『 生涯脱皮宣言 』

rider-mtv2015-08-15

数ヶ月に一度、前触れもなく、身体にだるさがでて、関節痛に変わり、気付いたときには発熱というサイクルがある。前回は5月、今週、それが再来。


全活動のスピードが半減するイメージ。たとえば、今さっき使ったコップや皿を洗うことさえ、翌朝にしてしまいたい気持ちが起きる。海外、独り身、若くない。自己管理/自己完結が大前提なので、体調不良のたび、己の未熟さが不甲斐なかった。


幸運にも、体調悪化の翌日がタイ王妃の誕生日(休日)で、久しぶりに12時間も眠った。長くベッドにいると、いろんなことを考える。いろんな気づきがあった。もし仮に体調に問題なければ、外で過ごす活動を優先して、振り返る時間は得られなかったのかもしれない。


ふと、これは神様か誰かがくれた、ありがたいプレゼントだと思えた。頭ではかからなかったブレーキを、身体がかけてくれたおかげで、誰もが経験する老いの疑似体験もさせてもらった。わずか1日ほど、いつもよりゆっくり過ごす中で、素晴らしい出会いと気づきがあった。同世代で輝いている人物の存在を知り、人生の一端に触れた。翻って、知らぬ間に大人の垢が積もってる自分を恥じた。


理屈(すじ)が通らないと批判的な考えや見方を持ってしまうことがある。けれど、それはそもそも一面的で独善的な見方かもしれない。そして、そうやって評論家的に外側に向けるエネルギーや時間があったら、コミットすることで、もっと確実に変えられる己の進化に集中したほうがいい、とあらためて感じた。その進化とは、昨日の自分から、絶え間なく脱皮を続けること。


具体的には、たとえば、


・昨日できなかったことや目標でも、諦めず今日も取り組むこと。
・昨日知らなかったことを今日知ることに喜び、今後の姿勢や行動につなげること。
・昨日時点の「仮の結論」(自分の考え)に、今日新たな視点/異なる意見(他者の考え)が融合する奇跡を興奮とともに歓迎し、それを広く他者と分かち合う姿勢と努力を継続すること。


物事の後先を考えることはもちろん大事。けれど、頭ばかり使っていると、素直なこころが消えてしまいがち。子供のこころのように、あるがままを、あるがままに。夢と希望、笑顔と愛情、信頼と感動を胸に、これからも「脱皮ロード」を歩むことを私はここに誓います。

第47回 衆議院議員総選挙 前夜に思う

rider-mtv2014-12-13

サラリーマンという組織に属する一員として、15年が経った。その過程で、生きる技術としては、政治についてむやみに発言しない方が良いことは理解している。それでもやはり、意見を述べたい。


今回の衆議院総選挙の争点は「アベノミクスの是非を問う」とされる。その経済政策の有効性については、専門家でも見解が分かれている。


一例を挙げれば、今週の日経で3日に渡り掲載された経済教室(12/9-11)は、賛否両方の視点から論じている。以下、見出しのみご紹介したい。


■12/09 ”「デフレ」の診断・処方箋誤る”

■12/10 ”緩和、名目GDP押上げ”

■12/11 ”円安、需要不足解消に必要” 


以上から、アベノミクス政策評価は、視点によって功罪両側面があり、成功とも失敗とも言い難く、よって有権者の判断は容易でないと思う。


不謹慎ながら、アベノミクスを宝くじに例えたら「当たる確率も外れる確率も現時点でほぼ同じ。だけど、買わなければ当たらないよ」という宣伝文句が妥当だろうか。


1点、重要なポイントは「当たった」時は、日本で暮らす多くの人が恩恵を受けるが、「当たらなかった」時は、全員で痛み分け、とならない点だ。はっきり言えば、ハズれた時は将来世代に負担(ツケ)が残る。景気を上向かせるため、人々の「期待」に働きかけるお金の源は、将来からの前借り(借金)に他ならない。


国債・財政が話題になると、必ず『日本国債は、ほとんどが日本の銀行(34%)や保険・年金・金融機関(47%)の保有で、海外の保有率は10%未満なので、ギリシアアイスランドとは異なる』という話が出る。


信用不安は起きない、という安心材料としてしばしば引用されるが、本質において、日本という国がローンで莫大な買い物をして、後で支払う構造に変わりはない。しかも、日本国債の信認が低下して(最近、下がったばかり)金利上昇に伴う追加負担が現実味を帯びても、年金問題で愛想を尽かせた若年層の怒りを刺激せぬよう「寝た子を起こすな」とばかりにメディアは積極的に報じない。


ただ、財政赤字の問題も、単なる世代間格差(損得勘定)や不公平感の側面からのみ捉えるべきではない。現在の日本では、負の遺産のみ強調される傾向だが、人類は常に先代が積み上げた無形の(プラス)遺産の上に暮らしており、例えば戦後日本の場合、高度経済成長を支えた世代の勤労の上に今日の繁栄があることは、誰の目にも明らかだ。よって、財政のマイナス面だけを取り分け強調し、世代間格差を声高に論じるのもバランス感覚に欠けると言えよう。


「結局お前は、財政出動に問題ありと言いたいのか、問題なしと言いたいのか?」と問われれば、身近な自分の家計に置き換えれば、全くの楽観論では済まないだろう、との結論になる。だから、無関心・無知ではいられない。同時に、日本はもう終わりだ!と極端な悲観論に走らぬよう、現実を適切に把握しておく必要がある。そして、これは自分の家計より広く大きな話だから、他の人とも意見を交わし、共有する必要もあると感じる。


何事も初めてやることにはリスクが付きものだし、やってみなければ得られないことも多い。チャレンジこそが歴史を作ってきた。アベノミクスもしかりだろう。


ただし、その提案の是非を求めるならば、きちんと想定メリットとデメリットを整理・説明すべきだと思う。これを別の例を挙げ説明したい。


例えば、インフォームドコンセントという言葉と概念が定着して久しいが、病院で手術を受ける時「上手くいけば治ります」という言葉だけで納得し、担当医・病院側に全てゆだねる患者は、今どきどれだけいるだろうか。


また別の事例として、ビジネスの世界で「起死回生の売り上げ倍増プロジェクト(但し、年商の数年分に相当する大型投資)」に対して、社長や役員らがバラ色の成功のみを信じて疑わず、事業リスクを検討しない会社などあるだろうか。成功シナリオとあわせて失敗シナリオ(リスク)を分析し、総合判断するのが通常ではないかと思う。


このように、世の中における決定プロセスとは、実際には目に見えないものを、できる限り見える化し、関係者が共有した上で、最終判断している。今回の「アベノミクスの是非を問う」は、いかがだろうか。


「リーダーの役割の1つは、人々に希望を与えることだ」という点に異論はない。人々が明るい気持ちになれるよう、景気回復に心を砕き、希望と可能性をたいまつの火で照らすという姿勢は、安倍首相をはじめ、持ち続けていただきたい。


一方、流通する情報を戦略的に選択して、有権者があたかも自らの意思で選んだかのように仕向けるやり方は、小泉政権でも見られた手法だが、一般世界ではこれを「詐欺」と呼ぶこともある。日本国のリーダーたる総理大臣(と関係者)において、その点は十分に理解されたい。


今回の選挙で、自民党が掲げる「この道しかない」という言葉には、独特の響きがある。党内で議論したのか、広告代理店のアイディアなのか、定かではないけど、あたかも「あなたが生き残るためは、もうこの方法しかないよ。さあ、どうする?(覚悟を決めろ)」と相手を追い込む、あるいは脅迫に似ている、と感じる人もいるかもしれない。


選挙のキャッチフレーズだから、力強さと躍動感は宿命だろう。けれど、そのロジックには「いつか来た道」が二重写しとなる。

かつて小泉首相(元)が残してくれた”財産”の1つに「これ(郵政民営化)が達成できなければ、その先も全てダメ、上手くいかない。全てゼロ、終わりだ」という単純な世界観が、素直な有権者を一種のパニックに導く(二者択一の単純思考)魔力を持つことを教えてくれた。


そして今は、アベノミクス。「この道しかない」と確信できるだろうか。リスクもあるが、それ以外の解決策はないと言えるだろうか。自分の胸に手をあて、自問してみる。


新聞報道では、明日は自民党が圧勝する見通しだ。個人的には、自民圧勝より、バランスが望ましいと思うが、何よりも有権者がきちんと意思表示すること(投票率)がポイントだと思う。


もし仮に、数十年後に不満が生じても、「自分たちで決めたこと」と納得すれば良い。


知らないうちに膨らんだ借金でも、笑顔で返済するような成熟したオトナになればよい。


最大限尽力した甲斐もなく、返済できなければ、更に次の世代へとツケを垂れ流しにする図太さを身につければよい。


その結果、次の世代から白い目で見られ、後ろ指を指されても「わたしらは精一杯やった。もう年老いて身体の自由も利かない。あとは頼む」と演じきればよい。


そう割り切るならば、日本は大きな問題を抱えてはいない。

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かつて明治初期に、福沢諭吉は『学問のすゝめ』で右の有名な言葉を残した。


『一身独立して、一国独立す』


それからおよそ140年。苦難の歴史で勝ち取ったはずの選挙権は、誰もありがたがらず、投票を面倒くさいと考える人もいるようだ。


だが、本当に面倒なことなのだろうか。


自分が人生の主人公として生きることは、同時に、その時代をより望ましいものへと変化させる努力も含むと思う。


例えば、家の前の落ち葉を、隣の家の前に掃き出すことで、本人の問題は解決しても、真の全体の解決(掃除)とは言えない。だから、自らの意思と行動によって、隣人とはいがみ合いでなく、知恵を交わすことで、より望ましい環境を共に創ろうとする姿勢こそが王道となる。


選挙における投票とは、この合意形成に似ている。果たして面倒くさい行為だろうか。あるいは、未来のデザインに携われる楽しい行為だろうか。視点、捉え方次第のように思われる。


経験則から言えば、人間が行動を起こすスイッチとは、その人の外側にはついていないようだ。その人本人が、内側から押すことでしか作動しない。スイッチを自ら入れるか、否か。


明日の投票率は、日本人の心の在り方を、偽りなく映し出すだろう。


未来をともに創ろう。

未来をともに生きよう。

日本における中国/韓国報道に感じるバイアス

少し前になりますが、韓国の客船沈没事故、そして、中国の天安門事件('89年)から25年、をはじめ、日本は隣国の出来事も、連日に渡って熱心に報道することがあります。


多くの大衆が求めるのは、日常でなく、非日常と事件性なので、その原則へ素直に追従しているのかもしれません。けれど、個人を幸せに、心豊かにする魅力はあまり感じられません。


他の家庭のいざこざや対応のまずさを、いかに雄弁に説明できたとしても、自分の家庭の問題が解決したり、前進する訳でもないのと同じこと(日本国内の事件も同じですが)。


「日本は民主主義国家で、他国と違って、表現と報道の自由が保証されている」などと過信せずに、報道する側にも市場原理と権力の力学が作用している点を念頭に、人から聞いた話よりも自分の耳目と頭、生活者としての実感を大切にしたいと感じます。


天安門事件では、ずっと気になっていたことが1つ。有名な装甲車をとめた男性の映像。高い建物から抜群の角度で、鮮明に、一体誰が撮影したのか。どういうルートで映像が世に出たのか(検閲を免れたのか)。


事件の背後に外国による工作活動の可能性も疑いましたが、意外にも、中国で放送された映像のようです。


とあるサイトにてオリジナルと思われる映像を見つけましたが、男性が走路に立ちはだかり立ち往生する装甲車を映しながら、中国語で「人民解放軍(装甲車)が、生命に対する最大限の敬意を払い、抑制を行った証」という趣旨のコメント付きで報じられたようです。体制を擁護する立場から、中国国営テレビ局「中国中央电视台(CCTV)」と推測されます。


これは、結果的に逆効果につながる単なる初歩的なミスだったのか、それとも、確信犯的な人物が、体制を擁護するメッセージに見せかけながら、実際には、映像を合法的に流す目的を達成したのか。


もし仮に後者の場合、その人物は、処罰(最悪処刑)を受けたことが容易に想像されます。その己の運命を知りながら、あえて実行した人物がかつて中国に存在したとすれば、その戦略的な知性と、恐怖に屈しない真の勇気に、心の底から最大限の敬意を払いたいと思います。


現在の日本にも、覚悟と実行力をもった報道関係者がいることを切に願いながら。

ささやかな自慢

ちっさい人間なので、酔った勢いで、少し自慢話させて下さい。


今日、自分の職場(現場)の打ち上げがありました。


残業で、予定より2時間遅れての参加でしたが、到着するなり、すでに出来上がった男ばかりの6名に、抱擁と握手で迎えられました。みんなどちらかというと、不器用で口数は少なく、こだわりが時に頑固ととられることもある、職人気質の愛すべき男達です。


2年、タイで仕事をして来て、片言でもタイ語をしゃべれるのは、彼らの存在があったから。中国トレーニーの時に経験した、たどたどしくても、幼稚であっても、自分の持ってるボキャブラリーで考えを直接伝えること。それをタイでも実践してきました。


日本の現場のおじさま達と同じように、彼らも決して、英語が得意な訳ではない。けれど、最年長のリーダーから「I love you」「I love my job」「I work for you」と言われた瞬間、ぐっとこみ上げるものがありました。今さらながら、年齢を聞かれ、もう2年も一緒に仕事しているのに「友だちでいいか?」と聞いてくる(笑)。


またもう1人のリーダーからは「very good」と言われた。実は、半年ほど前に、1つのエピソードがありました。


ある会議で、不具合事象が議論されました。数量不足が発生し、ある方(マネジメント)から、部品を払い出した私の部門が疑われました。タイ人スタッフはおとなしく聞いていたので、会議では我々のミスとの結論に傾きました。


僕は疑われた側のマネージャーですが、それ以上に、製造業に携わる1人として、納得できませんでした。
理由は簡単で、その部品は左右同数づつ、お茶碗のように重ねるので、手作業カウントに加えて、積み重ねた高さでも左右同数を目視確認できる(変な例だけど、回転寿しの空いた皿を積み上げれば、たった1皿でも、差が分かるのと同じ原理)。


また、形状の違いから、L側の上にR側は積み重ねできず、その逆もしかり。物理的に同じ部品しか積み重ねできないから、L・Rの混在はない。だから、片側だけ数量不足という状況は考えづらい。別の要因ではないか、というのが僕の主張でした。


この発言後、議論の流れは変わり、最終的に原因は他部門だと分かりました。皮肉なことに、冒頭で疑いをもたれたマネジメントの方の部門でした。この会議での濡れ衣が彼の中では悔しかったのでしょう。僕の方は、もう忘れてましたが(笑)。


彼がこのエピソードにこだわるのは、裏返せば、自分の仕事に誇りとプライドを持っている、ということだと思う。


僕は、やるべき仕事を済ませた上で空き時間があれば、モラルの範囲でサボっても(=無理に仕事のフリをしなくても)良いと思う。そのかわり、自分が決めた仕事の基準に妥協し、甘えて、手を抜くことは許されないと思う。人間は時にミスをする。それは仕方ない。でも、手抜きが原因のミスは許されない。


職場のスタッフたちは、己の決めた仕事の基準に対して、手を抜く人間ではないと思う。サボる(ゲームや昼寝をするという意味ではない)ことはあっても、手抜きはしないと思う。これは僕の直感。万が一、彼らが失敗した場合、深く頭を下げる(これが仮に僕の溺愛で、失敗では済まない重大事象が起きた場合、僕はマネージャー失格で、不適格な人物には帰任が筋だろう)。


さて、もう1人のリーダーは、打ち上げに来ていない女性メンバーについて話し始めた。彼女は明日から有休を2日取る。事前に有休カードが出てるし、サインもして会社的な手続きは完了している。リーダーの話では、彼女は(胸部にメスが入る)手術を受けるらしい。


彼の提案を受けて、女性メンバーと5分ほど電話で話した。彼女にとって、内心すごく不安な夜だろうと思う。互いにこの話題に触れないまま来週を迎えることもできたのだろうけど、やはり電話をして良かったと思う。リーダーの判断力と心遣いには、他人の痛みを慮れる大人の優しさを感じた。


他に2人の若手はとても愛嬌があって職場のムードメーカー的存在。リーダー格にもツッコミをしたり、風変わりなリアクションをして、メンバー一同、つい笑ってしまう。珍しくジャケットを着ていったら、ファッションショーよろしく、みんなが次々にそれを羽織っていく。堅苦しいのでYシャツも脱ぐと、それも羽織っていく。最後には、腕時計もそういう運命に。


なんだか、非常に愉快な気分だった。というのも、職場ではこちらが上司で年上ということもあり、いつも丁寧で、真面目で、一定の距離を置いたようなところがあるものの、今晩の彼らは、まるで子供のように天真爛漫で、欲しいものには素直に反応する無邪気さを感じたから。


もう1名、別の職場から、うちのメンバーとよくつるんでいる顔見知りの男が来ていた。話してみると、やっぱり「類は友を呼ぶ」というか、律儀で、情熱があり、チームワークを重んじる人物だった。そして彼は、仕事での僕の考え方や行動も理解してくれている様子だった。


グラスのビールが少しでも減ると、すかさず注いでくれるので「自分でやるから大丈夫」と言っても聞かない。このため、到着後、ビールを延々と飲み続けていた(笑)。身体はいい気分で酔いが回るのを感じつつ、律儀な彼への感謝、メンバーとのアツい話で、頭の中は興奮して酔っ払わない2時間半となりました。


結局、日付が変わる頃に帰宅してそのままソファーで寝てしまい、朝目覚めてこれを書いてます。まだ、酔いが残ってます(かなり)。


仕事や、仕事の人間関係について書くのは極力控えてきました。スタッフの成長に触れて嬉しかった時も、我慢して書かずに来ました。でも、今回、本当に嬉しい。なぜならば、僕自身、理想としていた姿に近づいてる気がしたからです。


高校時代から、僕の理想像は、こんな感じでした。


『己を高め、可能性を広げ、自分も周囲も笑顔にできる人物になりたい。』


『目の前の現実を、少しずつ、でも、確実に変えられる人物になりたい。』


そして『辛い状況でも逃げずに、男から惚れられるような男になりたい。』


まだまだ未熟で、自惚れるには百年早いと思いますが、どうぞ大目に見て下さい(笑)。

丹羽 宇一郎(前駐中国大使)さんへのリスペクト

学生時代、JASC(47/48/49)で継続的にご支援(寄付)いただく中に丹羽さん(先輩)のお名前を拝見しました。以来、心にずっと刻まれていたお名前でした。


自分も社会人となり、丹羽さんが著された数々の著作を拝見し、ビジネスにおける分析力・実行力、ご実績は世に広く知られるところでありますが、同時に、人類の歴史、隣国であり日本が範とした中国に対する深い造詣に尊敬の念を抱くようになりました。


丹羽さんのおっしゃるように、我々には半分、動物の血が流れており、残念ながら、その生存本能(自己都合)が優先されてるように感じる事例を目にする機会も少なくありません。一方で、ノブレス・オブリージュ(仏:noblesse oblige 高貴なる者が、自らに課し果たす役割(徳)、とでも言うのでしょうか)を静かに実践されている方も存在し、丹羽さんは世界に誇れる日本の大先輩と確信しています。


かつて企業派遣のトレーニーとして中国で2年を過ごし、現在は東南アジアで仕事をする者として、外から日本を見てみると、いびつなコンプレックスをむき出しにしているように感じます。


自らの拳を、自らの頬に向ければ、手加減をしても、その生身の痛みを、身体は知ることになります。この痛みは、相手が受けた場合も、決して小さくなるものではありません。痛みを受けた多くの相手が、次にとる行動は、大抵、予想がつくのではないでしょうか。


決して、理想論だけを述べるつもりはありませんが、拳をかざせば、拳をおさめることがますます難しくなり、拳は結局、何も解決することはない、と断言できます。


今、日本がとるべき道は、国際社会の当事者である自覚と緊張感を回復させつつ、隣国と拳(武力)による無意味な争いを起こさないことだと思います。


日本における自信の無さが、ヒステリックに近い過剰な反応をもたらしているように感じます。国という枠を超えて、人類が流して来た多くの血と汗と涙の歴史を決して無駄にしないよう、各領域のリーダーも、構成メンバーも、現実の中で考え、かつ、理想を失わない姿勢が求められていると思います。


私は、清廉潔白な丹羽さんを、これからも応援させていただきます。

さだまさし氏の言葉

昨晩たまたま、さだまさし氏のトーク番組(今夜も生でさだまさしNHK)を見た。発する言葉が、聞く人の魂を救う瞬間だったかもしれない。


ある女性視聴者からのはがき。

『夫が余命3ヶ月と宣告され、身内でも相談の結果、本人に告知しないまま夫は他界した。もし本人が余命3ヶ月と知っていれば、残された時間を違う形で過ごせたのではないか。告知しなくて本当に良かったのか自責の念にかられる。また、自分の場合には告知して欲しいと思うが矛盾だろうか。』という内容だった。


さだ氏は、概ね以下のようなことを話した。
『(奥さんが)感じられたようにされて良かったのだろうと思います。世の中には様々なタイプの人がいる。一見強そうに見えるが告知されて動揺する人、見かけとは逆に、芯の強い人もいる。告知するか否か、どちらが良いか分からないのだから、誰よりも一番身近で見ている人の感じたままで良かったのではないでしょうか。』


はがきを投稿された女性の心に、この言葉はどのように届いたのだろうか。


あとで編集(訂正)できない生放送で、時間制限などを理由にはがきを紹介しない選択もできたかもしれない。さだ氏は、自らの言葉を語った。


三者の立場から放送をみた者としては、軽妙なトークを交え、他人が抱える痛みに目を背けず一歩前に出た同氏の姿勢に、大人が示す勇気と優しさを感じた。薬や手術は、尊い命を救うことができる。覚悟から発する言葉は、迷いの中にある魂を救うことができる、と信じたい。

辞職する仲間を見送る気持ち。

今週は、内容盛りだくさんの一週間でした。


約半年前に新しい購買チームができ、その頃から「将来は家業を継ぐので帰郷します」と素直に話してくるメンバーがいた。それは仕事の上司部下の関係というより、弟と同い年で、モータースポーツなど趣味でも嗜好の近い、友達感覚から来ていたかもしれない。


当初はあと二年ほど働く計画が、今週月曜に、辞職の相談を受けた。引き止めはしなかった。もったいない、とか、一生懸命育てたのに、という気持ちはなかった。それはこの5,6年で自分が変わった部分。


人生はきっとみんなそれぞれのストーリーと役割を背負った主人公で、1つの枠組みで縛れる存在じゃない。彼も親族の期待と責任を背負っているはず。


仏教にも通じると思うけれど、今、カタチあるものは未来も同じとは限らない。だから、兄弟のように大事にするけど、離れることを必要以上に悲しんだり、恨んだりしない。それも1つの大きな流れとい
うこと。


僕は他にも、仕事で繋がりのある複数名から、数ヶ月以内の辞職・転職を聞いている。人間は、身近な誰かに話すことで、自分の意志を固めるのかもしれない。


自分はこの地で、複数の部門・領域マネージャーを兼務しながら、結果責任を負っている。スポーツに例えると、プレーヤーでなく、監督・コーチの立場に近い。その僕が意識すること。スタープレーヤーに頼ったり、その獲得を目指すチームではなく、基礎をもった普通のプレーヤーをきちんと育成できる中堅チームでありたい。良い(と言われる)選手を外から連れてくるのでなく、大切なことを理解させて、育てる。学校教育で言えば、飲み込みの早い優等生にあわせるのでなく、必ずしも飲み込みが早くない生徒を基準におきたい。


世界と歴史は、圧倒的多数の普通の人々が支えて来た。自分が生きている間、仕事を通じて、人を育てる働きができたら、それは最終的には、世界の幸福や平和に寄与できる天職だと思う。