昨日、黄金町アートブックバザールで買った本。富岡多恵子『回転木馬はとまらない』(中公文庫、1978年)。カバーは夫の菅木志雄。ちょうど今日、著者の訃報があって驚いた。4月8日没。

昼前から横浜をいろいろとめぐる。



黄金町アートブックバザール。基本は古書店だけど、以前『建築と日常』を扱ってくれていた。大岡川沿い、京浜急行の高架下を利用した建築は、Y-GSA飯田善彦スタジオとSALHAUSが設計を担当(2008年竣工)。



Archiship Library&Cafe。建築家の飯田善彦氏が主宰するブックカフェ(上階が建築設計事務所Archiship Studio)。壁一面の建築・アート系の蔵書が、ワンドリンク500円(学生300円)で自由に閲覧できる(→蔵書一覧


 
横浜シネマリンで、オタール・イオセリアーニ『月の寵児たち』(1984)。今日ちょうど別の映画の舞台挨拶だったらしく、映画館を出るところで、いまおかしんじ監督とすれ違った。



横浜市民ギャラリーで、高野ユリカ個展「REGARDING THE ECHO OF OTHERS」(〜4/16)。ひさしぶりにご本人にもお目にかかる。神奈川近代文学館の「生誕120年 没後60年 小津安二郎展」(〜5/28)は次回に持ち越し。



先日(3月30日)、丸善丸の内本店で購入した3冊のうち、伊藤亜紗『感性でよむ西洋美術』(NHK出版、2023年)を読了。各時代において抽象化された時代性(同時代の作品に通底する性質)を措定し、それを線的に連続させて(微妙に進歩史観的に)西洋美術史2500年を縦断するさまには、どちらかというと感性よりも知性の働きが強い印象を受ける。ところどころで観念の先行が見られる。たとえば「ジョットがルネサンスの先駆けになったとお話ししました。では、本格的なルネサンスになると、どのような作品が出てくるのでしょうか。」(p.34)と語られるとき、実際にまず「本格的なルネサンス」があり、その後に作品が出てくるのか、それともある作品群の出現・評価をもって「本格的なルネサンス」が成立するのか。下のような記述にもつい引っかかってしまう。

 私たちは、装飾を削いだ建築やiPhoneなど、シンプルでモダンなデザインと言えばアメリカ特有のものだと思いがちです。しかし、その美意識はバウハウスに由来していて、そのルーツにあるのは抽象画でした。抽象画は、現在の私たちの生活とも実は密接につながっているのです。(p.107)

はたして現実の世界はそれほどきれいに線が引けるものだろうか(たとえば建築におけるモダニズムのシンプルさのルーツは必ずしも抽象画に特定できるものではなく、むしろ西洋建築史の新古典主義からの流れや産業革命以降の技術的・経済的変革の影響のほうをより重要視すべきだと思う)。隣接する時代の作品同士の具体的・微視的な比較は、たしかに初学者に美術の視点や認識の枠組みを与えて意義がある。僕も読んでいてなるほどなと思う。ただ通史として、それらを観念的にひと繋がりにして歴史を描くのはどうだろう。
「バウハウスでは、家具、テキスタイル、生活用品などさまざまなものが生み出されました。これはモンドリアンの絵画をモチーフにした椅子です」(p.105)、そう記され、リートフェルトのレッド&ブルーチェアの写真が大きく掲げられている。この事実誤認は本書における線的な歴史観の脆弱さを示しているように思う。話のピースが一つ欠けると、ストーリー全体が瓦解してしまいかねない。

中村正義の美術館で「中村正義 顔・百点」展を観た(〜5/7)。著名な建築家による住宅をリノベーションした美術館。なにがあったのか詳しくは知らないけど、いつからか「建築関係の学生さん及び建築関係者の方の建物の見学はお断りしています。」とされてしまっている。画家の遺族が住まいを転用して運営する個人美術館で、本来の展示作品をないがしろにして建物ばかりに注目されればそれは辛いだろう(僕も建築関係者の一人として、その状況は嫌でも目に浮かぶ)。「住宅は芸術である」という言葉のひとつの側面を象徴したことかもしれない。以下、道中に撮影した写真。

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「吉田鉄郎 海外の旅」(1932年、サイレント、51分)という記録動画が「フィルムは記録する ―国立映画アーカイブ歴史映像ポータル―」で公開されている。

逓信省営繕課の技師として逓信建築の設計に従事するとともに、その他の公共建築、住宅、記念碑などの設計にも尽力した吉田鉄郎が、後の国際交流のきっかけとなった欧米への1年間の視察旅行を記録した紀行映像。

不明な場所も多かったけど、欧州各都市、単に歴史的な資料映像ではなく、吉田鐵郎の旅を追体験するようで見応えがあった。現代建築はストックホルム市庁舎やデッサウのバウハウス校舎なども。『建築資料 吉田鉄郎・海外の旅』(向井覚編、通信建築研究所、1980年)と照らし合わせて観るとよいかもしれない。

写真家の今井智己さん。ありがとうございます。


解体作業が進む東京海上日動ビル(東京海上ビルディング、設計=前川國男、1974年竣工)。下のは2年前の写真だけど、同じくお堀端、東京海上ビルが中央奥で、右端で見切れているのは谷口吉郎が設計した帝国劇場(1966年竣工)。帝国劇場も2025年をめどに閉館し、建て替えの予定だという。

前川國男と谷口吉郎は東京帝国大学の同級生。下の文の堀口捨己はその10年くらい先輩。

東京のうちで一番きれいな所はどこだろうか[…]。都市計画的にみても、建築という例からみても、あるいは庭園という側からみましても、どこであろうか。この質問に対して、私はもうまっ先に、江戸城の跡である今の宮城の、お堀の辺。あの辺の松の木や、池や、石垣のあいだ。あの辺の所が非常にいいと思うんですね。あそこでこそ、日本らしいということもできますし、優れたものと思うのであります。

  • 堀口捨己「庭園序説」1968年明治大学講義(『堀口捨己建築論集』岩波文庫、2023年)

確かにお堀端はいま訪れても魅力がある。しかしこの堀口の言葉は、現在まさに取り壊されようとしている東京海上ビルディングが建つ前、帝国劇場ができた頃のものだった。いまでこそ東京海上ビルの取り壊しに際して「古い建物を守れ」というようなことが言われるけど、当時お堀端に建設されるこれらの新しい建物について、堀口あるいは堀口ら年長世代の人たちはどう見ていただろう。

『キッチン革命』第2夜(テレビ朝日、92分)を観た。浜口ミホ+日本住宅公団をモデルに、1950年代のダイニングキッチンの開発を描いたテレビドラマ。当時の史実を詳しく知っているわけではないけど、フィクション化の度合いがかなり強い印象。そのためか主人公の名前も「浜崎マホ」にされている。

三軒茶屋駅徒歩5分の書店twililightを初訪問。以前から別冊『窓の観察』の取り扱いはあったのだけど、こんど『精選建築文集1 谷口吉郎・清家清・篠原一男』も置いてもらえることになった。
その後、池尻まで歩き、新しくできたOFS GALLERYで「服部一成展」を観た(〜4/23)。新作を中心としたポスターの展示で、写真(色が濁ってしまった)は今回の新作のうちの一組。

よく見ると左右で単純な色違いでなく、線の量も違っている。ふと描かれているのが金魚だと意識すると、色の組み合わせもマティス的に見えてくる。深読みかもしれないけど、平面上で要素同士の関係性を探りながら全体をある状態に構成しようとするプロセス自体にマティスとの連続性が感じられる。リンゴのほうは図像性や図と地の関係性などにおいて、マグリットの問題と繋がってくる(イスはなんだろう)。グラフィックによる絵画の思考の展開。
ギャラリーと隣り合うショップで、服部一成『Paper Cats』(BON BOOK、2021年、サイン付き)を購入。ペーパークラフト+写真の表現で(平面→立体→平面)、こちらもメディアを横断する開放性を含んだ作品。



六本木のSCAI PIRAMIDEで、赤瀬川原平写真展「日常に散らばった芸術の微粒子」を観た(〜3/25)。現代美術のアーティスト6名が、故人の未発表写真4万点から各々の視点で約20点ずつ選出するという企画。アマチュア写真家としての赤瀬川さんの作家性や、写真という媒体の性質も浮かび上がらせる良い企画だった。路上観察系の写真で一つの意味(タイトル)に回収されるもの、一義的には捉えがたい不思議さを持ったもの、特に不思議ではないけれども目を惹かれるもの、「芸術の微粒子」と括れるもの、括れないもの…。芸術家としての赤瀬川さんにとって作為/自然という観点は重要だったと思うけど、アマチュア×写真×未発表×複数選者という企画の枠組みが、その意識のありようを浮かび上がらせている気がした。
上の2点は赤瀬川邸《ニラハウス》(設計=藤森照信+大嶋信道、1997年竣工)のテラスと、それ以前に住んでいた建売住宅での写真。どちらも選=中村裕太。

『ケイコ 目を澄ませて』(2022年12月31日)、『どついたるねん』(2023年2月4日)、『ミリオンダラー・ベイビー』(2023年2月24日)からの流れで、ジョン・G・アヴィルドセン『ロッキー』(1976)をプライムビデオで観た。その流れと別に、ハワード・ホークス『赤ちゃん教育』(1938)、『モンキー・ビジネス』(1952)も観た。
どういうわけかサブスクだと、ホークスやルビッチやロッセリーニらの観ればそれなりに印象深いだろう映画よりも、映画館やレンタルでは決して身銭を切って観ることはないような映画をつい選んでしまう。

芝山努『ドラえもん のび太の魔界大冒険』(1984)をプライムビデオで観た。脚本が藤子・F・不二雄。幼稚園児だった頃、友達の家で観た映画版「ドラえもん」のビデオのなかで最もよかったという記憶がある作品。作り手の教養が感じられて、やはりよくできていると思う。いくつかのシーンはうっすらと覚えていた。石像が空から落ちてくるところ、庭の彫刻が動いて矢を放つところ、空飛ぶ絨毯に内部空間があるところ…。今の目から見れば(決して過激ではない)なんてことのないシーンだけど、それぞれのシーンが子供の心に残るようなものであることはなんとなく察せられる。明確な構造的アイデアを軸にしつつも、ストーリーやキャラクターを図式的にわかりやすく強調していくのではなく、観る人に様々に響いてくるような豊かな細部を積み重ねていく作り方。これは以前(2021年4月24日)このブログで触れたアニメ版『キテレツ大百科』にも通じる。

ジム・ジャームッシュ『デッド・ドント・ダイ』(2019)をプライムビデオで観た。『パターソン』(2020年1月5日)がよかったので劇場公開時に観に行こうかと思ってもいたのだけど、これは行かずによかった。本当はより高級なセンスを持っている人が、ジャンルへのオマージュなしに作ったB級ホラーのパロディという感じ。古谷さんの見方はなるほどなと思うけど()、古谷さんも書かれているように、仮にそういう寓意がこの作品に込められていたとしても、そのことによって映画を面白く観られるわけではない。監督はこの映画を本当に作りたかったのだろうか。