろむ悪魔の手先の原発マフィアどもが君臨する政府のなかにあって、脱原発発言をする鉢呂大臣は、むしろ気骨のある政治家であった。まただからこそ邪魔になって切られたというのが真相だろう。そんなことは、公開されている情報とか報道を見ているだけで猿でもわかることだ。

田中聡前沖縄防衛局長の不適切発言にしても、公の場の発言ではないし、本人ですらよく覚えていないことで、ビデオとか録音テープはない。あればそれがメディアに流されるはずだ。非公式の発言だからメディアには流せないならば、そんな発言で解任されたらたまったものではない。しかし、問題は手続き論ではない。その不適切発言あるいは失言が、誰を利するものか、誰にとって不利なものかを考えれば、現在の騒ぎは狂っているとしか思われない。あるいは操作されているとしか思われない。

まず発言は二十八日夜那覇市内の居酒屋で行われた記者団との懇談会の席上でのこと。防衛省の田中聡沖縄防衛局長は、一川保夫防衛相が米軍普天間飛行場の代替施設として名護市辺野古に新しい基地を造るための環境影響評価書を年内に提出すると断言しない理由を聞かれ、「(女性を)犯す前に『これから犯しますよ』と言いますか」と発言したとのこと。その場には沖縄県政を担当する県内外九社の記者が出席。記事にしないオフレコ発言だったが、地元紙の琉球新報が二十九日付朝刊一面トップで伝える。「公的立場の人物が人権感覚を著しく疑わせる蔑視発言をした。慎重に判断した結果、オフレコだったが、県民に知らせる公益性が勝ると考え報道した」(普久原均編集局次長)とのこと。

その場に記者が同席しなかった新聞社も、このことを報道しているが前局長は、発言を良く覚えておらず(鉢呂前大臣と同じケース)、「やる」と言ったと記憶していると語っている。「やる」というのは「レイプする」とも取れるのだが、「殺す」という意味にもなる。確かに領土を侵略することを「レイプする」というたとえで使うことがあるが、別に日本政府は沖縄を侵略するつもりはないだろう。自国の一部だから。たぶん沖縄県民の願いを踏みにじる、犠牲を強いるということで、「殺す」という意味ではなかったか。そちらのほうが話が通る。

ところが琉球新報が、これを「沖縄をレイプする」→「人権無視の超不適切発言」として糾弾することになった。そしてなにやら人権無視発言をしたことだけが問題となって局長が更迭された。問題は不適切発言だけとなってしまった。

これはおかしい。田中沖縄防衛局長が言わんとしているのは、日本政府は、是が非でも、米軍普天間飛行場の代替施設として名護市辺野古に新しい基地を、住民の、あるいは県民の反対を押し切って作ろうとしているのであって、環境影響評価書も、政府寄りのものでしかない。沖縄を殺すことはもう決まっているのであって、そのことがわかる時期を先延ばしていているだけだ、ということであろう。

こういう発言をする人を、もしそのメディが沖縄の側にたち政府のやり方に反対するものだったら、守るというか重用しなければならない。政府の方針を批判する、もしくは結果的に批判的に語る人物は、政府にとって不利な人間であり、沖縄にとって有利な人間であるはずだ。オフレコ発言である。さらにもっといろいろな発言を聞きだせたはずだ。

琉球新報については何も知らないが、沖縄県民の公益性を考えるとかなんとか言いながら、実際には日本政府の手先、あるいはCIAの手先ではないかと疑いたくなる。まあ、そんなことはないとしたら、琉球新報は馬鹿新聞である。なぜなら結果的にやっていることは日本政府側に立つことであり、日本政府の味方しかしていないからだ。

田中沖縄防衛局長の発言は、日本政府にとっては、不利な発言であり、政府側の人間でありながら政府を批判する悪質な発言であって、日本政府にとって早く解任したいところだろう。しかし、彼の発言を重視して、そこにこそ真実が現れたとみなし、政府の隠された真実の声として、持ち上げる沖縄寄りのメディアがいたら、簡単に解任できなくなる。幸い琉球新報が、騒いだおかげで、不適切発言で解任しても文句は言われなくなった。政府にとっては、琉球新報さまさまである。

琉球新報にとっては、「やる」発言を、「殺す」ではなく「レイプする」と受け止めて問題にしたほうが、沖縄の男性県民のプライドを傷つけ、また沖縄を含む日本全国の女性からの猛烈な反発が予測できるため、「レイプする」にして、盛り上げようと思ったのであろう。タブロイド紙並みの、あるいは「カストリ雑誌」なみの扇動的戦略である。その結果が、「人権無視の不適切発言問題」で終わり、沖縄基地問題は、どうなったのかということになる。もっとも琉球新報はおっちょこちょいということではないだろう。琉球新報も含め、メディアを操作する黒幕、まあ官僚組織が背後にあることはみえみえなのだ。もう呆れ果てて死にそうだ。煉獄に行くのはいやだが。つづく

山本五十六神話

日曜雑感1-1

映画『聯合艦隊司令長官 山本五十六』の予告編が映画館でも流れているし、ネット上でも宣伝している。山本五十六は、私が子供の頃、人気のあった海軍軍人で、戦時中に戦死したこともあり、悲劇の英雄的人物として敬愛もされていた。なぜ山本長官が敬愛されていたかといえば、開戦には反対していたが、いざ戦争となると真珠湾攻撃をはじめとする初戦の戦勝をもたらし、アメリカに憎悪され、ソロモン諸島での前線視察中に、アメリカ軍機(P38)から待ち伏せ攻撃され、乗機(一式陸攻)とともに密林に散った悲劇の海軍大将だからである。

私は真相は知らないが、以下の点が、山本長官について、繰り返し強調されている。今回の映画化でも反復されているらしいこととは、山本五十六は1)アメリカ通である、2)それゆえアメリカの実力を知悉している山本は開戦に反対した、3)また、なにより反戦主義者の山本は、戦争回避に尽力したが、4)開戦やむなしとなったとき、奇襲作戦でアメリカの主力を叩き、早期講和に持ち込むことにした。こうしたことである。

それが真相かどうか知らないが、こうしたポイントは、矛盾の塊で、とても正気の沙汰とは思えない。神話としてもお粗末すぎるのではないか。嘘でもいいから、もっとまともな話を聞かせてほしい。実際、子供の頃から聞かされてきて、ようやく忘れかけたと思ったら、またかと、うんざりする。

そもそもアメリカ通であったら、アメリカを敵に回して勝ち目はないから開戦を避けようとするのは、当然だが、奇襲攻撃で早期決着を図るというのは、アメリカを知らない大ばか者であろう。映画『トラ、トラ、トラ』の最後で真珠湾攻撃成功に沸く日本軍の作戦司令部で、ひとり山村聡演ずる山本長官が深刻な顔をして「眠れる獅子を起こしたことになる」と語るのは、なにもアメリカ人観客向けのリップサービスだけではないだろう。アメリカは、奇襲攻撃を受けて意気消沈し、早期講和に応ずるなどというお伽噺を「アメリカ通の」山本五十六は考えていたとしたら、アメリカを全く知らない大ばか者である(もっとも世のアメリカ通は、昔も今も、大ばか者で、大ばか者だからこそアメリカ通だともいえる)。

9.11でアメリカはおとなしくなったのだろうか。むしろ狂暴化して世界を不幸なテロとの戦いに巻き込んだ。9.11でアメリカが思い起こしたのは、真珠湾奇襲攻撃だった。そしてその記憶は、オサマ・ビン・ラディンを不当に殺害するまで、永続した。敵の首謀者、忌まわしい指導者を叩けば戦いに勝てるという幻想。その幻想のもとを築いたのは山本五十六に対する待ち伏せ奇襲攻撃である。アメリカ通だったはずの山本は、アメリカにとってはオサマ・ビン・ラディンと同じ、ただの極悪非道の人間にすぎなかった*1

真珠湾を攻撃して敵海軍の主力部隊を叩き、早期講和に持ち込むということは、あまりに非現実的で、もしほんとうなら、山本自身、そんなお伽噺でよく自分自身を納得させられたと思う。もちろん周囲も納得してない。真珠湾奇襲作戦(ハワイ作戦)のことを海軍では「投機的」と反対したという。当然である。そんな作戦を考えるのは、山師的な目立ちたがり屋ぐらいだろう。また戦争が好きでたまらなくて、どうせやるなら派手にやりたいという戦争大好き人間くらいだろう。まともな軍人なら、そんな作戦は歯牙にもかけない。また聯合/連合艦隊とか聯合/連合艦隊長官といった、海軍のなかでもわけのわからないエリート集団のトップになることで、山本は、反対者を強引に封じ込め裸の王様となって机上の空論を展開した、その成果が真珠湾でありミッドウェイではなかったのか。

真相は知らない。しかし山本五十六神話から推測できるのは、たぶん、戦争は嫌いで反対したが、やむを得ず戦争をせねばならなくなった、そしていざ戦うとなったら潔くかっこよく戦ったという、そんな自慰的思想に、ひたろうとする思想操作だろうが、しかし同時に、その神話の論理的帰結として浮かび上がるのは、非現実的な空論に基づいて戦争を立案し投機的な作戦を楽しんだ好戦的山本五十六の姿である。戦死しなかったら、むしろ彼こそが、国民を未曾有の災禍に導いた悪辣な戦争犯罪人とみなされていたかもしれない。

あるいはこうも言える。真珠湾奇襲作戦(ハワイ作戦)は山本にとって、眠れる虎を叩き起こし、やがて敗北を余儀なくされる戦争を前にしての、派手な大博打であり、成功して後世に名を残すことになるが、どうせ負けることがわかっているので、あとは、ひたすら敗北を待つことしかしない、あるいは奇襲攻撃は、不可避の滅亡への道を早める契機となるがゆえに望ましいものと思われたのかもしれない。タナトス思考であろう。勝ち目のない戦争において、どう目立つか、どう敗北を受け入れるか。そうした方向の思考のなかで、多くの軍人が国民が死んでいったのであって、繰り返すが、山本神話から帰結する山本像は、悪辣な戦争好きのペシミストという戦争犯罪者である。

第二次世界大戦中のイギリスを舞台にした映画のなかで、日本が真珠湾を攻撃したという知らせを受けて、みんな大喜びする場面がある。これによってアメリカが参戦すれば、ヨーロッパにおける戦況が好転するだろうと予想されたからである。真珠湾奇襲攻撃を立案したのはアメリカである。アメリカがスパイを送り込んで、そうさせたということではない。アメリカ国内の世論を参戦に傾かせるための契機として日本による奇襲攻撃させるべく、日本を圧迫して追い込んだということであろう。山本の真珠湾奇襲攻撃は、まさにアメリカの望んだことをしてくれたのであり、ありがたいことに、日本の外務省の不手際かどうか知らないが、結果的に宣戦布告が奇襲の後になることで、卑劣な奇襲という印象が、ますます強くアメリカ人の中に植え付けられることになった。

山本五十六アメリカのスパイとは思わないが、結果的にやっていることはスパイと同じことである。ただし、それが真相だということではなく、いま現在のお粗末な山本五十六神話では、そういうことも言えてしまうぞということである。専門家から私は神話ではなく真相を聞きたいとほんとうに願っている――その時は新しい、ひょっとしたら魅力的な山本五十六像が現れるかもしれない。

またそうでなければ、山本五十六の犯罪性をしっかりみすえるべきであろう。

*1:もちろんこれはオサマ・ビン・ラディンを悪人とした場合であって、アラブの人々がオサマ・ビン・ラディンをどう考えているか定かでないのだが、アメリカと戦った英雄として記念館をつくったらどうかと、私は本気で提言したい。アメリカの宿敵として待ち伏せ攻撃されて戦死した山本五十六は日本では偉人として記念館まで作られていることをアラブの人たちに伝えたいと思う

復讐の森

朝霞の公務員住宅の建設中止が決まった。財務省のやることだから、いろいろ裏があったり、逃げ道があったりするわけで、慎重に推移を見守るべきだろうが、現時点で、あの場所でかなりの進んだ環境破壊が止まることを喜びたい。杉並の公務員住宅予定地は、ただの空き地だが、朝霞のそれは、豊かな手つかずの自然の森だったのだから。だったというのは、かなり破壊されたからだ。取り返しのつかない破壊を悲しむ。

建設反対については、環境破壊に対する反対の声が地元に多いのに、それを報道したメディは皆無ではないが、少なかった。地元。そう、私の住んでいるところから、朝霞の森の一部が見えるのだ。自然が財務省の役人に復讐することを祈る。つぎは復讐の森だ。復讐の森が動くことを祈る。

中国の動物農場

一昨日、大学院の授業で中国人留学生から聞いた話。

ジョージ・オーウェルの『動物農場』が中国でも翻訳出版されているとのこと。

その留学生は、オーウェルの原書を、英語で読んでいて、これがオーウェルの名高い共産主義社会主義批判の寓意物語かと興味深く読んだらしい。英語で読めるくらいだから、当然、その本の歴史的意味なり思想的位置づけも予備知識として持ったうえでのことである。

ところがある日気づいてみると、オーウェルの『動物農場』が中国語に翻訳されて書店に並んでいた。共産党がまだ実権を握っている国で、共産主義批判の寓意書を出してだいじょうぶなのかと、心配にもなり、また、そもそもなぜと、不思議に思ったらしい。

ただ中国語訳『動物農場』は、子供向けの翻訳だった。子供向けの翻案ともいうべきもので、動物たちが出てきて、人間の醜い権力争いを皮肉った面白おかしい話になっているのだろう。

ここからけっこういろいろなことが言えるし考えられる。

オーウェル共産主義批判の寓意書が、社会主義の国、中国で、児童向けの寓話として翻訳・翻案されて読まれているというのは、オーウェル自身、予想もつかなかったことだろう。動物寓話という絶大な批判力を発揮するはずのジャンルが、動物物語ゆえに子供向けのものとなって無毒化されたのである。

あるいは逆に、子供向けの寓話という口実のもとに、通常のジャンルではなしえない強力な風刺を展開できるともいえる。実際、中国の『動物農場』は、子供向けの動物寓話という隠れ蓑のものとで、通常ではなしえない中国共産党への批判を展開する武器の一部かもしれないのだ。

もちろん、これ以外にも考えられることはたくさんある。

社長にセシウム牛乳をぶっかけろ

ネットでみたら明日は『復讐走査線』*1のDVD/ブルーレイの発売日だとわかったので、今年、映画館で見たときの印象を。というよりクライマックスのところで衝撃的展開があった。以下ネタバレ注意。とはいえ以下の記事がこの映画を見る楽しみのを損なうことはないと確信している。

メル・ギブソン扮するボストン市警の刑事が、黒幕の大企業の社長宅に単身乗り込む終わり近くの場面。屈強ボディー・ガードを射殺したメル・ギブソンは、いよいよ社長に迫る。彼は社長に撃たれるのだが、見ている私たちはメル・ギブソンが撃たれても衝撃を受けない。なぜなら彼は、その時点で、すでに死にかかっているので銃弾のひとつやふたつ関係がないからだ。そして、まさに余命いくばくもない状態で社長をねじ伏せたメル・ギブソンは、ポケットから牛乳瓶を取り出し、中身を社長の顔にぶちまける。一瞬画面に広がる白い液体。あ、セシウム牛乳。その時、驚きのあまり私は映画館の中で思わず声を出しそうになった。拍手しそだった私がいた。

平山秀幸監督『必死剣鳥刺し*2のなかで、斬られまくって死んだと思われた、あるいはすでに死んでいる豊川悦司が、最後の一突きで、黒幕の岸部一徳を倒す、あの、予期されていたとはいえ、それでも快哉を叫ばずにはいられなかった、あの場面を思い出した。鳥刺しならぬ、放射能汚染された牛乳をぶっかけるとは、なんとすばらしい怒りの鉄槌なのだと涙が溢れた。

おそらくこう早とちりをして映画館を去った観客もいたかもしれない。どのくらいの比率かは、わからないが。というのも、それはセシウム牛乳ではないだろうと、そのあとのシークエンスからわかるからだ。それは、ふつうの市販されている牛乳にちがいない。それをセシウム牛乳と観客は一瞬思うのだが、同じ反応を、その極悪社長も示す。というのも、もしあなたが暴漢に牛乳を浴びせかけられたら、どうするか。一瞬驚き、怖くなったり、うろたえたりするが、パニックになることはないだろう。パニックになって、すぐに抗放射能錠剤を探したりはしないだろう。セシウム牛乳と勘違いした社長は、まさにそれによって彼もまた犯罪に加担していたこと、おそらく犯罪の首謀者であることを知らせることになった。

メル・ギブソンの娘は、彼女が告発しようとした企業から、放射能汚染された牛乳を送られそれを飲んだために内部被曝を起こし、そして死ぬ直前に秘密を洩らさないよう射殺されたのだ。メル・ギブソンは社長宅に殴りこんでやみくもに殺しているわけではない。ボディーガードが、自分の娘を殺害した人間であることを、その男の声を通して確認したうえで、殺す。また社長も牛乳を放射能汚染された牛乳と勘違いしたがゆえに犯人であると確認したうえで殺す。もちろん逮捕もせず非合法的に射殺するわけだから、メル・ギブソンも映画の文法上、死ぬしかないわけだが、幸いにというのも変だが、彼もまた被曝して死の直前にあった。

社長は、ただの牛乳をセシウム牛乳と勘違いして自らの犯行を認めることになったが、観客も一瞬セシウム牛乳と思ったことで、メル・ギブソンは、私たちの復讐の代行者となった。

映画そのものは骨太の社会政治批判(原作は英国のテレビドラマ。映画では設定を英国から米国へ移した)と、娘を失った父親の悲しみ、追憶、悔悟、怒りを抒情的に描く部分とが交錯して、アクション映画ではあるが、情緒的巻き込みを図る。メル・ギブソンの最終的な死の場面は、『星守る犬*3と同じだといえば、わかっていただけるだろうか。

本来ならデタッチメントで接することのできる物語(陰謀は、日本におけるアクチュアリティはない(と思う))が、娘を殺された父親の怒りと悲しみの抒情で、私たちを情緒的共感に巻き込むことなるとき、決定的に重要な働きをするのが、セシウム牛乳だろう。放射能汚染された食品を、悪徳企業が、殺人手段として使うとき、私たちの中に怒りと復讐の感情がいやが上でも生まれるのであって、だからこそ、牛乳のエピソードに過剰な反応が生まれるのだろう。私たちは許さない。復讐をしたいのだ。原子力発電を、反対があるのにも押し切ってきた、悪魔の手先の関係者たちに。

そう映画の主人公とともに、私たちも被曝して余命いくばくもない。まあ私のような年寄にとっては、被曝で死ぬのと寿命で死ぬのと、どちらが早いかわからないので、恐怖もなく諦念しかないが、若い人たちにとっては寿命を全うする前に被曝で死ぬ確率が高いわけだから、怒りは並大抵のものではないだろう。死ぬ前に、一太刀あびせたい。ただ、それでも、非合法的な手段ではなく、合法的に復讐するしかない。復讐走査線という、不条理な映画タイトルも(そもそも復讐捜査とか、走査線、復讐捜査線、すべてよくわからない)、なにか琴線に触れるものがある。これからは街は復讐捜査線が交錯する復讐街となるだろう。

*1:復讐捜査線』(Edge of Darkness)、マーティン・キャンベル監督 主演メル・ギブソン。2010年(日本公開2011年)1985年のBBCのテレビドラマ『刑事ロニー・クレイブン(英語)』の映画版。映画館で見ただけで、DVDで確認していないので、映画の内容の誤認があっても許していただきたい。

*2:藤沢修平原作、平山秀幸監督、2010。

*3:村上たかし原作、瀧本智行監督、主演 西田敏行、2010年、DVD、現時点で未発売。