ナイアガラの滝

ホモソーシャル〉に取り囲まれた水野レイさんは、身奇麗に装っていたことも含めて、よく努力していたように思う。その努力の姿は、私の目にはただひたすら痛ましかった。イベントが終了したあと、私はレイさんの友人であり、壇上にも上ったid:natsu-k夏一葉さんに頼んでレイさんを紹介してもらい、彼女に挨拶をした。彼女は「緊張して言葉がうまく出なかった」と言っていた。私はその場では「そんなことはない。なかなかうまく切り返しておいででしたよ」といったけれど、彼女の緊張は、私の考えるところではむしろ当然のことに過ぎない。彼女は数時間にわたって、あらゆる意味で周囲から食い物にされていたからである(ちなみにイベント中には彼女がすでに直接の題材・キャラとして登場するマンガが、公刊中である事実が紹介されていた)。
レイさんはイベント前からすでにその「緊張」について語っていた。http://d.hatena.ne.jp/Ray-Ray/20050512 夏一葉さんはそれについて、「あなたはあなたのままで「わたしのままってなんだろう」とか悩んでるところが他人から見て萌えなので、グチャグチャ言ってるのがちょうどいいんじゃないかしら」とコメントをつけている。あえて遠慮なく言えば、この一見するところ勇気付けの言葉は、裏返せば夏さんの苛立ちの表明でもある。自ら望んで〈人造メガネっ娘図書委員長〉として立っている以上、そのことに徹せよ。〈芸人〉として振舞う仕方を身につけろ。一方的に食い物にされるな。そのような叱咤と苛立ちを「グチャグチャ言ってるのがちょうどいいんじゃないかしら」というイロニカルな物言いから読み取ることは容易であろう。
一時は壇上の人となりつつ、大体のところでは観客席からレイさんの様子を観察していたはずの夏さんが、最終的にどのような感想を持ったかを私は知らない。ともあれ私にとってはレイさんの姿はただ痛ましかった。夏さんはオタク業界にかかわりを持って生きている人であり、おそらく今後もそのようにして生きていくだろう。したがって彼女の行動は、ただ欲するがままに行えばよいというものではありえない。そこには当然商業的な戦略が入り込むだろう。その逞しさは、生き抜いていく上で当然の要請だ。
そのような逞しさからすれば、レイさんの態度はただの甘えにしか見えないかもしれない。その正しさを私は認めないわけではない。だがレイさんは夏さんと違って、この業界において利益を得ている人ではない。私の聞き知る限り、彼女の生計と普段の生活は、まったく関係ないところで営まれている。そういう人が、己からして求めたことであるとはいえ、壇上に祭り上げられ、多分に自覚のないまま、業界人たちの食い物にされている光景は、私にはとても痛ましく、悲しかった。
このイベントが、本当の意味で〈メガネを愛するものの集い〉であったならば、私はそんなことは感じなかったろうし、そもそも不愉快になどならなかっただろう。だが現実にはこのイベントは、同床異夢の男性オタクと女性オタクとが、商業的戦略のもとに一箇所に集められていただけの集いに過ぎない。その商業的戦略に、私は何かしら〈正しいもの〉の、せめて欠片なりともと捜し求めたけれども、なにひとつ見出すことはできなかった。
壇上、壇下を含めて、このホモソーシャルな空間に集ってきた、まことに奇特な女性たちが、何を考えていたのかを私は知らない。彼女たちが被害者であったのか、それともむしろホモたちの共犯者であったのかを、私は分別することはできなかった。そもそもそんな分別は不可能なのかもしれない。いずれにせよ、私は〈陵辱される〉という言葉がどういう状態のことを指すのかを、このイベントによって、この身をもって思い知らされたのだった。

ロフトプラスワンのイベントは、イベント中に飲食をさせ、終了時に出口でその会計を行う仕組みになっている。人数が多ければ多いほど、会計の行列は長くなり、時間がかかる。打ち上げへの参加の勧めを辞退した私は、細野さんとレイさん、夏さんに挨拶をするためもあって、出口近くのスペースの暗がりに立ち、行列が短くなるのを待っていた。先に会計を済ませてもよかったし、終電の時間は迫っていたが、レイさんと夏さんが衣装を着替えている最中なので、どちらにせよ待っているしかなかったのだ。
立ち待ちしている私の耳に、客の一人が主催者へ話しかける声が聞こえてきた。「いやあ、これ面白いよ。ぜひ本にしない? 企画持ち込もうよ」――どうやら業界人の一人らしかった。私の顔はたぶん冷笑を浮かべていたと思う。「そのとき彼が考えていることを知ったならば、あなたがたはナイアガラの滝にでも打たれたような心地になったでしょうよ!」(チェスタトン、ブラウン神父シリーズの言葉より)。

着替えを済ませたレイさんと夏さんに別れの挨拶をし、私は外に出た。歌舞伎町の入り口あたりで砂織さんに電話をし――早めにあがるようだったら立ち寄るかもしれないと伝えていたので――、「疲れたので帰る」と告げ、足早に京王新宿駅へ急いで、終電に乗って私は家に帰った。

縁なき〈ホモソーシャル〉な人々

第一部において、司会者は『屈折リーベ』を説明するにあたり〈ホモソーシャル〉という言葉を用いていた。だがその言葉に関する説明は極めて分かりにくかった。聴衆にまともに通じていたとは思えない。というより司会者自身が、言葉の意味をよく了解できていなかったと私は判断する。自らの周囲に思いをいたす想像力があれば、自らを含めたこの場が、そんなにお手軽にこの言葉を使用できる状況かどうか、気がついてしかるべきだったからである。
ホモソーシャルとは、簡潔にいえば、ソーシャルとセクシャルとは違う。自分は男と身体を重ね合わせたことはない。したがって自分は〈ホモ〉ではない。――そう考えている男たちの態度を指す言葉だ。彼らにとって愛情(あるいは性欲)と友情とは本質的に異なる。あるいは会社を妻に優先することと、妻を愛することとはまったく別次元のことなのだ。
そう考える彼らは、しかし女性の視点から見れば、本質的にホモとなんら変わらない。現実にこの男たちは、会社、学校、サークルにおいて、男同士の関係を優先させているではないか。そのどこがホモではないというのか。男は本質的にすべてホモである。その自覚のあるのが〈ホモセクシュアル〉であり、自覚のない人間が〈ホモソーシャル〉であるというにすぎない。
この現実に目覚めることは、〈ホモソーシャル〉の人間にとっては恐怖である。彼らのアイデンティティは、ソーシャルとセクシャル、友情と愛情の分割の上に成り立っているからだ。それゆえに〈ホモソーシャル〉の人間は〈ホモセクシュアル〉の人間に対して嫌悪感を示す。これはただの同族嫌悪である。彼らは〈ホモセクシュアル〉と自分たちが同じであるということを、認めることができないのだ。
嫌悪感は恐怖の裏返しである。その恐怖感を隠すために、彼らは笑いを取る。恐怖を笑い飛ばす。あるいは一見〈理解のある〉態度を示すこともあるだろう。それらはすべて裏返せば、――自分たちはホモではない――という訴えかけである。
安心するがいい。突っ込まれようが突っ込まれまいが、あなたたちはすべて、十分にただのホモだ。少なくとも〈腐女子〉たちはその事実を見抜いている。分かっていないのは当のホモたちだけだ。その意味で会場は壇上壇下、まさにホモだらけだった。
まことに縁なき衆生は度し難い。たとえば仏法において仏菩薩は一切衆生を救済する存在である。だがその法の説くところを理解する限りでは、仏菩薩の救済はあくまでも誓願であって、義務ではない。したがって自らを振り返ることなく、因果応報の〈結果〉をそれと認識せず、〈腐女子〉との亀裂の所以を〈腐女子〉自身にしか見出しえないようなホモ連中に救いの手を差し伸べるほど、仏菩薩は暇ではない。私はロフトプラスワンの低い天井を振り仰いだが、救いはどこにも見えなかった。

「女性」の視点から

第二部において、女性論客の一人は、通常混同されがちな「ボーイズラブ」と「やおい」が異なる対象を指すことを丁寧に説明していた。「やおい」は基本的にパロディである。それは通常、男性同士が愛し合うことなどまったく想定されていない少年漫画やアニメを対象として、キャラ同士を絡ませるものであり、まったくのオリジナルである「ボーイズラブ」とは異なる。そう説明しながら彼女は、自分は共学だったが、たとえばスポーツサークルの男子同士が草原に寝転がって「おまえ、よくやるよなあ」「おまえこそ」などと〈友情〉を確かめ合っているのについて、大いに「妄想」を逞しくしたと言っていた。
ノリにノッた会場において、彼女のこの発言は無論のこと大爆笑をもって迎えられた。だがそうやって笑っていた連中の中に、その言葉の意味するところを理解していた男性が、一人でもいただろうか。彼女が言ったのは、――当の本人たちにその自覚がなくとも、あなたたち男は、誰もがみなただの〈ホモ〉にしか見えない。女性の視点からは、〈男同士のつながり〉と、実際に肉体を重ね合わせる男性同性愛者とは、まったく区分できない。本質的に同じものにしか見えない。――彼女が言っているのは要するにそういうことなのだ。それを知った上で、なお彼らは笑っていられたのだろうか?

不愉快なパフォーマンス

司会者のこの取り違え、そして男性論者たちの怠惰は、このイベントの本質をあからさまに露呈している。該当男性論者たちが壇上に上がっていた時間帯、特に第一部は、私にとって、ただひたすら不愉快であった。「くだらない喋々喃々」について具体的に書き記しておこう。喋々喃々の当事者の中心は、出演者の某漫画家である。彼は第一部開始前から楽屋で、水野レイさんを含む出演者たちに、「オナホール」がどうのこうのと延々と力説していたらしい。そしてその話をイベント開始後の壇上でもひたすら繰り返していたのである。
該漫画家が自ら語ったところによれば、レイさんをつかまえて「オナホール」なるものの解説を微に入り細に入って説明していたという。その神経自体、信じがたいものがあるが、それはまだよしとしよう。壇上での彼のテンションはますます上がる。――穴に突っ込んで気持ちがいいなら男も女も関係ない。男に突っ込んでも気持ちがいいだろう。いや、突っ込んで気持ちがいいなら、突っ込まれるのはどうか。もっと気持ちがいいのではないか。――こんな調子である。
丸坊主に筋肉質と思しい該漫画家の容姿を見て、私はハードゲイという言葉を瞬間的に想起し、われながらその偏見――該漫画家に対してもハードゲイについても――を反省した。しかしこの反省は、少なくとも該漫画家に関する限り的外れだった。該漫画家は、そのような自らの外見について十分に自覚的であり、むしろ大いに誇っているようだった。壇から降りて身体を見せ付けるように揺らしながら「俺に脱げというのかよ」という彼は、実際そのような仕草をしながら客席に立ち入り、自らの胸を押し上げ揉み上げつつ、客席の女性客にふざけかかってその胸をつかませるというパフォーマンスを演じ、壇上からは「チップを腰に挟んでもらえよ」などという声がかかる。
運悪く、彼のふざけかかった女性客の席は、私の右前方そば近くだった。この不愉快なパフォーマンスを、私は間近に見せ付けられたのである。だが不愉快だったのは私だけだったようだ。観客たちは大いに熱狂し、手をたたいて爆笑していた。該漫画家のパフォーマンスは、彼の目論見どおりの効果を奏した。少なくとも彼は、金を払って入場している客の期待に十分にこたえていたといってよい。この点において、彼は確かにプロの芸人であり、商売人であった。
だが彼の商売に付き合う理由は私にはない。私はレイさんに会い、加えてメガネイベントを楽しむために来たのであって、彼のパフォーマンスを鑑賞しにやってきたわけではない。そんなことは彼自身のファンの集いにおいてやるがよい。
私は単純に不愉快だった。彼のパフォーマンスに、壇上と観客との双方が大いに盛り上がり、その雰囲気はイベントの間中、伝染して続いていた。それが私をいよいよ不愉快にさせた。
ここで私は彼らに要求したい。「突っ込んで気持ちがいいなら、突っ込まれるのはどうか」などと疑義だけで終始する必要はない。セックスなど実践して何ぼのものである。ぜひ実践し、全員で鑑賞していただきたい。
司会者によれば、機会があればこのメガネイベントを年末までにもう一度開催したいということであった。ちなみに該司会者はしきりに――自分はBLややおいをよく読む人間であり、偏見はない――とアピールしていた。おおいにけっこう、次のイベントとやらまでに時間は十分ある。
偏見のない人間が最低二人はそろっているのだ。どちらが受けでも攻めでも良いから、さっさと実践してそれをビデオにでも録画し、次回のイベント開催の折には上映するとよい。そして「いやあ、やはり予想通り突っ込まれるのは気持ちよかった」と所感を述べていただこう。さすれば大いに好評を博し、会場は再び爆笑の渦に包まれるであろう――ならば、別に私はあれこれ言うつもりはない。
そう、だから私は不愉快だったのだ。壇上檀下、彼らは笑っていた。大笑いしていた。大笑いしていたのは、該漫画家も含めて、絶対に彼らはそんなことを実践しないからである。該漫画家のパフォーマンスは、まさにただのパフォーマンスに過ぎない。彼自身のセクシャリティの告白などとは、明らかに当の本人も含めて誰ひとり思っていない。だから〈彼ら〉は笑っていられたのだ。彼らは、自らが〈突っ込まれる〉立場になりうるなどとは夢にも思っていない。その彼らは、第二部の女性論客が語った言葉をいったいどう聞いていたのだろうか。

〈平等〉の取り違え

そのセクハラについて語る前に、まず別件から始める。今回の目玉の一つは第二部であった。女性オタクのメガネフェチをテーマに取り上げることで、明らかに没交流であるところの美少女オタクと、BL愛好者との親交を図る。これは(むろんまったくのイコールではないにせよ)男性オタクと女性オタクとの交流を図るものだったと言い換えても間違いではない。第二部には十分な時間が割かれ、女性論者たちが「メガネくん」をカテゴライズしつつ論じ、その熱弁とパフォーマンスは多数を占める男性観客たちにも、おおむね〈好評〉でもって迎えられたように見えた。論者たちは総じてサービス精神旺盛であり、話は分かりやすかった。
だがこの第二部で決定的によくなかったことがひとつあった。後半で、壇上の論者たちに対する質疑応答のタイムが設けられたとき、一定の時間が過ぎた時点で司会者が、「これ以降は女性にのみ質疑を許可する」と発言して場を仕切ったことである。
司会者はその理由として以下のように語った。この第二部を設けた意味は、ひとえに〈男性オタクと女性オタクとの交流を図る〉ことにある。そして現実問題として、この会場には圧倒的に女性の数が少ない。ゆえに女性に対して、主催者側から積極的に発言の機会を提供してこそ、はじめて〈交流を図る〉ための大前提である〈平等〉を実現することができる。司会者はそこにおいて、アメリカで黒人差別の解消のために、大学において黒人優先入学枠が設けられた史実を例に挙げていた。要するに〈差別〉を解消するために〈差別〉が必要だというわけである。
ハンデを与えよという主張そのものは正しい。だがこの司会者のやったことは、実際にはまったくの逆効果であると私は判断する。この司会者の行為は、差別を解消するどころか、男性オタクと女性オタクとの亀裂を、むしろ深める行為であった。なぜか?
少女愛好の男性オタクの大半は、BLに対して関心を持たず、当然知識も薄い。その現状下において、彼らの大半は、単にBLを無視するのみならず、BL愛好家の女など気色が悪いと思っているのが実情のはずである。そして彼らはその差別意識を隠さない。
BL愛好家の女性たちは、その露骨な差別意識を敏感、的確に受け止めている。だから彼女たちは〈腐女子〉という謙称、蔑称を自らに付与することで、その露骨な軽蔑に対し、身をかがめてやり過ごしているのである。事実、壇上の女性論客たちは、幾度もこの〈腐女子〉という称を自らに冠して発言していた。彼女たちは、そうしなければ語れないことを経験的に知っているのだ。
この亀裂を解消するのは容易なことではない。男性オタクと女性オタクに交流がないのは、そもそも〈腐女子〉たちが身をかがめた姿勢であることに、男性オタクたちが無頓着であり、気づきもしないからである。だとすれば交流の第一歩において何を為さねばならないかは明白だ。男性オタクたちに〈腐女子〉を直視させ、彼女たちについてどう考えているのかを正直に告白させればよかったのである。
それによって彼らは無知と偏見をさらけ出すだろう。だが、それはそれでよいではないか。最低でもコミュニケーションは、それによって開始される。そこから相互理解の道も生まれうるだろう。だが現実問題として男子オタクと女性オタクの間には、その程度のコミュニケーションさえ存在しない。それが亀裂の実態なのだ。
ここにおいて司会者の為すべきだったことが何かは明白である。〈女性〉に対して〈優先的〉に〈自由〉な発言の機会を与える必要などなかった。必要だったのは〈男性〉を指名し〈強制的〉にBLについて思うところを述べさせることだったのだ。――いや、言をあらためよう。もっと効果的なのは、第一部の男性論者たちをこの場に連れ戻すことだったはずだ。第一部の論者は、水野レイさんを除いて男性だった。この男性たちは、第二部においては、楽屋に引き上げて、その場にいなかった。
この彼らの、楽屋の岩戸篭り自体が問題だった。彼らが楽屋の中でそもそもの当初から、いかにくだらない喋々喃々に終始していたらしいかは、このあとで言及する。もし彼らにほんの少しでもこのイベントの〈趣旨〉が了解されていたならば。〈男性オタクと女性オタクの交流〉について思いをいたすところがあれば、楽屋になど引っ込んでいてよいはずはない。これは本当の意味で許しがたい怠惰である。司会者はこの怠惰な連中を楽屋から引きずり出し、BLについてその無知と偏見をさらけ出させれば良かったのだ。
それこそが彼の為すべきことであった。だが残念ながら、この司会者にはそのことがまったく分かっていなかった。彼は腐女子に発言の機会を優先的に与えた。その実質は、観客のごくわずかしか占めていなかった女子にとって、自由どころか、むしろ発言せよという強制以外ではなかった。そしてそうやって強制された女子の発言を、男性オタクたちは十二分に鑑賞し、文字通り楽しんだのである。それが第二部の、和気藹々とした〈好評〉の実態であったといってよい。

イベント「私立眼鏡学園 創立記念祭」

過ぐる28日の土曜日、新宿歌舞伎町はロフトプラスワンのイベント、「私立眼鏡学園 創立記念祭」に出かけた。メガネをかけたキャラクターにいわゆる萌えを感じる人間の集まるイベントである。出かけた主な目的は、出演者の一人、メガネキャラとして人気を博するid:Ray-Rayこと水野レイさんに会うためであった。ネットを介しての面識は以前からあったけれど、地方在住者のレイさんとじかに挨拶を交わす機会が、長らくなかったからである。ちなみに甘く見ていたせいで、早々にチケットは完売となり、危ないところだったのだが、主催者の一人であるid:hhosono細野晴彦さんのおかげで滑り込むことができた。

イベントは三部構成だった。第一部は、メガネフェチと男女恋愛の関わりを主題にしたマンガ『屈折リーベ』について主に論じる。第二部は「メガネっ娘」ならぬ「メガネくん」に焦点を当てるというもの。要するにいわゆるボーイズラブ(BL)、およびやおいと、その担い手である女性オタクを中心に据えた内容であり、壇上の論客も女性が主体であった(ちなみに観客における男女の比率は、まずは10対1というところだったろうか)。第三部は、最近のメガネ事情という論題を付されてはいたが、これは明確な主題がなかったこともあって、あまりまとまりがなかったけれども、雰囲気は和気藹々としたままに、イベントは終了した。

そのイベントの感想を端的に述べておこう。レイさんに面識を得る目的を達した上は、私は申し訳ないけれどもこのイベントにはもう足を向けないと思う。生理的にまったく合わなかったからである。イベントが進行するにつれて、私の不快感は増していった。中盤で席を立たなかったのが不思議なくらいにである。

私にとってこのイベントは、まさにセクハラ以外のなにものでもなかった。それを再起しつつ文字を書き連ねるのは、セクハラの再体験であって、正直気が重い。それでも書かないわけにはいかない。